原初の火   作:sabisuke

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幕間、はじまりはじまり

別に読んでも読まなくてもあんまり本編には関係しません。


幕間 王への諫言
第一夜 箱庭


 

 何もないどこか。

 ただ灰色の水面が広がり、ただ灰色の空が見える。

 

 見渡す限り何もなく、言うなれば無であり有である場所。

 

 覚えのあるここは、俺の心象風景とでもいうべきだろうか。心の中、意識の奥。とにかくそんな感じのどこかである。詳しいことはわからないが瞑想をした時や深く集中しているときに俺はここに立っている。

 

 ここに俺以外の存在がいるとすれば、それは俺が相対するべきであると思っている誰かに他ならない。

 

 

 

 はず、なのだが。

 

 

 

 「もし、そこの方。もしやこの空間の主の方ですか?ああ何と言うことでしょう。まさか精神空間に出てきてしまうだなんて……」

 

 

 紺色のよくわからない意匠の礼服っぽい何かを着た細身の男性が、俺の前に立っている。声からして男であろう。身に付けているのは東方風とも違う独特な衣服だ。白の衣服に紺色の上着を重ね、黄色の房飾りをやたらめったら付けている。

 植物で編まれた冠のようなものを被り、顔の前に白い布を垂らしていて、怪しいことこの上なかった。男が身じろぎをするたびに上着についた房飾りが揺れる。しゃらり、しゃらりと糸同士がこすれ合う音が嫌に響いていた。

 なんというか、全体的に華美だ。どういう構造の衣服かはわからないがそういう印象を受ける。男性の細い手や首の筋肉のなさを見るに、あまり活動的な人ではないのだろう。指のところにタコがあるから、学者か何かか。

 

 

 「あなたのご想像の通り私は学者のようなものです。道に迷っていたところこちらに迷い込んできてしまいまして…いやはや驚かせてしまいましたね。申し訳ない。」

 

 

 はっはっは、と空々しく笑う男性。長めのふわふわしたくせ毛を肩に寄せると彼のゆったりとした袖から骨骨しく生白い前腕があらわになる。不健康なまでに細いのに肌は日焼けをしているのか手だけが不自然に褐色になっていた。

 

 

 「えっと、あなたは誰ですか?ここは迷子になって来れるような場所ではないのですが。」

 

 何しろ俺の心の中である。ここに繋がる道があるならばそれは俺の意識の中にしかないだろう。

 

 「異郷の勇壮なる剣士よ、あなたに名乗りたいというのはやまやまなのですが私はすでに名前を失ってしまっています。ですので私のことはどうぞ軍師とお呼びになってください。」

 

 「軍師?」

 

 「ええ。生前は外道と呼ばれることも多かったのでそう呼んでいただいても結構ですが、まぁ、お好きになさい。」

 

 低く、落ち着いた声が響く。

 時の流れという概念のないこの空間で、俺はただ何を言えばいいのかもわからずにただその男の目があるであろう場所をただ見つめる。けれどそこにはただのっぺりとした白い布しか見えない。

 

 不気味だった。

 よくわからないものが、いつの間にか自分の精神の奥深くに入り込んでいる。こんなに背筋の寒くなることもないだろう。

 

 それにこの男、確かに切れ者の風格を感じる。手段を選ばないような、搦め手がとてもうまそうな、そういった声だ。

 

 

 「そう警戒しなくても宜しい。確かに私がここを出ようとしたその時はあなたを何らかの形で打ち倒す必要があるでしょうが、あなたのような人間に対して私は非常に相性が悪い。勝負を仕掛ける気など毛頭ありません。」

 

 「……では、俺の質問にいくつか答えていただけないでしょうか?」

 

 

 鷹揚に頷く男性。

 白い布の奥は決して俺には見えないが、きっと笑っている、のだと思う。

 

 

 「あなたはどこから来たのですか?」

 

 「私は地獄から参りました。」

 

 「それは比喩ですか?」

 

 「比喩であっても、そのままの意味であってもあなたにとって重要ではありませんよ。

 しかしそこは信じられないほど醜悪で、汚泥が炎にかぶさり、水は毒で濁り、大気に死体の匂いが満ちた場所であったことは事実です。」

 

 疑わしい。

 総じて詐欺師だとか口のよく回る人間はそう言った誇張表現とか、詩的な表現を好む。聞き手を煙に巻けるからだ。

 

 「では、あなたはどうしてここにたどり着いたのですか?」

 

 「ふむ……難しい問いです。私にもその理由はわかりませんが推測するにここは精神世界ですね?だとすれば、繋がってしまったのでしょう。」

 

 「繋がった、とは?」

 

 「現実世界でいう縁のようなものです。察するにあなたは精神が非常に発達していて、自分でない存在を度々招き入れていたのでしょう。他の人はそういったことを普通出来ませんが、あなたは誰かを自分の心の中に招くことに長けていた。

 そして私は軍師として時に他人の心を篭絡し、絡めとっていましたから、言わば他人の精神を侵すことが得意だったわけです。

 精神という概念に受動的なあなたと能動的な私がいて、そして誰かがある時に私たちを仲立ちしてしまった。

 それで道がつながり、こうして邂逅に至るというのが私の仮説です。」

 

 

 なるほど。確かに言われてみればこの空間に立ったことがあるのは俺だけではない。どこまでを俺の精神空間とカウントすればいいかはわからないが、単純にここを俺の精神だと考えればカシウス師兄やミリアムまでもこの空間に立ったことがある。確かに自分ではない誰かを受け容れていることになるだろう。

 そして軍師を名乗る男はここが精神空間であることを即座に見抜いた。男はこれまでにも他の精神空間にも訪れたことがあるということだ。

 

 

 「それじゃあ……その仲立ちした誰かに心当たりはありませんか?」

 

 「それは名前を失った私ではなくあなたこそ知ることだと思いますよ。」

 

 

 そう言って男は顔の白い布を持ち上げた。

 隠されていた顔が明らかになる。

 

 

 「……ッ!」

 

 「よくご覧なさい。心当たりが、おありでしょう?」

 

 男の顔はこれ以上なく特徴的だった。

 瞳は赤く、白目は黒い。

 頬まで割けた口からは鋭い牙が覗いていて、唇をなめる舌は蛇のように長い。

 そして何より額に角が生えていたのだ。

 

 小さい角が額の中央から右に向かって3本、いや4本か。まるで聖典に伝えられた悪魔か何かのような禍々しさ。今にも俺の耳に甘言をもたらしそうな口は穏やかな微笑みを形作っていた。

 

 あの微笑み。どこまでも対称に細まる目。垂れる目尻と緩やかに持ち上がった口角は顔の造形の恐ろしさにもかかわらずどこか柔らかな印象すら与える。

 

 俺はこの微笑みを知っている。

 目の前の男が浮かべているのは。達観するような、慈しむような、それでいてどこか遠い存在に感じてしまうあの人の微笑みに他ならなかった。

 

 

 瞬間。

 

 反射に等しいほどの速度で己の手が腰の武具に添えられる。自覚する前に行われるほど魂に刻み込まれた行動だ。しかし男は俺に警戒されることをわかっていたようで瓢箪のような形をした団扇を手にもって悠然と立っている。

 

 

 「あなたは……」

 

 「ええ、ええ。実に素直な方ですねぇ、あなた。ふふふ、私のこの悍ましい顔を見て誰を思い浮かべたのです?あなたの世界にはこんな悪魔のような風貌の誰かがいらっしゃるのですか?

 ああ、それはそれは……苦労なさっているでしょうね…。」

 

 くつくつと笑う男。日焼けした細い指が鋭い顎に添えられた。優美な所作はしかし彼の表情によって恐ろしい印象に変わる。

 彼を外道と呼んだ誰かの気持ちもわかってしまう。彼は一歩も動いてないというのに、決して戦う力を持たない存在だというのにその舌鋒だけで俺にこうして刀を抜かせようとしている。

 

 

 「申し上げたように、私はもう名前を失いこうして精神体で彷徨うくらいの事しかできません。ただ昔軍師であった。いつかの日にどこかで誰かと乱世を駆け抜けた。それだけの存在です。

 あなたがそこまで私を恐ろしく思うのならば、その剣で私を切ってみればよろしい。あなたが本当に神の奇蹟にすら立ち向かわんとする人間ならば、たかが亡霊如き剣の輝きだけで霧散させるでしょう。」

 

 

 「……いや、やめておこう。」

 

 

 「おや、よろしいので?」

 

 男は意外そうに眼を見開く。同時に猫のような瞳孔がこれでもかと細まり、まっすぐな視線は俺の考えを見据えているようだった。

 彼のような知将と呼ばれるであろう人間からすれば(そういえば彼らって人間なのか?)俺の考えていることなど容易く見抜けるだろうに、そういう演技なのか何なのか。

 

 読めない。

 先を読んだところで無駄なあがきだとすら思える。

 彼の言葉の癖を読み取るのを優先したほうがまだ実りがあるだろう。

 

 

 「その顔を見て聞きたいことが増えたよ。」

 

 

 マクバーンは記憶を完全には取り戻していない。彼の故郷に関しての情報は彼の旧知であるあの女性に頼るしかなかった。

 しかし一人から集めた情報では真偽を確認しようがない。精査するためには客観的な視点を持つ誰かの言葉が必要なのである。マクバーンの生い立ちや能力について、何かしらの手掛かりが欲しい。

 なんとなくではあるがあの男とは今後もどこかで衝突することになる、気がする。

 

 

 「はぁ、昔話ですか。私が得意なのは算術であって寝物語ではないのですがね。まぁ、よいでしょう。私もあなたに何か既視感のようなものを感じずにはいられませんから。」

 

 いかにも面倒ですという素振りで団扇を弄ぶ男はしかし本気で煩わしいと思っているようではないようだった。

 

 「ありがとう。故郷の話を中心に聞かせてくれると嬉しい。」

 

 

 

 ぴたりと、彼が団扇を弄ぶ手を止めた。

 二度三度瞬きをした後に、口をつぐんで目を伏せる。

 これは地雷を踏んでしまっただろうか。

 

 

 「そ、その。言いたくないことがあれば無理に話す必要はないんだ。別に何か他の話でも十分にうれしいから…」

 

 取り繕うつもりでそう言うと、彼はしかし痛まし気に虚空を見つめた。

 あの裏のありそうな微笑みでもなく、何かを企んでいそうな笑顔でもなく、俺たちとは異なる色彩を持つ瞳にはどこか悲しみすら含んでいて、本当に誰かを気遣っている表情だった。

 

 

 「……いいえ、よいのです。ただそういうことかと合点がいっただけですから、お気になさらず。あの男は、本当に数奇な運命をたどる……」

 

 きゅっと眉間にしわを寄せてぼそぼそとつぶやいた声はここが現実であったなら音にかき消されて聞こえなかったであろうが、何もないこの空間にはよく響く。彼のほう、と吐き出された吐息の重たさまでも俺の耳に伝わってくるようだった。

 

 「え……」

 

 「せめて私が生きて帰ることができれば……いいえ、無駄な仮定です。

 

 ―――ええ、ええ。そうなったのですから、こうなった。成程、理解いたしました。」

 

 

 一人で勝手に何かを理解した彼はばっと顔を上げた。先ほどまでの呟きの重々しさはどこにもなく、むしろ晴れやかな笑顔だ。

 

 

 「では、少し長くなる話です。椅子か敷物か、ございませんか?」

 

 この男、いっそふてぶてしいまである。

 そんなものがないことは見てわかるだろうに。

 

 「あるわけがないだろう。見ての通りここには何もないんだ。」

 

 俺がそういうと男はこれ見よがしに呆れた顔を見せつけてから顔の下半分を団扇で隠す。この所作から見るに、どうも男は俺を挑発したいようだ。

 

 「ははぁ、あなたは随分と不器用な男のようだ。空間を保つ力に長けている癖にその空間の在り方を変えることはできない。ということは、あなた察しはいいくせに頑固で変に自分のやり方を押し通そうとする男でしょう。」

 

 ああ、七面倒な男と出会ってしまいました。まったく因果なことですとぼやく男。

 そうまで言われるとあからさますぎて相手をする気力もそがれるというものだ。

 

 

 「はぁ、しょうがないですねぇ……」

 

 

 そうして男が手にしていた団扇を軽く振ると、そこから風の流れが生まれた。

 水に波紋を作り、波が立ち、そのために俺が立っている足場も不安定になる。

 

 「!?」

 

 この水面のような足場は決して揺らがない。なぜか安定していて、いくら走っても、踏みしめても、いつだってしっかりとしていた。

 そう思っていたのに、今この足場は何か根底のところから揺らいでいる。

 

 

 「あんた、何をしたんだ!」

 

 「言ったでしょう。私は他者の精神に対して能動的に働きかけることに長けていたと。そう警戒せずとも構造までは変えません。少しあなたの精神に新しい側面を増やして差し上げるというだけの事です。」

 

 「そんなことを俺の許可なく……くっ、」

 

 波がどんどん大きくなっていく。水が増えたり減ったり、俺の体に覆いかぶさってきたかと思えば水面がばねの様に跳ねて俺を打ち上げる。

 波は男を中心に同心円状に広がっているようで、その男は涼しい顔をしてただ立っていた。

 

 体が宙を舞って、頭から水面に打ち付けられそうになる。

 こうして思考を編む瞬間にも揺らいだ水面は刻々と近づいてきて、俺は思わず腹を折り曲げて頭を腕で守った。

 

 ――――ぶつかる……!

 

 

 

 

 とぷん、

 

 

 俺が水の中に落ちたにしては軽すぎる音。

 まるで小石が池に落ちたように、水面のほうが俺を呑み込んだみたいに、俺は水の中に吸い込まれた。

 冷たくもない。温かくもない。ただ膜のような何かを通り抜けたあと空気と同じ何かに包まれている。息苦しさもない。水圧も一切感じない。

 

 

 ただ俺は頭を下にしてゆっくりと下降している。

 下に落ちているはずなのにどんどん光が近づいてくる。

 

 

 どちらが上か。どちらが空か。

 心象風景のなかでは体の感覚も無いに等しくもはや上下の概念などない。

 

 

 落ちているのか、上っているのか。そもそも俺は動いているのか、止まっているのか。

 

 なにも、わからなかった。

 

 

 考えていることが段々と有耶無耶になってきて、眠たくなって、瞼が下りて。何かに導かれるままに俺はどんどん光に近付いていく。

 夏の夜明けのような真っ青な光。さわやかで、すっきりとするその光が瞼の裏にまで差し込んでくる。目を閉じているのに明るい。体のすべてが、包まれていくようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 音が聞こえる。

 

 ぴち、ぴちぴちゅ。 ほー、ほー。

   とん。とんとん。   たたたた……

 

 

 

 囁くような音。人の声ではない何か。命の生み出す生きる音。

 植物のざわめき。風の揺らめき。

 

 重い瞼は閉じたまま、すぅ、と息を吸うと何か甘いにおいがした。熟したリンゴよりももっと甘くて、ハチミツよりももっと儚い。花の香り。鼻腔をなでて、どこかに消えて、甘やかな安らぎだけを残していく。

 

 その感覚は、自分が今どこかにいることを示していた。

 

 重たい瞼を開く。

 ぼーっとする頭。まるで長い時間眠りについていたようだ。

 活動をやめていた神経までもが徐々に起きだして、皮膚の感覚が戻っていく。

 

 

 俺は、布が敷かれた柔らかな椅子に体を包みこまれるように腰かけていた。

 

 「――――ここは……」

 

 「おや、ようやくお目覚めですか。」

 

 

 落ち着いた男の声。

 そうだ。

 男が俺の精神空間を歪ませて、作り替えて、ここまで連れてきた?

 

 「ッ!あなたは……!」

 

 立ち上がり腰に手をやるが、そこにあるべき武装がないことに気付く。

 更には靴も脱いでいて、俺は靴下で真っ白な板張りの床に立っていた。

 

 「は?え?」

 

 いったいどうなっている?靴を脱ぐなんて寝る時じゃないんだからあり得ない。というか床がとても清潔だ。靴で踏み荒らした跡がない。踏みしめても砂利を踏んだような感覚は無く、床はどこまでもつるつるとしていた。

 

 戸惑う俺に、同じようなつくりの椅子に腰かけた男が右を指さして何かを示す。

 

 「言いたいこともまぁ分かりますが、まずは外をご覧なさい。」

 

 

 言われるがままに男が指し示した方を向いた。

 

 「な、……」

 

 何だここは。

 

 そんなありふれた驚きの言葉さえ出ないほど、その風景は美しかった。

 

 開け放たれたガラス戸。同じく板張りの廊下につながっているが、その廊下に壁はなく、外に面している。外郭?回廊?どう表現するのが正しいのだろう。東方風の家屋と構造は似ているが、やはり少し意匠が違う。柵も何もないし、こんな色の材木は見たことがない。

 ただ俺がこの部屋にいるだけで、外の風景が目に入ってくるのだ。

 

 真ん前に見えるのは庭だろう。石造りの塀を背景に数々の植物が何らかの規則で美しく配列されていた。

 美しい花の数々と背の高い広葉樹。平面的に見ればみっちりと詰まっているようで、高低差が生む三次元的な余白が調和を生んでいる。

 

 空は高く、白い月と輝く太陽がある。つるりとした質感の幹を持つ高木の葉が、そよ風に軟らかく揺れている。

 日差しは夏のギラギラと強い物なのに、計算されているのか部屋の中にまで差し込んでくることはない。木々が作り出す影の中でちらちらとゆれる木の葉、光を受けて明るく輝く花びら。

 

 

 美しい庭園だ。そう思った。

 

 

 「美しいでしょう?」

 

 「ええ、はい……とても。言葉が出ないくらい。」

 

 男に向き直ると、彼は書物を手に持っている。

 

 「できうる範囲で故郷を再現しました。あなたの状態にも影響はされますが、今回はうまくいったと言えるでしょう。初の試みでしたし、元はあなたの精神ですからあなたにとって解釈がしやすいように改変されているところも多々ありますがね。」

 

 成程、それで屋敷の構造が東方の家屋とどこか似ているのだ。

 異郷といえば真っ先に師父の故郷である共和国が浮かぶ。修行を通じて何度もその文化に触れることがあったから近くて遠い物としてうまく組み込まれているのかもしれない。

 

 「ここは、あなたの家ですか?」

 

 「いいえ。私の友人の屋敷です。あなたの様に武の道に生きていた人でしたから、どことなく理解できるものがあるかと思い選びました。屋敷の構造は少し異なりますが、庭の美しさはそっくりそのままです。」

 

 確かに、庭を眺めてみても俺が知っている植物はない。

 あんなに弦の長い花は知らないし、あんなに大きな実を付ける木も知らない。

 まさに異界の美しさとでもいうべきだろうか。

 

 

 男の背後には、飾り棚があった。

 棚にはいくつかの飾りと、絵が飾られている。

 何より目に付くのは、その側面に立てかけられているあまりに長い槍だ。

 

 およそ4アージュはあるのではないかというような三叉槍。白銀に輝く三つ又の穂と濁ったエスメラスのような色の柄。

 美しく、よく手入れされた槍だった。

 

 どう考えても常人に扱えるようなものではないが、手入れが為されているということは誰かが使っている、ということだ。

 すなわちこの家の持ち主。武に生きていたというその人が。

 

 

 「昔々、非常に勇壮な男がいました。男は幼いころから怪力で名を知られ、山の岩をすべて持ち上げ、時には大木すら引き抜いたそうです。体が育ち始めたころに槍を取り、集落に迷い込んできた猛獣たちを撃退したとか。

 この槍は、彼が集落を出るときに母親から授かったものです。母親は愛する息子が武器を盗まれて困らないように、彼にしか持ち運べない槍を授けたと言われています。」

 

 「さすがに誇張入ってますよね?」

 

 男はただ微笑むばかり。

 まさか本当にそんな巨大な槍を振り回した男がいたというのか。

 いやまさか。長い槍は物理学から重心が前になってしまうため持ち上げるのに大変な労力を使い、威力を出すことが難しい。安定した姿勢を保つために結局短く持つしかなくなるので槍はあまり長くする必要がないのだ。

 

 「信じるか信じないかはあなた次第ということにいたしましょう。まぁ、折角ですしその槍使いの男の話でもしましょうか。」

 

 

 男は語り始めた。

 友だという槍使いの物語。勇壮なる戦士の昔話を。

 

 

 

***

 

 

 昔々、男がいました。

 男は背が高く、力が生まれつき強かった。

 そして何より、凛々しく美しい顔をしていました。

 

 集落で彼を頼りにしない者はなく、その男はいつも純粋でした。

 彼の無邪気な笑顔。元気なふるまい。裏表のない性格。

 それらは大人も子供も惹きつけるに足る魅力でありました。

 学はありませんでしたが、誰もそんなことを気に留めはしませんでした。

 男は身も心も美しかった。そのあり方に見惚れないものなどいなかった。

 

 彼の笑顔を輝きの象徴に喩えた芸術家がいました。

 彼の闘いを勝利の象徴に喩えた聖職者がいました。

 彼の怪力はいずれ栄光をもたらすだろうと、誰もがそう思っていたのです。

 

 そうして男は美しく育ち、その長い腕で自由自在にあらゆる武器をふるいました。

 中でも槍の扱いに長け、十三の時にはすでに空を飛ぶ鳥さえ落とす技を身に付けていました。

 

 そんな彼に転機が訪れたのは十五の夏でした。

 男が澄んでいた地方を治める領主が男を軍に引き入れに来たのです。

 

 男は拒みました。

 三つ隣の家の娘と婚姻を結ぶために自分は集落に残りたいと思っていたのです。

 しかし領主は彼を言いくるめ、軍に無理やり入隊させました。

 男は学がなく、そしてあまりに純粋であったために領主に騙されてしまったのでした。

 

 

 ひどい労働が待っていました。

 眠る暇もなく、休む時もなく。

 郷里に手紙を出すこともできず、ただ意味のない遠征を繰り返す日々。

 そうして男は何年もの間、軍で使いつぶされていきました。

 

 その軍は勇名を轟かせて行きました。

 しかしもう三つ隣の家の娘は他の男と婚姻を結んでいることでしょう。

 両親は自分が死んだと思っているかもしれません。

 

 男は真面目で、誰かを疑うことを知らず、自分はいつか解放されるものだと信じて疑っていませんでした。

 そんなわけはないのです。

 勇壮な栄光をもたらす輝かしい男を、誰もが軍に閉じ込めたいと思っていた。

 あの手この手で彼の退役を遅らせようとしました。

 

 皆恐れていたのです。

 男が去ってしまえば、自分たちは勝てなくなる。

 男がいなくなれば、栄光がなかったものになる。

 

 民衆に腰抜けと蔑まれるかもしれない。

 女たちも笑いかけてくれなくなるかもしれない。

 男は確かに強かった。けれど男の軍にいた者たちは、あまりに弱かった。

 

 

 けれど、男にもいつか限界がやってきました。

 

 疲れた。

 郷里に戻りたいと我がままは言わないから、せめて自由になりたい。

 青空の下、風よりも早く駆け抜けたい。

 夜空の下、誰かと語り合いたい。

 

 そんな当たり前の欲求が、男の心の奥底からむくむくと湧き上がってきたのです。

 

 

 自分はもう十分に軍に尽くした。

 最初の約束の従軍期間はとうに過ぎた。

 ならば自分が自由であっても、誰も責めないだろう。

 

 

 そうして男は雨の降る寒い夜に飛び出しました。

 男を止めた者はどうなったのでしょう。

 男を追った者はどうなったのでしょう。

 

 男はいくつかの秘密を胸に秘めながらただ駆け抜けました。

 どこか自由になれるところまで。

 自分が自分であれるところまで。

 

 山を越え谷を越え、いくつかの里を過ぎ去った後で、彼は一本の桃の木が植わった丘にたどり着きました。

 小高い丘。大きな木。彼は走り通しで疲れてしまったために、そこで一休みをすることにしたのです。

 

 

 

***

 

 

 一本の桃の木。丘。

 

 その単語を聞いた青年は何かピンときた様子で私の語りを遮るようにして言葉を発した。

 

 「ああ、槍使いは丘で旅人と学者と出会って桃を育てたっていう話か?」

 

 「……はぁ、成程。あなたって歴史物語が全部現実だと思ってます?」

 

 そう言うことか。納得した。

 青年が聖なる焔の名残をその身に宿していたことから、我が王が私と青年の精神空間を繋ぐ縁となったのだと思っていた。

 青年によると彼はどうやら故郷のことを誰かに話せる状況ではないらしいから、おそらく記憶喪失か何かだろうというところまでは予測がついたのだがまさか同じ世界に()()までいるとは思わなんだ。

 

 旅人と学者と槍使いが桃を育てた?そんなことがあるわけがないだろう。

 そもそも普通に考えて桃の種を植えて一年で実が生るはずもない。

 そんなことを誰かに吹聴するとすれば()()しかありえない。

 

 人を疑うことを知らなさすぎることに呆れて、明らかな嘘を聞かせてやったのだがまさかいまだに信じているとは。()()の能力があれば真偽を確かめることは容易いはずであるというのに相変わらず判断基準のバグった人工知能だ。

 

 奇跡のオーパーツとまで言われて一時は民衆の信仰を集めたとは思えないポンコツである。

 

 

 「えっあれフィクションなのか?」

 

 「当たり前でしょう。大の男が一年も野宿するとでも?」

 

 じっとりと目線をぶつけてやれば青年はうっと言葉を詰まらせた。

 本当にわかりやすい青年だ。やたら面倒見のいい王とやたら顔のいい友を足して二で割ったようなこの感じ。きっと何人もの女を泣かせてきたに違いない。

 

 おそらくそんな青年だからこそ王はちょっかいをかけてしまうのだろう。

 本当にあの王も変わらないという他ない。

 

 「……まぁ、今日はあなたがよく寝ていたこともあって外の世界でもう夜が明けるころでしょう。早いところ現実世界に戻りなさい。続きが聞きたければまた来た時に話して差し上げます。」

 

 「えっと、帰り方もここにくる方法もわからないんだが……」

 

 まったく、本当に手のかかる。

 もう成人を過ぎたであろう男であるというのにどうして私がこうして面倒を見なくてはならないのか。

 この青年の精神構造がもう少しやわであったなら乗っ取ることも現実世界に侵食することも簡単にできたであろうがこの青年は変なところで頑固だ。

 精神の外枠が強すぎる。

 

 しょうがないとあきらめて青年の額に人差し指を当てる。

 青年はびくりと身を震わせたがやがて逆らいようのない波が来たのかしてゆっくり瞼を閉じていった。

 

 精神と現実の境界にまで一気に落ちていく青年の意識に語り掛ける。

 悪魔の甘言のように。鳥の歌声の様に。

 

 「来た時と同じように、眠りのような感覚に身を任せなさい。埋没して、全ての神経をいったん眠らせればあなたの精神の裏とでもいうべきここと現実を行き来することができるでしょう。」

 

 

 

 徐々に青年の体が透けていく。

 亡霊のようにぼんやりとして、そしていつしか彼はこの屋敷から完全に消えていた。

 

 

 

 

 一人になった客間。

 あるのは私のための椅子と、友のための椅子。

 

 昔はここに、王のための椅子もあった。

 三人で語り合うために眺めの良く風通しもよいこの部屋にわざわざ気に入りの椅子を運び込んだのも、懐かしい思い出だ。

 夜となく昼となく、夢をぶつけ合った。

 

 傍から見れば不良と、外道と、馬鹿の三羽烏だったかもしれない。

 激動の世界にしか居場所を見出せないような自分たちだったのかもしれない。

 次に来る時代を目にする前に死んでしまった自分と友。王を一人残して悪かったとは思っている。王の心を慰めるなんていうのはあの人工知能にはあまりに重たい課題だっただろう。

 

 

 「けれど何も、忘れなくたっていいじゃありませんか。」

 

 王よ、我が盟友よ。

 あなたはあんなにもこの国と民衆を愛していたというのに。たかが機械でしかないあの人工知能にすら話しかけるくらいにすべてを愛していたくせに。

 すべてが終わってしまったとたんに忘れるだなんて、そんなこと。

 

 「―――本当に、因果な人ですね……」

 

 

 太陽、白い月、そしてスズラン。

 私たちのすべてがここにある。一人の男でしかなかった私たちは、いつしか出会って三人になり、気付けば天下の覇者になっていた。

 駆け上がるのも、転げ落ちるのも、あまりに早かった。

 私は生前の罪が多すぎて、地獄に落ちた。あの男は善行を積み重ねすぎて天国に召し上げられた。そして善と悪の入り混じっていたあなたは今は異なる世界で別人として生きている。

 

 三人でもっと冒険がしたかった。もっと語り合いたかった。幾千の昼でも幾万の夜でも足りない。私たちはもっと、もっとお互いを知ることができたはずだった。

 

 もう二度と叶わないと知っているからこそ、こんな中途半端な場所に迷い出てきてしまったからこそそんな未練ばかりが浮かんでくる。

 

 

 「世は押し並べて 是非に及ばず」

 

 

 ただ意味もなくつぶやいてみても答える声はない。鳥の鳴き声と木々のざわめきが私の息を吸い込んで、木漏れ日が私の日に焼けた手を照らすだけ。

 

 私は目を閉じた。

 あまりにあたたかい日の光がとても幻とは思えず、瞼の裏にまで染み込む白金の光にただ包まれていた。

 

 

 胸の奥で冷たい秋の風が吹く。

 

 ああ、友よ。

 君は今、何を思い、何に生きているのだろう。

 

 この秋風に乗せて、どうか私に知らせてはくれないか。

 

 

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