『本当に何も覚えてないのか?』
彼女から発せられる数度目かの問いかけは、如実に困惑と不安とを感じさせる響きがあった。
一方の俺はというと、
「いったい……何が何やら……」
ただ頷くしかできないことに若干の申し訳なさを感じつつもしかし、当惑してもいた。
俺には今この瞬間に至るまでの記憶が全く無かったからだ。
見知らぬベットの上で起こされ、訳も分からぬままにエレベーターに乗せられた。
目の前の彼女──おそらくはオオカワウソのフレンズと思しき少女は最初、愉快気に寝ぼけ眼の俺をからかい続けた。
しかしながら目の前の彼女が何者であるのかも分からなければ、いま自分が何処にいるものやらも分からぬ俺は、思ったままにその疑問を投げかける。
それを受け鋭い笑い声を上げた彼女ではあったが……やがてはその笑い声も鳴りを潜めていくこととなる。
自分との会話が全くかみ合わぬことを訝しんでは、なおも彼女は質問を続けた。
曰くそれは、共に『異形』と呼ばれるオオカワウソを殺した話や、はたまたバザールなる催しに一緒に出掛けた時のこと、さらには俺達が深い仲にあることを思わせるようなことも、『覚えてはいないのか』と尋ねられたが──そのどれ一つにも俺の心の琴線が震えることはなかった。
そうしてしばしの問答の末、絞り出されるように発せられた言葉こそが──
『本当に何も覚えていないのか?』
先の問いかけであった。
その後俺は、『俺の部屋』であるのだというマンションの一室へと連れていかれた。
入室し、おそらくは自分の部屋と思しき場所に通されると、なるほど確かにと俺も一応の納得はする。
身に覚えのない空間とはいえ、家具や什器の並びや机上の資料と思しきノート類の整然とした雰囲気は確かに俺のものであると思わせる。
『なあ……お前、ナニモンなんだ?』
部屋に落ち着くや、彼女の質問にも変化が生じた。
このマンションにいた俺のことを尋ねていた質問から、もっと俺個人を掘り下げるものへと変わったのだ。
「俺は──『宙象学』を専攻している准教授だ。未熟ながら教鞭も振るっている」
『……ハハ? きゅうしょうがつ?』
一聴では理解の及ばぬであろう彼女へと俺もかみ砕いて捕捉をしていく。
「『ちゅうしょうがく』、さ。『空象学』とも言うな。──自然界に存在するコードやパターンといった規則性のある現象から、様々な意味合いや発見を追求していくという学問だ」
例に挙げるならば蜂が巣作りの際に組み上げる正六角形の集合体──『ハニカム構造』は、その立方体の強度を高める仕組み故に、俺達の世界においても航空機の主翼や人工衛星の装甲にその技術が運用されている。
自然界にはこうした人間界に転用可能な『技術や知識』(コード)が数多くあり、そのパターンを研究することにより更なる技術の革新とそして発見を促す学問こそが『宙象学』である。
そしてその学徒たる視点に立った時、確かにこの『怪異』なる現象が満ちる此処(マンション)は最高の研究対象のように思えた。
おそらくは過去の俺も同じことを考えてはこのマンションに居を構えたのであろう。
そしてその研究の途上で巡り会った協力者こそが、目の前に座るオオカワウソのフレンズであったという訳だ。
「俺からも聞いていいかい?」
『ハハ……?』
「なぜ俺は記憶を失ってしまったんだ?」
『…………』
「さっきも説明してくれたみたいだけど、あの時は俺自身も状況が分からなくて理解が出来なかった。もう一度、詳しく話してくれないか……」
再度の俺からの問いかけに彼女は一瞥、恨めしそうな視線を上目に投げかける。やがてはそれも俯き加減に萎れると、もう一度彼女は今日の出来事を俺に語ってくれた。
『「はくちのおう」がいる階に着いたんだ……──』
つい数時間前──マンションの探索をしていた俺達はとある階に辿り着いた。
聞くだにそれは、巨大なフレンズの『なりそこない』なのだと彼女は語った。
階には同一個体のフレンズも溢れており、エレベーターの扉が開くなり箱へなだれ込んできたフレンズ達に拘束されて、俺達は『はくちのおう』の元へと引きずり出されたのであった。
『あいつはあの階に迷い込んだ攻略者を食べてるようだった……アタシ達も食べられかけた時、お前があいつと「取り引き」をしたんだ』
俺はこう言ったのだという──
[ このマンションにおける俺の全ての記憶を捧げる。だから、どうか見逃してほしい ]
『……──気が付いたら別の階にいた。でもお前は全てを忘れてた。大変だと思って「仮眠室」に運んでお前を探した』
彼女の言う「仮眠室」とは、いわば自分自身のバックアップが置かれている場所だ。
その部屋にて眠る自分自身を探し出して揺り起こせば今の自分は消えて、数時間──あるいは数日前の自分自身と入れ替わることが出来る。
しかしながら、そこにて目覚めた俺にもこのマンションの記憶はすべてが消されていた。
まるで端から存在していなかったかのように、俺の中にあるこのマンションの全てが消されていたのだ。
聞き終えて暫しその情報を頭の中で整理する俺と、そしてすっかり意気消沈しては項垂れるばかりの彼女との間には、ただ気まずい沈黙が流れ続けるばかりであった。
深く頭を落とすがあまり、垂れた前髪がカーテンよろしくに表情を隠してはいたが、そのことが一層に彼女の落胆を表現しているようで、俺も同情を覚えずにはいられない。
「あ、あの………」
そして場を繕おうと、特に考えも無く声を掛けたその時であった。
突如として俯いていた頭(こうべ)が跳ね上がったかと思うと──四つん這いに駆け寄る彼女は、瞬く間に俺との間合いを詰めた。
その俊敏さと流水のような滑らかさはまさにオオカワウソのそれである。
彼女は俺を押し倒すや、見上げる俺の左右に両手をついて組み敷く形となった。
見下ろしてくる視線を絡ませればそこには──下唇を噛みしめては涙をこらえる、彼女の必死の形相があった。
『……認めない!』
その表情のまま、彼女は強く発する。
『お前はどこにも行っちゃいない! 死んでなんかない! この場所の全ては、絶対にお前の中に残ってる!』
発するうちに彼女の感情も徐々に昂っていく。
垂涎や洟、そして涙といったあらゆる液体が俺の顔をしとどに濡らしたが──それを汚らわしいとは思わなかった。
そこに感じる温もりがただただ申し訳なく……そして嬉しくも感じた。
『今度はアタシが助けるんだ! 助けて、みせるから……』
絞り出されるよう発せられていた彼女の言葉が、最後まで明瞭さを保つことは出来なかった。
やがては一息大きく洟をすすると、彼女は俺の胸板に顔を埋める。
それから彼女は──長い時間をかけて『俺』を探し出す努力をしてくれた。
■ ■ ■ ■
夜半──俺は浅い眠りから目覚めた。
ふと懐に温もりを感じて見下ろせば、先のオオカワウソのフレンズが小さな寝息を立てている。
思慮深げな眉の寝顔が悲し気で、それに切なさを覚えて指先を這わせると彼女は俺の温もりを求めるように額を押し付けてくるのだった。
結局、彼女の努力もむなしく俺の記憶が戻ることは叶わなかった。
俺達は数時間をかけ思いつくままに試行錯誤を重ねたが、やがては疲れ果てて眠りについた。
彼女を起こさぬようベッドから抜けると、その縁に腰かけて俺は暗がりの虚空を見やる。
頭の中には徐々に、俺がこのマンションに関する記憶を失ってしまったことの喪失感と恐怖とがこみ上げてきていた。
周囲の人間にとって、親しき者の記憶の喪失──それまでの人間性の喪失は、すなわち個人の『死』と同義である。
肉体の消失ばかりが死ではないのだ。
むしろ良く知る顔が残り続ける今の状況の方が、よほど彼女にとっては辛いものであったあろう。
そんな『死』を意識することは、同時に俺の精神にも変化を起こしていた。
俺は、今さらになって恐ろしく思い始めている。
今後、俺は何を拠り所に生きたらよいものか──このマンションを捨てて日常に戻ればという考えにも思い至ったが、それは出来ない事のように思えた。
修行僧でもあるまいし、ここで過ごした数年間を白紙にして日常に戻れるほどの諦観になど俺の精神性は達していない。
そもそもが俺はこの場所で何を見つけ、そして何を残していたのだろうか?
ふと、そんな原初の疑問が湧いた。
今まで『無くした事実』にばかり気を囚われて、肝心の『何を無くしたのか』に考えが及んではいなかった。
ベッドから降り、とりあえずスラックスだけを履くと俺は部屋の周囲を見渡す。
そうして部屋の隅に置かれたデスクに目を止めると、俺はそこへ進んでいくのであった。
卓上ライトの角度を調整し、明かりがベッドに届かないようにすると俺は照明のスイッチを入れる。
照らし出される机の上には数冊のノートが整然と並べられていた。
どうやら昨日までに俺が書き残した、このマンションに関する記録の数々らしい。
どこから手にしたものか迷った結果、俺は日誌を思しき一冊を手に取った。
日付は3年ほど前の2月から始まる──。
かねてよりこのマンションの『怪異』を聞きつけていた俺はこの日、ついに意を決してマンションへの居住を決めた。
入居の手続きはあっけないほど簡単ものではあったが、以降そこで過ごす日々は恐怖と緊張の連続であった。
ここに在る『怪異』とはおおよそ自然界の法則性とはかけ離れたものであり、果たしてこれの解明が宙象学、しいては人類社会の発展に貢献できるものであるのかどうかはいささか疑問ではあった。
しかし反面、俺は此処の調査にのめり込んでいった。
この場にはある種の捕食者が発する誘引物質のような魅力があり、それが徒労とは分かりつつもなお、此処における探求と研究とに俺を縛り付けていた。
そうして数か月前になるあの日──とある重大な出来事が起きる。
[ 2月20日 ── オオカワウソのフレンズと遭遇する。 ]
彼女こと──『相棒』との出会いであった。
この日を境に俺の『日誌』は、『日記』へと変わっていく。
今までの無味乾燥とした記録は途端に喜怒哀楽の彩を帯び、さらには書き手である『俺』の個性までもがそこには生れていた。
相棒と過ごす日常がどれだけの輝きと喜びに満ちていたのかを『過去の俺』から知らされた時──それを読む俺の目には止めどもなく涙があふれていた。
この部屋に戻ってきた時、相棒は『この場所の全ては絶対にお前の中に残っている』と言ってくれた。
その言葉に間違いはない。
なぜならば今、こんなにも感情を揺り動かされている俺こそがその証拠だ。
途端に冷めていた脳や肉体に血が巡るのを感じた。
今の日誌を始めここに残された記録の数々を読み進めると、そこに留められていた知識と記録とが再度俺の中に蓄積されていくのを感じた。
ようやく俺は、生き返ったような気がした。
同時に切なくなった。
相棒の顔が観たくてたまらなくなる。
ライトを消すと、俺は再びベッドへと戻った。
抜け出した時と同様に相棒を起こさぬよう忍び込んだつもりであったが、相棒は俺の気配に気付いて僅かに瞼を開けた。
まつ毛が被さる程度に薄目を開いては、まだ寝ぼけているのか無表情に俺を見つける。
やがて、
『………思い出したか?』
呟くようにそう尋ねてきた。
そんな相棒のか細い声に俺は胸を締め付けられんばかりの切なさを覚える。
そして相棒を懐に引き込むと、
「あぁ……思い出したよ。ごめんな、心配させて」
俺はそう答えて深く抱きしめるのだった。
『ハハ……本当? ……良かったぁ………』
それを受けて相棒もまた俺を抱き返すと、そのまま再び眠りへと落ちていくのだった。
「もう大丈夫だよ……ありがとう……もう、大丈夫だから」
彼女を抱きしめたまま、いつしか俺も抗いがたい睡魔に襲われた。
『今日まで』の俺は確かに終わってしまったのかもしれない。それでもしかし、『これから』は続いていくのだ。
失くし無くされは世の常であり、ちっとも不思議なことじゃない。ならば今日の『無くしてしまった自分』もまた、これからの人生の糧にしようと俺は決めた。
その道は決して生半なものではないだろうが、きっと大丈夫だ。
俺には相棒が居る。
完全に眠りに落ちる直前、俺は無くしたはずの生前の記憶を観たような気がした。
遠く過ぎゆく光のようなそれを、俺はあふれる涙も拭わずに見送った。
【 終 】
■ ■ ■ ■
数時間前──
エレベーターのドアが開くなり、群がるフレンズ達に拘束され俺達は白痴の王の御前へと差し出された。
そうして相棒と二人、巨大な彼女に取り込まれようとしたその時──俺はかねてよりこの時の為に用意してきた『交渉』を試みることとした。
「白痴の王よ……取り引きを、したい」
如実に俺の言葉に反応し、眼前のそれはもとより周囲のフレンズ達ですらもが動きを止める。
その間隙を縫って俺は傍らの相棒へ向き直ると、前置きも無く彼女を強く抱きしめた。
『ハ、ハハ……なんだ、こんな時に?』
「………今日まで、ありがとう」
当然の如くに困惑する彼女へと、俺も唐突とは分かりつつ半ば一方的に言葉と想いをかけていく。
「今日までお前と一緒に居られて楽しかった……嬉しかったよ。本当に、ありがとう……」
『ナニ言ってるんだ、お前?』
「……もしかしたら、もうお前の知ってる『俺』じゃなくなるかもしれないけど、それでもどうかこれからも傍にいて欲しい」
語りかけながら、込み上がってくる涙と感情を抑えるがあまり俺の声は哀れなほど上ずっていた。
「どんなに変わっても俺は俺だ。どこに行かないし、『俺』は絶対に俺の中に残ってるから……どうかまたそれを思い出させてやって欲しい」
感情的になっている俺とは対照的に、事態すら飲み込めていないといった相棒は困惑しきりにただ抱き返すばかりだ。
創作だったのならこういう別れ際には、相手からも何か感動的な返しがあるものなのだろうが、どうにも現実は違うらしい。
とはいえしかし、こんな状況もまた相棒らしくてなんだか俺はおかしく思えてしまうのだった。
一頻り抱擁をすると俺は相棒から離れ、改めて白痴の王へと向き直る。
「白痴の王よ──このマンションにおける俺の全ての記憶を捧げる。だから、どうか見逃してほしい」
巨躯なる虚無の器は、しばし俺を見つめた。
やがてか細い鳴き声のような文言を謳うように奏でると、俺の体は眩く発光した。
途端にそれまで身を縛っていた重力からも解放されたような心地になり、その不思議な感覚に思わず俺は我が身を振り返った。
一歩後方には相棒と──そして俺が居た。
正確にはもう『未来の俺』である。
いま認識している自分は、すでに白痴の王へと奉げられた『過去の俺』であった。
[ 不思議な気分だな…… ]
訳も分からないといった表情でこちらを見つめ続けている相棒と自分に、俺は場違いにもおかしくなっては微笑んだ。
[ 頼りない奴だからどうか支えてやってくれ。お前も、コイツのことを大事にするんだぞ…… ]
白痴の王に引き寄せられているのか、はたまた自分から歩んでいるのか、俺と未来達との距離は徐々に遠くなっていった。
それでもしかし、今の俺に後悔や恐怖などは微塵も無い。
まるで長旅の果てにようやく家路へ着いたかのような安堵感すら感じていた。
やがては振り返っていた視軸も完全に振り切ると、俺は前へと大きく一歩を踏み出す。
背後からは数多の光の粒子達が俺を追い越しては、前方の更なる大きな光へと集結していく。
まさに俺も今、これの一部になるのだ──そう実感した時、今日までに至る俺の生命はこの瞬間に行きつくために在ったのだと気付く。
同時に肉体の器に囚われていた時には思いも至らなかった全ての謎が解け、俺の頭はこれ以上に無く明瞭になっていた。
それは宇宙の真理であり、人が何処から生まれどこへ向かうのかということであり、空や海が青い理由であり、その中にはこのマンションの存在理由ですらもが含まれていた。
何一つとして思い残すことのない幸福の中において、やがては俺を模る人としての輪郭もが曖昧になっていくのを感じた。
ついには光となる。
俺の旅は、今ここに終わりを迎えた。
【 完 】