結局のところ、困ったときに頼る存在として神のしもべという人は私にとって身近であった。それは私が“以前”神に仕えていて神という存在についてずっと考えていたからなのかもしれない。
この世界は、奇蹟を生み出す存在は女神であるという答えを出した。そしてその女神が大陸中で信奉されている。≪力≫を持つ者同士の争いも少なく、喜ばしい平和と言えるだろう。
私がいた世界は、違った。
私も、王も、民も、神への向き合い方がこの世界とは異なった。人の世界で起こることはあくまで人が為したことに原因があると考えていた。命が生まれた奇跡も、天地が想像された奇跡も、それはいまだ分かっていないだけでどこかに原因があると思っていた。
私たちにとって神とは、『他者を信じるための支え』でしかなかった。人格や命、意志を持たないただの装置や道具のような物。
他者は自分を傷つけるかもしれない、自分とは違う意見を持っているかもしれないという恐怖を乗り越えるための心の支え。異なるものを受け容れる優しさのもとになってくれる教えだった。
それはきっと、この世界の人からしてみれば女神に比べて曖昧で、形のない不確かなものに対する信仰だったかもしれない。
けれどあの場所で、私たちは確かにそれを信じていたのだ。
そんな異なるものを信奉していたものがこの場所に踏み入ることを、この世界の神はお許しになるだろうか。
この教会の人は、私の悩みを聞いてくださるだろうか。
(女神よ、私はあなたの教えに耳を傾けます。)
心の中でそう念じて重厚な木の扉を押し開ける。
荘厳な大聖堂は、扉を開けるとすぐに礼拝の間で、今も祈りを捧げている人が何人か席についている。ステンドグラス越しに降り注ぐ太陽の光を浴びながら、まるで祝福の光を授かるかのように彼らは一心に祈っていた。
「すみません、懺悔はどこでできるでしょう?」
私は女性のシスターに尋ねると、その方は私を奥へと案内してくださった。なんでも懺悔室は二階にあるらしく、階段を昇ることになった。
階段は石造りで、とてもひんやりとしている。前を歩くシスターは日々のおつとめで慣れているようだが、この階段は中々に急だ。
二階にたどり着いたあたりで息を整えていると、シスターは小部屋の鍵を開けて私に入室を促した。
「少しつかれてしまいました?どうぞお部屋の中で、ゆっくり話を聞かせてください。」
「……ありがとうございます。」
何かに思い悩むことは罪ではない。
けれど私は、自分の心の中にある火種をそのままにすることや、男でも女でもない曖昧な存在のまま変化しようとしないことが女神の慈悲に背く罪に当たるのではないかと思ってしまったのだ。
私は女神の教えをすべて知っているわけではないから、何が罪で何が許されるのか、よくわからないのである。
「あなたは、何か思い悩むことがあるのですか?」
シスターは私の憂いを見抜き、まっすぐにそう問いかけた。その目は優しく、私がこうあろうと目指すような人の姿を体現している。
「私は、自分が女だと思えないのです。これは罪ですか?」
「え…?」
彼女は少々面食らっていた。
私は彼女に理解してもらえるように、心のうちにある疑問を一つ一つ投げかけた。
「女の体であるならば、女になるものだと思っていました。そして女になれば男を愛するものと思っていました。けれど私には何年生きてもそのように思えないのです。
自分は、女でもなく男でもないと確信しています。しかし人は私を女と認識しています。私が人々と同じように自分を見ることができないのは、女神の教えに背く罪なのでしょうか?」
私は、誰に導かれても、誰に教えられても自分のことを女とは思わない。20年生きてきてそれはすでに分かっている。成人女性の体で20年生きても、私は自分を女と思うことができない。
これはもしかしたら、ヒトとしての欠陥なのかもしれない。私は、人になれないかもしれない。それがとても怖かった。
自分が罪人であると目の前のシスターに思われることよりも、人ではないと思われることの方がずっとずっと嫌だ。私がちっとも人でないというのなら、私がこれまでしてきた行いは正しくなかったということだ。
昨日は、考え込んで眠れなかった。
なので原稿をひたすら薄闇の中で書いた。ジェイには申し訳なく思ったけれども彼はどうやら宿が気に入ったようでぐっすりと眠っていた。
思い悩む私に、シスターは一つ問いを投げたのだ。
「性は必ず得なければならないものでしょうか?」
「…といいますと、どういうことでしょう?」
「女神は、聖典の中で人が女か男どちらかにならなければならないとは仰っていません。それは個人の選択に任されているのです。」
「……私は、罪人ではないということですか?」
私は、間違っていない?
「勿論です。あなたは人を能く慈しんでいます。あなたの心を女神もお褒めになるでしょう。」
「それはよかった…。」
私は彼女が心優しく私の悩みに親身になってくれると知ってもう一つ、わからないことを彼女に聞いた。
「あの、もう一つ質問なのですが、誰かを好きになるにはどうしたらよいでしょう?」
シスターは少し微笑んで、「女神は善きあなたを必ず導いてくださいますよ」とだけ教えを授けて下さった。
私は間違えていない。
それがわかっただけで十分なはずなのに、一つの問題が解決すると次から次へ問題が押し寄せてくる。何を最初に考えるべきかすらわからなかった。
混乱しているのだ。考えを整理しよう。
女神に曰く、人は男でも女でもない状態がありうる。個人がありたいように自分の在り方を決める。そういうことのようだ。
私も、私がそうありたいと思うのなら性別のないままでいられるし、男か女になりたいと思えばそのようになれるのだろう。
それはよかった。素直に安心した。
次の問題は、「私が誰をどのように愛するか」である。これはセルナート様から突き付けられた命題そのものであり、どうにかこうにか答えを出さねばならない。
あの蛇のような女性は、私にそんなことができるとでも思っているのだろうか。ずいぶん大きすぎる期待だろう。人になるための試練とはずいぶん巨大だ。
これからの道行きに不安を覚えながらも、私はクロスベル市を歩いた。今日は女性記者との打ち合わせの日だ。これから龍老飯店に戻って、推敲をしなければいけない。一回の連載での文章量に合わせて物語を区切らねばいけないし、仕事はまだまだ残っている。
東通りに差し掛かると、港湾区の方面から黄色いジャケットの女性が歩いてくる。
これから打ち合わせを予定していた彼女だ。私はその女性に声をかけた。
「グレイス様」
「あれ!?先生じゃないですか。外出なさってたんですね?」
「ええ。そろそろかと思って戻ってきたのですが、まさかここで会うなんて。」
グレイスさんは活気のある市場を通り抜けながら人懐っこい笑顔で笑いかけてくれる。
龍老飯店に入った私は、とりあえずグレイス様だけを先に席につかせて自分は原稿を取りに行くことにした。
部屋の鍵を開けると、ジェイは外出したようで中には誰もいなかった。最近は図書館にこもりきりのようで、随分楽しそうにしている。私も時間があるときは一般常識以外にも導力学や生物学、天文学といった科学分野を中心に教えているけれど本当に要領のいい子だ。
体験を交えさせればすぐに覚えてしまう。
(……えっと、これじゃなくて…)
原稿は旅を続けるうちにずいぶん増えた。
睡眠や食事を必要としないために無限に感じられる時間を全て執筆に使ってきたので当然かもしれない。最初のうちは自費出版で、少ない部数をノーザンブリアの富裕層向けに売っていた。
娯楽の少なかった彼らにとって本は親しむべき友であり、よい値段で買ってくれたのが私の執筆生活の始まりだった。
人々に食べ物を買い与えるだけのお金が欲しかったのだ。
それが今では旅行鞄に収まらないくらい多くの原稿用紙に書くことになるだなんて、思いもしなかった。たくさんの物語の中には出版するために書いたものもあり、そうでないものもある。
ただ書いただけのお話は出版社に持っていくこともしなかったので、それらが鞄の中で結構なスペースを占めているけれど私はどうにもこれを処分できないでいた。
(キリカ様なら、読んでくださるでしょうか?)
昨日、この宿に私宛の手紙が届いた。
それは九龍でお会いした女性からのもので、手紙にはあのお話の感想が書いてあった。楽しんでいただけて作家としてこれほどうれしいことはなく、また何かの形でお礼がしたいと思っているのだ。
(あ、ありました)
鞄の奥底にある原稿。昨晩書いたはいいのだけれどもこれでいいのかどうかわからなくなって下の方に押し込めてしまったのである。
レストランのフロアに行ってグレイスさんのところまで歩み寄ると、彼女はすでに注文を済ませていたようだった。
「すみません、お待たせしました。」
「大丈夫ですよ!料理はおすすめを注文しておきました~。」
彼女は私が手に持っている原稿を見て、不思議そうにした。
「あれ、それ原稿ですか?先日いただいたと思うんですけれど…」
「あれの続きなのです。けれどまだ構想段階でして、ご意見がいただければいいなと思った次第です。」
彼女はお茶を飲みながらなんだか驚いている。器用な女性だと思った。
「えぇ!?まだ二日しか経ってないですよ?なのにそんだけ書いたんですか?」
「二日も、経ったのですよ。私は筆の速さと字の量しか誇れるところがないのです。」
「いやいや、そんなことは……あ、拝見します。」
グレイス様に原稿を渡すと、彼女はぺらりぺらりと読み進めていく。続きとはいえたかだか5万字も無い。素案のようなものだった。
「む……」
「やはり、そういった子を登場させるのは問題があるでしょうか?」
彼女が眉を寄せた。あの子の登場シーンだ。
その子どもは未分化で、他の子どもに比べて体が薄い。細長い手足をふらふらとさせて主人公たちの前に現れるのだ。そしていつも、その子は校則違反の真っ白なスニーカーを履いている。
「いえ、逆です!クロスベルって人が多いのでそういう需要もあるんですよね~。私の知り合いにも共感してくれる人がいると思います。やっぱり時代が変わってきて、多様な考えを受け容れる方向に向かっているというか。
いや~新しくっていいと思います!かわいくてかっこよくて二度美味しいし!」
「ほ、本当ですか?」
「はい!編集長にも見せたいので今回この原稿をいただいてもいいですか?」
思っていたよりも、彼女の反応はよかった。
彼女が肯定してくれたのは私の作品であるけれど、私はまるで私自身が肯定されたかのようにうれしく思ったのだった。
「炒飯一つ!餃子と雲呑麺と魯肉飯一つ!あと空心菜の炒め物ネ。お待たせアル~」
「サンサンちゃんありがと~!さ、先生。あったかいうちに食べちゃいましょう!お仕事の話はそれからってことで。」
机の向かい、湯気の立つ料理を挟んだ向こう側に座る女性がウインクをしてくれる。可愛くて、大人で、優しい人だと思った。
この日食べた中華は本当に美味しかった。香ばしいゴマの香りとカリッとした餃子の焼き目。生姜の利いたお肉のタレはごはんとよく合って美味しかった。
全部の料理から温かいにおいがして、特に熱々のスープを飲むとなんだか心まで火傷してしまったような気すらした。けれどそれもひっくるめて嬉しくて、私はちょっとだけ泣きそうになりながらグレイス様とご飯を食べた。
調子に乗り過ぎてゴマ団子を食べたらちょっとお腹が苦しくなったのは、そう、ご愛敬である。
***
「このように、ビタミンは生体内で起こる反応を補助する栄養素です。この栄養素がエネルギーそのものになってくれるわけではありませんが、エネルギーを生成するために重要な役割であると言えるでしょう。
たとえば、ビタミンB類。肉や卵など動物性の高たんぱく食品に多く含まれていますが、これが不足すると小麦や米などの主食から摂取した糖類をエネルギーにすることができなくなってしまいます。
ノーザンブリアでは塩の杭が発生した後、様々な人の努力で比較的早期に農業が再開されました。特に炭水化物を多く含む芋や蕎麦、ライ麦などは比較的多く生産されたのですがビタミンB類が不足した食生活を送っていたため、欠乏症に悩まされることになったんです。
穀類の中だと玄米が比較的ビタミンBを多く含んでいますけれど、ノーザンブリアの気候では米の栽培は困難でした。
これに対応すべく支援団体は塩濃度が高い環境でも生存が可能な海水魚の養殖及び流通の整備に着手しました。動物性たんぱく質やビタミン、必須脂肪酸の摂取にも効率的と考えられましたからこれについては結構頑張ったのですけれど……
ジェイ?何か質問ですか?」
「アンタさ、医者だったの?」
「へ?」
日曜学校に通いたくない、その代わりに勉強はきちんと自分でやると決めた僕は図書館で本を読んで色々勉強することにしたけれど、ニクスはその勉強をサポートすると言って聞かなかった。
趣味でやってるボランティアとか、仕事の打ち合わせとかの合間に図書館に来ていろんな本を勧めたりわからないことを教えてくれる。
ずっと活字を読んでいるよりは、まだだれかの話を聞いている方が楽なので助かるが、この女、賢すぎるのである。
本を読まなくても正確な知識が出てくるあたり、自分が思っていたよりも頭が良い。記憶力がいいだけじゃなくて応用力もある。試しに数学のわけわからない問題を解いてみろと言ったらこの女は解いてしまったのだ。
特に科学について詳しいらしく、解剖学、生物学、地学、工学、数学、薬学は一通り学んだと言っていた。どうやらノーザンブリアで人々の支援をするためにどうにかこうにか勉強していたとのことだが、じゃあどうしてそんなに頭のいい女がこんなところでガキの家庭教師をしているんだか。
「アンタは昔医者で、ノーザンブリアでも人助けをしてたけど、ミスって何人か死んじゃって、それで喪服を着てる…とかじゃない?」
憶測だけど。
医者だったかもしれないし薬剤師だったかもしれないけど、導力技師ではないだろう。多分人の健康に関わる仕事をしてたんだと思う。多分。
そういうのにつきものなのは医療ミスだ。そういう事情でもない限り、ノーザンブリアの人がこんな有能な人間を手放すわけがない。多分こいつはノーザンブリアに居辛くなって、帝国までやってきたんだろう。
それでも人を助けたいみたいなご立派な気持ちがなくならなくて、今度は東に行こうとしてるっていう、仮説。
「ジェイ……」
ほら、少なからず当たってるって。
この女ちょっと驚いてるもん。
「小説の読みすぎですよ?」
「違うのかよ……」
こいつは僕に3冊のノートを買い与えた。僕は青色のノートは生物、緑色のノートは数学、黄色のノートは天文学の授業(勝手にニクスがやってる説明のことだ。たまに誰か乱入してくる。)の時に使うと決めた。
僕の字は汚いけれど、書いているとそれなりに整ってくるってもんだけど、まだ小さい字が書けない僕はでかい字でぐちゃぐちゃに書くもんだから、ノートは結構埋まってきた。
まだ買い与えてもらってから少ししか経ってないって言うのに、随分使ったもんだから字の練習をしようとも思ったんだけど、ニクスは「書いてるうちに上手になりますよ」といって字は教えてくれなかった。
それ以降僕はこいつが書き損じた原稿で勝手に手習いをしている。
この女は書くのが馬鹿みたいに早い。だがたまに原稿用紙10枚分くらい全部没になることだってある。書いたけれどつまらないとニクスが捨てようとした原稿を、僕はもったいないと言ってもらい受けているのだ。
(ちなみに将来この女が有名になったときにオークションに出す予定。)
練習をしているせいか、ノートのページをめくるごとに字はきれいになっている、はずだ。まっすぐ線が書けるようになったし、一列に整ってかけるようになった。まだニクスほどきれいな字は書けないが、今後の課題というやつだ。
「ああ、青のノート、買っておきましょうか?」
「いいよ別に。自分で買う。」
「それくらいさせてください。」
青のノートは、特別減りが速い。ニクスが生物の話題を好むからだし、僕が数学より生物を好むからだ。天文は、ニクスの本があれば割とわかるからノートはほとんど手習い用。
人体の絵や、人がかかりがちな病気の症状とその原因。社会問題にまでなった感染症や、器官の役割など、この女は短い時間を実に有効に使ってたくさんのことを教えてくれた。
一人で勉強するときにおすすめの参考書にも詳しくて、古い本から新しい本までいろんな本を勧めてくれた。
けれど僕には、それが別れの準備であるようにしか思えなかった。
僕が何を言ったって、この女はいつかクロスベルを出ていくだろう。人を助けたいからなんてご立派なことを言って、正しい道を往くんだ。
この女が犯罪者であればよかった。
そしたら僕がこの女をクロスベルに引き留めたって、何の文句も言われなかっただろうにな。
こんなことを思ってしまうなんて、僕は本当に、どうしようもない奴だ。
***
私は、百貨店の化粧品フロアで勤務しております販売員です。いつもはお客様がお求めのお化粧品や、お客様に似合う商品を紹介しています。
今日、というか今、私は一風変わったお客様の接客をしております。
あ、別に奇抜なお客様じゃないんです。そういう方はたくさんいらっしゃいますし。
そのお客様は
「すみません、化粧品を一式揃えたいのですが、恥ずかしいことに詳しくないのです。ご教授いただけないでしょうか?」
そのお客様は、来店してすぐにそうおっしゃいました。
黒い質素なワンピースをお召しになって、灰色のベールをかぶった方です。クロスベルの方は肉付きの良い方が多いのですけれど、そのお客様の手足はほっそりとしていて、まるで幼いころのまま、身長だけが伸びたかのようです。
長い袖から出ている手は、お仕事をよくなさっている手で、ところどころにあかぎれやささくれがありました。手のひらは広く指は長く、まるで青年の手のようでしたがしかしその薄さは確かに女性の手でした。
彼女の話では、知人のパーティーに参加なさるそうで、そのために身だしなみを整えたいとのことでした。化粧品は一切持っていないとのことで、一式全てご所望でした。
そのお客様のお顔は薄布に覆われておりましたので、拝見してもよろしいですかとお声掛けしたところ、彼女は顔にかかったベールをまくり上げてくださいました。
日に当たることがないのか、青白い肌をしておいでで、唇は薄く小さく、何より特別な目の色をお持ちでした。
琥珀色よりももっと薄い金色のような目は、決して他の方にない色でしょう。
私は困り果てました。
一体何色のコスメをお勧めするべきか、迷ってしまいました。
赤や黄色などの明るい色はなじまないでしょう。
ピンクやゴールドなど若い女性が好む色は落ち着いた仕草から浮いてしまいます。
しかし青や紫などの寒色は血色を悪く見せてしまうように感じられました。
その方は、何というか、肌の色が人形じみていたのです。一切のムラがなく、青白いのに血管も透けて見えず。およそ人の肌とは思えないほどでした。
それはそれで美しいのですが、私が紹介しているのは人間向けに作られた化粧品ですので、お客様に似合うかどうか、わかりません。
しかし私も仕事をして長くなりますから、根性で懸命に探しました。
お客様に合うアイシャドウとチーク、そして口紅です。
結論。
無彩色の美しさを強調するようにコスメは選びました。
シャドウはグレーとプラムのグラデーションパレット、チークはほんの少し。そして唯一の彩になる口紅は少し落ち着きのあるコーラルピンク。お客様の唇はとても薄いですけれど一か所に色があるだけでとても際立って見えます。
あとは目の下にハイライターを塗って光を与えると、お客様の微笑みがきらめくような美しさを備えるようになりました。
「いかがでしょう!?」
「お化粧は初めてですけど変わるものですね。ありがとうございます。」
付けていただいたものを包んでくださいとお客様が仰いました。
私は内心でガッツポーズをしたものです。しかし少し離れたところからお客様のお顔を拝見するともっと手をくわえたくなってしまいました。
悪い癖だとはわかっているのです。しかし私はメイクやコスメが大好きでこのお仕事に就きましたので、お化粧をし始めると楽しくなってしまって、どんどん深みにはまっていってしまうのです。
ブロンザーやファンデーションを使って肌の色を調節すればどうなるか。イノセントなピンクを使いたいけどどうすればよいか。瞳や髪の色を最大限引き立てるのはどのコスメか。
考えるときりがないけれども考えてしまうのです。
「……はっ、あの、申し訳ありません!」
「いえ、急いでいませんから構いませんよ。どうぞゆっくりなさってください。」
つい考え事をしてしまっていたけれど、今は化粧品を包まないと。
小さいパレットたちだけれどマスカラや試供品の化粧水も入れると結構なサイズの包みになってしまうかもしれません。
私がお客様に背を向けて梱包をしているとき、お客様はどなたかご友人の方とお会いしたようだった。
「あら、エリィ様ではありませんか。」
「ニクスさん!ニクスさんも化粧品を?」
「ええ、初めて買いに来たんです。お化粧って不思議ですね。」
「え?」
ご友人の方は驚いたようでした。それもそうでしょう。特にクロスベルは早熟な子供が多くてメイクを始めるのが早いのです。私は8歳のころに母親の化粧品を使って初めて化粧をしました。そんな私たちからすれば、いえ他の地域の人にとってもきっと、この年齢までお化粧をしたことがないというのは中々珍しいことだと思います。声には出しませんけれども。
「ああそうだ、エリィ様。これからお時間ございます?」
「え、ええ。非番ですので…」
「よろしければ、お化粧を教えていただけませんか?」
彼女は私にいくつかの色の口紅とアイシャドウを指定し、追加で包んでほしいと仰って、そしてご友人の方とお帰りになったのでした。
***
「うーん…難しいのですね……」
「最初は慣れないかもしれませんけれど、練習次第で上達しますよ。」
そんな声が、支援課ビルから聞こえてきた。今日は確かエリィが非番だったはずだ。誰か友人と話しているのかとも思ったが、この声には聞き覚えがある。ニクスさんだ。
「この声はエリィさんとニクスさんですね。」
「お?二人で遊ぶ約束でもしてたのかね。」
支援課ビルに彼女を呼ぶという話をしていたわけでもないから、もしかしたら偶然外出中にばったりと会ったのかもしれない。
そんな話をしながらビルのドアを開けると、一階のダイニングでは予想通り二人が楽しそうに話をしていた。テーブルに広げているのは…化粧品だろうか?
「皆、おかえりなさい。」
「お邪魔しております。」
そう挨拶をした彼女は珍しくベールを外している。
彼女は案外特徴的な顔のつくりをしていて、何より耳と角と瞳の色が常人とはかけ離れていた。
「―――ってえぇ!?」
「ニクスさん、その耳と角は…」
「おーニクスちゃん、相変わらずイカした角してるねぇ」
いやその褒め方もどうなんだ。
というか何で角が生えているんだ?もしかして付けてるのか?
「生まれつきですよ。触ります?」
「あ、じゃあ私触りたいです。」
支援課のメンバーは修羅場をいくつか潜り抜けてすっかりこういった驚くべきことにも動じなくなってしまった。エリィなんて随分度胸がついたようにも思える。
「コツコツしてる…思ったよりも柔らかいというか、軽いんですね。」
「肩がこらなくて助かります。」
ティオが彼女の角に触れると、その近くにある長くとがった耳がピコピコと揺れる。成程、彼女はこれを隠すためにベールをかぶっているのだ。
彼女に近付いたティオは、どうやら彼女の変化に気付いたようだった。
「あれ、ニクスさん、お化粧してます?」
「あはは…慣れていないもので少し失敗してしまいました。」
「でもその色、とってもいいと思います。」
瞼の下にマスカラを付けながらもにこやかに笑う彼女は化粧を楽しんでいるようだ。手の甲にはいくつかの色を試した跡がある。
よく見たらエリィの化粧もいつもと違った。なんて表現するのかわからないけど、なんか違う気がする。なんというか、そう。ぽてっとしてる。
「エリィも一緒に化粧をしたのか?」
「ええ、お手本にと思って。でもニクスさん、すっごい手が震えてしまっていたの。」
「(あ、ニクスさんの眉毛曲がってる)」
「(絶対口に出すなよ)」
言われなくてもそんな女性の化粧を悪く言うつもりなんてない、と思っていたのだが彼女は俺の視線で気付いてしまったのか照れたように前髪を抑えてしまった。
「えぇっと、その……もう一回練習します…」
「お、お絵描きみたいな感じで頑張りましょう!」
「(じとー…)」
「(言ってない!言ってないから!)」
ティオがじとっとした目線をやってくるが声に出してないからセーフだと思いたい。今のは、そう、いつでも観察してしまうという捜査官の癖だ。
それにしてもいつもジェイの母親のようにニコニコとしている彼女が照れたり、動じたりするのは珍しい。何やら自分は微笑ましいものを見ているような気分だ。
化粧を覚えたり、お洒落に目覚めたころの日曜学校の友達は確かあんな感じだった気がする。
「それにしても、どうしていきなりお化粧を?今まではしていませんでしたよね?」
「ああ、明々後日にパーティーに行くことになったので、それで。」
「それはまたいきなりですね…」
パーティー。
ニクスさんが参加すると言っていたのは黒月が企画した社交パーティーだ。
おそらくはこれから裏社会の社交場となるだろう。ルバーチェがいなくなったクロスベルの裏社会を完全に掌握するための彼らの最後の一手。
「それで、ツァオ様から預かっているものがあるのです。」
そう言うと彼女は化粧品で汚れていた手をティッシュで拭いてから、一枚のカードを取り出した。それは白地のカードに朱色と金色で龍が描かれた美しいカードだ。
裏にはシリアルナンバーが刻印されている。
「これは…」
「おいまさか…」
嫌な予感がする。
いくらツァオさんでもここまで大胆なことはしないだろう。そう思いたい。
「ツァオ様が、皆さまにもパーティーに参加してほしいと仰っていました。」
今度は歪まずに化粧を施した異形の女性は、俺にカードを持たせていつものようにゆっくりとほほ笑んでいた。
VOGUE JAPANの動画を見るのが好きです。