若しかしたら、皆んなとも遣り直せる、仲良く成れるかも知れない。大分屹度、私は蓮君との遣り取りに浮かれていた。
〈御前の御蔭で佐原さん来なくなったよ!やったね!〉〈音痴歌うな〉〈阿呆〉〈消えて〉〈皆んなに謝って下さい〉〈合唱練習全然進まなーい〉〈うえー〉〈迷惑〉〈普通の言葉喋れないなら黙ってろよ〉〈邪魔〉〈耳無し〉〈声気持ち悪い〉
だからこそ水曜日、放課後の人気の少ない教室で黒板に残された赤裸々な言葉に、悲しい何て感じて仕舞った。此が普通なのだと分かっているのに、嫌だ何て思いもする。
固まっていた私を尻目に、教室に残っていたクラスメイト達が黒板の文字を消していく。恐らくは其の儘、先生達に見つかると面倒だからかと考えてみる。粗方消し終えた後、覗き込む様に視線を向けてくる当たり、只此方の反応を直接見たかったのかも知れない。何れそうした事の為だけに、態々教室に止まっていたのだと理解した。掃除したばかりの黒板に乱雑に残されたチョークの跡は、私の心を薄らと覆う形容し難い感覚と重なって見えた。
〈有難う〉
彼等に対して抱いた後ろめたい気持ちを誤魔化し、取り繕って書いた感謝の言葉は、書いた私をしても軽薄に映る。再び私に向けられた瞳の全てに、侮蔑の色が含まれるのも仕方の無い事と思った。
金曜日には、転校してから三回目となる補聴器取りに遭った。唯でさえ上手く音の聞き取れない中で、補聴器が無くなると、途端本当に限られた音を拾う事すら困難になる。
何より此以上母に迷惑を掛ける事が嫌だった。
何としても取り戻そうと、クラスメイトの一人、石田君の手に渡った補聴器へと両手を伸ばす。
「ふっひゃー、ひっおいわいー」
私の両手の間を擦り抜けて放られた補聴器は、緩い放物線を描き、窓の外へと吸い込まされていった。呆然と軌跡に目を向ける私には、周りの様子を気にする余裕も無かった。
其が良くなかった。
ブチッ
初めは右耳に違和感を覚えただけだった。次第に強まる熱と痛みを押さえ込もうと当てた右手が、何かに濡れる。思わず目前に移動させた右手には、べっとりと血に塗れていた。見れば既に床にも血溜まりが広がっている。
周囲は何か慌ただしくしている様で、彼等に囲まれた中で私は、覆水の様に溢れた血痕を静かに見詰めていた。
そして放課後、ずぶ濡れの全身を引き摺る様にして通学路を一人私は歩いていた。
石田君に突き飛ばされて落ちた溜池の中、冷たい水に包まれて漸く、私は間違えていたのだと理解した。
此迄、彼は私に対して何度か交流を試みる節が有った。其の度に上手く対応出来ず、不意にして仕舞う事に申し訳無さと残念さとを感じていた。
今回、其の延長線上、取っ掛かりとして彼が補聴器を引っ張っただけなのだと思うと、勿論補聴器を駄目にされる事や怪我を負わされる事自体は嫌だと思い乍らも、責める気持ちは湧かなかった。彼が私に尚も興味を持っていた証左の様に感じては、寧ろ、ささくれ立っている筈の彼の気を如何にか宥めつつ、間良くば其処から仲良くなっていきたい、認められたいと烏滸がましく考えていた。
校舎を出て直ぐの場所で石田君を捉まえる迄は首尾良く進んでいた様に思う。帰路に着いていた足を止め、此方に関心を向ける彼の様子を認めて、私は安堵していた。同時に、余りに長く時間を掛ければ、彼は立ち去って仕舞うであろう事も理解していた。現に彼の連れのクラスメイトの二人は、此方に迷惑気な視線を向けていた。急ぎノートとペンを取り出すと、ランドセルを足元に放る様に置く。
〈迷惑を掛けて、御免なさい〉
そう多くは望めない限られた時間の中で、先ずはと、彼に届く言葉を選んだ積りでいた。続きが有ると勝手に期待して、皮算用も少なからず巡らせていた。
投げ付けられた視線に急かされる様にしてノートに書いた謝罪は、結果、只彼を憤慨させただけだった。恐ろしく激情を露わにした表情を此方に向けると、嫌にゆっくりと彼の唇が何か言葉を紡ぐ。
石田君が地面にノートを叩き付けた事を認識した時には、既に私の足は地面から離れていた。
溜池から上体を起こすと、其迄の浮遊感から一変、途端纏わり付いた水分の重みに襲われた。既に石田君達は立ち去った後で、蹴飛ばされたらしいランドセルと、適当な頁に捲れ開かれたノートが乱雑に残されていた。反射的に掌を握り締めていたものの、本来は此等迄水浸しとならなかっただけ感謝する可きなのかも知れない。
教科書類さえ無事なら、少なくとも母には誤魔化し通せるから。ノートが無事なら、未だ他の人とは話が出来るから。
遠くに小さく映る彼の後ろ姿を追う気持ちは、もう湧かなかった。
矢張り私は邪魔者なのだろう。
充分に身体も頭も心も冷え、現実に、戻された中で、ふと蓮君の事が頭に浮かぶ。
若し彼に現状を見られたら?そんな考えるだけで心を騒がせる仮定に、私は窮した。
こんな姿を見れば、蓮君も、私が本当は迷惑な存在なのだと気付くかも知れない。屹度そう違いない。未だ友達となって数日と経たない今、彼が距離を取ろうとする事に何の障害も生じ得ない筈なのだからと考える。
其を踏まえて尚、仮令如何なる事情であれ、有りの儘を見せる事が、本来の、正しく友達の在り様に思った。其の癖、隠し事をする事に疾しさを覚え乍らも、友達と言う関係を長引かせる為に、結局自身から打ち明けはしなかっただろうとだけは、判然としていた。前髪の先に懸命にしがみ付いていた水滴が、一滴、又一滴と足元へと落ちていった。
突然腕を引かれた時、心臓も又同時に握られた様に感じた。瞬時に脳裏に浮かんだ、そして当たって欲しくなかった想定に違わず、果たして振り向いた先に私は蓮君を認めた。
足元迄流し見る様に下ろされた彼の視線が、再度真っ直ぐに私の瞳の奥を射抜く。
如何して居るの?貴方には見られたくなかった。態々来なければ見られずに済んだのに。
私自身、酷い八つ当たりと理解はしていても、然う思わずにはいられなかった。
尚も彼は驚いた表情をしていた。迚も見ていられずに顔を背けた。
もう、友達ではいられないと感じた。其で仕方無いと思う。其の儘、彼も又、私を突き飛ばし拒絶してくれたら、若しかしたら楽に成れるのかも知れない。でも、今の私には耐えられる気がしなかった。一切の余地無く形にされる事が何時に無く怖かった。
只少しの間だけでも、逃げたくて堪らなかった。身勝手な一心で身を翻そうとした私を、蓮君の右手が掴まえる。其の所為で動揺した私を受け止める様に、彼に抱き締められる。もう逃さないとばかりに、密着した彼の心臓の音が私を包んだ。加減の無い懐抱に、気付けば、抵抗する力迄締め出されて仕舞っていた。
心迄彼に雁字搦めにされた様に感じているのは、自身の依存心の原因を押し付けたい気持ちの現れなのだろう。
彼の右手に頭を撫でられるに任せて、一層体重を預ける。既に多く水分を含んだ彼の衣服に、擦り付ける様に涙を流した。押し付けた顔一杯に濡れた衣服の感触が伝わる。僅かに垣間見ただけで薄くも黒色を帯びた彼の衣服からは、此以上涙迄を抱える余裕が無い事は明らかだった。でも、温かさの中に幸せを覚えて仕舞った後では、私には其の事実を誤魔化す嘘が必要だった。
一度冷めた後で、染みる様に伝わる熱に包まれるのは、擽ったくて、迚も居心地が良かった。反対に其は、比例して蓮君の体温を奪い続けていると言う事で、彼に不幸を齎し続けている結果でもあった。
彼への迷惑を確りと理解して、其でも私は振り払わずに縋っていた。靠れても許される安心感に暫く甘えていた。
終始続いた背部への締め付けが、何よりも求めていた物なのだとしたら、其を偽りででしか得られないとしても、私には充分に相応しいと思う。
『一緒に家、行こうか?』
然う事も無げに言う彼の、含水にすっかり変色した衣服に、罪悪感以上の喜びを見出す様な私程、彼の友達に相応しくない存在は居ないと思う。
『誕生日プレゼント、贈りたくて』
〈矢っ張り硝子には笑っていて欲しいから〉
身体の芯迄温かくする程の、彼からの好意以上に、彼に返せる物が私に有るとは思えなかった。
そんな私だから、若し蓮君がミサンガをふぃたと呼称するのなら、自身も然う合わせていようと何て思ったのだろう。勿論、世間的にはミサンガと言う方が正しいのだろう事は知っていた。でも其が、蓮君が他の人への関心や関わりが薄いが為に残り続け、私を特別に見ているが為に露呈した証拠だと思うと、指摘し、失う事を矢張り選べなかった。
御免なさい、蓮君。自分本位な友達で御免なさい。
自身の事情と比べては、ミサンガをふぃたと呼称する事自体は、仮に間違いなのだとしても、酷く差細な物だと感じていた。