「悪いが、俺にはお前の言ってることがわからん。」
意味が分からない。
ただそれだけ思った。
俺のことを王と呼ぶ女が現れたかと思えば今度は王でなくともよいと言う。
全くもって訳の分からないやつだ。
きっとこれは生まれる時代を間違えた。
人にも、世界にもまだ受け入れるだけの叡智と力がないというのにこれは生まれてしまった。だが生まれてしまったのだからもうどうしようもない。
そう、どうしようもない。
どうしようもないから、別に俺が何をどうする必要もない。
そんなことで変わるような代物ではないのだろう。
「ええ、それで構いません。私は私を真に理解する存在がないことを知っています。あなたはただあなたであればよい。記憶の有無にかかわらず、あなたはあなたであるのです。」
「それは流行りの哲学ってやつか?」
「哲学も科学の兄弟であるという方もいらっしゃいますが、いささか異なるかと。私が至る結論は常に状況と条件を加味したうえで変動しうるものですから、真理とは言い難いかと。」
…やはり、俺には学問ってやつは向かない。真理がどうとか、絶対と相対がどうとか、うだうだと考えるのは性に合わない。
流れるようにたださすらい、情のままに吼え、剣を取る。
そのくらいが関の山というものだ。
「……そういえばお前、俺が記憶を取り戻したらどうするんだ?」
「え?嬉しいですよ。良いことではありませんか。その時には真心というものを私なりにこめて、お祝いさせていただきます。」
これの知性は科学の粋とか窮極の叡智とか言われることもあったが、俺にしてみればただのお花畑だ。人の感情を解さないから、葛藤がないから、悲しみを知らないから。
そんなことが言える!
「お前、俺が記憶を取り戻したらどうなると思う?」
「えーっと、どうなるんですか?」
「わからないのか?強くなるんだよ。」
きっと、強くなるだろう。
炎も、心も、魂とやらも、今よりもっともっと強くなるに違いない。
先のことはわからないが、そう確信している。
「あら、そうなのですか?ますますもって喜ばしいですね。」
「ああそうだな。だが強くなった果てに俺がどうなるかお前は考えなかったのか?」
「?」
「少しはあの時に思い出せたさ。細かいことはわからないが、俺にとっていい場所だったってことはわかる。俺は確かにあの故郷を大切に思っていたんだろう。」
だが。
だが!
「その故郷にもう永遠に戻れないと知って、どうしてお前は平気でいられる?俺が怒りに狂うとは思わなかったのか?あいつらが死んだときのあの虚ろな思いを二度もさせられて、俺が平静でいられるとなぜ思った?」
ああ、焼いてやりたい。
心の中のどろどろとした火が溢れ出そうになる。
ここには何の罪もない人々が暮らしているとわかっていてもなお、体中から炎が噴き出してしまいそうになる。
だだっ広いだけの荒野に点々とある炎。すでに命なんて死に果てた大地を燃やすだけの意味のない熱。揺らめいて、苦しんで、ただぐつぐつと煮えるように大地の砂を溶かす。
自分の心の中の炎は、もうとっくの昔にそういうものになってしまっていた。
たとえ意味がないとわかっていても、その炎が消えることはなかった。
「わかっている。わかっているんだ!俺がどう吼えようと、俺が何を焼き尽くそうとも!もうあの場所には戻れない!あるのは誰も何も残らなかったという結果だけだ!
……その無念を、怒りを、ただ呑み込むことなんてのは、俺には無理だ。
なぜ俺だけが生きている?どうして俺だけがいつも残される?失うことに何の意味があった!?」
炎とは力の象徴。どこまでも燃え広がり、全てを焦がして苦しめるもの。それが己の魂の奥深くに根付いているということの意味を俺はよくわかっている。
焼いてやるとも。
全て、全て、焼いてやりたい。
剣を振って切って燃やして突いて殺して壊して燃やす。
敵と障害を打ち滅ぼし、困難を乗り越えて、また一つ壁を超える。
七つの海を越えるように、麦畑を焼き払う賊を退けるように、空を埋め尽くす幻想種を殺しつくしたように。それらすべてを自分の意志で打ち払ってやるとも。
そうして何かを討って、それであの場所に平穏が戻るならば、よかった。
俺は遅すぎた、のか。
あの世界がなぜ滅びてしまったのか俺は詳しいことを知らないが、その敵は見つからない。どこにもいない。ただ滅んだ後に俺が遺されただけ。空虚だ。
敵も味方ももう終わってしまったこと。もうどこにもないものでしかない。何をどうしたって、もうどうにもならないんだ。
騒いだところでどうにもならないとは知っていて、それでも俺は騒がずにはいられず。
けれど知らぬ間に50年もの時間を過ごしてしまった俺は、結局この世界を燃やせない。ガキの癇癪のように炎を噴き出そうとして結局我に返って何もできず、最後にはすべてがどうでもよくなって終わる。
そしてただ心の中に鬱憤だけが残る。
燃えカスのマッチみたいな黒くて萎びた炭のようでもっと不純な汚いものが、しがらみのようになって残るだけ。
ああ、そうだ。そうだ!
しがらみだ!しがらみだけが残った!
ぐちゃぐちゃになって、体に流れる血がぐつぐつと淀んで、溜まって汚くなって熱を持って、今にも燃えそうになっている。血を送り出す心臓に引っかかった骨のような枝のような何かが、毎秒俺を不快にする!
「お前はすべてを知っていて、それでどうしてそんな顔をしていられるんだ?俺にはわからねぇな。俺はお前のようにそう全てを悟ったような目では見れねぇ。」
わからない。
俺にはこれがわからない。
憎くはないのか。辛くはないのか。苦しくはないのか。悲しくはないのか。寂しくはないのか。殺したいと思わないか?無念を晴らしてやりたいとは思わないか?復讐したい。焼き払いたい。炎で撫でてやりたい。斬りたい。殺したい。傷つけたい。痛みを、苦しみを、教えてやりたいとすら思う。
意味のないことだと知っていてもそう思わずにはいられない。
行動に移すことが出来なくてもそう考えることはやめられない。
どうしてそう思わないでいられるのか。
どうしてただ優しくいられるのか。
俺にはわからない。
「……私にも、あの場所に戻りたいという気持ちはあります。あの地の人々を愛していました。けれども彼らに対して私にできることと言えば、死を悼むことだけです。ただ心の中に彼らをいつまでもとどめおくことでしか、私は彼らの名誉を守れません。」
「俺は間違っている、と?」
怒りを覚えることが、アイツらが死ぬべきではなかったと思うことが、間違っているとでもいうのか?
「いいえ。その心は正しいものです。義憤。私には持ちえない感情ですが、それは人間固有の大切にすべき感情の一つです。友の名誉を守り、戦うための勇壮な心であるのでしょう。」
「ではなんだ。お前は何が言いたい?一々小難しいんだ。巻きで話せ、巻きで。」
「え?えーっと…そうですね…私があなたと同じ気持ちでないのは、単なる個体差でしょう。そしてあなたの思いと行動はこの世界の倫理に反しない限り誰に否定される謂れもないものだと思います。
あとはそう、ほんの少しお待ちいただければいいものをご用意いたしますから…」
「いいもの?」
「ええ、ちょっといいこと思いついてしまったのです。ほんの少し、準備に時間がかかっていますけれどもうすぐ完了いたしますから…」
(嫌な予感がする)
こいつがこういうことを言ったとき、ろくなことが起きたことがない。
歩く厄ネタの異名は伊達ではない。これが歩き回るとそこら中にトラブルを振りまいてしまう。こんなことなら偽物だとしても体を下賜するんじゃなかった。いやそれは考えすぎか。
「……もういい。疲れた。俺は帰る。」
「あら、そうなのですか?あまりお仕事頑張りすぎないでくださいね?」
はぁ、ほんとに、気が抜ける。
どうしてこれはこうなのか。どうしてこんな知性体に育ってしまったのか。親と教育係の顔が見てみたいとはこのことだ。
いったいどこの人の分からない軍師が教育をすればこんな人工知能に育ってしまうというのか。
「まぁ、お前は好きに生きてろ。俺もそれなりにやるさ。」
これはどうあっても俺のことを理解しないだろう。
この世界の人間はある種の同情の念を抱くことがあるかもしれないが、これは絶対にそんなことをしないし、そもそもできない。
そう思うと、全てがどうでもよくなる気がする。
心の中のしがらみが消えるわけでもなく、怒りがなくなるわけでもないが、ただそれ以外の全く新しい感情がふわりと落ちてくるように現れる。
言い表せない感傷。温度も匂いも質量もない、蛍の光のようなただ明るいだけのなにかが心の一角を占める。
だからって何もない。
それがあるからって何も起こらない。意味も意義もない。
何の救いでもなく、何の罰でもない。
ただそこにあるだけの光の形をした生きる証。
それがあると思うと、どうでもよくなる。
投げやりになるのではなく、ただどうにもならないということをすとんと受け入れられるような気がする。別に俺が何をしたわけでもないのに、まるで自分が葛藤を乗り越え一歩進んだような錯覚にすら陥る。
どうしてだ?どうしてそんなことを思っている?
何をしたわけでもないのに、どうしてそんなことを思えるようになった?
『世界には、不確定な事象が多いものだ。』
『人の力を、言葉で説明できる方がおかしいだろう!』
盟友たちが、そういうのならばそうなのだろう。きっとそれが正しくなるのだろう。
人とはそういうものなんだろう。
どんな言葉を尽くしても、どんな学問を修めても、決して説明しきれない摩訶不思議な力。不安定で不確かで、形にできないくせにいつもそこにある何かをどこかに隠し持っている。
そしてお前の信じる星の光とは、きっとそういうものなのだろう。
人の心の分からない知性体はただ微笑んでいる。人の行いをまねている癖にちっとも人らしくないそいつは、なんというか、馬鹿だった。
(―――どっちもどっちか)
どうしようもない。
そういうものになったのだから、そうでしかあれない。結局のところそういうものだ。
***
「……ねぇあんたさ、それで人に伝わると思ってるわけ?」
「えっ」
「全然事情が伝わらないんだけど?大人なんだからもうちょっとわかりやすく言ってよ。」
「だが……あれがほら。ああなってこう、大変なことになったんだ。」
「そんな説明で分かるわけないだろ!この生臭神父!」
相変わらずだ。この生臭神父はそんな下手な説明で近況を説明しようとしているのだ。いくら後ろ暗いことをしているのをボカそうったってこんなに嘘やごまかしがへたくそで大丈夫なのだろうか。
レストラン一押しのコーヒーをすすりながらじろりとにらむと、いつも通り只者ではない雰囲気を振りまく神父はシェフの創作料理を一口運んで余裕ぶった笑顔を形作った。
「はは、まぁ要は忙しかったという程度の話だ。だがこうしてクロスベルを訪れる時間も確保できた。ジェイの顔も見れたし、それ以上に言うことのない近況だ。」
「ま、あんたはそういうやつだよね。どっかいい加減でさ。こっちの身にもなってほしいと思うけど僕が知った話じゃないし。精々女を泣かせて後悔しなよ。」
こういう情が深くて口の優しい強い男は女を泣かせる運命にあると決まっている。女のぎとぎとした本性がわかっていないからだ。母性のあるゆるゆるふわ~っとした砂糖菓子とでも思ってるのか?馬鹿じゃないのか?
女ってのは強い。生き抜くことにかけては誰より強い。男なんかよりずっと強い。僕はそう思ってる。こういう男は守るべきナントカ、とかいうんだろうけど。
「手厳しいな。前よりもどこか鋭さが増したようだ。……ニクスが勉強を見ているらしいから当然と言えば当然なのかもしれないが。」
「はん、言葉は何物にも勝る切れ味のナイフ、ってやつ。今の僕を九龍の浮浪児と思ってたら痛い目見せてやるから。」
「そんなことは思っていないさ。初めて会った時から。」
知ってるよ。全くニクスもだけどこいつもたいがい阿呆だと思う。生臭なんだからとことん俗に染まればいいってのに、そういうところは妙に清廉潔白なのだ。この男、ちぐはぐである。
「ジェイ、医師を志すと聞いたよ。どうか俺にも応援させてくれ。困難もあるとは思うがそんなときはニクスも含めていろんな人が君のことを大切に思っていることを思い出してほしい。」
「あーはいはい。わかってるよ。別に全部が全部うまくいくとも思ってないし大変なのもわかってるから。」
でもいい。僕は今生きてる。
生きてさえいれば、何だってできる。
「それに僕よりも大変なのはニクスでしょ。もう出発が迫ってきてるし、僕なんかよりあいつになんか言ってきたら?」
なんせニクスがクロスベルを離れてしまえば次にいつ会えるかなんてわからない。この神父が謎の飛行艇を所有しているからと言って本人に仕事がある以上遠方まで行くだけの時間を取ることが難しいだろう。
「…?彼女から聞いていないのか?」
「は?」
「教会の慈善活動の一環でな。俺も大陸東部に行くことになったんだ。」
「おいコラクソアマ!あんたなんでいっつもいっつも大事なことばっかり言わないんだよ!」
報連相は社会人の常識、と説いてきたあれは何だったのか。
危機管理は気をつけるように、と言ってきたあれは何だったのか。
何かあれば自分にまず言うように、と言ってきたあれは何だったのか!
「あんたがいっつも一番守ってないだろうが!」
「あら、ジェイ。ウォーゼル卿とのお食事はいいのですか?」
「主にあんたのせいでそれどころじゃねぇんだわ。パスタは食べたいけどそれよりあんたに事情聴くのが先なんだわ。」
この女はいつもそうだ。
唐突に情報量の多いファイルを一気にぶち込んできて、本人は処理速度が高いからいいんだろうけども僕のような一般人にとってはフリーズ待ったなし。
こいつには人を気遣う心ってのがないのか?あるんだけどさ、こういうところは勘弁してほしい。
「そうは言っても、特別なことはありませんよ。ウォーゼル卿へのお手紙の中で大陸東部にある廃墟になった遺跡が不思議な動きを見せたらしいから調査に行く、とお話したのです。そうしたら危険だからと護衛を買って出て下さって。助かってしまいました。」
「はぁ?なんでそこで生臭神父なわけ?そんでその情報どっから来たのさ?」
確かこの女、生臭神父とあまり頻繁に会うことができないのではなかったか。九龍の時も実はまずかったみたいな話を聞いたのだが。
それに大陸東部の話なんて九龍にいたころすらまともに聞いたことがなかったというのにこの女はどこからそんな情報を仕入れたのか。きっとマトモでないルートに違いない。
「情報を教えて下さったのはツァオさんですよ。先日ある一件でお手伝いをした後にお話ししていたら教えてくださったのです。ウォーゼル卿は……たぶん、私にはどうしようもない事情があるのではないか、と思います。」
「やっぱ厄ネタじゃん!あんたってほんと馬鹿!」
白蘭竜に厄介ごとを押し付けられて、しかもまた神父絡みの何か…ろくなもんじゃない。ほんとにこの女は行く先行く先で厄介ごとを引き寄せる。クロスベルにいる間は平和な時間が続いたと思えばこれだ。
この女は、僕が何を思って今まで過ごしてきたか、ちっともわかってない!
「大変なことも確かにあるでしょうけれど、大陸東部に行けるなら私はそれで構いません。出来る限りの手を尽くすだけです。」
「……もう知らない。勝手にしたらいいじゃん。ほんとに馬鹿。人の気持ちも知らないでさ。懲りろなんて言わないから、僕の気持ちくらい考えてくれたっていいじゃないか。」
痩せたただの子どもである僕の、ちょっとしたわがままも叶えられないこの女は、やはり馬鹿でどうしようもない。心を傾ける方が馬鹿ってものだ。
「ジェイ、」
「拾ってくれたことも九龍から連れ出してくれたことも面倒見てくれたことも感謝してるけどさぁ!それだったら責任取って僕が大人になるまで傍に居ろっての!ほんとにあんた人でなし!いくら僕が生意気なガキだからって途中でほっぽって行くことないじゃん!」
「えっと、ジェイ、」
「それとも行くなって言えって?そう言ったってどっか行くくせに!アンタは人に善意で色々振りまいてそれで満足してるかもしれないけど、それで置いて行かれる奴の事何にも考えてない!」
「あの、私の話を…」
「誰が聞くかばーーーか!鉄女!」
いった。言ってやった。
あんたは困ってる人のことを慈しんでいろんなことをしてやってるけど、結局のとこ人でなしなんだって。僕は本当はそういうこと言っちゃいけない立場だ。この女に助けられた側だし。
でも今、僕は子どもだから。
ってか普通にわがままだし、生意気だし、この女と違って欲もあるいたってありふれた人間だから。こういう自分中心の馬鹿なことも言う。この女を傷つけてしまうかもしれないとわかっていても、どうせ聞き入れてもらえないだろうとわかっていても、言う。
言わないと、伝わらないから。
どっちも生きてたって、言わないとわからないことっていっぱいあるから。
あとで文句言われたとしても、僕は思ったことは言う。
「僕は間違ってない!クロスベルに居ればいいって思うことの何が悪いのか、まったくもってわかんないね!」
そうして不機嫌なまま中央通りのレストランに戻り、僕は一人で(僕のいない間にパスタを頼んでいた)食事をしていた神父のところに戻った。神父は僕の顔を見て、大体何があったかを察したようだった。
「ジェイ、どうしたんだ?いきなり走って……」
一体何事だとばかりに聞いてくるが、この男はニクスに厄介ごとを持ち込んだ当事者である。
「全部、あの女のせいだ。こうなったらおいしいものいっぱい食べてやる…」
「……ははぁ、まぁ男なら通る道だろう。咎めはしないが、料金は俺持ちなのでせめてお手柔らかに頼む。」
うるさい。
人の事情とか、社会がどうとか、知ったことじゃない。
僕は確かに今幸せだから、もっと幸せになりたいと思うことの何が悪いのだろう。あの女が厄介なことに巻き込まれないでほしいと思うことの何が悪いのだろう。
「俺の言葉は年寄りの妄言と思ってもらって結構だが、結局のところ人は一人では生きられない。支え合って生きていくために人は我儘なばかりではいられないものだ。」
テーブルの向かいで食後のコーヒーをすする男はいったいどうしてそんなことが言えるのだろう。
「当事者のくせして、涼しい顔してるよね。あんたの面の皮がそこまで厚いなんて僕は思ってなかったよ。」
「俺にも譲れない使命というものがあるのでな。ジェイはそう思うだろうと思ったが、それでも俺はニクスに今回の話を持ち掛けた。不満に思うようなら立ち向かってくるといい。その覚悟はできている。」
「……いいよ。それじゃ結局アンタの土俵だ。喧嘩は苦手だからね。」
もしも、もしも僕がもっと力が強くて。万が一この男を打ち倒せるようなことがあれば。その時この男はニクスを連れて行かなかっただろうか。ニクスも僕のもとにいてくれただろうか。
そんなのは無意味な仮定だ。
まずもってそんなことはあり得ない。
というかそんな手段、たとえあったとして僕はそれを選ばない。
「あんたら本当バカみたい。そうやって殴り合って全部解決すると思ってる?結局力任せで全部どうにかなると思ってる?」
「……」
「それでも納得しない奴だっているよ。僕みたいにさ、何度殴られたってあきらめないような奴だっているよ。だってのに、喧嘩で勝ってそれで全部すっきり終わると思ってる?」
世の中ってもっと汚いものだ。
どんな言葉を尽くして諦めない奴がいる。どんなに痛めつけても屈しない奴がいる。どんな正道を突き付けても治らない邪道を往く外道がいる。
暴力とか正義とか、そういう簡単なことで解決するなんてレアケースでしかないだろう。
例えば、死にかけた自分の子どもの治療のために親が病院に行ったとしよう。その病院には入院ベッドの空きがないとしよう。そこに自分たちの他にも治療を待っている重症の患者が沢山いたらどうする?
全員治りたいと思ってる。健康になってほしいと願われてる。全員が全員、救われるべき命だ。でもこの世界に奇跡はなくて、リソースにも限りがあって、人はみんな自分なりの信念を持っている。
そんな世界に僕たちは生きている。力で全部解決できるなんてそんな単純なものじゃなくて、もっとグロくてエグくて直視できないものが世界だ。
それでも無理してまで生きてたい、死にたくないって思うのが世界だ。
「僕は力だけで全部解決できるなんて最初っから思ってないから。そんなものには頼らないよ。はーやだやだ、ほんとこれだから脳筋はやだ。それで医者の世話になるやつが何人増えるわけ?」
「……はは、まったくもってその通りだ。けれど男というのは不器用なのさ。何かを言い表すのが下手で、力をふるうくらいでしか自己表現ができないんだ。」
「いやそれちっとも表現できてないから。」
力がないと守れないものがあるのは確かにそうだろう。
力をふるうことのできる人がいることで助かる人がいるのも確かだろう。
けれどそれだけじゃダメなんだ。
力のない奴が、僕みたいなひょろっひょろのモヤシが、力に頼らない闘いを僕なりに生き抜くことで、希望を得る誰かがいる。
僕はそれを知っている。
ずっと昔に僕に生きてたいって思わせたのは華奢で人を殴る力のない母だった。あの廃棄場みたいな街で僕に自由になりたいという気持ちを目覚めさせたのは、誰よりも弱い馬鹿みたいな女だった。
無力な奴が、無力だからこそ人を奮い立たせる。
僕は無力だから、目の前の屈強な神父よりもそれを知ってる。
「さも世界のすべてを知ってますみたいな目してさ。一々主語がでかいんだよ。」
「そうか?」
「そうだよ。……はぁ、僕の周りってこんなのばっかり。」
特製のパンナコッタを口に入れた。
もきゅもきゅした口当たりと、ミルクの濃い甘さが僕の脳に沁みる。後味はさっぱりとした柑橘の風味。ちっちゃくて、すぐに食べ終わってしまうようなデザートだけれども僕はこれを一個食べてなんだか満足した。
あの女と喋って腹がむかむかして、それでやけ食いしてやろうと思ったけどデザート一個食べてなんとなくもういいかと思った。
「何かもう少し頼むか?」
「……いい。」
もう、いい。
生臭神父は僕がぽつりとそう言ったのを聞いて何を思ったのか、ゆっくりと話し始めた。
「―――ジェイ、俺は君がニクスと出会ってくれたことが本当にうれしい。女神に毎日感謝しているくらいだ。ニクスが君にたくさんのものを与えたように、君もニクスにたくさんのものを与えてくれた。俺たちではできないことをジェイはたくさんしてくれたんだ。
俺は君が誇らしいよ。」
「好き勝手言ってさ。僕の事何にも知らないくせに…」
「いい奴だってことは俺も知っているさ。」
こいつらどうしようもない馬鹿だ。
ニクスも、神父も何にもならないってのに僕のことをそんなに持ち上げて、おかしくてならない。
けれどそんな二人に勝手に救われている僕も僕だ。
自分とは似ても似つかない二人なのに、見ているとどうしてか自分の未来を思い描ける。こんなことがしたいって思える。
今を生きるのに精いっぱいだった僕が、未来に生きてみたいって思えるんだ。
「あっそ。」
けどこの二人にそういうこと言うの凄い癪。
感謝はしてるけどそういうことを素直に口に出すと思ったら大間違いだ。
クロスベル編、長くない?と思う作者であった。
プロットから逸れまくって長くなりすぎているのでどこかで終わらせなければならない。