アオイ・漣・アマツは集団墓地に来ていた。多忙な身の上である彼女がこの場所を訪れる時間は規則的ではなく、天候も決まっていない。アオイの手には傘があり、激しい雨音が静かな墓地にこだましていた。
職務の合間を縫って時間を捻出し、ある一つの墓の清掃、献花を行うことがアオイの日課であった。
その墓の主は他ならぬ、クリストファー・ヴァルゼライド。かの37代総統であり、亡き今も知らぬものは居ない伝説的な存在、帝国の守護者、その男の墓である。
「あぁ、いたいた。坊や、あそこがヴァルゼライド総統閣下のお墓よ」
老婆が幼子にこの墓がヴァルゼライドの物であると説明する。だが老婆が墓を『あった』ではなく『いた』と言ったのは何故だろうか。
答えは簡単である。アオイが墓の目印にされていたからだった。
ヴァルゼライドの墓は酷く質素である。大虐殺や前線で死んだ兵と全く同じデザインの墓であり、名前、生年、没年のみが刻まれた物だった。
墓の質素さはヴァルゼライド本人の希望であり、それを実現した形になった。無論英雄の墓なのだから壮大な物にしようという者達もいたが、アオイとその協力者たちの説得によって今の形に落ち着いている。
だが、集合墓地の特性上、目的の墓はどうしても見つかりにくい。毎日献花の絶えないヴァルゼライドの墓だが、その献花も目印にするにはわかりづらく、訪れる者は苦労する事が多かった。
しかし常連というのは得てしてやり方を見つける物で、入り口から何個目の墓だとか、この経路で歩けば迷わず着くだとか、そう言ったやり方が多くある中、一際珍妙な物があった。
貴種の美人というのは他ならぬアオイの事で、貴種故の雰囲気と美貌、その上毎日甲斐甲斐しく墓の掃除に来るとなれば名物にもなる物である。
アオイは最初は呆れてやめさせようとしたが、既に広まった物は止められず、今では諦めて受け入れている。
そうして老婆と幼子が墓に祈りを捧げる。アオイもそれを邪魔せず合わせて祈りを捧げる。
そうしてしばらく沈黙が流れたが、ふと老婆が口を開く。
「あんたさん、何時も掃除をしてくれてありがとうねぇ」
アオイは老婆が自分に言っているのだと気づくと、いつも通り慇懃な態度で答える。
「いえ、これもお仕えした者の仕事ですので。お礼を受けるような事は何も」
アオイがそう返すと、老婆は笑って言う。
「それでもお礼は言いたかったんだよ。総統閣下には誰もが感謝しているんだから。そんな人のお墓を綺麗にしてくれる人がいたら、誰だって感謝するものだよ。本当にありがとうね」
老婆はそう言ってお辞儀をし、幼子を連れて去る。
そう、ヴァルゼライドは国の英雄であり、彼に恩を感じる者は大勢いる。そんなヴァルゼライドの墓を毎日掃除しているアオイは、それこそ愛国者の鏡とでも思われているのだろう。
事実、アオイは愛国者であり、国へと奉仕する心は当然持ち合わせていた。ただ、ヴァルゼライドの墓を掃除するのは、ひとえに愛国心からではなく、別の感情も含まれていた。
アオイは掃除を終えると、車に乗り、別の場所へ向かった。自分の家である。アオイは自らの屋敷に到着すると。そのまま自室へと向かった。
そして引き出しを開け、中にある金庫を開ける。その中から出てきたのは、ガラスケースに入れられた一房の金髪であった。
持ち主の精神と星光を連想させるその金髪は、クリストファー・ヴァルゼライドの遺髪である。
ヴァルゼライドの熱心な信奉者が知ったら、豪邸が建ちそうな値段で買おうとするそれは、アオイの密かな宝物だった。
「閣下……」
アオイは雨音にさえ消えてしまいそうな声で呟くと、ケースに入った遺髪を軽く抱きしめる。
これがくだらない、なんの価値もない行為である事は理解している。事実、この行為をした後は毎回自分の女の側面について頭を抱えるのだが、どうしてもやめられない行為であった。
特に、今日のように、クリストファー・ヴァルゼライドが国民の英雄であると市井の人間の口から聞いた日などは。
アオイはこれがいわゆる、独占欲の発露である事を最近になって知った。やたらと勘の鋭い従姉妹にこの習慣をなぜか看破されかけた時に「なに、頑固な従姉妹が独占欲を拗らせていないか心配になってな」と言われたのがきっかけではあったが、アオイ自身が恋愛感情というものを学び直したのも大きかった。
アオイ自身、ヴァルゼライドが国民の英雄である事になんら不満は無い。むしろ誇りに思っており、彼が国民から感謝を受ける事は当然の事だと思っている。
だがしかし、国民からヴァルゼライド総統への感謝の言葉を聞いた時、特に『皆の』総統といった類のワードにやたらと心が反応してしまう事は止められなかった。
「まったく、恨むぞチトセ」
嫉妬、怒り、羨望、諦観の入り混じった言葉。アオイに恋心を自覚させた従姉妹は今も自分の恋人と仲良くしているのだろう。その事を考えただけで、今まで知らなかった感情が湧き出てくる。
アオイは自分が変わった女である事を自覚している。想う相手であるヴァルゼライドと相思相愛になって子を育てる生活など想像もできない。ましてヴァルゼライド自身そう言った事と無関係だろう。
だがそれでも、自分の想い人を奪った男女が幸せそうにしているのを見て、何も感じない訳では無い。
従姉妹に、チトセに指摘されなければ間違いなく気付かなかったであろう自分の恋心。そのせいで内心を乱される事も増え、チトセとその相方への言葉の切れ味も増しているような気もする。
しかし、アオイ自身認めたくは無いが、この感情を知って、妙な感覚を得たのも事実だ。
ヴァルゼライドの事を想い浮かべるだけで、例えるならば、胸の中がすっと暖かくなり心地よくなるような、言語化の難しい妙な感覚。
これをチトセに相談したとしたら「その感覚は『恋』ではなく『愛』によるものだ」というレクチャーを受ける事ができたが、生来のプライド故か恋人を持つものへの嫉妬故か、単に相談するような内容では無いと割り切っているのか、未だチトセとの話題に上がった事はない。
「時間か」
アオイはそう呟くと、時計を確認した。声色はため息混じりで、相変わらず自分の行為への呆れを含んでいた。それを振り切り、持ち帰った仕事に取り組む。その顔に憂いはなく、想い人の残した宝である国家を、国民を守れる事を誇りとした、自分の思いを受け止めた女性の顔であった。