(追記)タイトル被ってるやないかーい
「今日のお茶菓子は西通りのベーカリーで購入いたしましたチーズタルトです。
どうぞご賞味ください。」
「ああ、ありがとうございます。」
日が長くなってきた春と夏の境目、俺はいくつかの仕事を片付けてクロスベルを訪問することができた。クーロンにいたころよりもずっと成長したジェイとの邂逅も叶い、あることがきっかけでこうして非公式にだがニクスとお茶の時間を楽しむことができるようになった。
長くなった影が、出会った頃からもう季節が移り替わったことを示している。冬から春へ、春から夏へ。そしてこれからは秋冬へと、離れていても俺と二人は時間を分かち合っているのだ。
「…ジェイは、帰ってきていないのですか?」
「ええ。まだ思うところがあるのかもしれません。けれどもきっと大丈夫でしょう。ウォーゼル卿も随分と気を配ってくださったみたいですし。」
ジェイはそろそろ難しい年ごろというか、親の愛情が十分に足りていなかった反動とでもいうか、まぁ要するにニクスに対してあまりうまく接することができないようだった。
先ほども少し衝突があったようでジェイはいまだ宿の部屋に帰ってきていないが、ニクスは彼についてあまり心配していないように見える。
「大したことは何も。俺の言葉など彼にとっては唾棄すべきものでしょう。」
彼は女神と信心深い人間を嫌っている。(俺としてはあまり嫌われている気がしないが、本人がそういうのならばそうなのだろう)少し彼の逆立った気分をなだめるようなことを言ってはみたが、もしかすると逆効果になったかもしれない。
「彼は賢いですからそのあたりのことはきちんと理解していますよ。折り合いをつけるとか割り切るとか、そう言ったことが別勘定なだけではないでしょうか?」
「そうなのですか?」
「ええ。信仰は信仰。個人は個人。女神を疑う彼だからこそ宗教や信仰に関してきわめて客観的な目で見ることができるはずです。」
彼女はいつも信仰に関して中立的な立場をとる。女神を賛美する言葉も言わないし、女神を貶めることも言わない。教会が、というか騎士団が彼女を危険視するのはそういう理由もあるのだろう。彼女は女神を信奉しない異教徒、のようなものである。
女神の教えに耳を傾けるが決して女神に祈らず、縋ることもない。ただまっすぐに女神と信徒たちを見つめ、神秘たる信仰の形を明らかにしてしまう。
神を疑うからこそ真に神を知ることができるというのは察するに彼女の経験談であるのだろう。彼女やジェイにしか理解できない歪なものがある。我々のように信奉するだけでは見えない真実がある。……難しいことだ。
「あなたにとって女神を信じる俺たちはおかしいでしょうか?」
「いいえ、ちっとも。私は以前神とは何かについて考える機会があったというだけです。結局のところ、大事なのは人々が同じものを信じているという状態そのものでしょう。あなたが強く信じること、何かに対し疑わずにいられることが貴重なのですよ。」
「……それは、一体どういうことでしょう。」
俺は時々、彼女の言っていることがわからなくなってしまうときがある。彼女の言葉がまるで遠い世界の歌か何かのように聞こえるのだ。
女神を信奉しない彼女が、ゼムリアの民に女神を信じよと教えを授ける。悪人も善人と同じように生きることができると信じている。同じように救うべく手を差し伸べようとする。
彼女のいた郷里は、どんな理想郷だったのだろうか。一体彼女は心の中で、どんなことを思って理想を謳っているのだろう。
「人は疑う心と信じる心を同時に持っています。何かを疑わずにただ信じるということができないようになっているのです。そこで一片の曇りもない奇蹟でもって人の信じる気持ちを極限まで高めるというのが宗教という機構の性質と言えるでしょう。」
「つまり、女神は存在していなくても人に何かを信じる心さえあればいいと?」
「人が苦難を乗り越える時、そこには何かを信じるための支えが必要です。迷い悩む心を寄り添って支える何かが。そうして何かを心から信じたときに、人は明日へと歩みだす力を得ることができる。
……女神という存在がそうして人を助けるのならば、そこに意義はあるのではないでしょうか?神という概念に心を救われてきた人も私は多く見てきましたから、やっぱり神様ってすごいですよねえ。」
「他の方の前で女神を文明の利器か何かのように言わないで下さいね……」
彼女の解釈は独特すぎる。俺たちが持つ女神の慈悲への信仰はまるで機構であるかのように語られてしまうなど、他の聖職者が聞けばあまりの刺激の強さに泡を吹いてしまうのではないか。
彼女と何度か言葉を交わしてみてわかったが、彼女はあまりに人を愛しすぎている。人を知り過ぎている。人を見つめすぎている。
とても博識な人物であるが、しかし彼女が知っている世界に関しての事実は、俺たちにはあまりに醜悪なものなのかもしれない。そう言った末恐ろしさを感じることが、ままあるのだ。まるで自分のエゴを正面から見つめているような感覚に陥ってしまうことがある。
彼女の言葉はすべて間違ってはいない。それどころかどこか己の知りえない真実に近づいている感覚すらある。
けれど、それがどうにも恐ろしいのだ。今はまだ知るべき時ではない、それについて考えるべきではない、気がする。
「ん……ああ、すみません。そういったことを言ってしまうのは悪い癖だと友人から指摘を受けていたのですが気が抜けてしまったようです。以後は気をつけますね。」
「いえ、俺はいいのですが…少し疲れているのではないですか?すごいペースで本を出していると聞きましたよ。」
クロスベルでの一時滞在を活かしてこの数週間にいくつもの作品の出版を取りつけたと聞いている。彼女の小説は
雑誌での連載小説、ラジオドラマ、児童書、歴史小説…それらの作品も含めて並行して完成させたのだから当然スケジュールはひどく詰まったものになっていただろう。
休息や食事を必要としない体質だとは聞いているが、それにしてもワーカーホリックが過ぎるのではないだろうか。
「ふふ、風のうわさというやつですか?私としてはため込んでいた原稿もあったので逆に肩の荷が下りたくらいでしたけれど。」
「物語の執筆に加えて学術書の編集にも手を伸ばそうとしているらしいというのは俺の聞き違いでしょうか?」
「どうしてそんな事までご存じなのですか…」
彼女はまるで何かに取り憑かれたかのように筆を執っていると、とかくペンを手放そうとしないのだと聞いた。きっと今この瞬間も、俺と話しながら本のことを頭の隅で考えているのだろう。
「風のうわさ、というやつですよ。ちなみにいったいどんなことを書くのですか?」
「解剖生理学や病理学が主になると思います。まだ担当するところが決まっていませんから何とも言えませんけれど。」
それを聞いて、俺はようやく彼女が何のために、というか誰のために本を書いているのか理解した。どうして彼女が急ぐように筆を走らせているのか。どうしていろんな分野の本を書くのか。
すべて、すべて。
「やはり彼のため、ですか。」
ニクスは肯定するように微笑んだ。
「私の書いたただの言葉が、いつの日か彼を支える知識や感情になるでしょう。いつの日か私の物語が彼に愛され、彼が誰かに語り継ぐなんてこともあるかもしれません。私は、そんないつかを夢見ています。
私の言葉はまだ不完全ですけれど、きっとすべてを書けるようになろうと思っています。人の葛藤も、悩みや苦しみも、そしてそれを乗り越える希望の明るさも。それを言葉にできたら、私はきっと誰かを救えると思うのです。」
「いつかも言いましたが、俺から見ればあなたは十分に人間です。あなたの著作を読んでも、あなたの情緒に欠損があるようには思えなかった。悩み、迷い、苦しんでいる登場人物たちは現実にいてもおかしくないと思えます。」
俺には彼女のことがわからない。
彼女はどこからどう見ても人間だというのに、彼女は自分のことを人でなしだという。彼女が求めているものは何だというのだろう。人の姿をして、人の言葉を話して、人を助けるならば、それは人ではないのか。
「実のところ、あなたが読んだ彼らの感情は借り物なのです。故郷での友人にそんな人がいたと聞いたのを登場させているだけで……恥ずかしい話、私は彼らに共感できていません。人はこういったことで悩むものだろうという予測を重ねているにすぎません。」
「それにしては随分リアルですよ?先日の少数民族を取り上げた話があったでしょう。肌のまだらな男が差別に苦しんで顔を隠すという…」
あれは本当に攻めていた。割と序盤で理解者である友人が登場するから救いがあるが、男は買い物にも苦労するというありさまで、孤独や不遇への憤りに精神を擦り減らしていく。出版社に苦情が入っていてもおかしくないと思う設定なのだが、これが何とうまい具合に男が報われるので読者もほっとしてしまうのだ。
あの短編での男の怒りには、よくあんなに温和な人がこんな文章を書けるものだと思ったものだが、あれはどうだ。
「ふふふ、それも友人の話してくれたエピソードに基づいています。友人の語りが上手かったのです。怒る人は寂しさゆえに怒ると聞いたのでそれを私なりに表現してみました。あとは『烈火のごとく』と言いますから、火のイメージと合わせて…」
「ああ、そういう…」
表現が上手い、ということはそれを知っていなければならない。しかし怒りが炎とよく似ているならば、怒りそのものを知らなくても炎の性質を感情に重ね合わせて書けばそれっぽい比喩にはなるはず、というのが彼女の技法であるらしかった。
確かに彼女は炎のことはよく知っている。旧知であるあの男の代名詞であるのだから。
「私の友人は人の感情を自然に喩えて教えてくださいました。怒りは炎、慈愛は泉、郷愁は秋風。初恋は林檎の樹、愛は梔子の花。憧れは蛍、悲しみは朝焼け。本当に博識な方だったのです。人の心をよく知っておられました。」
口ぶりから察するに、その友人というのはマクバーンではないだろう。また別の誰か。人の感情をそうもうまく何かに喩えられるというのだから、女性の友人だろうか。
「……しかし言われてみればそうかもしれません。郷愁は秋風、成程と行った心地です。」
そう聞いてしまうと確かに、以外の感情がない。自分がノルドの若々しい緑とどこまでも広がる空を思い浮かべたときに心に吹くどこか冷たい風。
それは確かに、言われてみれば秋の湿っぽさと冷たさを孕んでいるような気もする。実りを知らせると同時に寒い冬の来訪を教える風のもの寂しさは遠くから故郷を思うときの寂しさと似ている気がする。
それは自分の故郷であるノルドが風と縁深い土地だからなのか、それとも人は皆故郷を思うときに秋風を感じるのか。
わからないがもしそれが本当にいろんな人間に共通であるのだとしたら、皆が故郷を思うときに一つの自然を共有しているのなら、それは不思議で素敵なことだと思う。
故郷が違っても、分かち合える感情があるということだ。全く違う性質を持った人間同士でも、実はどこかで共通点を持っているのかもしれない。
「ふむ…考えてみるほど趣深い喩えです。それを考えた人はそれこそ真水のように心が澄んでいるのでしょう。」
「ふふふ、そうだったかもしれません。」
ニクスは微笑んでいるがすこし眉根が下がっているような気がする。俺は的外れなことを言ってしまっただろうか。
「……実際のところは?」
「その人の心の在り方に関して私がどうこう言えることでもありませんが、そうですね。ツァオによく似ていると思います。」
つまりはまぁ、そういうことだ。あとは察してくれと言わんばかりの微笑み。
心を知るのは心を操るため。情を知るのは情に付け込むため。人を知るのは人を動かすため。要はそんな質の悪い人間が、何らかの縁で彼女に教えを授けたのだろう。
そんな誰かからの教えであっても自らの糧とし最適な形で活かすというのは彼女のよい個性と言える。しかし自分は目が曇っていたか。そう言った存在と彼女が切っても切り離せない縁であるとはわかっていたつもりだったが…
気まずそうに眉を下げた俺を気遣ったのか、本当に忘れていたのを思い出したのかは定かではないが、彼女はまるで雰囲気を一転させようとするかのように手を打って音をならし、鞄から分厚い茶封筒を取り出した。
「ツァオと言えば、今日はその件もあって来ていただいたのでしたね。こちらが彼からいただいた資料の現物です。大陸東部の状況をまとめていただきました。信用できるものだと思いますよ。」
「拝見します。」
彼女が差し出した封筒には黒月貿易公司の印が押してある。そして書類には支社長ツァオ・リーのサインがされた一枚の紙。これは情報が虚偽ではないこと、そして万が一間違っているようなことがあれば彼に責任を取ってもらうことを示す書類が添えられている。
(まぁ虚偽の情報を渡すだなんていう隙を見せるような人だとは思えないが)
「大陸東部の遺跡に起きた異変、ですか…こちらでは確認できていませんが周辺の集落が異常な速度で荒廃してきているという報告は上がっていますから一度状況を確認したいところです。
しかし点在している集落の詳しい座標や人口の変化まで……ニクス、一体どんな交渉でこの情報を手に入れたんです?」
「テーブルゲームで勝った時の景品のようなものですよ。」
「そうですか……」
まぁ、何かしらあったのだろう。
彼は大きなシンジケートで期待を一身に背負うほどのホープであるというし、そう言ったゲームでの駆け引きや交渉事は気晴らしのようなものなのかもしれない。それにしては景品が豪華すぎる気がするが。
「大陸東部に行く前に現地のことが知りたかったので調査をお願いしたのですが、ゲームに勝ったら色を付けると言われまして、それでゲームをしたのです。
ただ内容を見てみると私一人が扱っていい物にも思えず教会を頼ることになりました。突然のお話になってしまって申し訳ない限りです。」
騎士団とニクスの接触は表向きに禁止されている。古代遺物であるニクスは廃棄されたことになっているからだ。しかし、古代遺物が絡むと思われる異変の情報が彼女から寄せられ、無視するわけにもいかず俺が休暇のついでにジェイに会いに行くという名目のもと彼女と会見をするに至った、というのが一連の経緯である。
「本来我々はこうあるべきでしょう。今回の一件を機によい協力関係に落ちつけたらと思っています。」
上層部は当然のことながら適切に処理をして廃棄したという総長の主張を信じておらず、早期の回収ないし調査を要求している。彼女の生活を保障したい騎士団と古代遺物として利用したい上層部、この二つの間に対立が起きるなんて言う未来は避けたい。
彼女のペンネームが枢機卿にバレてしまえば終わったも同然、という危ない綱渡りももうそろそろ終えたいところだ。俺としては是非とも情報提供者として彼女の立場を安定させたかった。
「ではよろしくお願いしますね。」
「ええ。今回は列車と車を乗り継いでの移動になります。長期になるかもしれませんが焦らず行きましょう。」
出発は来週。集合はクロスベル駅のプラットホーム。それまで彼女はできうる限りの仕事をこなし、俺は物資の調達といった準備をする。
彼女に軽く挨拶をして俺は宿屋の部屋を出た。
扉を閉じて、その少年に話しかける。
思春期に差し掛かる年頃にしてはあまりに痩せた体躯。身丈に合わせてもなお布の余った服。特徴のある猫背。壁に体重の殆どをかけていて、彼が随分前からここにいたことを示していた。
「もういいのか、ジェイ。」
「来週、アイツ行くんでしょ。じゃあ僕がどうこう言ってもしょうがないし。」
彼は割と最初の方からこの廊下に立っていた。それを言うか言わないか迷ったのだが、ニクスがあまりにも動じていなかったのでこれはもう俺がどうこう言わなくても大丈夫だと感じ取ってしまったのである。
ジェイが廊下の壁に背中を預けて、ただ佇んでいる。
たったそれだけの事なのに、俺の心は不思議と透明になっていくような気がした。まるでまぶしい光に満たされたときのような。そう、これは、きっと誇らしいという思いだ。
「……何さ。人の事ジロジロと見て。なんか言いたいことでもあるわけ?」
「いや、ないな。」
「あっそ。」
「だが、聞きたいことならある。」
「は?」
ああ、彼は素直じゃない。生意気で、同年代ではありえないほど勤勉で、多くのことを知っているのに、人との関わり方をあまりにも知らない。
けれどそれは、彼が生きていく中で自然とつかんでいくだろう。俺やニクスや、他の誰かの背中を見つめながら、いつしか体得していくだろう。
「ジェイは今、幸せか?」
「……はぁ。神父のくせに馬鹿だよね。僕が不幸なわけないのにさ。」
やせこけた頬、薄い皮。ひょろりと長い首。薄い体はあれから肉がついたかどうかよくわからないが顔の色は明らかに健康的になったように思う。これから少しずつ体も成長していくことだろう。
彼が、これからも生きていってくれる。俺がジェイとの出会いを誇りに思うように、ジェイも俺やニクスとの出会いを誇ってくれるだろう。これほどに嬉しいことはない。
「それは何よりだ。ニクスと仲良くな。」
「はいはい。」
そうして宿を出ていく俺の背中から、どこまでもまっすぐな視線はそらされることがなかった。まるで俺の魂までも見つめるかのように、俺の在り方に問いを投げつけるかのように。
***
「………ただいま。」
「お帰りなさい。」
私は、やはり愚かであるのだろう。ジェイが私のことを大切に思ってくれていると知りながら、それでも生き方を曲げることはできない。私にできることと言えば、腹をくくって怒られる程度のものかもしれない。
「ジェイ、秘密にしていたことはごめんなさい。あなたにはきちんとお話をするべきだったと反省しています。」
「……あのさ、」
うつむいていた彼が、どこか気まずそうに目線をそらした。こうしているのを見ると本当にまだ彼が子どもなのだとよくわかる。
「あんたはさ、僕だけじゃなくていろんな人を助けるべきなんだとは思ってる。だからあんたが東に行くのはいいことだと思ってるよ。……でもさ、」
そう言って、彼は口をつぐませた。
ああ、ああ。
きっと勘違いではないだろう。
ジェイが私との一時の別れを惜しんでくれているのだろう。
それがきっと長いものになるであろうことを、私たちはどことなく察していた。
彼をおいていくのは私なのに、私が彼を一人にしてしまうのに、彼を悲しませている原因であるというのに。
私はどうして喜んでいるのだろう。
ただ反省し誠意を示すべきだというのに、私はどうして嬉しいだなんて思っているのか?
わからない。私は私の心がわからない。
けれど、ああ。私はあなたを抱きしめたい。
あなたを、他の誰でもなくあなたを大切に思っているのです。
「ジェイ、ありがとう。本当に、私はあなたに出会えて誇らしい。あの日あなたのことを見つけられてよかった。ああ、どうして……どうしてこんな時に、私は…」
「―――-そうなっているんだから、そういうものなんじゃない?」
言葉が何も出てこない。
私は言葉にならぬものを言葉にするべく筆を執ってきたというのに、今この時心に満ちていく何かは、私の語彙のすべてでも表現できなかった。
幸福。誇り。慈愛。祈り。希望?
全てであってすべてを超える何かが私の吐息にまであふれてしまう。
今日この時。春の光が差し込む部屋で、愛おしい子どもがここに生きている。
そのことがどれだけ喜ばしいか。
「……ありがとう。きっと私は愚かで、どうしようもなくて、馬鹿なのでしょうけど。私、そんなことどうでもよくなるくらい、ジェイのことが大好きです。」
「ん、僕もあんたがなんであれ別にどうでもいいよ。」
ジェイがそう言ってくれるのを聞いて、私はどうしようもなくなってとにかく笑った。笑わないと今にも何かこぼれ出てしまいそうで、精いっぱい口端を釣り上げることしかできなかった。
「意外だ。あんたがそんな顔するなんて。」
下手な笑顔だね、とそう貶されてしまったけれど、ジェイはなんだか楽しそうだった。きっと私の笑顔は歪んでいたであろうに、ジェイはそれを厭うでもなく、叱咤するでもなくただ優しい笑顔で受け入れてくれた。
私は、本当の意味でまだ愛を知らないのかもしれない。けれど私が今ジェイを思う気持ちが愛ではないというのなら、一体何が愛だというのか。
善と悪を知る子ども。苦しみと悲しみを知る子ども。貧しくても、飢えていても、生きることを諦めないでいてくれた子ども。私が彼と出会えたのは、きっと奇跡だったのだ。
―――ふと、この世界に何人ジェイのような子どもがいるだろうかと思った。
こうやってかわいらしく笑えるのに、汚いどこかに打ち捨てられて、死に直面しながら懸命に生きている人は、いったい何人いるのだろうかと。
私はこの命ある限りできうる限りの命を救いたいけれど、私の限りある腕と手では全員を助けることはできない。処置が間に合わずに死んでいった人がいた。また明日と言って夜の寒さに凍えて死んだ人がいた。
私が助けたこの子どもも、いずれそんな場面に出会う。
助けたいのに助けられなくて、気持ちだけでは何もできないことを知る日がきっと来る。
そんな時、きっと彼は嘆くだろう。悲しむだろう。自分を見つめ、思い悩む日が来るだろう。医者になるとはそういうことだ。
だからどうか覚えていて。
私があなたを愛していること。これが本当は愛ではなかったとしても、それでも私は今あなたを愛している。どうかあなたの未来が健やかで、幸多く、希望に満ちたものであれと願っている。
「ジェイ、あなたは優しい子。私を助けてくれてありがとう。あなたは賢い子。私を受け容れてくれてありがとう。」
辛くなった時、思い出してほしい。
あなたを愛する人がいること。
あなたを支えたい誰かがいること。
あなたをまっすぐに見つめる人がいること。
「大丈夫。私たち、一人じゃありません。寂しくなったら本を開いて、そして空を見上げて。
沢山の物語が私たちの心を結び付けてくれます。私と、あなたと、そしてこれから……」
言葉にならない。
何を言えばいいのか、わからない。
伝えたいことが沢山あるのに、口からは何の言葉も出ない。
春の日差し。
長い影。
外から聞こえる商人と子どもの大きな声。
あなたの鼓動。髪の流れ。薄い皮膚に塗りこめられた傷薬の匂い。
部屋には沈黙が幕のように下りてきていた。私はただその場に直立しているジェイにすがるように彼の体に腕を回していたけれど、もう何かを言おうという気持ちもなく、ただ浅く息をして彼のほんの少しだけ肉のついた顔を眺めていた。
しばらくそうしていると、私の背中に、何か温かいものが添えられた。
見なくても、それが何であるかは明白で。つい嬉しくなって私は子どもの体に巻き付けた腕の力を強くした。
誰かが漫画の中でするように、ぎゅっと。そんな音なんてしないけれど、まるで私の心とジェイの心が一緒にぬくもっていくようで、ああ。
あたたかい。
今日は、クロスベルで一番、あたたかい日。
クロスベル編、これにて完結です。
暫く特に読まなくてもいい幕間を書いていく予定です。