本を読み始めたのは、小学校に通い始めた頃からだった。其迄、自由気儘に遊べていた保育園から、彼是不自由を強要される環境の中で、好き勝手に本を選び読み耽る時間は至福と言って差し支えない。
運動神経が悪く、空気も読めない自分からしたら、只文字を読むだけで楽しめる読書を嫌がる事が理解出来なかった。必死になって相手を蹴落とし合う競技類も、彼是相槌を繰り返す御喋りも、楽しめる要素が見当たらなかった。
近所のホモの兄ちゃん(20歳)から、しこたま哲学を学んだ次の日、自分は少し遠出をしていた。目的は市街の大型書店。手話を勉強し始めて二ヶ月以上になる。此迄は図書館から借りた本で勉強していたのを、そろそろ自前で用意しようと考えた為だ。勿論、兄ちゃんから背中を押されたのも少なくない。
自転車で三十分も掛けて隣町迄行く事自体、体力の無い自分にとって楽では無いが、其以上に本選びも相当に骨が折れた。見渡す限りに並べらた棚々へと所狭しと並べられた本には只々圧倒させられる。品揃えが豊富なだけはあり、目的の場所を探すだけで一苦労だった。
手話の本だけでも十数冊、然も何れも矢っ鱈と値が張る物ばかり、思わず財布に目を向けてしまう。半年近く手を付けずに貯めておいた御年玉も加えて、出発時は何時も以上に重みを感じさせていた財布も、想定外の値段を見た後では何処か頼り無さを覚えた。
素人目乍ら長い時間を掛けての比較の末、三冊に迄は絞ったものの其処から先は選び切れなかった。勿論欲を言えば、三冊とも買いたいし、金額的にも可能ではあるのだが、三冊纏めて購入すると、すっかりの一文無しとなってしまう。
両親に頼んでみる手も考えてはみても、母の態度を見る限り、良い顔はされまい。正直惜しい気持ちは有るものの、今回勿体振った所で何の道ゲーム類に使うのが関の山と、無駄遣いする前に有意義な活用に充てる事に考えは纏まりつつあった。
「若い子が、珍しいねぇ」
突然後ろから声を掛けられて、驚き振り向くと年配の女性がいた。見覚えの有る顔に頭を巡らせる事少し、確か前に西宮さんの付き添いをしていた方だと思い至る。
「あれま、此の間の!」
向こうも気付いたらしく、顔を綻ばせる。
「此の間は、すいません。足引っ掛けてしまって」
「彼れは硝子の不注意だよ、そんな気にしなくて良いんだよ」
取り敢えず悪印象は持たれていない様子にホッとする。
「名前を聞いても良いかね?」
「はい、自分田中律蓮(リツレン)って言います」
寧ろ覚えて貰える迄何度でも言いたい位だ。
現在自分にとっての唯一の西宮さんへの手掛かり、是非とも覚え目出度く、行く行くは紹介して貰いたい。
「そうかいそうかい。其で蓮君は何の本を買う積もりなんだい?」
流石に手話の本だと言ったら、目的が露骨過ぎて、警戒されしまうに違いない。何とか誤魔化そうと考えるも、馬鹿な自分が方便を思い付くより先に婆ちゃんに見咎められるのが早かった。
「おや?」
怪訝そうな声と共に、此方の手元を野獣の如き鋭い眼光が射竦める。
「蓮君、此の後一寸話さないかい?」
やべぇよ…やべぇよ…(焦り)。
馬鹿な自分でも知っている。質問の形式は取ってはいても自分に選択の余地が無い事も、話し合いが一寸で終わらない事も、知っている。其等を正確に理解していて尚、無言の圧に自分は屈した。
「………はい」
何だお前根性無しだな、と空耳が聞こえた。
此の本は何だぁ~?証拠物件として押収するからなぁ~?と自分から本を奪い取った婆ちゃんは、其儘レジへと進み会計を済ませた後、自分を近くの公園へと連れって行った。
手頃なベンチに二人して腰掛けると婆ちゃんが口火を切った。
「硝子はねぇ、本当に良い子なんだよ」
爺ちゃん婆ちゃん達にとって、孫は非常に可愛い存在なのは想像に難くない。況して、西宮さんは他人の自分から見ても文句無しの器量良しだ。其の溺愛も一入だろう。
「でも此迄一人も友達が出来無くてねぇ」
事の真偽は別として、其も可笑しくはない話だ。中々身近に聾唖者が居ない中、只でさえ可愛い西宮さんに対して皆んな何の様に接して良いか測りかねているのだろう。
だが、今態々自分に伝える必要の有った事とも思えない。であれば、何かしら言外の意図がある筈に違いない。一言一句を、其処に隠された真意を漏らさぬ様、全神経を集中させて、続きが語られるのを待つ。
「だから、蓮君が手話に関心が有るんだって思ったら、お婆ちゃん余計な勘ぐりしちゃって。違わなければ良いんだけどねぇ」
菩薩の様な表情や言葉使いとは裏腹、可愛い孫に近付こうとする邪な考え何ぞお見通しだと、そう警告されたのだ。幾分直接的な言い方に変わったのは、子供相手に何時迄も言葉遊びをしても埒が明かないと考えてだろう。実際、其の御陰で馬鹿な自分でも彼女の言わんとする所が分かった。
可愛い孫娘に変な虫が付くのを心配してるのだと理解する。警戒されて当然だ。急に現れた餓鬼が無遠慮に孫娘と接触を試みようとしているのを見て、嫌悪感を持たれても仕方が無い。
「自分は、西宮さんの事が正直凄く気になっています」
其でも自分は、西宮さんと話してみたい。
駄目元で自分の気持ちを白状する事にした。
「手話を始めたのも西宮さんと少しでも接点が持ちたくてです」
「まぁ!そうなのかい」
さも驚いたと言わんばかりの反応だが、勿論そんな事言われる迄も無く婆ちゃんは勘付いていた事だろう。
此方を試しているに違いない。恐らくは、撤回するなら今だよと、圧迫を掛けに来たのだ。
向こうも孫娘の為に、退く訳にはいかないのだろうが、其は西宮さんと御近付きになりたい此方とてそう変わらない。
此処が正念場だ。乾いた舌を唾液で湿らすと、改めて意思を変える気が無い事を告げる。
「正直に言います。彼の日以来、西宮さんの声が頭から離れないんです。たった一言だけですけど、西宮さんの事が気になって仕方ないんです」
「こんな事を言ったら、周りから何て思われたり言わたりするのかは、馬鹿な自分には分かりません。其でも彼女を知りたいって思っています」
思案顔の裏で何を想うのか、馬鹿な自分には思い当たる道理も無い。少し離れた場所で燥ぐ子供の声をぼんやりと聞くばかりだった。
「此渡すのすっかり忘れてたねぇ」
何れ程の間、会話が途絶えていただろうか。視線が交錯する事暫く、婆ちゃんは随分と穏やかな声でそう言うと、先程の手話の本三冊を渡してきた。立替の御金の為、自分は慌てて、財布に手を伸ばす。
「良いんだよ、此は婆ちゃんからの贈物さね。手話勉強頑張りな」
意気は買って遣るから、先ずは手話覚えてどうぞと言った所だろう。折角の好意と有難く甘える事にした。酷く重味を増したと感じる本を受け取り、御礼を伝える。有難茄子。
「代わりと言っちゃ何だけど、帰りに少し向こうの橋の鯉達に餌上げてきてくれるかね」
婆ちゃんは遠くを指差すと、餌の入った紙袋も此方に渡してきた。
まあ、パパッと行って終わる内容だしと、自分は二つ返事で了承した。