楓さんや祐里香ちゃんもいない、千聖から宣告された地獄。そして二人きりという天国、何なんだこの混沌とした看病は……。
「相手は千聖、大丈夫だと思うが……身が持たねえ」
俺は卵のお粥を作りながら独り言を言った。外にはレオンがいる。レオンは今は寝ているようだ、ここにアールとグレイを連れてレオンの頭に乗せればアレが出来る。そう、某ハムスターのアレだ。
しかし、ハムスターは外に連れてはいけないのだ。ストレスを与えてしまったり、猫や犬、カラスに襲われる危険性がある。家にいる方が安心する、ということが理由だ。それを言われたら何も言えん。
「千聖の所で飼ったら出来たのかも……やめにするか。今は千聖の看病が優先だ」
卵を溶き入れてかき回し、お粥に掛ける。お粥は簡単に作れるから、風邪を引いたときには最適な料理だ。お盆に卵のお粥を入れた器を載せ、千聖の部屋に向かうことにした。
「千聖、入るぞ」
「千秋……」
「熱は何度だった?」
「熱は……37.6℃だったわ。あと、少し暑い……」
千聖の表情は辛そうだった。千聖のこの顔を見ると、こっちまで辛くなる。俺は千聖を助けるために付きっきりで看病するって決めたんだ。だから……俺が何とかしないといけない。
俺はお盆を机に置き、千聖の隣に椅子を置いて座ることにした。今は側にいてあげよう。例え、過去に想いを寄せていた相手だったとしても、千聖は幼馴染だ。
「少し窓開けようか?」
「ええ、開けてくれると助かるわ……」
「卵のお粥作ったが、食べれるか?」
「食べれるわ、もしかして……食べさせてくれるの?」
ーーはい?今こいつは何と言ったんだ?
「すまない、もう一度言ってくれるか?」
「食べさせてくれるのって……言ったのよ……!恥ずかしいから言わせないで!」
「……マジかよ」
ーー待て正気か!?俺にアレをやれというのか!?
俺は千聖から死刑宣告をされた。看病や手が使えない時にやるアレ、所謂あーんだ。俺にそれをやれと言うのか!?そもそも、それをやるのは久しぶりだ。千聖が中学1年の時以来だ。
もしここで断ったら千聖は悲しむだろう。ここまで来たらやるしかない。俺は千聖を悲しませないようにしようと覚悟を決めた。恥ずかしくて出来ないと思うのではなく、千聖を泣かせないと思えば出来る筈だ。
ーー多分……。
▼▼▼▼
千秋の手が震えてる。ちょっと言い過ぎたかしら……。彼は無理をしてまでやってくれたんだ。ちゃんとお礼を言わないといけないわね。
「
「何て言った?ロシア語はさっぱりだぞ」
「手が震えてるわよって言ったのよ」
「久しぶりにやるんだ、しょうがないだろ」
千秋、不器用過ぎるわよ。私は心の中で彼に言った。付きっきりで看病するとは言ったけど、大丈夫かしら……。
お粥を掬ったスプーンが私の口に近づいた。千秋は私にいつか卵料理を作ると言った。まさかこんな形で頂くなんて思わなかったわね。千秋の顔が強張ってる、あまりからかわない方がいいわね。
「千聖、口……開けてくれるか?」
「分かったわ、あの一言も付けてね」
「分かったから、期待するような目で見ないでくれ。あ、あーん……」
「あーん……」
私は口を開け、お粥を口に入れた。懐かしい味だ。千秋が作ってくれる卵のお粥は安心する。お粥は味はしないけど、卵が入っているおかげか、美味しく感じる。
「どうだ、美味しいか?」
「……ええ。とても美味しいわ」
「そうか、まだ食べれそうか?」
「ええ、最後まで食べさせてくれるかしら?」
もちろんだ、彼は微笑みながら言った。今は千秋に甘えよう。千秋なら何を言っても許してくれる筈だ。度が過ぎない程度に甘えよう。
食べさせてくれてから20分くらい経った。食器を下げてくると言い、千秋は部屋を出た。そういえば、千秋は何時までいてくれるのかしら。それは千秋が戻ってから聞こう。とりあえず、戻ってくるまで寝てよう。
「千聖、入っていいか?」
「どうぞ」
「入るぞ。千聖、他に何かしてほしいことは無いか?」
「してほしいこと?」
「そうだ、何でもいい。今日は夕方までいるから、千聖が何かしてほしいことがあったら俺はそれに応じるから」
無理な注文はするなよ、彼は付け加えるように言った。分かっている、そんなことは言われなくても分かっている。本当はキスとか、好きだとか言いたいけど、こんな雰囲気で言ったら台無しだ。もし言っても、千秋がどういう反応をするか分からない。
それはやめた方がいいわね。フラれたりでもしたら私の身が持たない。だから、今日は千秋が許してくれる範囲で言おう。私は千秋に最初の注文をした。
「じゃあ、隣に来てお話を聞いてくれる?」
「それでいいのか?他にもあるだろ?汗を……拭いてくれとかさ……」
「そこまでは頼まないわよ。汗を拭くなんて、千秋に出来るの?」
「それは……」
「私が中学生の時、汗拭いてくれてたけど、顔を赤くしながらやってたでしょ?そんな人が出来ると思う?」
「
千秋が肩を沈ませながらフランス語で言った。この様子だと、無理みたいね。あーんは頑張ってたけど、汗を拭いてくれるっていう辺りは駄目なのね。
私は千秋に話をした。映画でロシア語の吹き替えをやったこと、前に話した舞台のオーディションに受かったこと等を話した。千秋は笑いながら話を聞いてくれた。やっぱり、好きな人が側にいてくれるのは嬉しいわね。
▼▼▼▼
千聖の体調は回復した。熱は下がったらしく、後は寝れば大丈夫とのことだった。よかった、千聖が無事でよかった。
「今日はありがとうね」
「俺は大したことはしてない。千聖、外に出て大丈夫なのか?」
「見送るくらいはさせて、そうしないと私の気が済まないの」
「そっか、明日は学校来れそうか?」
行けるわ、千聖は笑顔で言った。それなら問題ないか。俺は千聖が学校に行ける事を聞いてホッとした。さて、もう帰るか。長居していると、噂になりかねん。それだけは避けないといけない。
俺は千聖にまた明日なと言って門を出た。しかし、門を出る直前に千聖に止められた。更に、こっちを向いてとまで言われた。今度は何だ……。
「千秋、目を瞑って」
「瞑る?何をするつもりだ?」
「いいから!」
「あ、ああ……」
彼女の言われるまま、俺は目を瞑った。何をする気だ、俺はこいつに疚しいことをしたのか?もしかして叩かれるのか?嫌な予感がするな……。
ーーこれは、お礼よ。
頬に何かが迫った。これは……何だ?柔らかい感触がしたが、気のせいか?俺は目を開けることにした。目を開けると、千聖が顔を赤くしていた。
「千聖、お前何を……」
「お、お礼をしたかったの!」
「は?」
「えっと……その……千秋のほっぺにアレをしたの!」
「おい待て、何をした!?」
「じゃあまた明日!さよなら!」
千聖は顔を赤くしながら走っていった。さっきのリップ音、柔らかい感触、あとお礼……アレ……まさかあいつ!?
「卑怯すぎるだろ千聖。そんなことをされたら、また……」
好きになっちまうじゃねえか、俺は口に出しそうになった。いや、やめよう。俺の青春は過ぎ去ったんだ。いくら千聖が優しくても、また好きになるのはマズいだろ。
俺は千聖のことが好きだった。だが、それは過去形だ。俺とあいつが付き合うことは、世間は許さないだろう。俺は教師で千聖はアイドル、そんな禁断の恋は夢のまた夢だ。
「もし俺の恋が叶うのなら……」
チャンスはあるのか?いや、無いだろうな。そもそも、千聖が俺のことをどう思っているか分からないんだ。僅かな希望に縋るよりも、あいつの幸せを願った方が断然マシだ。
だからやめるんだ。俺じゃあ千聖とは釣り合わない。今回の看病は幼馴染としてやったんだ。幼馴染が困っていたからやったんだ。そう自分に言い聞かせながら、俺は帰路に着いた。
希望に縋るよりも幸せを願うほうがマシだ