何の変哲もない階だ。
普段ならばすぐに調査を切り上げてしまうようなはずの場所は──今やどの場所よりも珍妙な怪異で満たされていた。
エレベーターを降り最初に目についたのは、この降り口付近に塗りつけられた無数の足跡であった。
靴底の判を押したような形ではなく、おそらくは何者かフレンズのものであろう踵の無い足跡は、つい数刻前までその集団がここに居たことを生々しく物語っている。
しかし何もよりも俺を戦慄させたのは、その足跡を捺印たらしめている汚れが、全て血痕であるという事実であった。
考えるに攻略勢の一団がここで何らかの怪異に襲われたのだろう。
状態を変化させるギミック的な怪異に巻き込まれたか、あるいは単純に凶暴なモンスターの類と遭遇したのか……こういった変哲もない階ほど注意するべきものなのだと改めて俺は思う。
以前に昇降のボタンを押し間違えた際、エレベーターが不思議な階に辿り着いたことがあった。
奥行き5メートル程度の縦長な階で、エレベーター内から見渡すその階は視線の先に行き止まりの壁面が窺えていた。
その階もまた別段、怪異の兆しは見られなかった。
部屋も階段も無い個室のようなそこが何の為に存在しているのかと疑問に思い、ふと降りかけたその時──俺はソレを発見したのだった。
そこにあったモノは何者か攻略者の死体であった。
壁面に背を預け両足を投げ出した攻略者は微動だにしない。俯いて、長い前髪を柳のように垂らしたその姿を見るに、あるいは女であったのかもしれない。
しかしながらその存在こそが俺をエレベーター内に踏みとどまらせてくれたのだ。
覗き見る遺体に外傷は見られない。ということはこの場所で窒息、あるいは餓死したと推測された。
ならば何故この攻略者は斯様な死を迎えねばならなかったのか? その思考を突き詰めた俺の答えは、この攻略者が『ここに閉じ込められた』という事実であった。
おそらく先の俺と同じように、『何の変哲も無い』この階に疑問を感じて降り立ったのだろう。そうして歩いて数歩の突き当りを調べているうちにエレベーターの扉は閉じる……後は御覧の通りだ。
思うにこの階は一方通行なのだろう。
降りて、終わり。帰りは、無い。
そうしてこの場所で朽ちるのだ。
そのことを知っているだけに、いま目の前に広がる階下の様子に俺は降り立つことを躊躇わずにはいられない。
しかしながら、得も言えぬ探究心を刺激されてもいた。
この階には先の血糊の足跡以外にももう一つ、他の階では見られぬ怪異が満ちていた。
それこそは、花だ──似つかわしくも無い美しい花々が、奥に続く通路の所々に咲き乱れていた。
見たこともないような種類であり、そして光るかのごとくに発色の良い透き通った花弁の姿は、今まで見たどんな花よりも美しく俺の目には映った。
改めて階の通路を見渡し、回廊の途中に階段がありそうな従来の造りや、さらにはすぐ脇の立ち上がり壁から外への緊急回避も可能なことも確かめると俺は意を決する。
生唾を一つ飲み込んで階下に第一歩を踏み出した。
通路を歩き進むと、足元は花と血痕とが入り混じった何とも猟奇的な様相を呈している。
美と恐怖とが混在するという相反した状況は、俺如きの想像力ではどんな怪異の結果であるのか想像もつかなかった。
そしてある花の密集点で俺はその答えの片鱗を発見する。
最初にそれを見つけた時は意味が分からなかった。そしてそれを確認し、この階に下りたことを後悔した。
足元の花々の一角に、何者か生物の顔が見えた。
誰かフレンズの一人ではあるのだろうが、最初はこの花畑の中に埋もれていると思っていた。
生存者かと思い、声を掛けようと屈みこみ──俺はそこにて、この花々の怪異の事実を知った。
花は、かのフレンズの眼球から咲いていた。
花は、フレンズの遺体を苗床としていたのだ。
まさかと思い、道々に咲き誇る花場を調べて回る──俺の予想は間違ってはいなかった。
花を掻き分けてその根元を調べるとたいていは生物の肉地が窺えた。
完全に花と化しているものも、よくよくその全体を見下ろせばそれが『人の形』であることが窺える。
しまったと思った。
この階には、攻略者を花に変えてしまう何かが居る。
単独で探索をする俺は、外敵に対しての抵抗や攻撃を加える手段など持ち合わせてはいない。襲われれば一巻の終わりだ。
すぐにこの場所からの離脱を試みるべく立ち上がろうとした俺はしかし……それがすでに手遅れであることを悟った.
目の前に──既にソレが居た。
まだ片膝をついたまま立ち上がってすらいない俺の目の前に、全身を花に包まれた人型がゆらゆらと蠢いていたのだ。
頼りない足つきで右に左にふらつく姿こそは緩慢であるが、こういう手合いは油断が出来ない。思わぬ瞬発力を見せる場合があるからだ。
しかしながら、それ以前に今の俺の状況は完全に詰んでいる。
防衛に関しては受けるにも攻めるにも俺には手段が無い。武器も防具も無いのだ。
逃げるにしてもそれはこの怪異に背を見せることになる。狩ってくれと言ってるようなもんだ。
そんな状況に置かれ、しばし怪異と対峙しながら『こんな時に仲間が居れば』などと意味も無いことを俺は考えてしまう。
考えたところで詮無いことであることは分かっている。
しかしもし背を預けられる仲間がいたならば、そいつの助けを手に逃げるも攻めるも出来たはずだ。こういう時にこそ仲間の存在は重要なのだと、今に至って俺は思い至るのだった。
そうしてどのくらい見つめ合っていただろうか。
その違和感に俺は疑問を持ち始める。
目の前の人型は一向に襲い掛かってくる様子が無い。
変わらずにあの光る花弁を左右させるばかりである。
もしかしたら無害ではないかと俺は考える。否、願う。
願いつつゆっくりと立ち上がり、俺は正面にそれを見据えたまま一歩後ずさった。
それでもしかし花の怪異は動かない。
もう数歩そうして下がり、それとの距離が数メートルは離れたところで俺は動きを止めた。
また悪い癖が出た……俺は、目の前のそれに興味を持ってしまった。
依然として警戒に見据えたまま、今度はそれへと歩を進める。
一歩ずつ近づいて至近距離まで迫ると、俺はその人型を観察した。
「コイツ……生きてる!」
そして戦慄した。
呟く通り、その花は生きていた。植物としての定義ではなく、変質させられた元のフレンズの原型がまだその芯に残っていた。
「おい、聞こえるか? 俺が分かるか? おい!」
耳元と思しき場所で大きく声を掛けるも、人型は依然として揺れ動くばかりだ。
しかしながら、コアにまだ生命があるというのなら助かる可能性もあるような気がした。
しばし考えた後──俺はかの人型の肩を担いだ。
全身のほとんどが植物化しているせいか、俺の肩口までの上背がありながらそれは恐ろしく軽かった。
そうしてエレベーターまでの距離を戻るすがら、俺の歩調に揺れ動かされた人型は得も言えぬ芳香を漂わせた。
青く瑞々しい香りの中、ほのかに陽の匂い思わせる甘さが清々しく鼻腔をくすぐる。
その香りを胸に吸い込むと、俺はこの異形に執着を持ち始めていることが自分でも分かった。
ふと考える。
コイツをこのまま自分の部屋に持ち帰ってしまおうか、と。
先の邂逅からも分かる通り、これは素早く動くことはできない。一度囲ってしまえば逃げられる心配は無いのだ。
植物というのならば管理も難しくは無いように思えた。
そして想像する──攻略から疲れて帰ってきた俺が、この香りの満たされた部屋に迎え入れられることを。
この香りに包まれたのならば一日の疲れがどれだけ癒されることであろうか、と。
そんなことを考えているうちに俺はエレベーターへとたどり着く。
依然として左肩にそれを担いだまま昇降パネルの操作をする。
さて、どこに運ぼうものか──俺はもう一度、隣のそれを見た。
■ ■ ■ ■
「……──おい、どうだ? 起きたか?」
『…………』
ゆっくりと覚醒したそれは、見上げる俺の顔を確認するや寝ぼけ眼をまぶしそうにしかめさせた。
その視線を外ししばし胸元の宙空を見つめた後、緩やかにそれは覚醒した。
『……どこだ、ここ?』
箱の中から起き上がってきたのは、オオカワウソのフレンズだった。
どうやら『実験』は成功したようだ。
あの後、俺は彼女をこの複製の階へと運んでいた。
そこの機械を操作すること自体は初めてであったが、箱の上蓋に走り書きされた操作法をたどたどしく辿ると、彼女はいともたやすく複製されたのであった。
まだ『芯』に元(フレンズ)の原型が残っていたことが功を奏したのだ。機械は正常な状態の彼女を複製してくれた。
現状を説明するまでもなく、彼女は起き上がると自分のいる箱と、そしてかの花の怪異が収められた箱を交互に見やる。
そして何事も無かったかのよう箱から出るや、オリジナルの収められた箱まで歩きその中にいた人型を引きずり出す。
次の瞬間──オオカワウソは、かの怪異を……元は自分自身であったあの花を膂力に任せて引き裂いた。
あまりの唐突さと躊躇の無さに、その瞬間マヌケにも俺は「あ!」と息を吐きだすことしか出来なかった。
そうして見守り続けるその先では、
『ハハハハ! ハハハ! ハハハハ!』
笑いながら地に散らばしたその花を念入りに蹴り散らかすオオカワウソ──まだ芯が残っていた花は、たちどころに血にまみれて無残な残骸をそこに晒すばかりとなった。
花が動かなくなるまで蹴りつけ踏み続けるとオオカワウソは笑いと虐殺の手を止める。
しばし足元を感慨深げに眺めた後、やがては俺とその残骸に背を向けてエレベーターへと歩き出した。
一方の俺はといえば、ただ見守るしかできない。
この状況は、つい最近に別のオオカワウソに助けられた時と同じであった。
彼女達はいつも俺の存在など歯牙にも掛けないのだ。
と──今回はしかし、別の動きがあった。
エレベーターの扉を前にオオカワウソは動きを止めた。
そうしてその扉の前でしばし俯いていたかと思うと、立ち去った時と同じくらいの唐突さで振り返り、再びこちらへと戻ってきた。
「な、なんだ……?」
俺のすぐ前──否、互いの胸元が触れ合うほどにまで迫ると、オオカワウソは噛みしめた歯牙をむき出しては威嚇するような、あるいは値踏みするような視線を俺に向けた。
礼を言い出すような雰囲気ではない。
争うとあれば、到底俺などは歯が立たない。何をされるものかとただ待ち続ける俺に、
『一緒に行こう。これからはお前と行く』
「はあ?」
彼女はそう言った。
そして訝しげであった口角が釣り上がり、両眼の見開かれた顔へいっぱいの凶悪な笑顔を見たした。
「は……はは」
そんな提案と笑顔を前にどう答えたらよいものか、ただ笑うしかない俺の声に反応して、
『ハハハハ!』
彼女は唐突に笑いだす。
それにつられて俺も再び遠慮がちに笑う。
さらにそれに反応して彼女は笑い声を大きくさせる。
つられて俺の笑い声も大きくなっていく……暫しの間、俺達はそうして笑っていた。
そうして笑っていると次第に、俺は全てがどうでもよくなってくるのだった。
【 終 】