原初の火   作:sabisuke

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クロスベルの悪人と言えばあの人



33 高価な真珠

『その国は、栄えていた。

 緑豊かな丘に、一本の木があった。

 

 その木には実の詰まった大ぶりな桃が生るという。しかし丘の天辺にあるために生った桃は全て鳥に食べられてしまうのだそうだ。

 

 それを聞いた旅人は、非常に残念に思った。

 あの若々しい緑の葉がついた木にはきっと甘い桃が生るだろう。だが誰もその桃の味を知らないのだという。

 

 旅人は、桃を食べようとした。

 桃が生るまでの一年間の間、その木の下で暮らしたのだ。

 人々はこれを笑い、何て強欲な奴だろうと彼を評した。しかしその中に、桃の味を知りたいと思った二人の男がいた。

 

 一人の男は非常に柄の長い槍を手足のように使いこなし、一人の男は珠算に優れた学者であった。旅人とこの二人は、ともに鳥から桃を守ることにした。

 鳥から、嵐から桃を守る術を学者が考え、二人がそれを試した。

 槍の名手が空高く飛ぶ鳥を落とし、旅人は若い桃の実に袋をかけた。

 

 そして季節が一巡りすると、木には非常に美しく大きな桃が生った。

 しかし桃は一つしか守れなかった。それ以外の桃は風に落とされ、腐ってしまったのである。

 

 旅人は困った。誰がこの桃を食べるべきであるかと。

 三人は皆一個の桃が食べたかった。

 こんなにも美しい桃はさぞ甘いだろう。さぞ瑞々しいだろう。

 

 槍の名手は桃を手で割ろうと言った。しかしそれは物足りぬ。

 学者は桃の種を丘の麓に植えて一年待とうと言った。しかしそれは待ちきれない。

 

 そこに狩人が通りかかった。

 狩人が困り果てた三人の若者に何を思い悩んでいるのかと聞き、旅人が事情を説明すると、狩人はこう言った。

 自分に一切れ分けてくれるならば自分の鉈で桃を割ってやろう。

 

 それは手で割るよりも平等で、芽を出すよりも早いだろう。

 旅人は頷き、狩人に割らせるために桃を渡した。

 しかし狩人は桃を持って丘を駆け下り、逃げてしまった。

 桃は盗まれてしまったのである。

 

 ああ、なぜ桃を渡してしまったのかと悲嘆にくれた三人の若者はともに酒を飲み、雨に打たれ、一晩行いを悔いた。風が吹き、生ぬるい夜で、やがて夜が明け夏の清涼な光が顔を出しても、三人は桃を失ったことを悲しんだ。

 

 旅人が言葉も出せず俯くと、丘にいくつかの芽が生えていることに気付いた。腐り落ちた桃の種が地に埋まり、芽を出したのである。

 旅人は二人とともにこれを育てた。

 

 やがて木々はお互いに枝を絡ませ合って大きな生垣になった。桃の実が生るようになるまで長い時間を要したが、育った何本もの木は三人が共に休み、語らう木陰を作り出した。

 

 この三人は、これ以降彼らの人生において決してほどけることのない友情で結ばれることになる。

 乱世の影が忍び寄る夏に、桃の木の木陰で身を寄せ合う三人の若者。彼らはこの時明日も知らない。ただ夏の風を浴びて共に語らい、戯れる友であった。』

 

 

 はて。

 俺はこんなことをしただろうか。

 

 二人の友と乱世を共に駆け抜けようという誓いは確かに交わした。それは思い出したが果たして奴らと桃を育てたことがあっただろうか。

 そもそも、二人の友はたった一人の狩人に後れを取るような奴等ではない。軍師が見抜き、勇士が槍で突く。いつだって困ったときはその戦法でどんな軍勢の守りも突破してきたのだ。

 あの当時、確かに俺は強くなかったが、あの二人は非常に強かった。賢しく、強く、野心をたぎらせた天下無双の男たちだった。

 

 まだ顔も思い出せないが、彼らは俺の誇るべき友だった。

 

 「あの神官、適当書いてんじゃねぇだろうな…」

 

 ありうる。

 あの神官は善ではあったがいつだって物事をはぐらかすのが上手かった。いつだって最善の策で戦乱に惑う民を導く癖に、あの神官は……

 

 『友よ、あの神官を外に出してはいけません。あれは災いそのもの。外に出れば徒に民の心を惑わせるでしょう。』

 

 軍師は、確かあの神官をそう評したのではなかったか。

 なぜだ。なぜだ。生まれてばかりの幼子に、国を見せてやらず何とするのだ。俺はそう聞いた。それであの軍師は何と答えた?

 

 『――――』

 

 ああ、くそ。また思い出せない。

 記憶がかなり戻ってきているとはいえ、たったの半分だ。俺の長い闘いの生のうち、たったそれだけ。

 だからこうしてあいつの本をわざわざ買ってまで読んでやっているというのに、あの阿呆はマトモなことを書いていない!

 

 俺はこんな旅人ではなかったし、軍師はもっと狡猾な狐だった。勇士の槍は鳥どころではなく雲をも貫いた!

 ……とはいえ、あの神官は生の殆どを神殿の中で過ごした。きっとこの物語も俺や軍師の語りを元に書いているのだろう。とすると、あまり正確さは見込めない、か。

 

 「せめて俺が覚えているところを書けよ……」

 

 この物語、いい加減である上に短すぎる。

 こっちは続編がいつ出るかと待っているというのにあの神官はこれで完結させた気でいるのか?だからお前は阿呆なんだ!忠義者のくせに、どこか抜けていて人の心配を煽る。

 人の心がないとまで言われた軍師でさえあの神官のことを気にかけていたくらいだ。いてもいなくても人を不安にさせる。いつだって手元に置いて働かせていないと気が気でなくなるような存在。

 

 誰より幼く、未熟で、好奇心旺盛な子供。

 打ち出す政策は誰にも考えつかないものだったが、あれは本当に幼かった。

 

 『あなたはだれですか?』

 

 いつだってあの生まれ落ちた時のまま。人を疑わない月色の瞳をくるくるとまるめて耳を揺らし、俺に話をねだって、勝手にフラフラと……

 

 『わかりました!とも、ですね!ぶんけんに、きさいがあります!』

 

 「……んでこんなことを俺は思い出してるんだ。」

 

 本当に俺は記憶を探るのが下手だ。

 

 「あら、読書中でした?」

 「―――≪根源≫か。」

 

 黄昏の後に一回だけムカついて燃やしてやったがそんなことで懲りる女ではなかったようだ。わざわざ自分のところに来るなどいったい何の用だというのか。

 

 「アンタがわざわざ来るなんて、何だ?盟主直々の伝言か?」

 「そう邪険にしないでください。今日は挨拶に来たのですよ。」

 「挨拶ゥ?」

 

 今更?

 不躾極まりないこの下種が?

 

 「ええ、ほら。挨拶なさい。」

 

 そう言ってマリアベルは自身の背後から何かを引っ張ってきた。人間だ。身長はマリアベルより少し低い程度。派手な白のドレスを着た青白い肌の女。四肢は細く、スカートのふくらみもやや物足りない。少年と少女のミックス、といったところか。

 

 マリアベルの新しい部下かと思ったがそいつの顔を見て俺は思わず言葉を失った。

 耳の形が違う。人間のものではない。

 あの尖った耳は、そう。

 

 

 「――――」

 「よくできているでしょう?マイスターにかなり無茶を言いましたのよ?」

 

 

 人形、か。

 確かにあれは白い服を着ない。肌を出さない。加えて角もない。

 さすがにそこは再現できなかったのか、この女の意向なのか。

 

 「悪趣味だな」

 

 人形遊びで誰かをからかうとは前任者と丸被りだ。詰まらないことこの上ない。

 こんな面白くもない戯れは、すぐに燃やして灰にするのが一番いい。

 

 「あら、燃やさない方がいいですわよ?せっかく“本物”を使っているんですから。」

 「んだと……」

 

 本物。

 人形に、本物を使うとは。つまり。

 

 「()()だ?()()を奪った?」

 「どこでしょう?私もこの子のことは気に入っていますから燃やされたくありませんの。」

 

 人形はマリアベルにしなだれかかった。まるで恋人にでもするかのような行いだが、吐き気がする。顔も普通の人形に比べて作りこんだのか、人形が吐き出した息はどこか熱っぽい。今にも氷を溶かしてしまいそうだ。

 

 マリアベルの手がむき出しになった人形の背中をなでる。

 それで人形がくすぐったそうに目を細めた。

 “本物”と全く同じの月色の目だ。

 

 ああ、クソ。気分が悪い。

 人形からパーツを抜き取ってあいつに“本物”を返したところでどうせ機能は元通りにならない。いっそ全部燃やしてしまうべきか。

 

 「……殺していないだろうな?」

 「ええ。そこまでしたらあなたを怒らせてしまいますもの。」

 

 俺は容赦なくマリアベルを燃やした。

 拡散するエネルギー。揺らめくプラズマ。あまりの熱量に周囲の気温が3度ほど上がる。

 

 煙で視界が不明瞭になったが、あの感触は当たった。手ごたえがあった。人間に耐えられる火力でもないだろう。

 

 

 煙が晴れる。

 あたりにちくりと鼻を刺すような異臭が立ち込めた。

 

 煙の向こうにいたのは、その体をぼろぼろに焦がして虚ろな中身を晒した人形だった。笑っているとも悲しんでいるともつかない顔がこちらを見ている。月色の瞳が俺を射抜いている。

 

 「ニクス、いい子ね。あなたのおかげで服を焦がさずに済みました。」

 「―――もう満足しただろ。帰れ。」

 

 人を散々からかって、あれの尊厳まで奪って。

 もう十分だろう。俺をからかうために、あの神官が体の一部を失う必要がどこにあった?あれをなぜ巻き込んだ?

 

 叫んで問いただしてやりたいが、それをしてしまえばこいつをさらに喜ばせるだけだ。ああ、抑えろ。炎を。怒りを。

 

 「まぁ、野蛮な人。言われずとも挨拶も済んだことですし帰ります。

 ニクス、あれを彼に渡しておきなさい。」

 

 そう言ってマリアベルはどこかへ去っていった。

 残されたのは俺と、一体の中破した人形。

 

 人形はマリアベルの指示通り、俺に何かを渡すために近付いてくる。人形が一歩歩み寄る度にその精巧さが俺の目に晒された。

 肌も、手の薄さも、目の色も、口の小ささも、何もかもすべてそっくりそのままだ。あの阿呆にそっくりそのままの人形が、体を焦がして、肌を晒して、それでも無表情のままただ俺に歩み寄ってくる。

 

 人形は手に封筒を持っていた。少し分厚くて、中に何かが入っているとわかる。

 

 「……。」

 

 封筒と、人形を交互に見た。

 沈黙だけが場を支配するなかで俺がどれだけ観察しても、阿呆との違いは見つからない。すべてが本物そのものだった。

 

 自分にそんな資格はないとわかっていても、これ以上見ていると謝ってしまいそうだ。人形を燃やしたことではなく、もっと前のこと。

 俺がどうして謝りたいかも思い出せないようなよくわからん何かで、的外れなことを言いそうになる。

 

 (―――俺は何であれに考えを乱されなくちゃいけないんだ)

 「ハァ……」

 

 ため息が漏れる。

 人形は何も言わず、帰っていった。

 

 「とんだ厄ネタだな」

 

 独り言ちて封筒を開ける。どうせろくなものは入っていない。ならば早めに確かめて早目に処分するのみだ。

 

 武骨な茶封筒の中に入っていたのは、複数枚の写真だった。

 一連の考えを考えるとあの神官の写真だろう。手のひらサイズの用紙を裏返す。

 

 「―――あいつマジで何やってんだ?」

 

 俺は4枚の写真を確認してすぐに灰に変えた。

 わかってはいたが、ろくなものがない。ゴミの方がまだましだ。

 

 そこに映っていたのは、チャイナドレスを着て白蘭竜にほほ笑む姿。なんかよくわからんガキと買い物してる姿。よくわからん男たちに拝まれてる姿。そして下着姿で寝ている姿。

 

 どれもよく知ったあの顔をしていて、やはり角以外はあの人形にそっくりだった。

 それ以外であの人形と違うところがあるとすれば、本物には体中に無数の傷跡があったこと、だろうか。

 

 

 というか。

 

 「『サービスショットですわ』じゃねーんだよクソが…」

 

 あの外道マジで次は燃やす。

 

 

 

***

 

 

 

 「――――、――、…。」

 

 1010010011101111101001001011111110100100101101111010010011001111101001001100101110100100101011111010010010111001縺�繧鯉シ� A、10100100110100101010010011001000101000011010000110100100101000101010010010100100

 

    わ  

   わ  たし は

 

 System Nix かみ おう たみ

 

 

 「――――ぅ、う…」

 【Min、Sde3uDA、xni kighh! DDk,ch98kmo?】

 

Translate. Now Install……15%

 

 【Dai, K ? K ko ! T,34…】

48%...56%...

 

 【よ、 きこ、?】

 「――――う、うあぁ、あ」

 

 78%…

 

【きこえてIるか だいJおうBか】

 「d、だーじ、だーじーふ、ぶ」

 

 85%…

 

 【ここはあんぜんだ ゆっくりするといー】

 「あー、が。あーと、あーがとごz、す」

 

 89%… 92%… 99%…… 99%……

 

  99%……

 

 「ありがと、ござーます」

 「よい ゆっくりやすめ」

 

 99%………

 

 Recommendation : Shut Down (temporary)

Loading : Repair Program

 

 System: N.i.x Now Setting…

 

 

 

***

 

 

 「…まったく、あの女は何を考えているのだ!」

 

 人が丹精込めて作った人形に勝手に手を加えたかと思えば、今度は生体の器官を組み込んだ人形を作れとほざく。

 馬鹿にするのもいい加減にしろ。あれは職人を何だと思っているのか。

 外道。下種。

 

 なぜ、なぜ罪もない一般人を巻き込んだ?

 この女性が何をしたと言う?

 

 ただ姿が人と少し違うだけで、あのようなことをされる謂れなどどこにもない。本当に、本当に蛇などろくなものではない!

 

 「―――いかん。彼女が目を覚ます前に作らねば。」

 

 あの女、人形の使い方もなっていなければ人間への触れ方もわかっていない。あの女性は随分と憔悴していたようだった。あの様子では目を覚ますまでにしばらくかかるだろう。先ほど一瞬意識を取り戻したがほとんど喋れていなかった。

 

 

 ある夜、突然マリアベル・クロイスが工房の前に現れた。門前払いをしようとしたが、あの女は一人の女性を人質に取っていた。『今からドールの調整を行わないとこの女性がどうなるかわからない』その言葉を無視できず、わしは等身大のドールを作ることになった。

 

 幸いなことに元となる骨格と皮膚のストックがあったので、あとは細かいパーツを調整するだけでよかった。しかしあの女は、『この眼球を入れろ』と人間の眼球を差し出してきたのだ。

 あの女が人質に取っていた女性の右目からは血が流れており、眼球のふくらみがなかったことからその女性の眼球であることはすぐに分かった。

 

 あの女は素手で無理やり引き抜いたのか、その眼球には眼筋の欠片や神経が付着していて、呆れて声も出なかった。

 両目の色は同じにしろだとか、皮膚は青白くしろだとか、耳の形が気に入らないだとか、散々注文を付けるだけつけて出ていったのだ。ふざけるな。

 女性は命に別状はないが、眼球を引き抜かれたショックからか随分と錯乱していた。

 

 しかしあの女性は、錯乱し言葉を失いながらも、笑っていた。

 体には多くの暴行を受けた痕跡があり、これまでの人生での苦労が窺えたがそれでも微笑んでいたのだ。

 

 あの女性を見ているとレンを思い出す。

 彼女は辛いものから自分の心を守るために笑っているわけではなかろうが、だがどことなく似たものがあるのだ。

 聡明なまなざしの奥にある純粋さ。

 無垢さの裏に隠れた恐ろしさ。残酷なまでの何かが、彼女たちにはある。

 

 彼女も優しさと愛を知りかけている生き物、なのだろう。

 今まさに入り口に立っているのだ。彼女はこれから恐怖や不安を乗り越えてまさに一歩を踏み出そうとしている。

 

 

 それを、あの女はなんということをしてくれているのだろう。

 

 

 キィ……

 

 「あの、 ありがとう ごじあました」

 「もうよいのか?まだ怪我の痛みが引いていないだろう。」

 

 「だーじょーぶ、れす。あまり、いたいないのです。」

 「……そうか。何の詫びにもなりはせんが、せめてこれを付けていくがいい。」

 

 わしは彼女に先ほどまで調整をしていた球体を手渡した。

 

 「 ??」

 「ドールアイだ。極小の導力チップを埋め込んでいるから眼筋の微細な生体シグナルを感知して普通の眼球と同じように動く。」

 「???」

 

 まだ女性は混乱から戻り切っていないのか、残った左目を丸く開いてよくわからないと言った顔をした。

 

 「――こちらに」

 

 女性に着席を促すと彼女はとてとてと歩いてチョコンと椅子に座った。あの女が操る人形よりも無垢で、純粋で、幼い。いっそ命を得た人形であるかのようだった。

 

 「…痛くなったら言いなさい。」

 「???」

 

 義眼をはめ込む作業は、決して無痛ではない。患者に対して大きな負担を強いることになる。義眼を入れる前に義眼床手術をして義眼が装着できるように準備せねばならないし、義眼を入れてからも定期的なメンテナンスが必要になる。

 

 眼球がすでにないとはいえ、眼窩に義眼を入れるというのは本人にとって強い不快感を伴うだろうに、彼女は微動だにしなかった。ただ、ずっと微笑んでいる。

 

 「よし、もういい。」

 「あーがと、ございましゅ」

 

 彼女が私を見上げるというその動きにも義眼は早速対応し始めたようだった。急ごしらえとはいえ、よほど観察されなければバレることもないだろう。

 

 「明日、また来なさい。本格的に処置をする。」

 「はい。どくとる。」

 「わしはマイスター・ヨルグ・ローゼンベルグ。医者ではない。」

 「まいすたぁ。しょくにんさんですか?」

 「そうだ。おぬしは……」

 

 そういえば名前も住所も知らない。

 あの女はマクバーンの知己であると言っていたが、マクバーンも知り合いがこんなことになったと知っては気が気でないだろう。

 

 「N.i.x. にくす、です。」

 「ニクス。おぬし、マクバーンの知人というのは本当か?」

 「めあ?めあ。きみで、とも、です。だいじなひと。」

 

 「……そうか。」

 

 マクバーンは最近少し変わった。非常に強大な力を持つ割に礼儀正しく、以前も執行者の中では弁えたほうだと思っていたが、ある時を境に随分大人しくなった。以前会った時など随分悟った目をするようになったと思ったものだ。

 

 何か、あの男にもあるのかもしれん。

 知人であるならば一報を入れてやった方がいいだろう。

 

 「まだ朝まで時間がある。ゆっくり寝るといい。」

 「わたしは、ねむくならないのです。おきになさーないでくだしゃい。」

 「強がりはまともに舌を回せるようになってから言え。」

 「あぅ」

 

 

 恨むぞ、マクバーン。

 なぜこの女性を世に放りだしたのか。どう考えても社会で生きていけるようには見えん。

 

 わしの戸惑いを知ったことかと言わんばかりに彼女は、微笑んでいた。ただ背筋を伸ばして品よく椅子に座り、わしのことを見つめていた。

 本当に、人形めいた女性だ。

 

 

 

***

 

 

 ニクスはある日、夜になっても帰ってこなかった。

 あいつも女だしそういうこともあるよな、なんて思ったけれど朝になっても帰ってこなかった。おかしいなとは思って、昼になっても帰ってこなかったらニクスとよく話してるサツの連中に相談しようと思ってたら、あの女はひょっこり宿に帰ってきた。

 

 「た、ただいまもどりました……」

 「……別にいいけどさ。くたばるならくたばる前に連絡入れてね。」

 

 ニクスはなんだかやけに申し訳なさそうにしていて、僕がこれまで見てきた夜の女どもとは様子が違った。どうやら男と遊んでいたわけではないようだった。

 

 「ごめんなさい……」

 「だからいいって。そんなことより勉強。僕進路決めたから。」

 

 そう。それどころではない。この女は帰ってきたならそれでいいのだ。

 僕は将来どうするか決めた。この女からもらった金を何に使うかを決めた。

 

 「え?どこにいくのです?」

 「医科大。」

 

 僕は医者になる。

 もう、母親を亡くす子どもがいなくなるように。辺境の病院がない地域で苦しんでいる貧しい人間を助けられるようになる。

 それで出世払いさせてやるんだ。

 

 この女からもらった莫大な金は、その活動の資金にする。

 車とか、医療器具とか買わないといけないから。

 

 僕がそういうとニクスは随分感動したみたいで、僕の頭をぎゅっと抱きしめた。僕は別に薄っぺらい胸に抱き寄せられたところで何とも思わないけど、ニクスは随分嬉しいみたいで泣いていた。左目からぼろぼろと涙をこぼし、その雫が僕の髪の毛を濡らした。

 

 「よかった…ほんとうによかった……」

 「いやだからこんなことしてる場合じゃないんだよ!アンタが東に行くまでに全部知識は僕に教え込んでもらうからな!休みなんてないから!」

 「ええ、ええ。もちろんです。がんばりましょうね。」

 

 ニクスは僕が進路を決めたことが嬉しいのか、いつもよりゆっくり喋る。でもそれ以外はいつも通りで、相変わらず頭がよかったし、数学の問題なんてぺろっと解いてしまう。

 ニクスが医科大の入試問題を分析して、よく出る分野や間違えやすい問題を中心に解説してもらいながら基礎の底上げを並列して行う。

 

 ニクスはよい教師だった。

 スパルタでやってくれと言ったら本当にスパルタでやるし、わからないと言えばゆっくり時間をかけて教えてくれる。

 練習問題を作ったり、関連するニュースや話題に触れたり、家庭教師として十分に金が稼げるんじゃないかってくらい教えるのが上手かった。

 

 僕は、別にこいつから何かを教わる必要はなかった。

 僕の頭が良いからではなく、僕にはたくさんの時間があるからだ。僕の年齢の子どもはまだ日曜学校も卒業していない。その一方で医科大に入学する奴の平均年齢は19歳。僕は単純に考えてそれまであと7年もある。

 

 いくら独学でも、僕が7年も勉強してたらさすがに受かるだろう。だから別に、今この女から急いで物事を教わらなくてもよかった。僕は僕でゆっくりやってもよかった。

 

 でも、なんだかこの女がどこかに行く気がしたのだ。僕は直感でこの女との別れが近いことをなんとなく察していた。

 それはニクスの執筆スピードが上がったとか、仕事の調子がいいとかそういった単純なことだけじゃなくて、僕を見る目がちょっと変わったとか僕をハグする回数が増えたとか。そういうことから何とはなしに気付いてしまったことだった。

 

 (大陸東部、か)

 

 行先は随分前から聞いている。

 不毛の地で、砂漠化が年々進行しているらしい。もしニクスが大陸東部に行ったとして次に会えるのはいつになるだろう?

 1年後、3年後、7年後…どっかでニクスが野垂れ死ぬって可能性もある。

 

 

 僕は、僕がどうしたらニクスとの時間を確保できるか考えて、結局勉強の時間を増やすくらいの方法しか思いつかなかった。

 なぜニクスとの時間を増やしたいのか。僕はそんなことを考えたくはなかった。

 

 母でも友人でも恋人でもない女との別れを惜しんでいるなんていう事実に気付きたくなかったからだ。こいつが、この女がまさか家族だとでもいうのか?そんなわけ、ない。ないったらない!この女は引き留めたところで微笑むだけで、こいつの行いってやつを僕にはどうにもできない。こいつは優しそうな顔してひどい女なんだ。

 

 

 (ああ、生臭神父を罵りてぇ……)

 

 あいつ早くクロスベルに来ないかな。

 僕はニクスの大して暖かくない腕の中でそんなことを考えていた。

 

 




マクバーンによるとニクスはポンコツ

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