前企画(5月のバザール)完了前に新しいエピソードを投入してしまうご無礼をお許しください。
降りた時の印象は、何も無いという感想に尽きた。
新規階そこは十数メートル先に伺える別のエレベーターまでを一本道に結ぶ回廊で、ぱっと見の印象は以前に訪れた『たまに暗い廊下』とまったく同じ造りの様に思えた。
しかしながらこういう階こそ危ない。ましてや一度、そこで死にかけたかもしれない俺である。
ネズミボトルによる数メートル先の無事も確認し、天井のチェックも入念に済ませると俺達は、なおも注意深くそこへと踏み出した。
とはいえ廻廊の半ばにまで至っても、場には何の変化も現れなかった。
もはや行先(ゴール)であるエレベーターのドアも間近まで迫り、
『ハハハ、何もない。ハズレ!』
「気を抜くな。前の子供に戻る階のこともある……少しでも異変を感じたら引き返すぞ」
つつがなくこの階の探索を終えようかと思われたその時であった。
『………──』
異変が現れた。
「ん? おい、どうした?」
相棒にである。
突如として黙りこくるやその場に立ち止まる。遠くを見つめるかのよう宙空の一点を凝視したまま無表情を保つその様子は尋常ではない。
「クソ……やはり何かあったか!?」
その異変に気付くや、俺は相棒を抱きよせてはチェックをする。
確認できる限りに相棒の体を前に背にと確認しては、肉体的な変化が起こり始めてないかを見る。
肉付きは良くても平坦な前面に、閉じていても股座に隙間の空く小柄な両脚の容姿は変わることの無いいつもの相棒だった。
「ということは、精神系か……」
視線を上方に投げ出し、依然として放心したまま鼻先を引くつかせる相棒の姿に、俺も怪異の系統を把握する。
不幸中の幸いは、行動を共にする俺には一切の異変は起きていないということ。加えてゴールとなるエレベーターまでは残り数メートル。
このままエレベーター内に駆け込んでしまえば逃げ切れる。あとは相棒の経過を見守りながら、最悪は仮眠室へ向かえば全ての変異はリセットできる。
「少しの間ガマンしてくれよ」
すっかり脱力しては弛緩してしまった相棒を肩に担ぎ、撤退の一歩を踏み出したその時であった。
『……ハ、ハハ………ハハッ、ハハハ!』
突如として相棒が反応した。
天に向けていた視線を正面へ落とし、落ち着きなく鼻先を引くつかせては小刻みに周囲の様子を探り始める。
両肩をいからせて前傾に背を丸めるや、左右の手の平を唇の間でこすり合わせる。
「お、おい……どうした?」
言うまでもなくその異様な行動を訝しむ俺に反応し、相棒は体ごとその視線を俺に向けた。
先ほどとは違い、明らかに俺一点を標的として捉える強い視線──何の感情も感じられないただ見開かれたばかりの瞳には、静かな狂気がそこに湛えられていた。
──確実にいつものアイツじゃない……何かに憑依されてるのだとしたら、このまま襲われる可能性も……!
俺の不安を後ろ押しするかのようじりじりとにじり寄っては迫りくる相棒に、俺も最悪の事態を覚悟する。
──肉体的にも、俺じゃこいつには敵わない。飛び掛かられたら一巻の終わりだ……
そしておおよその予想通りに、
『──ハハッ!』
相棒は瞬発的に地を蹴っては俺に襲い掛かった。
もはや人間の動体視力を凌駕したそのスピードに、俺は避けることはおろか反応することすらできずに相棒を胸に受け止める。
あとは開かれた相棒の前歯が俺の喉笛を噛み切るかと覚悟するも……その衝撃は来なかった。
「ッッ………ん?」
我に返れば相棒は、しきりに俺の右ポケットに鼻先を押し付けてその中にある物を探ろうと必死に前歯を立てている。
それに気付いて俺もポケットの中身を探れば……そこから出てきたものは携帯食に買ったドライフルーツの小袋。
こんなものを欲していたのかと訝しんで相棒に渡すと、彼女は必死になって手の平にぶちまけたそれを貪るのであった。
前傾に屈みながら、前歯で咀嚼した食料を限界一杯まで頬の中に詰め込んでいこうとするその姿にはどこか見覚えがあった。
そしてそれがとある動物の習性であることに気付いた俺は、
「──! まさか……!?」
即座に相棒の傍らに屈みこんでは彼女のネズミボトルを手に取った。
そして眉をひそめて覗き込むそこには──
『チュ……? チュヂュ!』
俺の視線に気付いて片手を上げるネズミ……俺の予想は見事に的中することとなった。
それこそは、
「精神が……入れ替わってる?」
相棒とネズミ──この二つの精神が怪異によって交換されてしまったという事実だった。
いま相棒の中に入っている精神はネズミボトルの中で飼われていた『ネズミ』であり、そして一方のボトルの中のネズミには『相棒』の精神が入っている。
「怪異の見極めは出来た……なのだとしたら、これ以上ここに留まり続けるのも危険だな」
まずは撤退をして体勢を立て直そうと、俺は引き摺るように相棒を連れ出してはエレベーターまでの帰路を急ぐ。
しかしながら今後は一体どう対処したものか──歩みながら頭を抱えた。
これは仮眠室で元に戻るものであるのかどうか、その思案に暮れたのだ。
肉体的な変化に関しては物質である以上、ある程度の修復は利く。しなしながら『心』はどうなのであろう?
あの仮眠室の機能が『肉体』に限定されたものだとしたら、そこでの再生を経ても相棒は元には戻らないことになる。
「もしかしたら……今までの探索で一番ヤバい状況なのかもしれないな」
今後のあらゆる展開を思い浮かべては深くため息をつく俺ではあったが、その変化は存外として突如に現れた。
『…………』
忙しなく行動していた相棒の動きが、帰路を辿るうちに沈静し始めた。
俺に引きずられていた歩行も自立して行えるようになり、茫然と前方を見つめる視線は変わらないが、その眼の色には知的生物の持つ穏やかさが戻っている。
しばしして、
『……ハハ? どこ、ここ?』
言葉を発した。
その回復に驚いては俺も歩みを止める。
「戻ったのか……? お、おい。大丈夫か?」
『大丈夫ぅ? アタシ、なんかあった?』
互いの受け答えこそちぐはぐではあるが、会話と意思疎通が行えている点を考えるならばこれは喜ばしいことだ。
同時にボトルの中のネズミが気になって確認をすれば、そこには忙しく首を振って透壁を前足で掻く『従来通りのネズミ』が居て、俺は全てが元に戻ったのだと安堵した。
「とはいえ、長居は出来ないな。──とりあえず撤退するぞ」
『んあー……クラクラする。ゆっくり行って……』
足早にエレベーターまでの残りを急ぐと、俺達は火事場から逃げ出すかのような忙しなさで箱に飛び込みドアを閉じた。
そうして自宅である居住階へのボタン操作をしながら、ふと俺はある『仮説』に至る。
それこそは──
──相棒は、本当に『元に戻った』んだろうか……?
チラリと傍らを見下ろせば、依然として彼女はダルそうな様子で首を回している。
あの瞬間に入れ替わったのは『精神』だけであって、物理的な『脳』ではない。
脳(データ)が肉体に留まっている以上、他所から潜入した精神などはいずれ、『元の脳』に准じたものに修正されるのではないだろうか?
なのだとしたら精神とは──『心』とは何だろう?
もはや禅問答に近いにその考えにやがては思考も堂々めぐりとなり……俺は考えることを止めた。
同時に俺は相棒の腰元からボトルを取り外すと、その中に閉じ込められていたネズミを摘み上げて手の平に乗せる。
『どうした? ネズミなんか出して?』
「コイツだけど……このネズミはボトルに使わずに家で飼おう」
『ハハ? なぜ?』
「何故って……もしかしたら、お前だったのかもしれないし」
『お前? アタシのこと? なぜネズミが?』
「う~ん……はは、なぜだろうなぁ?」
当然の如くに尋ねてくる相棒に、俺もどう応えたらいいものやら考えあぐね笑ってしまった。
そうして掌の上の小さな生き物を俺達は見つめる。
何も分からないといった体のネズミの仕草はしかし、この世の全てを悟っているかのようにも見えた。
【 終 】
企画のエピソードも早く上げられるように努力します。
今しばらくお待ちください。