雷鳴のようなその音が「笑い声」であることに気付いたのは、嬉々としてこちらを見下ろしてくる彼女と目が合ってからだった。
しかしながら観察するその笑いが本来の感情に根差したものではないことにもすぐに気づく。
口角の両端を吊り上げた表情こそはなるほど「笑い」の形にはなっているが、朱の眼球の中へ目一杯に瞳孔を見開かせた表情にはおおよそ喜びというものは見られない。
おそらくはオオカワウソの怪異と思しき彼女には、おおよそ感情というものは見られなかった。
しかしながら今の状況における最大の理不尽は、彼女のその大きさにあった。
遠目に確認した時にはさして違和感も感じなかったが、徐々に彼女が近づくにつれて俺はそれに気付く。
巨大なのだ。しかもその差は数センチの差などではなく優に俺の10倍……否、山を見上げるほどの差があった。もはや生物の域を超えている。
それに気付き逃げ出した俺を間近まで近づいていた彼女も気付き、さらには笑い声をあげては追いかけてきた。そして状況は今につながる。
生涯最大の必死さで走りながらももはや逃げ切れないことは確信していた。
これだけの体格差があるのだ。俺が全力で走る距離など、彼女には一歩と言わず追い付かれてしまう。
どこか横道に逸れて逃げられないかとも周囲を見渡したが、場は俺の進行方向に伸びる無限の回廊とさらに数キロ先まで見渡せる左右には、件のオオカワウソにも劣らぬ巨大さでコンクリート製の壁が天に絶壁をそびえ立たせていた。
こうなっては外壁から外へ飛んでパラシュートを使う緊急脱出すらも使えない。
いったいどうしてこうなったものか……。
最初この階に到達した時、エレベーター内から伺う階の様子に異変は見られなかったことから、不用意にも俺はその階を進んでしまった。
そして怪異に気付いたのはしばし進んだ後であった。
ふと身を寄せる傍らの壁面が、天も確認できぬほど巨大になっていることに気付く。
降り立った時は他の階と変わらぬ2m程度だったはずの天井と通路は無限の広がりをそこに作り出していて、その時になって俺は初めて己の迂闊さを後悔したのだった。
ここを訪れる前の階でネズミとカナリアを消費してしまった時点で引き返すべきだったのだ……それをつい今日の成果を稼ごうと焦るあまりに慎重さを失ってしまっていた。
しかしながらこんな後悔も後の祭りだ。
張り付くようなオオカワウソの地を駆ける足音がもう、背後のすくそばにまで迫っている。
普段は聞き取ることなどできないしなやかな彼女の足音も、このサイズ差では接地した足裏が地からはがれる粘着音をこうまでも巨大に鳴り響かせている。
そして追い付かれたと思った矢先──俺は背に激しい衝撃を受けて前方に飛んだ。
想像するに、俺に追いついた彼女の爪先が俺の背を蹴ったのだろう。
背の肋骨が砕けるくぐもった感触が全身を駆け抜け、地に頭から叩きつけられて二転三転するや、翻弄されていた体が止まると同時に激しく吐血した。
呼吸が完全に止まる。体も動かせない。
ただ意識だけが死ぬまでの光景を俺に見せ続ける。
見上げる目の前にはあのオオカワウソが居た。
屈みこみ、食いしばった牙の口角を下げては怪訝に見降ろしてくる視線を捉えると、ついに俺も死ぬことを確信する。
おそらくはあと数秒も生きられないだろう。
唯一の救いはこの死が怪異によるものではなかったということだけか。あの得体の知れない恐怖に駆られないで済むのは幸いだった。
やがて意思とは別にまぶたが重く閉じ始めると、いよいよ以て俺は死を意識する。
最後の瞬間、彼女が俺に対して手を伸ばしてきたことが確認できた──……
■ ■ ■ ■
『──オイ、起きろ。もう大丈夫なんだろ?』
そう呼びかけられて俺は目を覚ます。
どこか箱の中にでも入れられているのか両手足を畳みこまれたその空間の中で目覚め、俺は寝ぼけた視線を上げる。
寝起きの意識は取り留めもなく散逸して、ただ現状を理解できずに混乱するばかりの俺は改めて声の人物を確認しては──一気に覚醒して自我を取り戻す。
目の前にいたのはあのオオカワウソであった。
見間違えようもない、俺が死ぬ瞬間に見つめていたあのオオカワウソだ。
しかしながら今度はサイズが正常であった。
見開かれた瞼と剥きだされた歯茎の面相は変わらぬが、その身の丈はむしろ俺よりも小さくすら見受けられる。
やがて俺は上体を起こし、詰め込まれていた箱から頭を出して周囲を確認すると自分が何処にいるのかを確認した。
場所は『複製機の部屋』であった──そして俺はそこにて再生を……否、「作り直された」ことを確認した。
「お前が……助けてくれたのか?」
複製機の箱から這い出ると、俺は礼も忘れてそんな疑問をぶつけていた。
『助けたんじゃない。実験だ』
一方でオオカワウソもそんな俺の無礼など気に掛ける様子もなく淡々と答える。
そして俺はあの通路に置いて何があったのかを彼女から知らされることとなった。
俺が怪異を経験したあの階は、ある一方の入り口から進むと侵入者の尺を縮めてしまう作用があるとのことだった。
以前に彼女は仲間と一緒にそこを訪れたことがあり、その時はネズミボトルにて怪異のからくりを確認したのだそうな。
ならばと俺は疑問に思う。
進むほどに縮む通路であるというのなら、なぜに彼女は常時のままでいられたのか? ──と。
『階段からあの階に入ったのさ』
にべにも無く彼女は応える。
『実験であった』とも言った。
エレベーターからの侵入で縮小されるというのなら、階の中頃から入る事の出来る階段から侵入した時にどう変化が生じるのかを実験したのだという。
その試みを聞かされて、俺は当然のような恐怖と疑問に駆られる。
「もしエレベーター側からの侵入と同様に縮小されてしまったらどうするつもりだったんだ?」
『その時は死ねばいい』
「はあ?」
『死ねばいい。死んでこの複製機で復活すればいい。そういうことだろ?』
しばし、彼女の言葉を脳が理解できずに考えが空転した。
そしてなるほど、なんとも理知的な彼女の狂気に感嘆せずにはいられなかった。
この部屋の『複製機』はある程度の肉体の欠損ならば、生前と変わらぬ状態で複製してくれるのだ。
オオカワウソの目論見とは、もし肉体が縮小したならばその時はわざと死亡して、ここで複製されれば良いということであった。
何とも狂っている。
そもそもこんなマンションの攻略に挑んでいる俺とて正常とは言えないが、このオオカワウソ達はさらにその上を行ってぶっ飛んでいた。
「ともあれ助かった……ありがとう。なにか欲しくないか?」
改めて礼を述べ、見返りを差し出そうとする俺に対しオオカワウソは意外な行動に出る。
『要らない』
ただ一言、そう断ったのだ。
これには俺も面食らう。
しかしすでに、俺は今回の報酬ともなるべき礼を既に彼女に渡していたことにも気づく。
それこそは、
『アタシがやろうとしていた実験をアンタで行えた。その結果も知れたし、あの階を通路側からエレベーターに戻る分には体が縮まらないことも分かった』
そうなのだ……俺はすでに、彼女が一番知りたかったことをこの身を挺して教えていたのだった。
しばし俺の体を舐めまわすように観察すると、彼女は別れの挨拶も無く背を向けてエレベーターへと歩いて行った。
むしろその後ろ姿に俺がなにか声を掛けたものかとも困惑したが、そんな俺の思惑などよそに彼女はエレベーターに入り、そして去っていった。
エレベーターに乗り込む瞬間、どういう心境か彼女は『ハハハハ』と哂った。
後には本当に俺一人だけが残される。
そうして自分の手の平を改めて見降ろす。
ついに複製機を使ってしまった──それこそは、ついに俺もこのマンションの怪異の一部になってしまったという事実だった。
「はぁ……仕方がない。命があっただけでも良しとしよう」
呟き、俺もエレベーターを呼び寄せる。
暫しして扉が開くと、何者か肉食獣の少女が一人その中に立っていた。
背にはもう一人、血にまみれた小柄なフレンズを背負っている。
おそらくはこの肉食獣もまた、このマンションの攻略中に仲間を死傷させてしまったのだろか?
互いの存在など無いかのよう、視線すら合わせずに入れ違う俺は、すれ違う瞬間にふと肉食獣の横顔を見た。
均整の取れた口元は鼻先まで血に濡れていた。そしてその顔にはこれ以上にも無い充実感が漲っているのを俺は確認する。
エレベーターの扉が閉まるまでの間、俺はそんな肉食獣の行動を観察する。
おおよその予想通り肉食獣は背のフレンズを箱に入れ、鼻歌まじりにパネルを操作していた。
その様子からは仲間の死に対する焦りや悲しみなどは見られない。この部屋がある限り、もはやこの肉食獣や先のオオカワウソ達には死への感情は湧き上がらないのだろう。
彼女達もまたこのマンションの怪異の一つなのだ。……俺と同じくに。
なのだとしたら仲間とともにここを探索するのも悪くないような気もしてきた。
考え出すと俺の頭はもう、新たな仲間をこのマンションに呼び込む思惑で一杯になっていた。
【 終 】