算数は言葉みたいだと思った事がある。
文章問題を数式に書き換える中で、如何したらより正確に綺麗な翻訳が出来るのかと考えるのは楽しかった。
言葉にしろ数式にしろ、人が生み出し、一定の流れ構成が有り、何かしらの答えを期待する点では同じなのかも知れない。
但し、前者には唯一絶対の答えが無く、後者には与えられた以上の答えが無い。
幸い、西宮さんの涙は直ぐに止まった。
『私と貴方は友達だよ』
満面の笑みを向けてくれた事に、細やかな気配りを感じた。西宮さんとしては、本当は自分何かと友達にはなりたくないのに、其の泣く程迄の気持ちを押し殺して、さも喜んでいるよと、そう振る舞ってくれたに他ならないのだ。自分の事を気遣っての、上手に断れない西宮さんなりの優しさなのだろう。だから、決して当たり前では無いのだと、勘違いしない様、肝に銘じた筈だった。
なのに、如何しても西宮さんの笑顔を見ると、我慢して浮かべてくれているのだとは、何処か心の内で到底受け入れられていなくて、自分はつい調子に乗ってしまった。
『嬉しい。貴女、自分、最初、友達』
そんな有頂天な感情に任せて見せた手話には、何か誤解させる事柄でも含まれていたのだろうか。馬鹿な自分には見当も付かない理由で、如何にも彼女を傷付けてしまったらしい。余計な事を言って、彼女を泣かせるのは此が最後だと良いなと反省した。
流石に今の自分の手話の程度では、日常会話にすら支障をきたす事は、手話母語話者をしても明白だったらしい。此方の懸念を見越してかの筆談の提案に甘えて、早々切り替えて貰う事になった。
勿論西宮さんからしたら手話での方が楽であろう事には疑う余地が無い。にも拘らず、筆談のノートも筆記用具も、西宮さんの好意に甘えるとか嘘やろ?恥ずかしくないん?否、そんな訳無い(反語)。
次の機会が有るなら、其の際は絶対に同じ轍を踏むまいと言う決意を胸に、ノートに書かれていく綺麗な字を、自分は糞情けない気持ちで眺めた。
暫く筆談をする中で分かったのは、西宮さんは婆ちゃんを待っていたらしい、と言う事だった。矢っ張り婆ちゃん、西宮さんの事忘れてたのだなと嘆息した。
〈婆ちゃん、公園に居たよ〉
〈蓮君、ブランコしていましたか?〉
別段隠す事でもない。寧ろ知らせた方が良いのではないかと言う判断の下、そう伝えると、直様質問が返される。
公園と言う言葉に何でブランコ一択と一瞬は思ったが、他の遊具って大概友達とかと一緒だから楽しいのだろうしと、一人察して一人納得する。一人シーソーとか、一方通行の土管電話とか、孤高のジャングルジムとか、ぼっちの砂遊びとか、何れも考えるだけで業が深過ぎる。だから、皆んな仲良しが標語の低学年から、其は錯覚だよと擦れ始める高学年になるに連れて、ブランコ以外に関心を持たなくなっていくのかと妙な感慨を覚える。
〈書店で声を掛けられて、其の儘公園で御喋りしてただけだよ〉
返すと、直ぐに次の質問が書き込まれていく。
其の様子に、自棄にグイグイ質問してくるなとは思った。でも其は恐らく、間を持たせる為、代わりに彼女が質問せざるを得ないだけなのだろう。
間違っても、若しかして自分の事気になっているのか?等と勘違いしてはいけない(自戒)。
そんな彼女の不要の気遣いを如何にか止める方法が無いかと思った。でないと、何時迄も自分は、彼女に質問も、其処から彼女を理解していく事も出来ない気がした。何か其の手掛かりが無いかと無い頭を巡らせていた時、西宮さんからノートが手渡された。
〈気になる本は有りましたか?〉
だからか、彼女の質問を見た時、ふと頭に悪戯心が芽生えた。手元の本を見せたら、一体どんな表情を彼女は浮かべるのだろうかと言う気持ちが湧いた。
〈此奴を見てくれださい〉
そう書くと、鞄から先程の手話の本を取り出して見せた。
短い時間だったとは言え、自分は彼女の癖を一つ見抜いていた。彼女は酷く困った時に、嬉しくも無いのに笑う癖が有る。既に半ば無意識的反射的な段階に迄至っているのだろう其の笑みには、陰の様な不自然さを底に感じさせた。
其を、自分は身勝手乍らに気持ち悪く感じ、如何したら止めさせられるのかを知りたかった。
〈此の本を見た時、何を考えたの?西宮さんがそんな顔をした理由を、自分は理解したい〉
西宮さんは、困った様な、でも今度は柔和な笑みを浮かべた。其の笑みは到底計算され尽くした贋物には見えず、只々自分は見惚れるばかりだった。
〈手話の事がずっと気になっていました。若しかして蓮君の周りには私みたいな手話を使う人がいますか?〉
成程、確かに手話を片言でも理解する人は珍しいかも知れない。其でも、先程の反応の直接の要因とは思えなかった。
〈西宮さんが初めてだよ。其も西宮さんの反応と関係有るのかな?〉
そう訊ねると、可否を問う可くノートを彼女へと突き出した。西宮さんは何度か視線を泳がせてから、其から何か諦めた様にペンを手にした。
〈実は、此迄も手話を勉強しようとしてくれる人は何人もいました。でも結局、手話で話をしようって人は蓮君が初めてで、其の上で蓮君がもっと勉強しようとしているのは何でか、分からなくて、悩んでいました〉
今度は真っ直ぐと此方に視線を向ける。
不躾な自分の事を、西宮さんは嫌っているかも知れない。内心如何思っているか等知る由も無い。だが、嫌われ者だったとしても西宮さんの良い所を教える位は出来る。其の結果が如何だとしても、其でも自分は彼女に自身の本当の価値を知って欲しいと思う。
馬鹿な自分には隠し事等出来る訳も無いのだからと独言てから、ペンを滑らせた。
〈前病院で貴女の声を聞いたのが切掛だった〉
〈興味を持って、話をして見たいと思って、其の切掛になったらって気持ちで手話覚える事にした〉
〈もっと声を聞きたいって、可愛い声だなって…〉
「っ!ぢっが、う」
ノートを覗き込んでいた西宮さんが突然大声を出した。余程嫌な記憶があるのか少し体まで震わせている。其の隣で、声豚の"こ"の字程度には彼等の気持ちを現在進行形で共有出来た自分も、不謹慎な場面で妙な扉を開いた事に、慄き肩を震わせた。
〈違わない、凄く可愛い。西宮さんと話が出来て、其の上不本意な形ではあったけれども今、其でも声を聞いた所為で、矢っ張り凄くドキドキしている。嘘だと思うなら確認して見ても良いよ〉
気を取り直した自分の綴った軽口に応じて、縋る様に西宮さんは此方に手を伸ばしてきた。
どんなに否定したとしても、どんなに悲観的な人でも本当は幸せの可能性を信じたい様に、西宮さんも只否定材料しか見つからなかったから、自身に価値が無いと諦めていただけなのだろう。
西宮さんは余っ程動転しているのだろうか。
彼女の細い指先は、此方が応じて差し出した右手の横を擦り抜けた。脈なら手首の脈でも確認位出来る筈なのに、彼女の小さな右手は自分の厚くもない胸板におずおずと添えられる。行き場を失くした右手は所在無く、仕方無く引っ込めた。
胸元に広がる温もりに、先程の比にならない程の勢いで心臓が脈を刻む。其の余りの勢いを前に、大胆な接触は女の子の特権等と言ってもいられない。
あかん此じゃ心臓が散るぅ!…ぬっ!
積石の並ぶ河原の幻視から一転、我に帰った視界の中では、飛蚊や糸屑状等と銘々形を成した半透明の青空の妖精達が乱舞していた。
暫くは森に御帰りしそうに無い妖精達に目を顰め乍ら、未だ確認終わりませんかねと向けた視界の中で、彼女は凄く良い笑顔を浮かべていた。
ファッ!?(心底看破)
此は、自分の状況を理解し乍らも気付かない無知の振りをしている確信犯ですね。間違い無い。
此は何を伝えようと惚けられる流れだと察した自分は、軽口を無用意に叩いた少し前の自身と右手を呪い乍ら大人しく引き下がった。
途中何度も、矢っ張り西宮さん許してと泣言を言いそうになるのを、だらしねぇとか、そんなんじゃ甘いよとか、確り意識保ってホラとか、兎も角思い付く限りの自己批判で耐えるの、凄くキツかったゾ。
西宮さん、少し位は頑張れ頑張れ〜❤︎って応援してくれても良いんだよ?
もう充分堪能したよと漸く手を退けた彼女を前に、あわや嬉死する所だった自分は、平静も取り繕えず、だらしねぇ無様な姿を晒す羽目になった。そんな自分を眺めて、上気した頬も隠さずに嬉しそうに暗黒微笑を浮かべる彼女に、密かに案外根は弩Sなんだねと恐怖した。
嫌々なってやった友達に遠慮何か無い、当たり前なんだよね?(再認識)