原初の火   作:sabisuke

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Q.Fate好き?
A.いっぱいしゅき…




31 迷い出た羊

 その宴は、盛況であった。

 

 歓楽街の一角にある誰かの屋敷がこの日限りは東方風の装飾を施し、多くの富んだ人を迎えた。彼らは貴石で身を飾り立て、真っ白な照明の光を受けて輝いている。

 硝子の器に薄い色の酒を注ぎ、水面を揺らしながら談笑する人々の足取りはまるでその背中に羽が生えているかのように軽やかであった。

 

 

 豪奢である。

 そして軽薄である。

 

 

 そんな夜であった。

 

 ありとあらゆる所に、白の胡蝶蘭が飾られていた。金色の龍を象った胸飾りを身に付けた青年にこれ以上なく似合う花だ。大きな花びらが美しく並び、そして丁寧に頭を垂れている。芳しい香りを辺りに振りまいて、人々にここが天上だと錯覚させるかのようだった。

 

 誰もが声を揃えて彼を称える。

 その言葉を受けた彼はまるで至上の人のように笑顔で衆生に手を伸ばす。

 

 皆が美しく笑っている。

 優しさと慈悲にあふれ、蘭の芳香が立ち込める素敵な夜会である。

 

 

 「ツァオさん、今夜はお招きいただきありがとうございます。」

 「ああ、ロイドさん!お待ちしていました!」

 

 今夜最も大きく祝福されている藍色の青年に、若者たちが声をかけた。彼らはともに夜を歓び、言葉を交わし、そして手を握り合う。

 喜ばしい友情である。共に苦難を乗り越えた民衆が手を取り合って喜ぶ姿は、いつの時代も芸術のテーマになってきたほど求められてきた。

 

 「…本当に、素敵な夜ですね。」

 「ええ。社員も私も少々張り切ってしまいましたよ。皆さんが来てくださると聞いてからは、特にね。」

 

 青年は今夜、一際美しく微笑んでいる。

 まるで誰かから笑い方を教わったかのように、今までとは違う種類の整った微笑みだ。それを目にした人々は、ああ竜がまたひとつ優美に強くなったのだと彼を畏れた。

 

 「どうぞ皆さん、今宵は楽しんでいかれてください。楽しい余興も用意しておりますので…。」

 

 人々は皆、竜に手を伸ばす。

 届かないと知りながらも空に浮かぶ竜を手のうちに引き寄せようと精いっぱいに空に手を伸ばしている。

 青年は今までこれらの手を疎ましく思ったことしかなかった。

 

 しかし彼は悦びを知ったのだ。

 彼らに空から手を伸ばしてやったときのあの期待に満ちた眼差し!

 そしてなお願い叶わぬと知ったときの彼らの絶望!

 

 それらは本当に能く若き竜の空虚な心を満たした。

 

 だから彼は慈しんでやることにしたのだ。

 地を這う虫のような衆生も、自らの心をほんの僅かながらも楽しませる有意義な存在であると知った彼は、人々にとって最早恐るべき何かだった。

 

 

 「―――なんかいつも以上に気味が悪いな。」

 「まだ胡散臭く笑ってくれた方が警戒できて助かるんですが…」

 「ああ、本当に……まるで()()のようだ。」

 

 

 勇敢な若人たちもまた、優美にほほ笑む青年を畏れた。彼らは青年の笑みがどこか歪であったことを知っている。そして青年が薄暗い道にしか生きられないことも知っていた。

 だから不自然にしか思えないのだ。

 この夜に、まぶしいまでの明かりを受けながら慈悲深い微笑みを浮かべ誰かと手を取り合う青年が。

 

 彼はまるで、解脱でもしたかのようだった。

 迷いも憂いも超越し、本当に空に飛びあがってしまった竜のようであった。

 

 彼は人々にまた一つ美しくなったと賞賛されて、こう語った。

 

 「ええ、善い出会いがあったのですよ。本当に、喜ばしい。」

 

 彼は教えを授かったのだという。

 美しい微笑みが如何に容易く人を狂わせ、人の心をかき乱すのか。

 口端を対称に釣り上げるというそれだけの行為がどれだけ人を救われたような気分に陥れるか。

 それを知った彼は、本当に能く、微笑みを使った。

 

 笑顔の使い方が上達した彼は、慈悲を知った災厄なのかもしれない。

 まるで竜が古い皮を一枚脱いだかのように、今夜の青年は洒脱で、荘厳で、清廉に見えた。

 

 

 

 その男がすべての客人にその美しい微笑みを見せたころ、壇上の照明がひときわ強くなる。照明は舞台の中央にある正方形の机を照らし出し、そして男たちがその机にのっそりと近寄った。

 

 静かに、三人の男が席に着いた。

 彼らは顔に刻んだ皺を深くし、何かを待っているようだった。

 

 「まさか…」

 「ああ、始まるんだろう。」

 

 余興だ、余興だと客人たちがわずかに沸き立つ。

 実は彼らのうち半分の人間はこれを見届けに来た者だった。彼らはあと一人の誰かを待った。机のもう一辺を埋めるその人間は、竜の威光を背負う人間である。

 

 これからこの机では、ある一つの都市が奪われ合おうとしている。

 東にある管理者をなくした犯罪都市。その街での大きな大きな権力に狙いを定め、三人の雀士がここにやってきたのである。

 勿論、竜もこれを求めた。なので竜は自身が最も強いと考える人間に席に着くように命じた。

 

 この勝負は、負けるべきではない。

 竜はそう思っていた。ならば竜はその者にそう告げるべきだったが、しかしそうは言わなかったのである。

 

 

 なぜ?

 決まっている。

 

 その者が勝てばそれでよし。

 その者が負ければ、その時はその者を甚振って己が楽しめばよいのだから!

 

『九龍は少し離れていますから手に入っても管理が大変ですし、勝ったらそれはそれで嬉しい、というくらいですよ。

 負けたら?それはそれは、愉しいですね。』

 

 竜の言葉である。

 一体何をどのようにして愉しもうというのか、この人間にとっては全く不明だったが、竜のことを俗物たる人間が考えたところで、彼は自分の思考をはるかに上回るのだから世話はない。

 

 その者は、ただ竜が言ったとおりに打とうと考えていた。

 

 

『ええ、ええ。勝敗なんてどちらでもいいのですよ。勝っても負けても、愉しみようがあるのです。私は私で愉しみますから、あなたはあなたでどうか楽しんでください。

―――きっとそれが、一番悦ばしいでしょう。』

 

 

 壇上の机に歩み寄る、女。

 その女は黒の旗袍を着て、頭髪と耳を黒の頭巾で隠している。

 彼の威光を象徴するような金の龍がその装束で飛んでいる。

 

 薄い体の女であった。

 手足が細長く、胸や腰も薄い。しかし貧しさとは無縁な微笑みを浮かべている。

 その笑みは、青年の微笑みとよく似ていた。

 

 だから人々にとって、その女は竜の眷属か何かに見えたのだ。

 

 

 「いやーよく似合っていますねえ」

 

 青年は喜んだ。

 これから舞台で起こるのは、全てが彼のための余興である。客人のためではないし、九龍を希求する羽虫のためではない。

 全ては青年を愉悦に浸らせるための遊興なのである。

 

 

 豪奢な夜だ。

 月がなくとも、夜の光が竜を照らしている。

 

 竜と呼ばれる青年にとって、これは何より悦ばしい饗宴である。

 

 

 

***

 

 

 人生を楽しんでいる人だと思う。

 ああまで上手く楽しめる人もいないだろう。

 

 そういう意味で、私は彼のことをよい人だと思った。

 為す事の善悪でなく、生き様の在り方として彼は正しかった。人間はそう生きるべきなのである。生まれ持った心がどんなに歪でも、どんなに暗い道を往く定めでも、楽しく満ち足りるために生きることはできるのだ。

 

 彼は確かに歪な心を持っているのだろう。空虚なのだろう。

 しかし、彼は実によく弁えた人だった。自身の心が飢餓を訴えるようなときにも決して善良な民衆を巻き込むことはしなかった。彼は正しく悪に生きている。

 私はそんな彼も決して排したくはない。彼も私が慈しむべき命である。

 

 

 この場で最も覚に近い男の、決して満たされない飢えを僅かばかりでも満たすために、私はこの夜に舞台へと上がった。

 

 

 自分に注がれる人々からの目線が定かでないほどにまぶしい照明が、雀卓を照らしている。これは遊興であるらしい。その割には皆怖い顔をしている。所詮は遊びなのだから、愉しめればよいと思うのだが。

 

 きっと自分のあずかり知らぬところで何か謀が為されているのだろうが、彼が気にするなというのなら、きっとそれは私の気にすることではないのだ。

 

 

 卓の四辺を囲んで、賽子を回す。

 そして順番に牌をつかみ取っていく。

 そうして手牌を自分の眼前に揃え、私たちは一人の青年のための余興を始めた。

 

 

 東家、刺青の男性。南家、長髪の男性。西家、禿頭の男性、北家、私。

 刺青を入れた男性の起家で対局開始。

 

 

 東一局0本場 ドラ伍萬。

 配牌、良。三向聴ドラ1。七対子が最も近いが二盃口も無理筋ではない。

 幸先がよすぎるくらいだ。

 

 (そういえばこの方たち、どんな実力なんだろう)

 

 思えば彼に何も聞かずに安請け合いしてしまった。また知人に怒られてしまうかもしれないが、そういう癖は中々抜けないものだ。せめて説教は容赦してもらおう。

 

 (心配かけないように勝ちたいけれど、愉しませたい)

 

 さてどうすべきか。

 単純明快である。

 

 

 珍しい役で和了すればよいのだ。

 あの青年が呆れて、つい笑いだしてしまうくらいに。

 

 

***

 

 

 「自摸。立直面清一気通貫。裏ドラが乗りました。」

 

 「呪文ですか?」

 「まるで意味が分からないわ……」

 

 なんとなく他三人の顔色から察するに、この局面はニクスさんが有利なのでしょう。意味はよくわからないが、あの呪文を唱えた人はそれ以外の人から点数がもらえる、みたいです。

 

 今のところニクスさんは二回呪文を唱えています。

 

 「ランディ、わかるか?」

 「ニクスちゃんが激強ってのはわかる。ってかそれしかわかんねぇわ。」

 

 支援課メンバーの中で一番ギャンブルに詳しいランディさんでもそんな感じなのだから、おそらく私たちの予想のはるか上を往く勝負が繰り広げられているのかもしれません。

 

 「皆さん、解説が必要でしたら不肖ながら務めさせていただきましょうか?」

 「ツァオさん。会の主役なのにいいんですか?」

 「ニクスさんが思っていたよりも強すぎて誰も私のことなど見ていません。本当にほれぼれするほどの打ち筋です。」

 「ニクスちゃん、そんなに強いのか?」

 「大金を積んででも専属雀士として雇いたいくらいですよ。」

 

 今夜のツァオさんは一段と胡散臭いです。

 これまでの胡散臭い笑顔ではなく、ニクスさんがいつも浮かべているような微笑みをツァオさんがやると、なぜかもっと不気味に思えます。

 

 「(胡散臭いです)」

 「(とってもわかるわ)」

 

 ツァオさんは言葉にしようもないほどのやり手で、ギリギリの招待に慌てた私たちのドレスも用意してくださいました。まるで私たちが結局最後は招待に応じることを予期していたみたいです。

 

 「麻雀は、ポーカーのように柄の違う牌を交換していって役を作るテーブルゲームです。ポーカーと違って牌の個数が多いですから、戦略性も高まります。

 一つの局面で一番早くに役を作った人が点数をもらいます。そしていくつかの局面の後、一番点数の高い人が勝ち、というゲームです。」

 「点数ってあの赤い数字ですか?」

 

 液晶に表示されている数字は点数という割にはやけに桁が大きいです。ニクスさんはなんと今3万点以上も集めています。

 

 「麻雀の役の点数はピンキリでしてね、手持ちの点数が2万点と割合高いんです。ニクスさんは結構大きな手で和了りますから、集める点数も自然と多くなります。」

 「呪文が長いほど点数も高いんですね。」

 

 アーツだってそうです。詠唱が長いほど強力で威力が高いことが一般的で、そもそも組むことが困難になってきます。高いアーツ適性と強力で高価なクオーツが必要になります。

 

 「ええ、その認識でいいでしょう。

 この様子だとオーラスは役満和了ですかね。」

 「役満?」

 「一番強い役ですよ。ポーカーだとロイヤルストレートフラッシュに相当します。

 麻雀だとそういった役が複数ありまして…ラウ。彼女はどれで和了るでしょうね?」

 

 何だかツァオさんの楽しみ方が本来の趣旨から離れようとしているように聞こえるのは気のせいではないでしょう。ニクスさんはどうやら強い役を作ることを楽しんでいるようで、その隙に他の人が上がったりもしていますが、ニクスさんはなぜか全然点数が減りません。

 

 「点数が3人から減るのと、1人から減るので何か違いはあるんですか?」

 「誰のものでもない山の牌を引いて和了ると3人から、誰かが捨てた牌を奪って和了ると1人から点を奪えます。役を作りながらも交換して捨てる牌が誰かの和了牌にならないように気をつける、というのが基本戦略です。」

 「いくら気をつけても、その一人が滅茶苦茶に強運で山場から引いた牌だけで役を作ったらそれは防ぎようなくないか?」

 「ええ、強運での和了は不可避に近い。だから点数を奪われないためにはそれよりも早く和了るしかないのですよ。」

 「そんな無茶な…」

 

 ロイドさんが呆れる通り、人の運には波があります。良い時もあり悪い時もあり、そういったものに弄ばれるのが普通です。

 でもどうしてニクスさんは有利なまま局面を進められるのでしょう?

 

 「ニクスさんはそうしていますよ?他の御三方はイカサマを多用していますがそれよりも早く彼女が和了しています。」

 

 今、ツァオさんがすごいことを言ったような気がするんですが。

 

 「えぇっ!?イカサマしてるってわかってるんなら止めて下さいよ!」

 「いやいや、これ最初から何でもアリのゲームなんです。勝負を止めたら契約違反になっちゃいます。ニクスさんにもお願いするときにイカサマをされるだろうとは言ってありますよ。けれど彼女はそれでも受けて下さったんです。

 いやぁ本当に良い友人に恵まれました!」

 

 ツァオさんの笑顔がシャンデリア以上に輝いています。ロイドさん以上のお人よしに出会えて彼は浮かれているのかもしれません。

 

 でも、ただの余興でイカサマまでするなんて、ただごとじゃない気がします。

 他の3人もそのことに思い至ったみたいです。

 

 

 「なぁ、これ負けたらどうなるんだ?」

 「さぁ?いったいどうなってしまうんでしょうね?他の御三方は負けると上司に怒られてしまうでしょうけれど、私はニクスさんが負けても怒る気はありませんよ。勝敗は関係ないと言ったのは私ですし、私と彼女は友人なのですから。」

 

 やはり、何かあるらしいです。それもツァオさんがこれほど面白くてたまらないという顔をするほどの、何かが。

 ニクスさんはこの人をいい人だと評したそうですが、人を見るセンスがないと思います。

 

 「じゃあ勝ったら?」

 「―――フフ、どうなってしまうのでしょうねえ!」

 

 機嫌が、機嫌がいい。ツァオさんの機嫌がストップ高です。

 もはや今にも踊りだしそうなくらいにぐちゃぐちゃに歪んだ彼の心象が見えてしまうほどに、彼は楽しそうでした。真っ暗でうつろなツァオさんの精神が、今夜は活き活きとしています。

 

 そしてツァオさんが悦に浸っているとき、勝負を見ている人たちが突然ざわざわとし始めました。

 

 「ロン!大三元だ!」

 

 そう宣言したのは長髪の男性です。どうやらよほど強い役であるらしく、ニクスさんの点数がゴリゴリ減っていきます。

 

 「ああ、役満が出ましたよ。思ったより早かったですね。もう配牌を弄り始めましたか。」

 

 自分の代打であるはずのニクスさんが一気に不利になったというのにツァオさんの涼しい顔は崩れません。いや少しいつもの歪んだ笑顔になりかけてはいますが、楽しそうであることに変わりはありません。

 

 「ほ、本当に負けても何もないんだろうな!?」

 「ええ、()()ニクスさんに何もしませんよ。」

 

 『他の人がどうするか知ったことではないけれど』、そう言っているように聞こえました。

 

 「アンタ……」

 「ロイドさん、今日の会はとても楽しいでしょう?

 警察や遊撃士の皆さんもお招きしましたし、記者や商工会の方もお呼びしました。私はとても楽しみでとってもとっても、張り切ってしまったんです。」

 

 そう、このパーティー自体はとてもクリーンでした。何の犯罪行為もなく、オープンで、後ろ暗い点と言えば主催者がマフィアであるくらいです。だから、摘発ができないのです。

 あの怪しい麻雀も結局はただのパフォーマンスですから、私たちが何を言ってもホコリは出てきません。

 

 「それに、私が見込んだ雀士はそう簡単に負けませんからそう心配なさらないでください。」

 

 ツァオさんは、ニクスさんの勝利を心から信じているようでした。もう今にも桁が一つ減ってしまいそうな点数しかないのに、疑う余地などないとでも言いたげです。

 

 「…どうして、彼女をそこまで信じられるんですか?」

 

 運なんて、女神のみが知っているものでしかないのに。

 私の疑問に、ツァオさんは笑顔で答えてくれました。

 

 いつものあの、とっても胡散臭い歪な笑顔で。

 

 「彼女は、海と河に愛されています。()()を操る恐ろしい人なのですよ。」

 

 私には、ツァオさんの言葉の意味が分かりませんでした。

 けれどこの時、私は舞台の上で呪文を唱えたニクスさんが、初めて『恐ろしいもの』に見えたのです。

 

 彼女はいつもの優しい微笑みを浮かべて、まるで牌をいとおしく思っているかのように掬い上げていました。

 あんなにやさしい笑顔で、丁寧な手つきで牌に触れているのにどうしようもなく怖かった。

 

 

 「自摸、立直一発面前断么九海底、二盃口。ドラ裏ドラです。」

 

 

 

***

 

 まさかあの捨て牌で聴牌していたとは。油断し過ぎただろうか。

 

 途中で調子に乗り過ぎて役満に振り込んでしまったけれど、一応ツァオ様の面子は崩さずに済んだはずだ。勝負では勝ったし、どうにかこうにかできる範囲で高目にとった。

 何分理想の高い人であるから、満足してくれたかはわからないが退屈を慰めるくらいにはなっただろう。

 

 舞台から降りると、楽しそうなツァオ様が声をかけて下さった。

 

 「ニクスさん、お疲れさまでした。」

 「ご満足いただけました?最後役満に乗り切らなくてちょっと残念です。」

 「親の3倍満で見事2人くらい吹っ飛ばしていたじゃありませんか。お見事でしたよ。」

 

 あの人があの時親じゃなくて本当に助かった。あの人が親だったら飛んでいたのは私だ。最後も染まり切らず、捲れないかと思ってしまった。

 久しぶりで点数計算を少し忘れかけていたために杞憂に終わったのでよかったけれど、心配をかけてしまったかもしれない。

 

 「途中危なくなってしまって、冷や冷やさせてしまいましたね。」

 「いえいえ、ニクスさんならきっと最後は勝つと信じていました。」

 

 ありがたい話だ。ただ単に運がいいだけだというのに、ツァオ様は私の麻雀の腕を随分高く買ってくださっている。もしかしたら麻雀が大好きなのかもしれない。

 

 「ツァオ様とも打ってみたいものですね。」

 「まさか。あんな異能じみた流れに巻き込まれるだなんて、東場を生き残れるかどうか…」

 「ご謙遜をなさらないでください。」

 

 間違いなくこの人は強い。そんな気がする。

 今回だって、きっと観戦がしたいからツァオ様は参加なさらなかっただけなのだろう。

 

 

 「ニクスさん!」

 

 ツァオ様と談笑しているところに駆け寄ってきてくださったのは支援課の皆さんだ。舞台の上からでは照明で目がくらんでよく見えなかったけれど、皆さん本当に盛装が似合っていらっしゃる。

 

 「皆さま、こんばんは。お会いできてうれしいです。」

 「ニクスちゃん、あんたの無理無茶を俺は舐めてたよ…」

 「えっと、その…すごかったです。」

 

 皆さんが先ほどの対局を誉めて下さるので、お話をしようと思っているとツァオ様はどうやら他のお客様とお話に行くようで、集まりから一歩引いた。

 

 「ツァオ様…本日はありがとうございました。」

 「いえ、こちらこそ。ああ、そうだ。言うのが遅くなってしまいましたけれど」

 

 彼は飛び切り無邪気な笑顔を浮かべた。

 九龍で彼と知り合ってからまだそれほど経っていないが、彼のその少年のような笑顔を私は初めて目にした。

 

 

 「そのお姿、よくお似合いですよ。やはりあなたは素晴らしい方だ。」

 

 

 それでは皆さま、よい夜を。

 

 彼はそう言い残して群衆の中へと消えていく。私は彼の歩く姿を目で追っていたけれど、やがてたくさんの蘭の花が彼の背を隠した。彼の足取りは優美で、まるで空に浮かぶ一匹の竜のようであった。

 

 

 

***

 

 

 

 

 苦しい。

 痛い。

 

 体が、しびれている。

 

 あのきらびやかな竜の宴から暗くて湿った路地に俺は連れられてきてしまった。そして今も上司の怒りを体に受けている。

 薬、暴力、痛み、しびれ…そういったものが俺の体をやがてむしばんでいくが、俺はそれに抵抗することができない。

 

 許されていない。

 許されない敗北を喫してしまった自分には抵抗する権利なんてない。

 

 きっと今頃ほかの二人も同じような目にあっているだろう。俺たち3人は、皆その上司も含めて崖っぷちだった。ツァオを沈めるにはクロスベルに比較的近い九龍を是が非でも抑える必要があったのに、それに失敗したのだ。

 

 いたい

 

 いたい

 

 やめてくれと叫びたい。けれどそんな意味のある言葉なんて出てこない。いくつかの骨が折れて、肉がちぎれて、うめき声が漏れるばかりだ。

 ただ落ちぶれていく老いぼれの八つ当たりを、その部下である俺は受け止めなければいけなかった。

 

 どうして俺が、

 どうしてこんな目にあわないといけない?

 

 当然の疑問はしかし発することが許されない。

 俺はここで上司の気がまぎれるまで、ひたすら拳士たちに甚振られなければならないのだ。

 

 

 みしり

 

みしり   ぎちゅ 

 

   ぐちゃ

 

 

 ああ、今、何がなくなったんだ?

 

 せめて、せめて郷里の家族のところに帰れるように、心は残しておいてくれないか。出来れば目や舌も。あれ、それらは今残っているのか?

 

 

 わからない

 

 なにも、わからない

 

 

 痛くて、暗くて、苦しい。

 華やかな舞台の裏の、血みどろの一部に俺はなろうとしている。

 

 ああ、だれか。

 だれか、いないか。

 

 

 このままでは俺は、おれは欠けてなくなってしまいそうだ。

 このうすぐらい場所で、たおれていたくなんかないんだ。

 

 

 

 

 「もし、そこの方。」

 

 女か?

 誰だ?

 

 

 「ああ、痛いのですね。でも大丈夫ですよ。もう怖くありません。」

 

 たすけてくれるか?

 おれを、ここからつれだしてくれるか?

 

 

 「ええ、ええ。今お助けしますよ。さあ、手に捕まって。」

 

 

 声に導かれるままに、手をどこかに伸ばす。

 俺の硬い手に触れたのは薄い手だった。柔らくて、少し冷たい女の肌だ。

 

 女、おんな。

 抱きしめてくれ、包んでくれ。最後に女を抱いてから死にたい。

 

 

 「あなたはこれからも生きるのですよ。大丈夫、私がついています。」

 

 もう目の前が、グラグラとしてあまり見えないけれど、薄暗い中に月の色の何かがある。ぼやけて二つに見えるけれど、きっと今夜は満月だったのだろう。

 おれは目の前のやわらかくてひんやりと冷たいなにかに捕まった。すがるように、抱き寄せるように、必死になってそれに腕を回した。

 

 薄い手は、そんなのろのろとした俺の頭をなでている。

 

 

 「どうぞ、お好きなように。痛かったでしょう。辛かったでしょう。」

 

 こわかったのですね

 

 

 ああ、そうだ

 おれはしにたくなんてない

 

 でもいまならしんでもいいかもしれない

 

 

 そう思うくらい、優しい手だった。

 外にちょっぴり飛び出た脳もとろけて、とけて、どろどろになってしまいそうな優しい声は、この夜、ぐちゃぐちゃな俺を生ぬるい闇のような沼から掬い上げてくれたのだ。

 

 かみさま?

 

 「いいえ、ちがいます。」

 

 ちがう?

 

 「けれどあなたを助けます。」

 

 かみさま。

 

 「いいえ、違うのですよ。」

 

 いたい  たすけてください

    くるしいです

 

 たすけて

 

 

 「はい、あなたの望みのままに」

 




麻雀は結構なにわかなので変なところがあったらごめんなさい…

ツァオさんはニクスの恐ろしさを正しく認識してくれそうですね。

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