「なぁにやってんのよ!ニクス!」
「あら、ユウナ。お久しぶりです、元気にしていました?」
「あら~、じゃないわよ!息子を連れてクロスベルに来てるって聞いた時の私の驚きがわかる!?思わず教官に連絡いれちゃったじゃない!」
どうやらユウナは春休みを活用して帰省していたらしい。お二人が帰ってからランディ様が連絡したらしく、私はジェイと買い物に出ていたところを捕獲された。
無駄のなく美しいまでの捕縛術ではあったが、ジェイには通用しなかったようだ。彼は先に宿に戻った。
『詳細な説明を求めます。』
「ほら、アルティナだって気になってるじゃない!」
このような感じで特務支援課のオフィスビルにて実に長いこと質問攻めにあうことになってしまった。
定期的に手紙を送ってはいるのだが、クロスベルに行くことになったという内容の手紙を送ったのはつい今朝のことだ。ちなみにその前は共和国で子どもたちに勉強を教えている、という内容の手紙を送った。
どうやら彼女たちは私がクロスベルに来たことよりもジェイのことが気になるようだった。なぜ私と行動を共にするようになったのか、どんな子どもなのか、これからどうするつもりなのか…いろんなことを聞かれた。
その中にはジェイにしか答えられないであろう質問もあり、私はどう答えればいいかがわからず窮してしまうこともあった。
ユウナたちはそれを見て何か後ろめたいことがあると思ったらしい。
ジェイとは血のつながりのないこと、一時的に彼の周囲の環境が安定するまで面倒を見ることを説明したのだが、どうにもわかってもらえない。
「そんなこと言って、また面倒ごとに巻き込まれたんじゃないの?」
「本当に違います!信じてください…。」
ジェイと行動を共にするにあたり、面倒ごとなんて何一つとしてなかった。九龍という街の治安を考えれば大きなけがもなかった時点で十分と言っていいだろう。
「じゃあどうして大陸東部に行く予定だったのにクロスベルに来たの?」
「実は今度クロスベルタイムズに小説を掲載することになりまして、その打ち合わせですよ。」
「えっすごいじゃない!」
嘘ではない。
それだけが目的ではないが、それも大きな目的の一つだ。
私がクロスベルに来た理由は三つで、一つが小説のため、一つがジェイのため、そしてもう一つが黒月の要請に応えるためだ。
人や情報が多いのでついでにいろんなことをしようとは思っているが最低限私がクロスベルで達成するべきことはこの三つに絞ることができた。
「いつの雑誌に掲載されるの!?」
「再来月が初回だそうです。とある全寮制の名門高等学校を舞台にしていますから、ユウナにとっても親近感があって楽しめるかもしれません。」
「いいね~恋に部活に青春ってやつ?」
「あ、それが実は登場人物は全員女の子なので…」
閉鎖的な女学院に通う生徒たち。内部から進学した子たちの中に外部から新しく編入した子が加わって交友関係に新たな進展が生まれる。
外界への興味と不安がないまぜになりながらも日々を過ごす子どもたちの独特な社会に大人たちは振り回され、巻き取られていく。
閉鎖的な社会を保ち続けるか、それとも変化への恐怖を乗り越えて外に扉を開くかの二つの選択を迫られ、衝突しながらも時間は残酷に過ぎ去っていこうとする。
そういう物語だ。
まだ善悪を知らない子どもたちは大人から見れば残酷にも見える。
まだ他人を知らない女の子は周囲から見れば強かにも見える。
けれど彼女たちはただ生きているだけ。
ただありのままでいるだけで一つの世界を形成していくのだ。
恋の要素はあまりないと言えるだろう。
しかしながら作者が物語の中に恋愛的要素を入れなくても聡明な読者は恋の芽を見つけ出すことが稀によくある。要は読み方次第だ。
「教師にも男はいないってこと?」
「ええ、全員身体的には女性です。けれど……」
けれど。
これは少し、悩んでいることでもあった。
自分が書いているときにきっと筆が止まってしまうだろうから、書くかどうか、登場させるかどうかいまだに悩んでいる。
「けれど?」
「…その、中盤以降の登場人物はあまり確定していないところもあるので、読者の皆さまの反応を聞いて決めると思います。」
「おぉっ!女学院での恋にフラグが立ったか!」
迷っているのは、『未分化』な人だ。
この世界ではまだそういう人を見かけないから、書いていいかどうか迷っている。
もしかしたら女神の奇蹟の一種で、女の体に生まれた人は必ず女になり、男の体に生まれた人は疑うことなく男になるのかもしれない。もしそうであれば女神への冒涜ということで一発アウトだ。
教会に目を付けられないように過ごせと言うセルナート様の言いつけを破ることになってしまう。
だが、性とは何で決まるものなのか?
私にはわからない。
同性愛が罪という話は聞かない。異性装をしている人も見かけない。しかしそれはこの世界にそもそもそういう概念がないのかもしれない。
(余談ではあるが“以前”はそういったことがタブーだったわけではない。
しかし若干の偏見を持つ者もいた。性別のある者もない者もいて、同性を愛する者もおり異性を愛する者もいた。私は性別のない存在だったが、神官として考えの異なる存在が無駄に衝突をしないよう間を取り持ったことがある。)
ということは本当にこの世界にはそういう概念がないか、人の目につかないところに隠れているかの二択だ。
私にとってはわからないからこそ、見えないところにあるからこそ、大きなテーマであるように思っているのだがこの世界の人はどう思っているのだろう。
誰かに話を聞こうにも中々言い出せずにずるずると来てしまったというわけだ。
性の獲得をテーマとして悩んでしまうのは他でもない私が女とも男とも断言できない存在であるための単なる当事者意識なのかもしれない。
けれど、セルナート様の言うとおりに人になるために特定の誰かを愛するとなればこれは逃げられない命題である。
すなわち私が女を愛するのか、男を愛するのか。
女になるのか、男になるのか。
どちらかに一歩踏みよるとして、私が何をすればいいのか。
私はいつか決めなければいけないのだ。
そしてこの惑う気持ちを投影した誰かをキャラクターとして産みだし、女性になると疑わない女の子の集団に一人投げ込むか否か、それもまだ迷っている。
だからこれは、今はまだ『いつか』書くテーマでしかない。
後になって思い返してみれば、初めての大きな仕事だから失敗したくない、そう怯える気持ちがあったことは確かだ。
書いた話が駄作だと言われることだけでなく、自分を投影した誰かを否定される恐怖。私は無自覚にも『恐怖』を感じていたのだ。
この人間的感情を自覚することになるのは、もう少し後のことになる。
夜、私は持ち帰った資料を読み上げてそれらの内容を寝っ転がっているジェイに吟味させた。
しかしジェイはあまりこだわりがないようで、学校も住居もあればそれで十分と考えているようで、私が持ってきた選択肢は中々減らないのだった。
「ジェイ、これはどうですか?通りに面したアパートで空室が出ているらしいです。ちょっと広いですが余裕があっていいかもしれません。」
「もっと狭いとこでもいいよ。あんまり広くっても落ち着かないし。ベッドがあればそれで。」
ジェイが新しい住居に求める条件は非常に少なかった。
雨風が凌げること、地震に耐えられること(クロスベルで地震が起きた例は非常に少ない)、火災が起こったときに補填が出ること。その3つだ。
もう家を失わずに済むのなら狭くても古くてもいいと言っている。
「けれどジェイ、本を買うのでしたら棚だって必要でしょう?本を置くスペースが必要です。」
「図書館があるでしょ。アンタの本だって置いてあるくらいだし、読書ならそこでするよ。」
「…見つけに行ってくださったんですか?」
「…知ってる作家がアンタしかいないんだよ!」
てっきり宿でお昼寝をしていると思っていたのに外出をしていたのは図書館に行っていたかららしい。買い物はどうやらその帰りにしたようだ。
図書館でジェイが私の本を探してくれただなんて、嬉しくて顔が緩んでしまう。ああ、もっと書こう。書いて、たくさん本を出して、ジェイが時間をかけて探さなくてもすぐに見つかるように有名な作家になろう。
この子はいい子だ。
きっと善い人に育つ。彼の時間もきっと貴重になるだろうから、私以外の作家を探せる時間を持てるように、私は有名になろう。
「ふふ、これからもたくさん書きますね。」
「アンタこれ以上書いてどうするんだよ。バスでも書いてたってのに…」
「書きたいものが沢山あるんです。私はこの世界が好きですから。」
生きている限り、悲しいことも苦しいことも避けられない。
悩み、迷い、痛くて辛い目にあうことだってある。
貧しい時も、心身の調子を崩すことだってある。
故郷から出ていくことや、何かを忘れること、老いてしまうことも避けられない。
けれど、それでも世界はいとおしいのだ。
命も、自然も。
人も動物も植物も、海も川も山も。
どこにだって永遠というものはないが、うつくしくていとおしいのである。
「……わかんない。」
「そうですか?」
「―――なんであんたはそんなに気楽なのか、とか。なんで頭の布を外さないのか、とか。わかんないことだらけだよ。」
「好奇心があってよいことですね。」
「答えになってないし…」
この子どもも、とてもいとおしい。
これからもっと健やかになる。賢くなる。私が授けたものを彼は存分に活かしてくれる。育てるものにとってこれ以上にかわいらしい存在はないだろう。
この子どもや、世界にそそぐための愛情しか、私は知らない。
心があたたかくなるような愛情で十分だと思っている。
しかし人になるためには、心が戸惑ってしまうような『愛』を備えなければならないのだという。
一体それはどんなに苦しい道だろう。
人が当たり前に持つというその愛は、直視したくないような醜さと癒着しているようにすら錯覚してしまう。人を愛おしく思っているのに人に宿る感情を醜く思ってしまうというのもおかしな話だ。
こんなことで私は本当にそんな気持ちを持つことができるのだろうか。
今はまだ、私はそれを知らない。
その愛は『いつか』私が得なければならないもの、なのだろう。
***
特務支援課の主な任務は支援要請を通じて市民の不安を解消することにあるが、警察官としてもっと大事な仕事がある。
パトロールだ。
何より大事な、毎日欠かしてはいけない日課。
クロスベルは都市としての規模が大きく人の出入りが激しい。目まぐるしく状況が変わりゆく場所であるだけにそこで何が起こっているかをしっかり把握しておく必要がある。
時間はかかるが、事件の手掛かりが見つかるような大切な仕事なのだ。
主要な施設や通りを歩いて、知人に話を聞く。いつも俺たちがパトロールをしていることを知っている人たちは手短に最近の出来事を教えてくれたりするから助かることこの上ない。
たまに怪しい人物の目撃情報なんかも入ることだってある。
「昨日ここらではあんまり見ない子がお買い物に来るようになったの。たぶん共和国の子なんだと思うけど…ちょっと見ていて心配になるわ。」
「今朝随分痩せたガキが来たぜ。随分目元が荒んでてよ、万引きするんじゃねぇかとひやひやしたね。」
「痩せた子供?ああ、パン買ってったぜ。と言っても女の人を迎えに来たみたいでちゃんとした子だったな。」
こんな風に、クロスベルの人々は意外と見ているのである。
人の出入りが激しいわりに、観光客と地元住民の見分けはきっちりできる。新しくやってきた人をそれとなく警戒できる。
それはクロスベルが長いこと受難に晒されてきたために住民が培った一種の生存スキルといえるだろう。
「昨日来てくれた子どもが今日も来てくれてね。とても熱心なんだよ!この作家の本はないかって、随分大人向けの本まで読みこんでたね。
貸出カードを作るか、って聞いたんだけど要らないと言われてしまったな。」
図書館で司書をしているマイルズおじさんがやけに上機嫌で教えてくれるものだから、誰かいるのかと思い中に入ると、二階の席では昨日ユウナが捕まえそびれた少年が読書をしていた。
「君は……」
「何?」
随分分厚い本を机にたくさん積み上げている少年は少し荒んだ見た目によらず熱心に読書家のようだ。手足が非常に細くて運動が得意でないのかもしれない。
「君、随分読書家なんだな。こんなに分厚い本まで読んで、すごいじゃないか。」
「あんた、サツだっけ?僕の邪魔しないでくれる?」
「まぁそう言わずに、お兄さんたちにもちょいと読ませてくれよ。」
そう言ってランディが机に椅子を引っ張ってきて座ると、少年は眉間にしわを寄せた。しかし彼にとっては相手をする時間も惜しいのか、本から目線を上げる様子はない。
随分大人びた対応だと思う。図書館がどういう場所かを弁えているだけでなく、気に入らないと思っている相手を受け流すことを知っているのだ。
リュウやアンリと同年代か年下であろうに、随分落ち着いている。
「ジェイ、俺はロイド・バニングスという。昨日は挨拶をしそびれてしまったね。」
「ランディ・オルランドだ。」
「エリィ・マクダエルよ。」
「ティオ・プラトーです。」
俺たちが自己紹介をすると、ジェイはぺらりと本のページをめくろうとして、本を閉じた。
「僕は確かにニクスの知り合いのジェイだけど、それがどうしたの?あの女が黒月に出入りしてたらそんなにおかしいわけ?それでどうして僕に話を聞こうとするの?」
薄い皮膚のはりついた顔は明らかに苛立っている。
尖った顎に角ばった形の頭。近くで見ると痛々しいほどに痩せている。ニクスさんが食事を与えないようにも見えないし、もしかすると彼はニクスさんと出会う前、相当貧しい生活を送っていたのかもしれない。
「黒月を知っているのか?」
「僕は九龍って言う東方人街から来たけど、そこは黒月が牛耳ってたんだ。ニクスがごたごたに巻き込まれてそのままクロスベルに来たってわけ。」
「ごたごた?やっぱり面倒ごとに巻き込まれたのか?」
「あの女からしたら面倒じゃないから、面倒ごとじゃないんでしょ。」
ジェイの言葉を聞いたランディが納得したように肩をすくめた。確かに昨日の様子だと、彼女はそういったことを言いそうに見える。
人を助けるために掛け値なしに何かができる、そんな心優しい人なのだろう。
「別に≪白蘭竜≫だってあの女をどうこうしようなんて考えてないでしょ。厄ネタだってわかってるはずだよ。アンタらが心配するようなこと起きないし、心配したところで無駄。」
「随分詳しいな?」
「サツの割に頭悪いんじゃない?僕は九龍の出身だって言ったでしょ。あそこはこことは比べ物にならないくらいヤバい街で、そういうこと知ってないと生きていけないっての。」
「そんな危ないところにニクスさんは行ったのか…」
よくあのポヤポヤした女性が生きて帰ってこれたものだ。あんな風に今も心優しくいれるということは特に危ない目にあっていないのだろうが、もしかしたらこの少年がニクスさんを助けたのかもしれない。
「えっと、ジェイ君。さっきからニクスさんの事…」
「『あの女』?」
エリィはジェイの言葉遣いが気になったようだった。
確かに、彼は複雑な環境で育ったようだけれどもそれはそれとしてニクスさんに世話になっていることは事実だろう。年上の人に対する呼称として、一般的に考えて褒められるものでもない。
「お世話になっている女性の事、あんまりそんな風に呼ばない方がいいと思うわ。ニクスさんだって悲しむわよ?」
「いや絶対何とも思わないから…」
「ジェイくん?」
ジェイがぼそりと呟いた内容も、確かに想像がつく。ついてしまう。ニクスさんなら笑って許してくれそうだということも予測できるのだが、それはそれなのだ。
これから社会で生きていくために、礼儀というものを備えておくべきだろう。
エリィの笑顔は迫力があるが、しかしジェイの肝は相当据わっているようで何とも思っていないようだ。
「……礼儀、ね。僕の周りにいたやつらは尊敬できるような奴等じゃなかったんで、そういうのよくわかんないんだよ。」
「ニクスちゃんはどう見てもマトモだろーが。俺たちは別に構いやしねーが、あの人にくらいはもちっと柔らかく当たってやれよ。」
「――――」
ジェイが何かをぼそぼそとつぶやいたが、あまりに不明瞭だったので静かな図書館の中だというのに俺には聞き取れなかった。ティオを見るが、彼女は少し驚いたような顔をしている。
どうやらティオには聞き取れたらしい。彼が何とつぶやいたのか尋ねようとして、そこにやってくる気配があった。
「あら?皆さまお揃いだったのですね。」
「げ……」
「ニクスさんじゃないですか。どうしてここに?」
階段をのんびりと昇ってきたのは黒いワンピースを着たニクスさんである。彼女は椅子に掛けると、鞄からノートと原稿用紙、そして筆記具を取り出した。
「こんにちは。少し時間が空いたので、ジェイの勉強を見に行こうかなと思ったのです。」
「ああ、お仕事の打ち合わせですか?」
「いいえ、大陸東部とノーザンブリアへの物資支援のお願いをしておりました。」
ニクスさんは俺の質問に答えながらジェイに一冊の本を差し出す。どうやら彼女が見立てた本であるようで、ジェイはそれを受け取ると大人しく読み始めた。
こうしているのを見ると大人の会話に付き合わされている子どもみたいでまだ可愛げがある。実は彼にとってはニクスさんへの当たりを柔らかくしているつもりなのかもしれない。
ジェイが急に借りてきた猫のようにおとなしくなったのでびっくりしたが、今ニクスさんはなにか気になることを言わなかっただろうか?
「物資支援、ですか?」
「ええ。困窮する方々にせめて衣服や水、食べ物が届いてほしいと思いまして。クロスベルに共和国出身の貿易商の方がいらっしゃって、その方の流通ルートを頼らせていただいてます。」
「……もしかして。」
「ハロルドさんですか?」
共和国出身のクロスベルにいる敏腕の貿易商、といえばハロルド・ヘイワースさんだ。俺たちも何度もお世話になっている。
「あら、ご存じだったのですね。」
微笑んだ彼女は順を追って説明してくれた。
元々は帝国を出た後すぐに大陸東部に行って支援活動をする予定だったのだが、いろいろとやることができてしまったので遠くからでもできる支援をすることにした、らしい。
物資の内容は衣服や飲食物以外にも、本、感染症のワクチンや水の浄化装置なんかも含まれているらしい。
それをハロルドさんに買い取ってもらってそのまま辺境地帯に送ってもらっているのだとか。
「アンタ、そんな金持ってるの?」
それまで本を静かに読んでいたジェイが顔を上げたと思えば、唐突にニクスさんに質問をした。そういえば、確かにニクスさんは丁寧な方ではあるけれども貴族の出身であるとか資産家であるようにも見えない。着ているものもファストファッションの庶民的な服だ。
薬や、水の浄化装置は結構な値段がするだろうにそういったものを買うお金も印税から工面しているのだろうか。
「お金はそれほど持っていませんけれど、ありがたいことに今言ったような物資を工面してくださる友人がいるのです。その方は今まで私のところに送ってくださっていたのですが、送り先をハロルドさんに変えていただくようにお願いしたのですよ。」
「え、誰それ」
「さる実業家の方です。私の活動にご理解をいただきまして支援をして下さっています。」
(怪しい人じゃないだろうな…)
「それヤバい奴じゃないよね?」
(言ったし…)
恐らく場の人間のみんなが同じ考えを持ったのだろう。空気を読んで誰も言うまいと思っていた自分たちとは違い、ジェイは度胸がある。そういった踏み込んだ質問も躊躇なくできるのだから。
「勿論です。優しい方ですよ。」
そう言ってジェイの前髪をさらりと撫でた彼女の目は非常に優しい。ベールの薄布でも隠し切れないような慈愛が漏れ出ていた。
春の陽光に勝るとも劣らないあたたかな眼差しだった。
「あ、そ。」
そんな視線を受けても素っ気なくこたえられるジェイは、すごいと思う。
彼は本に目線を戻すと再び読み進めていく。いたって平静で、実は耳が赤くなっているということもない。全く動じていないようだった。
「(すごい、ジェイさんすごいです…)」
「(これは、圧倒的母性ッ…!)」
「(ランディ?)」
「ははは、えっと…もしかしてこの本はニクスさんが?」
話題を変えようとして、机に積み上げられた本が目についた。
いずれもポラリスという作者の著作であるようで、一冊一冊のボリュームが結構多い。中には少し古ぼけた本もある。
ジャンルは様々で、明らかに子供向けという装丁の本もあれば、神秘的な装丁の本もあった。
一冊手に取ってみると、表紙には「星のものがたり」とある。
「ええ、拙い筆ではありますが。今お手に取っていただいたそちらは星の神話を書いたものですね。今のところ最新作に当たります。」
「星の…神話?」
神話と言えば女神だ。
女神が天地や生命を創造したくだりの創世記が一般的に神話と呼ばれ親しまれているが、星に神が宿るということだろうか?
「星が冒険をする、ということですか?」
内容は全年齢向けのファンタジーといったところだろうか。興味を持ったティオがペラペラとめくっている。
ニクスさんはティオの質問に頷いて答えた。
「星はどうしてあんなに素敵な輝きを秘めているのか。どうして一つ一つの星の形や星の並びが違うのか。その理由付けみたいなものですけれど、そういった物語があると思うと素敵でしょう?」
「『夜空に輝く星々の、とびぬけて明るいものをつなげて、人は星座を作り出しました。88の星座は、今も夜空を見上げるとそこにあります。それは古くの人からの手紙であり、時を超える物語なのです』…」
「素敵ですね…オリジナルは民間伝承でしょうか?」
星の物語は俺も聞いたことがない。エリィの記憶にも聖典にそれらしいものは載っていないようだ。とすると地方に伝わる精霊信仰や自然信仰に着想を得たのだろうと推測できた。
「ええ。私の故郷に伝わる星の物語に、いくつかオリジナルを足しました。」
「故郷…ノーザンブリアでしたか?」
「実はもっと遠いところなのですよ。もうずっと昔に、出てきてしまいましたけれど。」
窓に背を向けた彼女に、ちょうど雲の間から太陽の光が差し込んで、逆光で彼女の表情が隠された。いったいこの時彼女がどんな思いでそう答えたのか俺にはわからないが、なんとなく、寂しそうな声をしていたように思う。