前後編の前編となります。
しくじった──というよりは、不意を突かれたというべきか。
袖の下から沸き上がる出血の生暖かさを感じながら俺は思っていた。
『──ん? なんだ、お前ケガしたのか? 見せろ!』
瞬く間に右腕の袖を血染めにしてしまった様子に気付くや、傍らの相棒は無遠慮に俺の腕を引き寄せた。
そこからどうにか俺の袖をめくって傷口を確かめようと躍起になる相棒を、俺も荒い呼吸のまま呆然と見下ろす。
相棒もまた満身創痍だ。
既に出血は止まっているようだが、彼女の額や横顔には流血の乾いた筋が幾重も残っていた。
見れば左耳も半分以上が欠けて無くなって、泥のような血塊をどす黒くこびり付かせている。
さらには先ほどから俺の手当てに手間取る理由は、彼女自身もまた左腕が全く用をなさなくなっているからに他ならない。
長袖(コート)ゆえにケガの全貌は伺えないが、袖口から覗く手の甲はこれまた黒く鬱血しては、水風船の如くに垂れてしまっている。
おそらくは重度の骨折……一部粉砕もしているかもしれないそのケガの度合いは、彼女の華奢な見た目とも相成って何とも痛々しく俺の目に映るのであった。
何処で如何してこうなったものか──……。
そうだ。始まりはこの階の探索だった。
朝から潜り始めたそこは、過去に一度探索を済ませている階であった。
廻廊に怪異らしい怪異はなく、事後処理ともいうべくにそこへ設けられた居室の捜索を二人でしていた時に──俺達は『IT(それ)』と遭遇した。
探索していたのは居住空間と思しき一室。
玄関をくぐり左の側面に6畳の洋室と和室がひとつずつ、右手には浴室を中心とした洗面スペースにトイレ。突当りまで行くとキッチンを兼ね備えたリビングダイニングが広がるという、俺が借り受けている部屋とまったく同じ造りだった。
他所の空間とはいえ勝手知ったる間取りに警戒を緩めてしまったことは否めない。
別段注意を払うでもなく、突当りのリビングまで進んだ時にITと遭遇した。
それはワーム状の怪異だった。
巨大なミミズのバケモノと言えばニュアンスは近いのかもしれない。ただ一点、従来のミミズとの相違点を上げるとすれば、それには骨をも噛み砕くほどの強靭な顎と牙が備わっていたということ。
身の丈も、とぐろを巻いて蹲った状態でもなお直立する俺と変わらないことから、優に全長4~5メートルはくだらないと思われる。
ヒトの胴回り以上もある節くれだった体躯をなめらかに隆起させながらそれは、俺が自身のテリトリーに入ってくるのを待ち構えていた。
俺達がここを訪れるより前から潜んでいたITは、玄関からの物音に侵入者の存在を確認していたのだろう。一方でそんなものがこの一般的な室内に潜んでいるとは露とも知らず、俺達は一切の警戒もなくそこへ足を踏み入れてしまった。
それでもしかし、不意を突いて襲い掛かったITの攻撃に致命傷を受けなかったのは、奴の地の利をしのぐ天運が俺にあったからに他ならない。
居室の捜索に際し俺は、初見の場所においてはその室内のいちいちを写真に収めて回る。その時もITがいるリビングへと進みながら、なかば惰性でシャッターを切ったのであった。
その瞬間に生じたフラッシュが目くらましとなり、ITの攻撃が正確さを欠いた。
本来なら俺の首筋に定めていた狙いは外れ、その強靭な牙は左の前腕に食らいついた。
あまりの唐突さに最初、体を突き抜けたものは痛みではなく衝撃だった。
瞬間的に体を激しく引かれ、反射的に踏みとどまって前面を見やれば、そこには俺の左腕に食いついているITが居た。
「やられた」──と思うのも束の間、即座に俺も反応する。
腰元に常備している催涙スプレーを取り出すや、ITの鼻先にめがけて吹きつけた。
生物状の怪異に対しては、この反撃こそが最も効果的だ。
所詮はヒトの細腕で繰り出す攻撃など、怪異にはどんな武器を以てしてもまともなダメージなど通らない。しかし、相手の粘膜を刺激する薬剤などは一切の膂力に頼ることなく、しかも威力は絶大だ。
案の定、粘膜から侵入してくる薬剤に反応してITは咥えていた俺の腕を吐き出す。
しかしながらスプレーに怯んだのも一瞬のこと、即座にそれは頭部をしならせると、牙ではない前頭を武器にして再度の攻撃を試みた。
振り子よろしくに自重を乗せてスイングされたそれをまともに胸へ受け、俺はリビングの入り口から廊下まで弾き飛ばされる。
フローリングの床へ激しくもんどりうつ衝撃に気付き、洋室を調べていた相棒もITの存在に気付いた。
『ハハハハ! エンカウントか!』
俺とは違い即座に背のバールを引き抜いては臨戦態勢に移行する相棒ではあったが……それでもいかんせん場所が悪い。
オオカワウソの持つ俊敏なフットワークが生かせない狭所においては、手足を持たぬITの方にこそ地の利がある。
相棒のバールは振りかぶるたびに壁や戸枠に当たっては勢いが殺される。結果、腰の入らぬ相棒の攻撃などは、ただでさえ頑強なITの表皮に弾かれては傷をつけることすらも叶わない。
形勢は逆転し、ついには防戦一方となる相棒の体は瞬く間にITの牙や、鈍器の如くにしなる尻尾に晒されて血まみれとなっていく。
しかしその一方で俺も動いていた。
逃げようと思えば逃げられる相棒が簡単にこの場を離脱しないのにはそれなりの理由がある。
このマンションの一室から出るには正面入り口の扉を開かなければならない。
しかしながらそこを開錠しようとする時こそが最も無防備になる瞬間であり、目の前のITもそれを狙っていた。
姿形は違えども捕食者であるところの相棒とITは本能でその状況を理解している。
しかしそれは被食者の俺も然りだ。
彼女が相手の攻撃の矢面に立った瞬間にそれを察し、俺は玄関へとダメージを負った体を引きずる。
そうしてそこのドアを大きく開け放つや、
「撤退だ!」
声の限りに叫んだ。
『ハ、ハハハ! 撤退! アタシを受け止めろぉ!』
それを背後から受けた相棒は、依然として正面を見据えたまま俺にそう呼び掛ける。
そして次の瞬間──ITの尻尾がしなり、一際強く相棒を打ち据えるのに合わせて彼女は僅かに飛び退った。
左を前に両腕を交差して防御の姿勢を取るや、かのITの強撃を宙空で受け止める。
尻尾の先が相棒の体を捉えた瞬間、なにやら押し潰すような水音の鈍い音がした。そしてその衝撃に捉えられ、相棒は俺のいる玄関まで地と水平になりながら弾き飛ばされてくるのだった。
その様と相棒の判断を、こんな場面でありながら俺は感心せずにはいられない。
撤退においては、殿(しんがり)の生存などはほぼ見込みが無いとされる。
そもそも己の身を挺して大隊を逃がすことが後備えの本質であり、それを担う者は犠牲になることこそが役割であるのだ。
この状況においては退路が確保されたからと言って、すんなりと逃げ果(おお)せられるべくもない。
そこで相棒は相手の力を利用することにした。
矮躯の自分に対し、巨躯で並外れた膂力を持つIT──その攻撃力の衝撃を利用して、相棒は後退した。
加えてITの体勢も攻撃に移行しているとあっては追撃までに時間を要する。
相手の攻撃を逃走に使うことで一手、さらには追撃までの時間稼ぎにおいても一手──相棒はこの瞬時の逃走において、ITの二手先を行った。
後は俺の踏ん張りである。
玄関を出た通路で相棒を抱き留めると、一目散にエレベーターまでの退路を駆けた。
先に俺がITの初手を躱せたことも含めて、この日の俺達には運が味方をした。
この階における最初の部屋の調査であったことから、エレベーターは居室を出てから目と鼻の先にあった。
加えて乗降のボタンを押すやすぐに扉も開く。この時、別階でエレベーターを使う者が居なかったことで幸いにも箱はこの階に残り続けてくれていたのだ。
中へとなだれ込み、なかば殴りつけるようにコントロールパネルを叩いて閉扉させるや、閉じゆく視界の先には今いた居室から雪崩れ出てくるITの姿が見えた。
そしてこちらに気付いては、放たれる矢の如くに身を翻して突進を試みるも──寸ででドアが閉じ切った。
僅かに間をおいてドア越しにエレベーターを揺らす衝撃音…………俺達は奇跡に近い生還を果たし、そして今に至っていた。
未だ生還の緊張感から脱し切れずに呆然としていた俺は、突如として左腕に現れた痛みに我へと返った。
我が身を見下ろせば、袖から剥きだされた前腕に相棒が口を付けている。
見れば俺の腕そこには半円を描くように、等間隔の傷口が出来ていてそれぞれに出血をしていた。言わずもがな、歯跡である。
その中でも一際傷の深い一つに相棒は唇を吸いつけてくれていた。
口中で篤(とく)と舌を動かしては俺の傷口を洗い消毒を行ってくれる相棒の治療法は、今に始まったことではない。
大小にかかわらず常日頃から彼女はこうして俺の傷を癒してくれる。
一方で俺も背のバックパックを下ろすと大ぶりのタオルとガムテープを取り出しては後に備える。
暫し血を吸いだして相棒が口を放すと、即座に俺もそこを覆うようにタオルで覆い、後はガムテープで緊縛した。
傷の面が大きく、また負傷箇所も多数点在することからこうした治療しか行えないが、それでも止血くらいにはなるだろう。
ようやく自分の治療が終える。今度は相棒の番だ。
「見せてみろ」
エレベーター内の不思議な重力の中、俺も相棒の体を改めて確認した。
顔を始めとした表皮のあちこちに切り傷が見受けられる。
中には食いちぎられたような箇所もいくつか見られ、そこからは俺に負けない失血の跡が見て取れた。
とはいえ運動音痴(マヌケ)の俺と違い、あのギリギリの攻防においても致命傷は避け続けた彼女の傷はそのどれもが浅く、既に出血も止まっているように見えた。
しかしながらただ一点……大きく噛み千切られた左耳からは、今も緩やかに出血が続いていた。
その様に胸が締め付けられる。
自分よりも遥かに体躯の劣る少女がこうまで身を挺して自分を守ってくれた事実に不甲斐なさや申し訳なさを覚えると同時に──俺は強く感謝と愛しさもまた覚えていた。
そんな気持ちの表れは無意識に相棒を抱き寄せ、彼女がしてくれたようにかの欠けた耳の傷を包み込むよう口に含んだ。
『あ痛ッ! イタタぁ~………ハハハ』
それを受けて相棒も俺に体を預けると、残る右腕で強く抱き返してくれる。
しばしそうして抱き合いながら、俺は相棒の傷を癒した。ようやく二人、一息つけたような気がした。
しばしそうして過ごしていた俺達ではあったが……
『──なあ、これどこに向かってるんだ?』
ふとそのことに気付いて相棒は尋ねてくる。
一方で尋ねられた俺もまた、所在なげに視線を泳がせてはその先を操作盤へと定めた。
そもそもが特定の階へ向かうように操作した記憶はない。
ここに転がり込んだ瞬間はといえば、命からがら這う這うの体で逃げ込んだのだ。
あの時はただエレベーターの扉を閉めることだけで頭がいっぱいだったが、しかしながらエレベーターは閉扉にのみならず稼動してもいた。
行き先不明のエレベーターの重力は、生還の安堵をたちどころに次なる不安へと変える。
やがては一際重い負荷を俺達へ預けた後、エレベーターは止まった。
そして開かれる新階への扉──その光景を、俺達はおそらく生涯忘れないだろう。
開け放たれるや突風の如くに箱の中へと突き出される無数の掌の光景──紙の如くに青白く脱色された痩せぎすの前腕達──
それら死者達の掌は、無情にも俺と相棒とを絡め取り……次なる煉獄へ導こうと、己の懐へ掻き抱いてくるのであった。
【 続 】
後編【 ゾンビ階・2 】へ続きます
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