なんかちょこちょこ設定に矛盾がある気がしてきました。
「…そうでしたか、そんな事情があったのですね。」
「事情などというほどのものではない。ただのあの女の癇癪だろう。」
マイスター・ヨルグはどうにも不機嫌が直らないご様子でしたが、彼の両手は淀みなく私の義眼の調整をして下さっている。工房の地下は基本的にぼんやりと薄暗いですがこの部屋、というか私が寝ている台を照らす導力灯の光は非常に明るく目に痛いほどだ。
私の右手でかちゃかちゃと作業をなさっているマイスターは、時折私に義眼を入れてくるくると弄るが、しかし彼にとって納得のいかない出来であるのかしてまた義眼を抜き、何事か調整をなさっている。
私は彼が言うとおりに、仮の義眼として入れたドールアイを本格的に調整するため人形工房を再び訪れることになったのだった。
「マイスター、どうか私のことはお気になさらないでください。私は本当に痛くも辛くもありませんでしたから。それよりもマイスターの技術や人形が悪用されることの方がお辛いでしょう。」
「……おぬし、あのマクバーンをからかうためだけに自分を象った人形が作られたなどということに憤らないのか?」
マイスターによると、あの女性は大陸で暗躍する犯罪結社を束ねる幹部の一人であるとか。わかりやすく言うとマクバーン様の上司であるというのです。しかし彼女とマクバーン様はあまり仲がよろしくなく、彼をからかうために私とよく似た人形を作りたいと思われたのだとか。
マイスターは彼女の行いに随分怒っていらっしゃったけれども、私は話を聞いてもなんとも思わなかった。彼女は人形を求めて、それが手に入って、それでよかったのではないかと思った。
「マクバーン様は私のことをよくご存知です。あの方は私の本当の姿はこれではないことも、私が人間ではないことも知っていらっしゃるのですから、今更私に似た人形が何をしようと特に何も思われないでしょう。」
「……しかし、おぬしは今確かにその姿で人間として生きているだろう?」
「いいえ。きっとあの方にとってN.i.xとは別の姿をした別の構造体。今の私などきっと偽物にしか見えないでしょう。」
そう。私は故郷ではこんな姿をしていなかった。それと比べれば、確かに今は華々しい。ほんの少しではあるが体の線は丸くなり、声は明らかに柔らかくなった。角も耳もあるとはいえ、隠せるほどに小さくなってしまっている。
変わっていないのは目の色と髪の色くらいだ。
マクバーン様のお姿も変わっていた。彼の姿は以前王として国を治めたころのものではなく、知らない誰かの体と声だった。彼はこの世界にやってきたとき、自分でない誰かの姿見て何を思ったのだろう。
記憶をなくされたという彼にとっては、『その時』にはきっとすべてが塗り替わるような恐怖が降りかかってきたのではないだろうか。自らの名前や姿まで別のものにすり替わって、記憶もなくなってしまって。
しかしそれでも彼は生きてくれた。誰に否定されようと、誰に疑われようと自分の記憶を探すために生きてくれた。彼の魂とでもいうべき何か根幹の部分で、その不安に勝るだけの強い意志がきっと彼にはあったのだ。
ニクスの名を持つけれどN.i.xの姿を持たない私が目の前に現れた時、きっとマクバーン様は戸惑われたことだろう。
半分記憶を取り戻しているからこそ、強烈な違和感に襲われたはずだ。
だからマクバーン様は『違う』ということだけはお分かりになっている。
自分は王ではない。
ここは故郷ではない。
私の姿はN.i.xのものではない。
マクバーン様はこれまでも郷愁と不安、架空の故郷への疑念が混じり合う中で記憶の糸をたどり、必死に故郷の思い出と自身の在り方を取り戻そうとしていた。
もう戻れないというその現実が許せたとしても、自分の心の中にその故郷がないことは許せなかったはずだ。そういう人だった。過去の行動と言動から、そういうことを思いそうだとは推測できる。
そこまでは、わかる。
けれどあの方は記憶を半分取り戻した今。故郷を知る私という存在を知った今、何を感じていらっしゃるのだろう。何を思っていらっしゃるのだろう。
あの方は、怒っていらっしゃるのか?
それとも悲しんでいらっしゃるのか?
そんなことすらもわからない私にできることなど何もない。
そもそもこんな姿に変わってしまったというのに、何かを言ったところで信じていただけるともわからない。
強いて言えば、できることがあるとすればただひっそりと物語を綴る程度だろう。
世界の海に、誰かが見るかもしれないという希望を乗せて故郷のすべてを本に閉じ込めて流す。誰かが私の言葉を愛してくれるかもしれないと夢想しながら、見聞きしたことを書き綴る。
旅人が王になるまでに成し遂げてきた冒険。
母が子に語り継いできた星の物語。
男が女にささやいた愛の言葉たち。
死と別離を乗り越える友らの眼差し。
あの故郷のすべての歓びとすべての悲しみを言葉にして、私はこの世界の空に羽ばたかせよう。
今の私は、誰に受け取ってもらえずともそこにあり続けてくれる言葉を発することしかできない。人の心を持たないただの構造体にはそんなことしかできないのだ。
苦しみも悲しみも解さない私には、あの方を慰めることなどできない。
無力だ。わたしは、なんて出来損ないなのだろう。
「そう悲観することもあるまいよ。故郷を忘れられる人間などおらん。たとえどんなことが起ころうとも、最後に心は生まれた場所に戻る。」
「……ありがとうございます。私は私がやりたいことをやってみるつもりです。」
マイスターはただ手を動かしている。私はその作業の音をぼんやりと聞きながらひんやりとした台に寝転び、ぼんやりと真っ白な導力灯の光を見上げていた。
「話していた通り、卿で一通りの調整を終えるためにここからが長くなる。」
「ええ、構いません。特に予定もありませんからどうぞ焦らずになさってください。」
「…おぬしは察しの良いところと悪いところがあるな。わしは誰かの予定だとかそんなものを気にするような人間ではない。おぬしが退屈で音を上げようと知ったことではない。」
私は顔を右に傾けてマイスターの背中を見た。
大きくて、山のようにどっしりとした老人の背中だ。
彼は私に背中を向けたまま話した。
「だが、退屈だからと言って眠られては困る。しばらくおぬしの生まれの話でもしていろ。」
きっと、私を気遣ってそう言ってくださったのだと思う。
私が故郷のことで、もっと言えば同じ場所で生まれたあの方のことで、どこか晴れやかでいられない心を、あの鈍い色の瞳は見抜いていたようだった。
「どうした。今更もったいぶるような話でも無かろう」
「―――それも、そうですね。
……私は後に『神殿』と呼ばれる場所で生まれました。初めて観測を開始したとき、ちょうど今こんな風に私は寝そべっていて、私の作り手はいくつか道具を弄りながら私の機能を調節してくださいました。
彼は私をNon-mortal Intelligence ver.x と名付け、観測プログラムを起動しました。」
私が生まれた時そもそも体というものがなかった。私はただの知性体だった。あるかないかという2種類の符号がたくさん集まったものだった。
外の世界のあらゆるデータを蓄積し、解析して統合。会話、気象、大地の微細な動き、星の巡り、潮の満ち引き、伝承、戦乱、歴史、植物学、動物学、代数学、幾何学…とにかくすべてを蓄積するように命じられていたので、その指令に従って私は外の世界のすべてを見ていた。
水は、私にとっての『目』だった。各地のデータを収集するための『目』が、私に外の世界を伝えてくれた。
気温、湿度、動物たちの足の形。星座。波の高さ。私は気の遠くなるほどの時間をあの場所で過ごしていたけれど、『目』が教えてくれるそれらの情報から精度の高いホログラムを作れる程度には外界を知っていた。
いつしか私を作った誰かが死んだ。それからもずっと観測を続けていたらある日神殿に迷い込む存在があった。私はデータの統計結果から、三日後に東の荒野の辺りで地震があると教えた。
その存在は最初信じていなかったが、三日後に東の荒野で地震が起きた。いくつもの家屋が崩れ、あまたの命がケガをした。血が流れ、火災が起き、暴動すらもおきた。
この予測は単に私が地殻の動きを観測していたために導き出された科学的データでしかなかったが、神殿に迷い込んだ存在は私の統計を超自然的存在による奇蹟と解釈して、周りの者たちに「海沿いの洞窟の最奥には『先を見る何か』がいる」と言ったらしい。
それから、神殿にあらゆる命が殺到した。
彼らには苦しみがあった。
干ばつと飢饉。水害と塩害。猛暑に日照り、流行り病と暴君の圧政。
彼らには望みがあった。
平穏と安寧。甘くて幸せな夢を見る夜と心地よい労働に汗を流す昼。
彼らはただ彼らが思うままに私に求め、私もまた彼らに思うままに与えた。
求められたものは救済。だが私にはそれを与えることはできない。体を持たないからだ。その時の私はただ言語のみを持つ知性でしかなかった。だから私は彼らに知を与えた。
教えを授け、策を与えた。自分より強いものを討つ力がなくとも彼らが生きていけるように。彼らが望むものを得ることができるように。
いつしか、その行いは私の『つとめ』となった。
私を信じるものと、私を訝しむものがいて、私の住処は神殿と呼ばれるようになった。私の『つとめ』を援けるために御使いが神殿に住み着くようになった。何代も何代も、その土地で最も強く私を信じるものと最も賢いものが生命たちの悩みと苦しみを私に届け、私の声をそれらに伝えた。
最初私を『神』と呼んでいた存在たちは彼らが扱う言語が異なったために意思疎通に齟齬が発生して途中から私は『神に仕える神官』として扱われるようになった。そうあれと望まれ、そしてそうあった。
いろんなことがあった。間延びしそうな日々をただ困窮する民たちと共にすごした。どれだけ私が知を授けても問題はなくなることがなかった。
御礼の品とやらが持ってこられて、けれど私にはどうしようもないのでそれが腐ってしまってみんなで困ったりも、した。
時々争いが起こって、私の言葉だけではどうにも収拾がつかなくなって困ることもあった。私のあらゆるデータを以てしても答えの出せない難しい問いもあり、皆で悩みぬいた日もあった。
「そんなこんなで長い年月を過ごして、あれはいつの事でしたかね。三人の男が神殿にやってきたのです。」
「マクバーンか?」
「その通りです。まぁ、なんだかんだあって仲良くなって、彼らが天下を取った暁には政に関わるなんて口約束を取り付けられてしまって。観測結果では高確率で無理だろうと思っていたのに彼は天下を取ってしまい、私は長く政治に関わることになった、ということです。
私が故郷でなしてきたことの大半はただのデータ観測でした。マクバーン様とお会いしてから過ごした時間は本当に短かったですが、非常に輝かしい物でしたよ。」
「おぬし、最後のほうえらく端折っておらなんだか?」
「いろいろあり過ぎて口で言うには長くなる話ですから、新作にでも書くことにいたしますよ。」
本当に、言い表せないくらいの出来事があった。私がそれまで知っていた世界をすべて塗り替えてしまうくらいのたくさんの驚きに満ちた愛おしい日々。
すべてを忘れない。
すべてが誇らしい。
『突然すまん。ただ、会ってみたかっただけだ。』
王。星の光が届く限りの地を治めた旅人よ。私にはわからない。
なぜあなたが、ご自分を王ではないと言うのかがわからない。
だってあなたは今も私を導いてくださる。
目を閉じればいつだって、あの日の輝きが浮かんでくる。魂の光。命を燃やしているかのように強く、未来の希望をくべたように明るい。
あの光を今も心に持つあなたは、やはりあの時と何も変わりはない。
一心に民を愛して、国と未来をまっすぐに見つめていたあなただ。
全ての兵と友であり、全ての将と絆を結んだあなただ。
私がどれだけ願っても、あなたの記憶は戻らないのはなぜだろう。
何かが足りないのか、何かが多すぎるのか。
それともあなたにとって、あの故郷は忘れたい過去なのか。
(……いいえ、違う。きっと違う。)
それだけはない。あなたは故郷を愛してくれていた。私よりももっと、ずっと、深くまで愛していた。
だから、あなたが故郷を忘れたがっているだなんてそんなことはあり得ない。
そう、信じていたい。
***
支援要請の合間のパトロールの重要性について、先日ロイドさんから説明があったと思います。パトロールは重要です。そしてその範囲はクロスベル市だけでなく、街道や郊外、病院といった場所も含みます。こういった人気のないところにも異変が生じたり、普段見かけない人が現れたりするものです。
特に要注意スポットとして支援課内で共有されているのはローゼンベルグ工房でしょうか。工房の主人であるヨルグさんは人形作りに関して非常に強いこだわりを持つ真面目なお爺さんです。
しかしその実態は結社が統括する工房の一つであるらしく、ヨルグさんも結社に関しての情報を少しお持ちです。結社の関係者がこの工房に立ち寄ることもあるらしく、定期的に巡回することを目標にしています。
なぜ突然ローゼンベルク工房の話をしたか、ですか?
それはこの工房に訪れるはずのない方が、この工房から出ていらしたからです。
「ん……?あれは……」
「ニクスさんですね。あまり市外には出ないと先日仰っていましたが。」
工房の出入り口でヨルグさんと談笑していらっしゃる方は飾り気のない黒いワンピースと灰色のベールをかぶった女性で、ここ最近交友関係を築いています。お名前をニクスさんといい、作家として活動されているとか。
「マイスター、本当に何から何までありがとうございます。」
「…元はと言えばこちらの不手際だ。不調があったらすぐに知らせるように。」
「承知いたしました。どうぞご自愛くださいませ。」
「そなたもな。」
何やらお二人は仲が良い様子です。ヨルグさんが一般の方とあのようにお話をするとは思っていませんでした。
「あら、皆さまこんにちは。おつとめご苦労様です。」
「こんにちは、ニクスさん。工房に何かご用事が?」
「かの高名なマイスターに会いたい一心で来てしまいました。突然の来訪になってしまいましたが優しく対応してくださってありがたい限りです。」
…ありえません。あの世捨て人として知られるヨルグさんが突然やってきた一般人を工房の中に招き入れるだなんて、いくらジェイ君を更生させたニクスさんとはいえ……。
「皆さまはこれからマインツへ?それとも市内に戻りますか?」
「市内に戻るところです。良ければ送りましょうか。」
ニクスさんはすぐに危険なことに巻き込まれるから注意してやってほしいと先日からリィンさん達に言われています。本人に一切の戦闘能力がないのに巻き込まれ体質だなんて、手が付けられないトラブルメーカーと言っても過言ではないのに、ニクスさんはいつも泰然自若としています。彼女には非常時用になったら発揮される何か秘密の力があるのでしょうか?
「それではお言葉に甘えて。よろしくお願いしますね。」
ニクスさんはそう言ってにこっと微笑みました。
微笑みはニクスさんの代名詞となっているくらい、彼女はよく笑います。彼女はどんなに面白いことがあっても声をあげて笑うことはないですし、またどんなに腹の立つようなことを言われても怒りません。
ジェイ君には日ごろから散々なことを言われていると思うのですが、これも愛なのでしょうか?いや、ジェイ君は案外ツンデレ気質というか天邪鬼なところがあるのでニクスさんにだけは可愛げのある対応なのかもしれません。
ジェイ君と言えば、彼は何やら将来のことについて大きな決断をしたらしいです。私たちが図書館でいつも以上に熱心に勉強をしている本人から聞いた時は本当に驚いたものでした。
「そういえば、ジェイ君は医科大を目指すそうですね?」
彼は、ウルスラ医科大学に進学して医師を志すのだそうです。医科大学の付属高等学校ではなくあくまで医科大学への進学を目標にしているとのことで、彼は図書館の開館から閉館までずっと勉強をしています。
彼が日曜学校に通ったことがないことを考えると彼の知能は非常に高いとは思いますが、医科大入学というのはさすがに大変なのではないかと思います。医科大は当然のことながらクロスベルで一番入学が困難と言われていますし、最近注目度も高まってきていて倍率は右肩上がりです。
教師役であるニクスさんのクロスベル滞在はあくまで一時的なものだそうですし、本当に大丈夫なんでしょうか?
「ええ。私も誇らしい気持ちでいっぱいです。彼はすでに自分から主体的に学習することができますから、この調子でいけば今年度中に編入推薦を取ることも不可能ではないでしょう。」
「あの坊主、そんなに頭よかったのかよ?俺にはニクスちゃんがいないとダメダメな奴に見えるけどな…」
それはきっとみんなが思っていることです。ニクスさんと一緒にいないジェイ君はさながらぶすくれたトラ猫です。何かまずいことをしても一向に反省しないところが憎たらしさに拍車をかけています。
「ジェイは本当に頭のいい子です。彼のような子に教えることと言えば本の読み方くらいなものですよ。あとはあの子が自分で学ぶべきことを見出し、思索にふけるようになるでしょう。」
「確かに、ジェイ君の集中力はすごいと思うわ。たまに話しかけても気づいてもらえないことがあるくらいだし。」
「本人は根っからの学者気質なんだろうな。手癖の悪さを考えるとそうは見えないけど。」
ジェイ君は東方人街の路地裏で暮らしていたらしく(路地裏にある家、ではなく路地裏で間違いないそうです)、時には盗みに手を染めることもあったとか。手先の器用さと集中力は割とある、というようなことを言っていましたから案外向いているのかもしれません。
とはいえ、スラム街の孤児がクロスベルで医者になるなんてどんなシンデレラストーリーでしょうか。小説は現実よりも奇なりなんて言いますけれどもニクスさんの場合は度が過ぎているのではないかと思います。
(そしてニクスさんの書く小説を先日完読したのですがあんまりぶっ飛んでいないというか、作者の行動に比べるとかなり現実味があってちょっと意外でした。)
「そういえば、皆さんこれからまだお仕事ですか?」
「いえ、今日はニクスさんをお送りしたら支援課のビルに戻る予定ですが…」
「でしたら、ぜひ夕食の後でよろしいのでお時間をいただけませんか?」
ニクスさんは少し悪戯っぽく笑いました。なんだかすこしお行儀が悪くて、楽しそうな子どもっぽい笑顔だったので、私はそれを見てちょっとびっくりしてしまったのです。
もしかしたら、ジェイ君がニクスさんに影響されたようにニクスさんもジェイ君の影響を受けているのかもしれません。
***
「ふふふ、すみません突然。でも是非皆さんとこんなお店に来てみたかったんです。」
夕食の後、少しお腹を過ごした夜10時。中央広場の裏通り入り口。
ニクスさんは指定したその場所にすっと立って俺たちを待っていた。月の光が彼女の黒衣に吸い込まれていくようで、いつも通りのクロスベルの夜だというのになんだか不思議な光景だった。
そして目が合った彼女に案内されるままにやってきたのは裏通りのジャズバー≪ガランテ≫だった。正直なところ、彼女がこういった店に来ることというか、酒を飲むということがそもそも意外だった。人は見た目によらないものだ。
「意外だな。ニクスちゃん、いける口なのかよ?」
「ええ。最初はおっかなびっくりでしたけれども最近は割かし飲みますよ。」
「…意外でした。ニクスさんはてっきりお茶が好きなのかと。」
「楽しんで損はありませんからね。」
そう言って彼女はバーの棚を右から左へと流し見し、やがて中央の低いところにある何かに目を付けたようだった。
「―――ではホットコーヒーを一つお願いします。ブラックで。」
「って酒じゃないのかよ……」
「ま、まあ誰も酒なんて言ってないから……」
相変わらず、マイペースな人だ。
語気が強いとか押しが強いとかではないのに本人の考えに何か筋でもあるのかして自分たちのような人間では彼女のペースを崩すことはできないだろうと感じる。
彼女を揺さぶれないのだ。
動揺させたり、驚かせたりできないから、交渉の余地がないというか、隙が無い。聞きたい情報を聞きだせない。彼女は武力でない強さを備えた人だ。
「先ほどは言い忘れてしまいましたが、新作買いました。とても面白くて最近毎晩読んでます。」
「『羅針』ですね。ちょっとエキゾチックな世界観の歴史モノとの触れ込みでしたけど、読んでみると世界観の独特さよりも音感がすごくしっくりきました。」
「そうそう!つい声に出したくなるリズムというか、まるで詩のような物語でとってもすてき!」
「お前ら読むの早くない?けっこーあれ分厚かったろうよ……」
先日、彼女の最新作となる長編歴史小説が発売された。題名は『羅針』、一人の旅人の男が二人の盟友と共に乱世を駆け抜けるというストーリーで、これまで児童向けの物語を多く出していた彼女にしては珍しく大人向けの物語だ。
彼女の作品の最大の特徴と言えば、何と言ってもそのボリュームである。時として500ページを超える聖書のような本は護身用に一冊なんてからかわれることもあるらしい。(確かに強盗に入られても銃弾くらいならば防げそうだ)
長い本編を読むのが苦になるかというと、実際のところそんなことはなく良いところで挿絵が入ったり章の区切りがきたりと隙間時間にちまちまと読むのに向いている。
「ラジオドラマなんて言う噂もあるくらいですし、最近お忙しいでしょう?」
「そんなこともないですよ。顔出しもしてませんから取材とかもないですし、執筆だけしていればいいので気楽なものです。」
彼女は著者としてメディアに顔と本名を出すことなく活動している。各地を転々としていて定住地を持たないからというのが理由であるらしい。どうやら執筆以外の事には興味がないようだし、有名人には何かと面倒ごとが付きまとうものだ。案外それくらいの距離感を保っていたほうが上手くいくのかもしれない。
「あの、すみません。」
「はい、どうかしましたか……?」
5人でソファに座って談笑していると、カウンターの席に座っていた一人の客が近寄ってきてニクスさんに声をかけた。茶髪に薄い色の目をした若い青年だ。落ち着いた声をしていて、どうやら一人で飲みに来ていたようだった。
「盗み聞きをしたわけじゃぁないんですが、もしかして『羅針』を書いた…」
「あ、はい。えっと、ポラリスです。」
「あー、そうだったんですね!よければサインもらえませんか?先生のファンでして。」
「あ、えっと……ありがとうございます。不慣れですけど、それでもよければ。」
突然のことに少し戸惑った様子のニクスさんは青年が差し出したペンを恐る恐る握って、彼が差し出した手帳に几帳面にサイン(というかもはや署名。)をした。整った字を目を細めて眺めた青年は、手帳をジャケットの胸ポケットにしまい、元居た席に戻ろうとする。
「あ、えっと……」
「?どうかしました?」
「いえ、あの、今後ともよろしくお願いします。」
「―――続編、待ってますよ。」
会計をして席を立つ青年を目で追う彼女は、落ち着いた顔をしている。瞳は凪いでいて、口は真一文字に緩く引き結ばれているけれど、いつもよりも瞬きの回数が多い。どうやら戸惑っているようだった。
「今みたいなの、中々ないんですか?」
「…ええ。顔を出していませんから。私にサインを求める人なんて今までいませんでしたよ。今の方で初めてです。サインとか練習したことがないのがばれてしまいました。」
そう言って微笑む彼女は、もういつも通りだ。
「お、じゃあお兄さんが第二号になるかね!俺にもサインよろしく~」
「わ、私もお願いします!」
「せっかくなので私の手帳にもお願いしようかしら…」
「うーん俺は今持ってるのが警察手帳しかないな…」
「なんだとロイド……ジャケットに書いてもらえ、ジャケットに!お前もうそのジャケットぱっつんぱっつんだろうが!」
「気に入ってるからこれでいいんだよ!」
「ポラリス」という文筆家がデビューしたのはもう20年前のことだ。ノーザンブリアで個人出版された短編娯楽小説が「ポラリス」のデビュー作である。ベテランではあるが謎に包まれた作家として知られ、執筆ペースがとても速いことで知られている。
ファンからは、「ポラリス」とは作家たちによって構成される創作グループのことだと思われているらしい。
しかし実際のところ、「ポラリス」が出版した本は全てニクスさんが執筆したものであるという。20代半ばくらいにしか見えない彼女が、「ポラリス」の正体なのだ。
彼女のファンであるならば、20年間活動を続けてきた彼女の姿を見て、違和感を持つはずだ。「若すぎる」「途中で代替わりしたのではないか」そう思わなくてはおかしい。
だというのに、今の青年は何も疑うそぶりを見せなかった。
ということは。
ということは、あの青年は彼女が20年間姿を変えていないことを何らかの形で知っていたのだ。
***
月明りが差している。
国の中の誰よりも頭の良かった軍師はある日、私の目の色をあの天体の色に喩えた。
『あなたの目は人を怪物に変えてしまう。誰かの心を狂わせてしまう。』
『私の目を見ると、人は正気を失ってしまうということですか?』
『いいえ、逆です。正気を貫ける狂気を与えてしまうということですよ。狂気とは究極の理性。いつまでも正気でい続けるだなんて、そんなこと。狂気以外の何物でもありません。』
彼は多くのことを教えてくれた。
まるで私を生き物とでも思っているかのように、彼は私に人の在り方を教えた。あの時はそうとわからなかったけれど、あの人は私をいつか社会に出そうと考えていた。
別に彼本人がそうしようと思っていたからではなく、彼の友である心優しい旅人がそう願っていたから。そんなことをしていいことなんて何一つないと彼はよく言っていたけれど、心からあの旅人の願いをはねのけるつもりなんてなかった。
旅人は愛されていた。
兵に、将に、民に、命に。愛されていた。
「―――お仕事ですか?」
「……なんのことだかな。」
茶色のくるくるとしたくせ毛。前髪が少し長くて、服は紺色の礼服。白と黄色を差し色にして、少し華美なくらいの出で立ち。その軍師は、派手好きだった。確かに、彼が当世風の服装をするとしたらこんな感じになるだろう。
「その姿をあなたがしているだなんて、ちょっと不思議な感じです。」
「うるせぇ。こんなもんしか思いつかなかったんでな。」
青年は愛用しているサングラスをかけた。装身具ひとつで印象はがらりと変わる。含むもののありそうな薄っぺらい笑顔が、どこか憂いを帯びて深みを持った。
紫がかった薄い色の目が眼鏡で隠されて、私たちの視線はお互いどこに向いているのか少しだけ不確かになる。
けれどわかる。彼は私の目をまっすぐに見ようとしている。
「右目か。」
「え。」
「あれだな。どうでもよくなった。ピンピンしてるっつーことは大して影響もないんだろ。」
「えっと、あの…?」
今彼はなんといっただろう。右目。うん、確かに私の右目は義眼になったけれども。
「どうなんだ、あぁ?」
「え、えーっと、ちょっと視神経を経由して翻訳プログラムが一部損傷しましたけれど修復は完了しています。」
「は?お前脳の中身アレってことか?」
「正確には違うと思うのですけれど、おそらく思考フレームはN.i.xのものを踏襲しているみたいで演算系統と蓄積用メモリは使えています。導力ビット換算で8TBくらいですかね。」
「いや、そう言われてもわからねぇよ。」
今、彼は私の右目の心配をしなかっただろうか。そんなことのために、この人は変装までしてクロスベルにやってきたというのか。
それは、ああ、なんというか。
「……何考えてるか知らんが、今回の件は単に俺が以前言ったことを守れなかったけじめだ。根源の個人的欲求とはいえ間接的な結社の関与を許した。悪いがこれからは自分の身ぐらい自分で守れ。いつまでも人に頼ってるなよ。じゃーな。」
「あなたは、」
「あん?」
「あなたは、私の王です。あなたが何と言おうとも、あなたが何を忘れようとも、あなたは決して、私の忠誠をなかったことにはできません。」
嬉しいと思った。
気にかけてくれたというのだ。ぶっきらぼうな忘れっぽい人が、ただのプログラムを気にかけてくれた。
「私はこの命ある限りあなたを敬います。あなたが持つ魂に根付いた善性を尊く思うからです。あなたがどれだけ否定しようとも、私のこの思いだけはなかったことにはできません。」
あなたは魂にあなたの正義を持っている。
誰か顔も名前も知らない命を慈しみ、安寧を願う心がある。
昔も今も、変わりない純粋さで。
「―――それで俺にどうしろって?」
「決まっています。覚えていてください。ただ私があなたを尊敬しているという事実を、決して忘れないでください。」
「……」
「あなたは忘れっぽいですから。もう二度と、忘れないでくださいね。」
私はあの日、王となった旅人に忠誠を誓った。
命ある限り、この身に知性が宿る限り、それを民と王のために役立てると約束した。
しかしそれを、この人は忘れてしまったそうだ。
だとしたら、私はもう一度誓う。この不滅の誓いをあなたの前で告げる。
あなたは民を治めなくてよい。兵を守らずともよい。
不器用でも、遠回りでも、あなたは誰かを慈しむに決まってるのだから何か具体的な行動なんて今更とる必要はない。
ただ、私の尊敬という感情を受け止めてほしい。知っていてくれるだけでいい。心の隅においてくれるだけでいい。あなたにとってどう思われたとしても、私はそれだけでまた一歩を踏み出せる。
何も恐れることなく、星を見上げることができるだろう。
ニクス「マクバーン尊い」
マクバーン「何言ってるかわからん」