六月下旬の月曜日、七月を目前に控え乍らも、未だ梅雨の明けない影響か相変わらず今日も空模様は優れない。騒々しい雨音に比べて、控え目な駆動音を立てる天井備え付けの扇風機から齎された、じっとりとした空気が肌を撫でるのもすっかり何時もの事だった。
先週末、合唱コンクール地区大会が行われた。彼の日、西宮硝子は水門小学校全三組何れの発表にも姿を見せなかった。
思えば一度も硝子の歌声を聴いた事は無いと、此の類の催事には珍しく、密かに心待ちにしていた。其だけに、彼女が不参加だと言う事実を尚も自分は受容出来ずにいる。彼女の身の上の事情ではないか等と、無為に推測を捏ね繰り回すばっかりだった。迚も平然とは居られない.
火曜日の明日迄何てもう待ち切れないよ(性急).
そんな独り善がりのせっかちな感情に引き摺られ,今日の放課後直ぐに訪問する方向に心は傾く。
手掛かりも意味も無く、自分は只彼是物思いに沈んでいた。
対照に、クラスは地区大会優勝と言う成果に日を改めて尚沸いている様だった。
合唱コンクールを理由に、未だ余韻から抜け切れずにいると言い括って仕舞えば、自分も彼等も然う大差無いのかも知れない。尤も彼等の様子からは、気持ちも何も分かり合う余地を持ち合わせていない事も又、同時に理解させられる。
自然と溢れた溜息が、耳朶と掌を軽くなぞる。
浮かれた様子の教室の中では屹度、自分の表情は一入浮かない様に映るのだろう。雨粒が歪な紋様を浮かべる窓越しに、此方を見据える自身を然う評した。
彼れ程午前中は騒がしく彼方此方と打ち据えていた雨足も、昼下がりを境にすっかり勢いを失っていた。電車を降り、改札を抜け、硝子の家へと向かう自分の横を、手持ち無沙汰気味に傘を手にした人影が幾度と過ぎて行く。
今日も自分は折畳傘は鞄の底に放り込んだ儘だった。此迄幾らか歩き慣れていた道中は、普段聞き慣れた雨音が欠けた所為か、今日は自棄に物寂しく感じた。
「あらっ、蓮君?」
「今日は。後、すいません。急に、っ来て、仕舞って」
呼鈴に応じて扉を開いた御婆ちゃんに会釈を返す。御婆ちゃんの背中越しに認めた硝子も又、驚いた表情を浮かべていた。事前の約束も何も無しの訪問に困惑してだろう。取り敢えずは、急な来訪を詫びる事にした。
『貴女、会う、したい、だから、自分、来る、終了(過去形)。御免なさい』
『ううん。私も会えて嬉しい』
半時間は歩き続けた上に何十段も階段を登ったばっかりの現在、未だ息は絶え絶えで、乱れ収まらない。そんな疲労も、彼女の一言の後では、其が御世辞だとしても過分に報われた気がした。
此方を気遣ってか、御婆ちゃんは早々に自室へと籠り、後には自分達二人が残された。
勧められる儘居間の席に着いて暫くは取り留めの無い筆談を続ける。彼女からは、此迄通りの掴み所の無い、柔和な雰囲気を覚えた。
〈然う言えばさ、最近何か有ったりした、かな?〉
会話を幾らか重ねる中で、然り気無さを装い、ふと思い付いた体の質問で、合唱コンクールについて探りを入れてみる。此の言葉に思い当たる節が無い様子であれば、土曜日の事は些細な事情か、或いは自分の勘違いなのだと言う証左として事足ると思えた。
彼女にとっては存外随分と答え辛い質問だったのだろうか。対して硝子は、何かを書き込もうとしては、何かに躊躇した様に筆を引っ込める動作を繰り返した。
辛抱堪らずに自分は、催促がましくチラチラ視線を這わせる。ノートから此方へと顔を上げた彼女と目が遭った。大事無ければと言う此方の願望を見抜いてか、将又其の後に見せる此方の反応を見越してか、彼女は力無く笑みを溢す。
逸らした視線の先、窓の外では軒先から滴り落ちる水滴が、一閃した。
〈実は、二週間前から学校に行っていないです〉
漸く綴られた跡には、敢えてはぐらかす様な、一見脈絡の無い回答が残された。ペンを持つ手を一度止めた彼女が伏目がちに此方を窺う。
彼女の機微を汲み取る(汲み取れるとは言っていない)余裕も無く、只自分は混乱していた。
勿論不登校自体無視出来ないものの、肝心の其の原因は語られていない。
何か有る事を臭わせるばっかりの要領を得ない回答を前に、何処か具合でも悪いのかと訝しむ位しか、馬鹿な自分には出来ない。
同時に今現在、更に先週先々週と一見問題無く会えていた状況からは、彼女の抱える事態は少なくとも今直ぐ御身体に触る程の重態の類ではない様にも思えてならない。
何で?然うせっかちに訊ねたい気持ちを抑えて続きを待つ。無遠慮な質問をすれば、途端彼女の心中を土足で踏み荒らして仕舞う、そんな懸念が脳裏を掠めた。意図も掴めず、下手な相槌も打てず、自分は臆病に只黙りを決め込んだ。
〈私が居たら迷惑みたい〉
然う書き終えた後の目に見えて落ち込んだ様子に、詳しい事情は分からない形にも、徒らに自己否定に陥るに任せるたくなる気持ちは、何となく分かる気がした。
まぁ色々有りますよね。自身の事が好きだと憚りもせず公言出来る人でもなければ,自身の欠点や失敗に後ろ向きな感情を抱えて当然だと一人内心で納得する.
然し其の癖、彼女に対する,適当な返答の言葉は終ぞ浮かばなかった。励ませば良いのか、宥めれば良いのか、慰めれば良いのか、或いは詰れば良いのか、採る可き指針すらも分からない。
猿だ何だ罵られても、矢っ張り屹度今の自分は何も言えなかった。只彼女が続きを綴るのを待つ。
抑々彼女の何が迷惑に思われるのかでさえ、馬鹿な自分には見当が付かない。結局何も形を成さないのだから、幾ら自分が考えを巡らせた所で、所詮は申し訳程度の自己弁護に基く行動と現状大差無く思えた。
〈今は学校に行くのが怖いです。声の可笑しい私が居たら迷惑なんだと思うと…〉
"学校"、"怖い"。此の言葉が呼水となって、三週間前の様相がまざまざと浮かんだ。
加えて、"声"、"可笑しい"。つい昨日迄の一ヶ月程は、丁度合唱コンクールに向けて練習が行われていたであろう時期だと言う事も合わさり、漸く現状の幾らかを理解出来た気がした。
耳に障害の抱える彼女が、合唱練習で苦労する事は少し考えを巡らせれば想定に難くない。上手く調子を掴めず全体の足を引っ張って仕舞った、乃至は其を理由に練習から外された彼女に、不平不満から悪意が向けられていたのだと考えると、嫌に辻褄が合う様に感じた。
〈蓮君も、学校に行かない事はいけない事だと思いますか?〉
其の問い掛け自体、既に彼女の中では解が固まっている様に見えた。其でいて、何処か反意を望まれているらしい事も、馬鹿な自分にしては何故か珍しく理解出来た。
半ば諦めた様に笑みを浮かべる硝子に、伸し掛かる不安や苦痛の重みは、馬鹿な自分には想像も出来ない。其の癖、幾らかを肩代わりでも出来たらと思わずにはいられなかった。
〈他の人が如何かは分からないけどさ、自分は硝子が居てくれると、其だけで幸せになれる〉
自分の手にしたノートへと落とされていた彼女の視線は、気付けば真っ直ぐ此方に向けられていた。
〈其で学校の事だけど、大変な時には休んでも良いんじゃないかって思う〉
〈学校に行っていない事、蓮君は気になりませんか?〉
虐めの主な原因であろう合唱コンクールは既に過去の事。まさか原因が無くなった後も変わらず虐めが行われていくとは思えず、だとすれば不登校を続ける必要も何れは無くなるに違いない。
今暫くは難しいにしても、直近に控えた夏休みを挟んだ後には、事態は収束している筈だと考えると、態々急ぎ蒼穹に解決を図らずとも良いと思えた。
〈ううん。だってさ仮令硝子が学校に行かなくても、其でも自分達が友達である事は変わらない、でしょ?〉
〈だから、此からも硝子と友達でいられるのなら、会って話が出来るなら、自分は何でも気にしないよ〉
何より自分の希望は、硝子に学校に行って貰う如何斯う何かではなくて、只仲良しで居られる事なのだから。本当自分でも勝手な話だと思う。
そんな自分本位な気持ちも隠さず込めて書いた言葉を彼女へと晒す。不都合な事実等、胸の内に密かに留めておく方が利口だと知り乍ら、伝えたのは紛れもなく自分が馬鹿な所為だろう。
其でも構わない。自傷気味な彼女の気紛れにでも成れるのなら構わないと思える。
大きく見開かれた双眸は、書いたばっかりの文字を凝視していた。今彼女が何を思うのか、自分には幾ら考えた所で分からず仕舞いに違いない。其でも彼女の俯き顔を傍で窺う限りでは、悪くない手応えを感じた。
果たして、此方に向き直った硝子の表情が何時も以上に柔和な物になっているのを見て、心臓がどきりと跳ねる。
自分の視線に応じて、然も天道の光でも差し込んだかの様に、硝子は双眸を眩し気に細めた。
硝子の溢した笑みが視聴覚を介して脳を擽る。
良かったわぁ硝子笑ってくれて。
矢っ張り~硝子の~笑顏を…最高やな!
「りゃん、うぇも?」
「ファッ⁉︎」
余波に浮かれ、胸内のふわふわとした掴み所の無い感情を持て余していた自分には、遅れて開口一番に告げられた言葉は、より心臓に悪かった。
な、何故其の言葉狩り文化を知っている(困惑)⁉︎
否、其以前に、そんな所食い付かなくて良いから(自己中)。自分が困惑していらっしゃるよ、許して差し上げろ(自尊敬語)。
思いも寄らない彼女の発言に心が騒ついては,同時に暗い顔をされるよりはと思いもする。只管複雑な気分だった。
勿論、流石に文字通り"何でも"と解釈されるのは凄く困る。一方で、今自分が何かを書き並べても屹度、寧ろ余っ計に襤褸を出すだけに思えた。なら下手な言葉を連ねるより、此以上言質を与え確かな物にして仕舞うより、素っ恍け有耶無耶にした方が増しだと考える。
変わらず彼女は、丸で此方にナニかを期待する様な眼差しを向けた儘で居る。
対して誤魔化す可くした咳払いは、自分をしても力無く聞こえた。