原初の火   作:sabisuke

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24 虎穴に入らずんば虎子を得ず

 

 はぁっ はぁっ

 

 「速いんだよ!」

 「次はどっちだ?」

 「左だよ!」

 

 

 先行する神父は予測通り、ただ教会にいて聖典を読むだけの神父ではないようだった。僕の案内を忠実に守り迷宮都市である九龍を進んでいく。それも、速すぎるスピードで。

 道中の路地にうずくまったホームレスどもが尻に敷いてる新聞紙が神父の風で翻る。なぜかこいつが走ると風が起こるのだ。まるで神父の背中が風で押されているようでもあり、靴底から風が生まれているようでもある。

 

 そのせいで逃げ足に自信があるはずの僕は追いつくので精一杯だ。それを神父はわかっているのか、頑張れば追いつけないこともないようなスピードで走っているというのがさらにムカつくことこの上ない。

 必死に追いすがる僕の先を行く男のさらに先に、路地と路地の交差点が見える。

 街灯代わりの提灯の光が、そこから差し込んできている。

 

 

 しかしその光が、一瞬だけぼうっと揺れた。

 

 

 「止まれ!」

 

 僕が叫ぶと、その指示通り神父は止まる。交差点にいた売人が向こうの路地へ走っていくのが見えた。

 

 「なんだ?」

 「組み替えだ。この街では定期的に起こるんだよ。僕らが街から出たくても出れないのはこれがあるせいだ。」

 「組み替え?」

 「そのまんまだよ。路地がシャッフルされんの。迷宮が作り変えられるって言えばわかる?」

 

 この道の先は二つの道に分かれていて、まっすぐ行くか右に曲がるかの二択だった。右に行けば摩天楼に近づいて、まっすぐ行けば北側の市場に出る。

 しかし揺らぎが落ち着いた時、そこには左に曲がる道しかなかった。先ほどまであった道は家屋によってふさがれている。

 先ほどまで人が一人通れるくらいの隙間を空けて並んでいた家屋はこの組み替えによってぎゅっと寄せられ、道だったものがなくなり、その分左に隙間ができたというわけだ。一体どういう原理で家の並びが変化しているのか全く分からないが、とにかくこの街は一度入ったら出られない迷宮であるのは確かだった。

 

 「こんな感じで道のつながり方が変わるってわけ。わけわかんないでしょ。」

 

 左への道は、つまり摩天楼から遠ざかる道。しかし迂回路がどこかで見つかるはずだと思い、僕は左に曲がろうとした。

 だが僕の腰をつかむ手があった。広くて大きい男の手。振り返るまでもなく神父の手だとわかった。

 

 「何。手、放してよ」

 「悪いな、さっきも言ったが時間がないんだ。」

 

 神父がそう言ったかと思うと、僕の体は途端に足場をなくしたのだった。

 

 「待って死ぬ死ぬ死ぬ」

 

 浮遊感が滅茶苦茶に気持ち悪い。女の家で飲んだ茶が口から出てきそうだ。胃がひっくり返る。何が何だかわからず、僕は目の前に見える何かに手を伸ばして、それに縋りついた。

 

 「ぐぅっ……」

 

 それは家屋の屋根だったようで、しがみついたはいいが足は宙ぶらりんだ。軒先にぶら下がった僕に這いあがるほどの膂力なんてない。何せ僕の体に筋肉なんてものはないのだ。正直今ぶら下がっていられるのも奇跡でしかなかった。

 

 スタッ

 

 「大丈夫か?」

 「どの口が言ってんだよ」

 

 その驚異の身体能力で自力で屋根に飛び上がった神父は僕の腕をつかんで引っ張り上げる。僕が手に力を入れて自分の体を押し上げなくても、ただその力に体を任せているだけで僕は屋根に上がることができた。

 

 「すまん。予想より軽かったので思ったより飛ばしてしまった。」

 「もう黙れよお前…」

 

 気まずそうに眉を下げているくせに笑顔で謝ってくる神父を無視して僕は右を向いた。あと数セルジュといったところだろうか、天高くそびえる歪な摩天楼がそこにはあった。赤を基調とした趣味の悪い建築物は、家屋がいくつもくっついたような造りをしていて右に左にせり出しながら上へ上へと伸びている。

 そしてその天辺には真っ赤なでかいクレーンが居座っている。

 

 「あれが摩天楼か」

 「ほんとに、生きてるうちに行くことになるとはね」

 「どういうことだ?」

 「地下に焼却炉がある。この街で野垂れ死んだ奴はそこに運ばれるんだよ。結構いい金がもらえるらしい。」

 

 僕は黒月とつながる気なんてなかったし、そもそも死体を引きずるだけの力がないから一回もやったことがないが、死体運びはこの街の主要な職業の一つだ。

 金とコネクションを求めて裏路地で死体を探してるやつはその目ですぐにわかる。前に一回気絶してたら運ばれかけたこともある。

 ハイエナみたいで、僕はそいつらのことも嫌いだった。

 

 「……そうか。」

 「同情でもしてる?」

 「さぁな。俺は俺が今何を考えているのかよくわからない。」

 

 神父はそういうとローブを脱いだ。深い青紫の上着の下に着込んでいたのは深紅の法衣だ。聖職者には見えない格好だけど申し訳程度に腰にはメダルが提げられている。

 

 「行こう。」

 「もう見えてるんだし一人で行けば?」

 「……そうだな、着いてきてくれたら外の街まで送っていこう。幸い俺には足がある。」

 

 それは僕にとって今最も魅力的な交換条件だった。こいつについていけば女から金がもらえて、神父によって外に行ける。

 間違いなく僕が自由になるための一番の近道だ。

 

 「拳士の相手はアンタがしてくれよ」

 「当然だ。」

 

 僕はそれを聞いてベニヤ板でできた道を走り出した。不思議と家屋の高さはみんな似たようなもので、高低差がないから走りやすい。

 落っこちないように足元に注意して走っていると、屋根の隙間から街が見える。上から見た九龍は、やっぱり雑然としていて汚い街だった。女も男も子どももぐちゃぐちゃになっていてできればあんまり見たくない。何一つ、まともじゃないんだ。

 

 あの塔にたどり着けば僕はこの迷宮から出ることができる。

 僕が馬鹿な女を助けるためだけにムカつく聖職者の背中を追いかけている理由なんてそれだけだった。

 

 僕は馬鹿だ。

 聖職者だって女だって嘘を吐くことを知っているのに、そいつらの提案を鵜呑みにして塔に乗り込もうとしている。

 

 僕は馬鹿だ。

 どうしようもない街にいるどうしようもない僕でも、夢が叶うと思っている。

 

 僕は馬鹿だ。

 あんなに女神を馬鹿にしているのに、いつだってこの街から出たいってどっかの誰かに願っている。

 

 

 こんなに馬鹿な僕に情けをかけてくれるのは、きっとあの馬鹿な女くらいなのかもしれない。

 

 

***

 

 

 

 私をこの摩天楼に呼び出したのは、老紳士であった。老紳士は彼の部下が私を摩天楼の最上階の部屋に連れてくると、喜びの抑えきれない様子で恭しく私の手を取り、深紅のソファに座らせた。

 それで彼が隣に座ったので話を聞いてみると、彼は一つの伝承を教えてくれた。

 

 「人魚伝説、ですか。」

 「君は知っているかね?共和国では精霊信仰と同じくらい著名な民間伝承と言えるものだよ。」

 

 皺の寄った手で彼は私の手をなでる。彼は指に豪奢な指輪をいくつもはめていて、それが少しだけ冷たい。老紳士は恍惚とした様子で私にいくつかのことを聞いた。

 

 「ああ、素晴らしい。君は一体何年生きているのかな?」

 「ええと……すみません、正確な年数はわかりませんけれどこの体はおそらく50年くらいかと思います。」

 「50年!そんなに生きているというのに君の体には皺ひとつないのか。これは本当に驚いたねぇ。」

 

 グレーの髪を撫でつけて露わになった額に皺を寄せて驚く老紳士は楽し気に笑っている。

 

 「ほら、お茶でも飲みなさい。うちの若いのが随分急いで連れてきて、疲れてしまっただろう。月餅も食べるかい?」

 

 そう勧められるままに、私は東方風の茶器に注がれた緑茶を口に含んだ。少し薬っぽい独特の風味がする。苦くて、渋味が強い。甘いものが欲しくなるような味だ。

 老紳士は私の右手を撫でさすっている。何が楽しいのだろう。

 

 「そういえば君は顔布をかぶっているようだけど、何か理由があるのかね?よければ私にもっと顔を良く見せてくれ。」

 「申し訳ないのですが、喪に服している身ですので人前で外すことはできません。ですが顔だけでよろしいのでしたら…」

 

 私はそう言って顔の前にかかっている布を頭の後ろにやろうとする。老紳士のくすんだ黒目が私の顔をじっと見つめてきてちょっと気まずかったけれども、望まれるまま灰色の薄布を持ち上げた。

 

 私のベールはそもそも喪服の一部だ。前後で似合いの布があり、カチュームのようなレース細工の帯で頭に括りつけている。角と耳を隠すのは正直無理があるのだが、堂々としていれば案外ばれないものだ。

 

 ベールの前布は顔を隠しているが食事の時や身分証明を求められた時には後ろにやることだってある。顔を老紳士に示すと彼は喜色満面といった様子だった。

 

 「おぉ、これが……」

 「ご満足いただけましたか?」

 「勿論だ!ああ、もっとよく見せてくれ」

 

 彼は私に手を伸ばそうとしたので私は言われるままに彼に顔を寄せた。頭に手をやられると少し困るのだ。おそらく彼にとって興味深いのは私の目の色が珍しいとかそういった理由なのだろう。

 

 

 「長老、少しよろしいですか?」

 

 

 そこに一つの声がかかった。若い男性の声だ。

 

 「……なんだ?」

 

 老紳士は彼を諫めるように用件を聞き出す。どうやら黒月の本社ともいえる場所から老紳士に大切な連絡があったとのことで呼び出しに来たらしい。

 老紳士は嫌そうに腰を上げると杖をついて出ていこうとする。立ち上がって私のことをちらりと見たので、私は何を言えばいいかわからずとりあえず微笑んでおいた。

 

 老紳士の安全を守るボディーガードも全員彼についていき、部屋に残されたのは私と老紳士を呼びに来た青年の二人だった。私は老紳士が去ったので薄布で顔を隠そうとしたが、腕を持ち上げたところで眼前に何かカードのようなものが差し出された。

 

 「?」

 「初めまして。御身がご無事で何よりですよ。」

 

 藍色のスーツを着た青年が差し出したのは小さな一通の手紙だった。彼は私の手に手紙を持たせると、状況のつかめない私に窓の外を指し示した。

 何が何だかわからないままに私は窓をあけて外をのぞく。

 

 「―――あら。」

 

 窓の直下、摩天楼の入り口の前で数人の商人が誰かと交戦している。深紅の法衣を纏い槍を携えた青年。

 数的不利をものともせずに戦っているのは星杯の騎士たるウォーゼル卿だった。

 

***

 

 

 「はっ!」

 

 黒月の拳士たちは強い。一流の猟兵たちとも素手で渡り合うほどの体術を駆使する歴戦の勇士たちだ。ジェイという非戦闘員を連れているこちらとしてはできれば相手をしたくないというのが本音だった。

 しかし彼らの本拠地ともいえる摩天楼まで来てしまえば交戦も必至というもので、せめて間合いを稼ぎながらちまちまと風圧でダメージを与えるというのが俺のとった戦法だった。3人に囲まれないように立ち回りながら槍と風で牽制する。

 思ったよりも拳士の数が少なかったのは唯一の救いと言えるだろう。幸いなことに門番は3人しかおらず、経験も浅いのかしてアーツを駆使すれば楽に制圧できるであろう相手だった。

 

 「竜巻よ!」

 

 槍を頭上で回して風を起こすと激烈な乱気流が3人の門番を巻き上げ、砂利やゴミが彼らの体を叩く。

 十数秒の間消えることのない乱気流は彼らの意識を奪うには十分だったようで、風が落ち着いたころには3つの体が地に伏せっている。

 

 「何これ…」

 「『タービュランス』というクラフトだ。君も槍術を学ぶなら伝授しよう。」

 「そういうことじゃないから…というか、あの女がどこにいるかわかってんの?」

 

 拳士たちの体を踏み越えて摩天楼の入り口である扉を開けると階段がある。俺は上階に気配がないかどうかを確かめ上階に向けて階段を昇り始めた。

 

 「恐らく最上階だ。彼女を誘拐した首謀者であるユーハオという老人の部屋がある。」

 「…どういうこと?」

 「彼は黒月の覇権を争っていた重役の一人だ。一時は覇権争いに勝利するかとも思われた人物だが敗れてしまい、権力を失ったとされている。もう一度覇権を奪おうと画策したらしいが、彼はもう高齢でな。」

 「もうよぼよぼで他の奴等と争うだけの力がないってこと?」

 

 ジェイはニクスが見込んだ通り賢い少年だ。彼の推測は概ね当たりと言えた。

 

 「彼には有望な後継者がいなかった。自分で競争を勝ち抜く必要があったんだ。」

 「でももう老い先短いじーさんなんでしょ?」

 「そうだ。それで彼は自分の寿命を延ばすための方法を探すことに注力した。」

 

 摩天楼の中は変に静かだった。なぜか()()()()()()()()()()()()()のだ。彼らと交戦しなくていいのは助かるが、誰かが俺たちの前に侵入して拳士たちを昏倒させているというのは、少し都合が悪い。

 

 今回、ユーハオ氏が誰かに連れ去られたりすると()()のだ。

 

 「ユーハオ氏は様々な方法に手を出した。古代遺物と呼ばれるものを使用したり、怪しい薬物を服用したり…その資金を捻出するために犯罪行為に手を染めたことが確認されている。」

 「それがあの女の誘拐とどうつながるわけ?」

 「……君は『人魚伝説』を知っているか?」

 

 人魚伝説。

 共和国の沿岸地域で特に人気のある民話の一つだ。人の外見をした魚。体表は白く、口、鼻、手などの体の部位は全て女子のものである。体長は150~170リジュ程度。人を傷つけることがなく温和な性格をしているとされる。

 

 「あの女、人魚だったの?」

 「違う。だが、ユーハオ氏はそう思ったはずだ。」

 「闇市で売るために誘拐したってこと?」

 「それもあり得る。だが一番考えられるのは『食べる』ことだ。」

 「はぁ?」

 

 人魚は、昔から長命な生き物であると言われてきた。転じて無病息災を願う人々の信仰の対象ともなったが、これらの信仰が形を変えて『人魚の血肉を口にすると不老不死になる』という伝説まで生まれてしまったのだ。

 

 「実際、この伝説を信じる人々がカルト教団を形成しているという報告もある。」

 「いや……さすがに泣く子も黙る黒月でも人を食ったりはしないでしょ…」

 

 杞憂ではないのか、と勘繰るジェイはなんだかんだと言って善良な人間なのだ。

 

 「世の中には耳を疑うような所業をする者もいる。女神の声も届かないほどにな。」

 「あーハイハイ女神女神。」

 

 女神の声が届かない人間はここにもいるけど、と主張するジェイはニクスの分析によると信心深い、らしい。どういうことかとも思ったが、それを聞いても彼女は微笑むばかりだった。

 

 「しかし、随分高い塔だな…」

 「いや、もうそろそろ最上階だと思うよ。確か30階建てくらいだったと思う。」

 

 随分順調に摩天楼を攻略しているが、今はおそらく25階くらいか。階段の踊り場や部屋の扉の前には拳士たちが倒れている。彼らは一様に意識を刈り取られているが血を流してはいない。殴打か打撲の衝撃で気絶したか、薬を盛られたと考えるべきだろう。

 

 「あんたが信心深いから女神がボーナスくれたんじゃない?」

 「……そうだといいが」

 

 いったい誰が彼らを攻撃したのか。悪い想像が当たらなければいいと願いながら階段を昇りきるともうそこは最上階だったようで上に続く階段は見当たらない。

 

 あるのは一つの豪奢な紅色の扉で、そこからは誰かの話し声が漏れ聞こえる。どこかしゃがれた声で、高齢の男性の声。ユーハオ氏の声だろう。何か重要な話をしているのか、部屋の中には彼一人の気配しかない。

 

 「(俺が先に突入する。合図をしたら入ってきてくれ)」

 「(ハイハイ)」

 

 彼に戦闘能力があれば見張りを頼むところだが一人にするのも怖い。それならば傍に置いた方が守りやすい。

 音を立てないように注意しながらノブを回す。幸い、鍵はかかっていない。彼にとってここは絶対の城。警戒する必要もなかったのかもしれない。

 

 (―――これが、俺の選んだ道だ。)

 

 話し声が止んだところを見計らい、一気に扉を開けると、豪奢な部屋の中には一人の老人が座っている。どうやら先ほどまでは通信をしていたようだ。

 

 

 「だ、誰だ!?」

 「…ユーハオ・ワン。教会法に基づき、空の女神の名において貴殿の身柄を拘束する。」

 「―――騎士団の狗か!」

 

 彼は引き出しに手をやって何かを取り出そうとする。俺は構えた槍に気を込めて突き出した。

 

 「唸れ!」

 

 ゲイルストーム。直線状に嵐を巻き起こすクラフト。

 痩せた体で風を真正面から受けたユーハオ氏は仰け反り、その手に持った拳銃が床に落ちる。体勢を立て直される前に近付けば彼を制圧することは容易い。

 

 「くっ……人魚を手に入れたというのに…」

 「彼女は人魚ではないし、不老不死をもたらす薬でもない。大人しく連行されてもらおう。」

 

 脊髄を槍の柄で一発。

 あまり力を入れずとも彼の体はその一撃で沈み込んだ。

 

 「ジェイ!もう入ってきてくれ!」

 

 部屋の外にいるジェイを呼ぶと、彼はキョロキョロと部屋の中を見回しながら恐る恐る足を踏み入れた。

 どうやら彼にとってはこの豪奢な部屋が宝の山に見えるのだろう。骨董品であろう壺や絵に目を奪われている。

 

 「うーん、あれは高く売れそう…」

 「盗みはするなと言っているだろう…早いところニクスを探し出そう。」

 

 老人の体を肩に担ぎ、ジェイと共に部屋を見渡してみたものの隠し部屋の類はない。ユーハオ氏の私室のある最上階で監禁していると思っていたのだが、別の場所に連行されたのだろうか。

 

 「あの女、どこにいったんだ?」

 「ここだと思ったんだがな。――ゼオ!」

 

 窓を開けて友を呼び出してみたが、いつも上空からやってくる彼がいつまでたっても来ない。万が一のことに備えて摩天楼に到着したあたりから外で待機させていたのにいったいどうしたのだろうか。

 

 「あれじゃない?」

 

 隣に来たジェイが指さしたのは下だ。一つ下の階の窓から尾羽がちらりと見えている。どうやらゼオはこちらに飛び上がってこれない状況であるらしかった。

 

 「急ぐぞ!」

 

 彼がその場で待機しなければいけない状況となるといくつかの可能性が考えられるが、いずれも諸手を挙げて歓迎できるものではない。背中を一筋の汗がつたった。

 最悪の可能性は、ユーハオ氏が『服用』している場合だ。

 俺はそれを否定していた。伝承通りならば人魚から霊薬を作り出すために一定の手順を踏む必要がある。乾燥など時間を要する工程も含むことからこの線は薄い。

 

 次に悪い展開は彼女が殺害されている可能性だが、これもないだろうと思っていた。これはニクスが自衛をするだろうと思っていたのではなく、ユーハオ氏の罪状に関係する理由からすぐに彼女を殺害するとは考えなかったのだ。

 

 しかしこの摩天楼には俺たちよりも前に侵入していた誰かがいる。最上階まで上がってきた俺たちが出くわしていないということは、下の階の部屋にいるということになる。

 

 (―――女神よ!)

 

 ユーハオ氏はニクスをすぐに殺害することはないだろう。しかし、他のものがどうであるか。俺には確信をもってその可能性を否定できない。

 

 できうる限りの速さで階段を下り、豪奢な扉を開けた。

 

 その部屋には、赤の布が張られたソファがあった。そこに座っている影は一つ。

 

 「あら?ウォーゼル卿、お早いですね。入り口で戦闘をしていたばかりではありませんか。」

 「――――はぁ……」

 

 茶器を片手に微笑む彼女に安堵のため息がこぼれた。

 彼女はどうして平気そうにお茶を飲んでいるのだろうか。そして俺はどうして彼女にこうまで振り回されなければならないのだろう。

 

 「ご無事で何よりです。しかし、飲まない方がよいかと思いますよ。」

 「そうですか?不思議な風味がしますけれどおいしいですよ?」

 「え?」

 

 この人は、誘拐した先で出された茶を飲んだというのか。それを出すように指示した老人は彼女を殺そうとしていたというのに。間違いなく薬の類が入っているだろう。

 

 「体調は大丈夫なんですか?」

 「ええ。別に何ともないですけれど…」

 

 「おい神父!早く帰るぞ!」

 

 部屋に飛び込んできたのはジェイだ。そういえば彼のことを考えずにこの部屋に突入してしまったが、何か非常事態があったのだろうか。

 

 「あら、ジェイではないですか。」

 「あら~、じゃねぇっての。下から誰か来る!」

 「何だと?」

 

 

 「いや、本当に驚きました。長老の薬湯が効かない人類がこの世にいたとはね…」

 

 悠然とした足取りで現れたのは若い青年だ。おそらくは、彼が他の構成員たちを昏倒させた張本人なのだろう。しかし彼が着ているスーツには一切乱れがなく、反撃を受けることなく拳士たちを圧倒したことが窺えた。

 

 ジェイとニクスを背後に庇い、ARCUSに触れた。自分は今ユーハオ氏を担いでいる。他に彼を担げる人間もいないから自分で担ぐしかないのだが、さすがに荷物が多い。

 相手は無手であるとはいえ、退路もふさがれてしまっている。出来れば避けたいところだったが、ユーハオ氏を降ろして交戦するしかないか。

 

 「騎士団のガイウス・ウォーゼル卿ですね?」

 「……」

 

 彼の問いかけを黙殺すると彼はにこりと底知れない笑みを顔に浮かべた。

 

 「彼を滅さないのですか?」

 「……どうやら事情に通じているようですね。」

 「ええ。長老には私共も手を焼いていましたので、『お手伝い』をさせていただいたのですがあなたが彼を滅さないとなると、少々話が変わってしまいます。」

 

 目の前の青年が眼鏡の位置を直すと彼の背後から一人の屈強な男が姿を現した。

 

 (新手か…)

 

 「長老の身柄を引き渡していただけますか?外に出すとまずいのはあなたもよく知るところでしょう?彼はあまりに罪を重ねてしまっている。女神の慈悲など届きませんよ。」

 「……」

 「あなたが職務を遂行しないのでしたら、私共がそれを請け負いましょう。」

 

 じりじりと距離を詰めてくる二人。

 ソファのすぐ傍、ニクスの隣にまで下がる。彼女が立とうとしないのだ。

 

 「(ニクス、ここはどうにかしますから窓まで下がってください。)」

 

 そう小さな声で指示しても彼女は一向に動かない。

 じっと青年を見つめて、何かに集中しているようだった。

 

 「(ニクス?)」

 

 ちらりと彼女の様子をうかがうと、薄布越しに彼女が瞬いたのが見えた。

 不思議な色合いの目が鈍く光った、ような気がする。

 

 

 

 

 ドガアアアアン

 

 

 

 轟音、だった。何かが重たいものを押しのけるような、割れるような音。下から何かがせりあがってくる。

 思わず耳をふさぐと小さな手に服の裾が引かれる。ニクスの手だ。眼前に広がっていたのは水の壁だった。勢いよく床下から噴き出す水は部屋を二つに分ける。二人の男は水によって押しのけられたようだった。

 

 ニクスは俺とジェイを外に導こうとする。二人の男たちを迂回してドアから外に出ようとする彼女を俺は逆に窓に導いた。ここの部屋の窓は幸い大きい。ほぼほぼ壁一面が窓だ。行ける。

 

 

 「こっちです!すぐ下まで来ています!」

 「え?どういうことですか?」

 「捕まってください!」

 

 

 ユーハオ氏の体を首にかけて、両足の間から左手を伸ばしジェイを引き寄せて抱える。幸い彼の体重が平均を大きく下回っていてユーハオ氏もそこまで重くないのでもう一人くらいならば何とかなるだろう。

 俺は窓枠に飛び乗り、右手でニクスの二の腕を持って思いきり引き寄せた。力に従って床から彼女の足が浮く。俺は背中から外に身を投げ出した。

 

 「ひっ」

 「待って死ぬ!死ぬ!この高さは無理!」

 「無理じゃない!風よ!!」

 

 アーツの応用で合計4人の体を風で押し上げたものの、さすがに無理があったのかすぐに重力に従って下に落ちようとする。

 ジェイは青い顔をしているし、ニクスもさすがに肝が冷えたのか目をつぶって浮遊感に耐えているようだった。(彼女は総長に空から落とされているのがトラウマになっているのだろう。悪いことをした。)

 さすがに3人を抱えるのは無理があるらしかったので俺は身を捻って遠心力で中空にジェイを投げた。

 

 「おいこらクソ神父!」

 

 罵声を挙げるジェイの体が風を受けてちょっとだけ浮く。彼よりも重たい俺はより早く落ちていき、ジェイと俺たち3人はちょっとずつ離れていく。

 落ちそうになるユーハオ氏を自分の体に固定しようと左手で彼の足をつかむと俺は右方向からの風を感じた。

 

 (―――来た。)

 

 俺は体勢を整えてないはずの場所に現れた足場に着地した。膝を曲げて衝撃を逃がした後に意識のないユーハオ氏と半分気絶しているニクスを転がし、体を縮こめて落ちてくるジェイをキャッチする。

 

 「なんで投げたんだよ!」

 「すまん、お前しかいなかった。」

 

 あの体勢で投げれるとしたら俺をつかんでいないジェイしかいなかったのだが、さすがに怖かったのかジェイが必死に俺を叩いてくる。

 言い訳のしようもないので、か弱い攻撃を甘んじて受けていると転がされていたニクスがよろよろと起き上がった。

 

 「あ、あれ?死んでない?」

 「―――メルカバの甲板です。このまま九龍を出ましょう。」

 

 前回の反省を活かしてメルカバを現場の近くに待機させるようにした。ニクスが水道管を破裂させたためにその轟音を聞きつけて摩天楼の近くまでやってきたのだ。

 飛び降りてくる人間を甲板でキャッチするなどという超絶技巧は操舵士の提案だ。作戦の立案時にそんなことが可能なのかと耳を疑ったが彼によると割とどの守護騎士もやるらしい。

 

 俺はユーハオ氏を担ぎなおしてメルカバの休憩室に2人を案内した。

 

 

***

 

 

 「…で?結局アンタ何者なわけ?」

 

 老紳士を拘束して訓練室に投げ込んだウォーゼル卿にジェイが納得のいかない様子で問いを投げた。まだ飛び降りたときの恐怖から立ち直れないのか、ウォーゼル卿に提供された甘いココアを飲みながら貧乏ゆすりをしている。

 

 「ジェイ、彼は神父さんですよ。」

 「槍振り回して飛行艇乗り回す神父がどこにいるんだよ!」

 「ここにいらっしゃるではないですか。」

 「普通はいないんだよ!」

 

 彼の疑問も最もであると言えたが、これから表社会で生きていこうという人間は知らなくてもいいことであるだろう。進んで荒事に関わる必要もない。彼はこれからまっとうに生きていくのだから。

 私もココアをごちそうになりながら隣に座るジェイをなだめようとしたが、彼は随分気が立っているようだった。

 

 「うーん…どうしましょう?」

 

 ウォーゼル卿に伺いを立てると彼はその手に星杯のメダルを持ち、ジェイの前に掲げた。

 

 「識の銀耀、風の翠耀―――その相克を以て彼の者に『導き』を授け給え――」

 

 何かの呪文をウォーゼル卿が詠唱すると、ジェイはまるで何者かに昏倒させられたかのように姿勢が崩れてしまう。机に突っ伏しそうになった彼を慌てて支え、ウォーゼル卿を見た。

 

 「今のは、一体…?」

 「法術と呼ばれるものです。催眠のようなものと思っていただければよいかと。彼の記憶を少しだけ操作しましたが後遺症のようなものはありませんので安心してください。」

 「で、でも記憶を操作しただけでどうして意識まで…」

 「それはココアに入れた鎮静剤の効果です。彼も疲れていたんでしょう。」

 「え。」

 

 まさかウォーゼル卿がそういったものをジェイに使うとは思っていなかった。これがライサンダー卿であれば納得もいっただろうが、彼は善良さに一家言あるウォーゼル卿である。

 私の意外そうな視線を受けて、彼は眉を下げた。罪悪感というものはあるらしい。

 

 「―――しばらく、考えていたのです。俺が騎士としてどうあるべきか。」

 

 彼がぽつりと打ち明けるようにそう言ったので、私は彼が何について話したいのか、どうしてジェイを眠らせたのか合点がいった。

 彼は自身がどうしてクーロンに来たのか、その本当の理由について話そうというのだ。彼はただ私を探すためだけにクーロンにまで足を運んだわけではない。

 

 仕事があったのだ。

 

 「あの老紳士は、外法であったのですね?」

 

 ウォーゼル卿は首肯した。

 

 「ユーハオ氏は若い人間の血肉を食べていました。それが老いや病に効果があると信じ込んでいたのです。他にも古代遺物の所持や使用の疑いもありましたので、彼の身柄ごと回収する必要がありました。」

 

 どうやら、彼が身に付けている装飾品の中に古代遺物があるらしい。九龍が一度入ると出られない迷宮であるのはそのためなのだとか。

 ウォーゼル卿は深く息を吸うと、重々しく切り出した。

 

 「―――これからのことを、決めなければいけません。このままアルテリアに向かうわけにもいかない。あなたのことを他の騎士に見られると少しまずいですから。」

 

 確かにそうだ。私は廃棄されたことになっている。おそらくは私たちを休憩室に案内したのもその都合があっての事だろう。メルカバを操縦しているスタッフに関しても、落ちてきたのが誰かを『見間違えた』と言うことはできるが彼ら二人に正面から会わせることはできないとのことらしい。

 何だか騎士団も難しい組織のようだ。

 

 そういえば彼はこれからどこかに向かおうとしているが、それはまずい。

 

 「あの、私たちのことはあの部屋に戻してしまってください。」

 「あなたの部屋ですか?」

 「ええ。荷物を忘れてきてしまいましたので。」

 

 

 私はあの部屋に戻らなければならない。()()()()()()だ。

 

 

 





 聖痕について。聖痕を現実世界で顕現させるというのはかなり体力を消耗するらしいです。ケビンの聖痕砲やワジのSクラ乱用とかでもそんな描写がありましたが、ガイウスは二人に比べると体力があるのかして黒の工房脱出時とかⅢのラスダンとか、結構使ってますね。
 トマスさんもそこそこ使っている印象ですが経験の差でしょう。

 そもそも聖痕の性質というものが何なんだ。

 ケビンが魔眼の拘束を聖痕をだして破っていたのはたぶん衝撃波みたいな何かかな?と思うんですが、Sクラで使っているのとはちょっと違う気がするんですよね。
 魔槍を再現しているのか、所持している矢を強化しているんでしょうか?
 碧での聖痕砲では導力を収束して主砲の威力を大幅に強化していると考えられます。違法薬物並みのドーピング(ただし無機物にも有効)ということでしょうか。

 ワジのSクラや副長の匣を考えると『聖痕によって古代遺物の能力を解放/強化している』というのが妥当ですかね。

 ただそれで説明がつかないことがあります。
 『門』です。黒の工房脱出時のアレ。転移陣自体は魔女の力によるものなので、マーカーのような役割をしているんでしょうか?
 それかメルカバに座標を教えているか、ですね。とにかくわからん。あそこで聖痕出す意味とは。

 メルカバには聖痕のパターン認識ができるという能力があるので(離れていても察知できるのか?)あれで座標を教えていたというのが一番可能性として高い。


 それはともかくケビンの聖痕とそれ以外の聖痕でタイプが異なりますがデザイナー変わったんでしょうか?

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