(7月18日・●●新聞朝刊2面──)
■ 都内女子大生が行方不明 ■
17日、都内●●大学に通う大学生・平坂冥子さん(ひらさか めいこ・20歳)が行方不明になったとして、家族より港区●●●署へ届け出があった。
冥子さんは行方不明になる直前まで大学にいたことが確認されており、同月の14日から16日未明にかけて消息を絶ったものとみられる。
付近の防犯カメラには大学の周辺を散策する冥子さんの姿が収められており、都内某所のマンションへ入るのを最後に連絡が取れなくなった。
●●●署は、冥子さんが所属するゼミの准教授もまた同じマンションに住んでいることから、重要参考人として起訴する方針を明らかにしている。
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恩師のプライベートに干渉しよう決意したのは、彼の豹変ぶりへ衝撃を受けたに他ならない。
数か月ぶりに会う恩師に対し、冥子は得も言えぬ違和感を覚えてはたじろいだ。
とはいえそれも、見た目や性格の変化といった話ではない。一見しただけならば、その話しぶりも内面も依然と何ら変わりないように思えた。
しかしながら冥子には、彼がまるで別人のように思えてならなかったのだ。
その感覚を上手く説明することは出来ない。
しいて言うのならば、まるでカラーコピーされた写真を見つめるかのような違和感。さながらに恩師のガワを被った何者かが恩師を演じているが如き気配に冥子は戦慄したのであった。
加えて彼からは耐え難い異臭もまた感じていた。
こちらは魚介を思わせる生臭さを伴った獣臭だ。そんな異臭にあってもそれが、何者か雌によって臭い付けされたものであることを冥子は本能で悟り、なおさらに嫌悪した。
そんな偽物であっても、久方ぶりに接してくれる彼の気遣いや態度は最後に別れた時と変わらぬものであった。
その変わらぬ様子がなおさらに冥子の胸を締め付ける。
かの准教授に対し冥子は恋心を抱いていた。
それは密やかな想いなどではなく、周囲に対しても自称『准教授のパートナー』を標榜していた冥子であったから、なおさらに彼の変わりようは衝撃であったのだ。
ゆくゆくは押しかけてでも彼の伴侶となり、残りの人生を彼とその研究に捧げる決意をもしていた冥子──そして同時に思い出されるのは今より数か月前、『とあるマンション』のフィールドワークに彼が熱中していたことであった。
かのマンションの何に彼が惹きつけられていたのかは、今となっては分からない。
彼がまだあのマンションに住居を移す前──そこでの研究成果を尋ねる冥子に対し、彼は何とも複雑に表情を曇らせては口噤んだ。
単にそれは研究を口外したくないというよりは、彼自身があの場所での体験をどう説明したものが考えあぐねているかのように感じられた。
それでも何とか聞き出せた話の断片といえばそれは、いわく『生物を複製する機械』や『他の生物の精神や肉体に干渉してくる集合意識』、さらには『オオカワウソの調査団』といった一向に要領を得ないものであった。
あの時は話半分で聞いていたが、今となっては何故に詳細を問い詰めておかなかったのかと後悔してやまない。
そして新たな後悔を生み出さない為にも冥子は今、恩師の跡を尾行している。
思えば彼があのマンションに越してからというもの、メールや電話といった一切の通信手段が断たれていた。
元来マメな性格の彼が意図的に冥子を無視するはずはない……なのだとしたらその真相は、何者かによってそれらが遮断されているということだ。
そうなのだとすると『本物』の恩師はあのマンションに囚われているということにはならないか? あるいは百歩譲って今の恩師が本物だとした場合、彼をそうまで変えてしまった『理由』があのマンションにはあるはずであった。
大学からほどなく歩いた場所にあるそのマンション──彼は冥子に尾行されていることなどは露ほども知らぬ様子でエントランスに入っていく。
すでに夕刻の薄暗がりの中、冥子は素早くマンション入り口にまで走り寄ると、壁の一角に身を沿わせたままそっと内部を見遣る。
盗み見る視界の先では、ちょうど彼がエレベーターの上昇ボタンを押して箱を呼び戻しているところであった。
ほどなくしてエレベーターが到着し扉が開くと、彼はその中に歩み入り、やがては視界から消えた。
そのタイミングを見計らい冥子も即座にマンションへ駆け込むがその瞬間──
「うッ!?」
屋内へと足を踏み入れた瞬間──得も言えぬ重力を背に感じた気がして冥子は動きを止めた。
本当に一瞬の出来事であったそれ……おそらくは気のせいであろうがあの瞬間、冥子はエレベーターの中で感じるかのような重力の浮き沈みをその身に覚えていた。
「何よコレ……気持ち悪い!」
僅かに生じた恐怖を払拭するよう、ことさらわざとらしく憤慨してみせては冥子もエントランスの中を進んでいく。
既に扉の閉ざされたエレベーターの前に立つと、冥子の視線は依然として動き続けるエレベーターの階数表示のランプを追った。
見守る中、恩師を乗せたエレベーターは3階で止まったようであった。
おそらくはそこが住居階であるのだろう。
あとは同じく3階まで行き、表札を見て回ろうと冥子もまたエレベーターを呼び出した。
ほどなくして到着したエレベーターに入り込み、いざ階数を打ち込もうとコントロールパネルへ指先を伸ばし──冥子は固まった。
「な……何なの、コレ?」
指先を宙空に留めたまま操作を躊躇う冥子の前にあったものは、おおよそ従来のエレベーターとはかけ離れた複雑怪奇なコントロールパネルの異様であった。
まずは階数を指定する為であろう番号ボタンの多さに圧倒される。
9段3列からなる数字だけのそれは『4』だけが存在しない1から19までの2列が設置されており、残る右端の1列はロシア語の綴りに使用されるキリル文字と思しき記号が表示されていた。
そしてそれの特異性は数字ボタンだけに留まらない。
パネルの右上部にはダイヤル式のツマミが3つと、そのすぐ下には16段階の目盛りが刻まれたスライド式のレバーが設置されている。
さながら航空機のコクピットともつかないその難解なパネルを前に、冥子はすっかり当惑しては苛立ちに人差し指の節を噛む。
「先生が乗った直後に戻ってきたんだから、きっと階数ボタン以外はそのままよね?」
しばし考えた末に冥子は左端に並ぶ『3』のボタンを押してエレベーターを閉じた。
がしかし──
「あ、間違えちゃった」
指先が離れると、冥子は『3』ではなく、その隣にある『13』を押してしまっていたことに気付く。
それに気付き、再度『3』を押し直すもコントロールパネルはそれに反応することも無く──エレベーターは音も無く扉を閉じ、後は『13』の操作に従い上昇を開始した。
「あー……まあいっか。次でまた下に降りれば」
ため息まじりに鼻を鳴らし、冥子はエレベーター特有の重力に胃の底を落ち着かせなくさせながら今居る箱の中を見渡す。
先ほどのコントロールパネルを始め、壁のそこかしこに様々な言語の落書きが見て取れた。
最初はこのマンションの治安の悪さを疑い身構えた冥子ではあったが、それらを読み進むうちにかの落書きがけっして無意味な単語の羅列ではないことを知る。
そのうちのひとつがコントロールパネルの操作例と併せて『ENTRANCE』と表示されていたことから、それが一階エントランスホールへの帰り方を示したものであることに気付いたのだ。
そしてその複雑な操作の組み合わせに冥子は、安易に自分が『3』のボタンで3階に行けると勘違いしていたことに気付かされる。
そもそもがこのマンション自体、外から見上げた時の印象では10階も無いだろうだと感じていた。それにも係わらず最大で『19』の階数表示があることの矛盾に今気づいたのであった。
「うそ……『3』って3階のことじゃないの? じゃあ『13』ってどこに行くのよ……」
ついには不安を感じ、どこの階でもいいから一度エレベーターを止めようと再度コントロールパネルに向き直ったその時である。
エレベーターが、止まった。
閉じた時と同じように音も無く扉が開くその先には──もはや夕暮れをとうに越えた宵闇がエレベーターからの室内灯に四角く切り取られていた。
箱の中で知覚していた経過時間を鑑みるに、そこは確実に恩師の降りた3階ではない。違うとは分かりつつも……冥子の足はまるで、見えない何かに手繰られるようその階へと踏み出していた。
冥子が降りると同時に背後ではエレベーターの扉が閉じる。
その気配に我に返り、不用意にも未知の場所へ足を踏み入れてしまった迂闊さを嘆く冥子をよそに、エレベーターは下降していってしまった。
「うそでしょ……どこなの、ここ?」
再び振り返っては、降ろされた階の通路を望む冥子。
彼女の視界へ一番に飛び込んできたものは居住部屋と思われる出入り口のスチールドアとその右隣に設置された小窓。
昼光色の明かりが漏れる窓には井型の鉄格子がはめ込まれており、型ガラスの不明瞭に曇らされた表面からは部屋の内部を覗き見ることは叶わない。
それでもしかしその光の向こうからは何とも楽し気な家族の会話の声が漏れ聞こえていた。
聞くに子供が夕餉の献立を母親に尋ねているらしい。
「ハンバーグ」だと伝える母親に子供特有の甲高い声で笑うその雰囲気にようやく冥子は安堵して嘆息した。
ここが居住階であることは間違いないように思えた。ならば意中の人物もまたこの階にいるのではないかと思い立ち、冥子は通路を進み始める。
ドアと小窓という、似たような造りの部屋が等間隔に並ぶ廊下を往きつつ、その道すがらに部屋々々から漏れてくる家の声を冥子は聞きながら歩く。
どこも最初の部屋と同じく、夕餉前の団欒を思わせる和やかなものではあるのだがしかし……冥子は気付く。
『おかえりなさい。今日はハンバーグよ』────
ふと聞き取った母親と思しきその声に冥子は違和感を覚えた。
それこそはこの階へ降り立った時に聞いた家のものとまったく同じ内容であったからだ。
さらに振り返って思い出すと、どの家も漏れ聞こえてくる会話の内容といえば夕飯のメニューを尋ねる子供に対して母親が『ハンバーグ』であることを伝えるというものであった。
そして、
『ただいま~。お、いい匂いだね』
何件目かの部屋の前を通り過ぎようとした時、件の会話に新たな声が加わる。
中年男性を思わせる野太い声──それを迎え入れる母と子は口々に「お父さん」とその人物を呼び彼を迎え入れる。
以降はその繰り返しであった。
どこの家も判で押したかのよう同じタイミングで父親が帰宅を果たし妻と子がそれを迎える。
どこまでも同じ展開の繰り返し……もはや冥子はその異常性に気付いていた。
それでもしかし歩み続ける足を止めることができない。
「偶然……偶然よ、こんなの………」
胸の内に湧き上がる不安と疑問を冥子は必死に誤魔化そうと呟く。
こんなものはどこの家庭にもある風景だ。こうまで同じ展開が続くのだって偶然に決まっている……そう冥子は信じ続けて歩き続けた。
やがては繰り返される親子の会話がリフレインを始める。
幾重にも父を呼ぶ息子の声が重なり、それを見て笑う母の笑い声が虫の羽音のように重なっては空間を振動させる。
もはやそれは表からのものなのか、それとも現実感を失調させた自分の頭のなかで反響しているものなのかすら冥子に分からない。
そしてそんな家庭風景の残響は突如として終わりを迎える。
ふと、今までに無い光景が目に飛び込んでは冥子を現実世界へと引き戻した。
目の前に黒く焼け焦げた壁の開口が突如現れたのだ。
最初それが何を現すものなのか冥子には分からなかったが、立ち止まってその異様を観察するにやがて、目の前の光景は火事の後始末が為されたものであることを理解する。
ドアの取り外された開口から、茨の蔓が伸びたかの如き煤が放射状に広がっていることから、この部屋を焼いた火災がいかに激しかったのかを物語っている。
この段に至り、ようやくに冥子はこの階の仕組みと真相を理解しつつあった。
それこそは……──
「居住階なんかじゃない……ここは、ひとつの部屋の時間を辿っているんだ」
ひとつの時間軸を過去から未来へと辿る階──さながら映画のフィルムを一コマずつ辿るように、この階はとある家族が辿った悲劇を過去から遡っているのであった。
ふとその瞬間、視界の端に何かを捉え冥子は部屋の中へと振り向く。
生前の現況など微塵も残さぬ煤だらけの世界の中に影が一つあった。
それこそは子供だ。
子供の影が──
「………違う」
影と思われたそれは……焼き爛れた子供の姿。
衣類も頭髪も焼け落ちた人型のシルエットがこちらを凝視していた。
そんな中ふと、声が聞こえた。
オカーサン
笛のような音だった。
炭化した呼吸口を通って鳴らされるその声は、ひどく乾いては甲高い響きを以てそんな一言を発する。
オカーサンオカーサン オカーサンオカーサンオカーサン オカーサン オカーサンオカーサンオカーサンオカーサン
じわりと影が揺らいだ。
もはや気のせいなどではないその声は明らかに母の名を呼びながらこちらへと近づいてきて来る。
やがてその声に、
オ ト ウ サ ン
今度は湯の湧くかの如き粘着質な変化が生じるや声は父の名を呼び出す。
そんな変化に冥子は、捕食者に見据えられていた草食獣が我に返るよう身を翻すや脱兎の如きに来た道を駆け出した。
感じたのだ──目の前のそれが冥子を求めていることを。
そして刹那にそれを悟った冥子の本能は、考えるよりも先に足を動かせてはこの場からの逃走を図らせた。
時間にすれば瞬きにも満たない瞬間を追って、あの影もまた動いた。
人型であった足元が放射状に地へ広がるや、そこからは水が流れるかの如くに肉体を滑らせて冥子の後を追う。
辛うじて維持した子供の上半身は必死に両腕を伸ばし、前方を行く冥子へ追いつこうと身を捩じらせる。
斯様な追跡者の気配を背に感じる冥子もまた、逃げ出そうと躍起になるも頭と体は一向にリンクをしてくれない。
頭の中ではこれ以上になく俊敏に行動しているつもりが、足元はもつれ腿は重く膨張しては膝の上げ下げを阻害する。
もはやフォームもおかまいなしにただ両足を前後させては進み続ける冥子の傍ら、逃走する道すがらの窓々からはあの家族の狂笑がこだましていた。
母親と子供の甲高い叫び、父親と思しき男の下卑た笑い──今、その中を必死の体で駆け抜ける冥子にとってのここは疑いようもない地獄そのものであった。
次の瞬間──背に重い衝撃を受け、冥子は前のめりにもんどりうつ。
激しく膝を打ち据えた衝撃で足の感覚が消えた。
それでも立ち上がり走り続けようとする冥子ではあったが……もはやそれは、彼女の一存ではどうにもならない状況となっていた。
振り返ればそこには……
オカーサン
闇があった。
焼き焦げた人間の、目や口腔の窪みだけをそこに穿っただけの簡素な顔が表情も無く冥子を覗く。
濡れた真綿のよう重く背にのしかかり、そして冥子の全体を飲み込みつつある件の闇に蹂躙され、もはや冥子は自力で逃げることが出来ない。
それでもどうにかしてこの状況の打開策を混乱する頭に巡らせていると……刹那、身に覚えのない記憶が脳裏をかすめた。
発情期のヤギのよう乾いた笑い声を上げながら右腕を振り上げる男の光景──一目でそれが父親であることを悟る。
そしてそれが右腕を振り落とすと脳に衝撃が走る。
激しい恐怖と疑問の中で暴力に晒される自分の光景は明らかに冥子の記憶ではない。
それこそは、いま冥子の背にのしかかる怪異の物だ。
同時に冥子はなぜ自分がこのマンションに訪れたのかを思い出せなくなっていた。
それどころか自分の中にある『平坂冥子』の記憶や情報そのものが曖昧となって思い出すことも叶わない。
幼き日の父母に愛された記憶と、そして地獄の責め苦の中にいる状況とが交互に入り混じる感覚の中、再度背にのしかかっていた人型の怪異は冥子の顔を覗き込んだ。
穴の穿たれただけの顔面の輪郭が歪み、やがてはそこに自分自身の顔が──冥子の顔が変容しては浮き上がった。
取り込まれている──刹那、本能的に冥子は悟る。
この怪異は冥子の中に侵食しては、自分を別物に変えようとさせている。
この怪異の生前の記憶とそして現在の冥子の記憶とが今、脳の中で撹拌されさらには塗り替えられようとしているのだった。
「あ……あ、あぁぁぁあ……やめてぇ……返してぇ……!」
覆われた背を丸々と飲み込まれ、もはや指先すら動かせなくなったその状況で冥子は懇願する。
「やめてぇ……わたしの、なかに……はいってこないでぇ………ッやめてぇぇぇぇえええ………!」
冥子の声に、異形の冥子の面が嗤った。
そしてそんな冥子の頭も呑みこもうと、再び影が蠢いたその時であった。
一陣の風が吹いた。
突風が鼻先を煽るや、その衝撃に晒されて背の異形もまた吹き飛ばされる。
さらに風は二陣三陣と吹き荒れ、宙空に浮いたそれを粉微塵に切り刻んでは消滅させた。
背にのしかかっていた異形が引き剥がされることで冥子はどっと脱力し、地に頭(こうべ)を伏せてはその場に俯せる。
理由は分からぬが、とりあえずの脅威は去ったように思えた。しかしながらなおも冥子は立ち上がることが出来ない。
同じ姿勢のままただうめきを漏らし続ける冥子は、明らかに先ほどまでの彼女とは様子が違っていた。
そんな冥子に、
『ちょっと、あなた大丈夫?』
何者かの声が掛けられる。
辛うじて顎を上げて視線巡らせればそこには──一人の女性の姿。
しかしそれは人間ではない。
側頭部から伸びる先細りの毛並み豊かな耳介とふくよかな尻尾──襟足に向かって黒くグラデーションを沈着させた銀髪は、先の突風と併せるにさながら、雪原の如き美しさがある。
おそらくギンギツネと思しきフレンズではあるが、成熟した痩躯のその姿は従来の『少女』然としたフレンズの印象からはかけ離れている。
そんなギンギツネのフレンズが、
『ねぇ、本当に大丈夫? わたしのこと分かる?』
再度冥子に語り掛ける。
語り掛けるが、冥子はそれに応じることができない。
件のギンギツネを見上げては返事と思しきうめきも漏らすが、それは外部刺激に対する反射であり、おおよそ知能や感情を持った人間の反応とは言い難い。
「おーおー、だいぶイッてるなあ? 受け答えが出来なくなってるじゃあないか」
屈みこんでは冥子の介抱をしていたギンギツネへと新たな声が掛けられる。
今度のそれは男の物だ。
そんな声の登場と同時に、ふわりと場違いな珈琲の香りが鼻先をくすぐる。
『うん……急いで助けたんだけど、もうだいぶ食べられちゃったみたい』
完全に尻を地に着けて座り込むと、ギンギツネは膝の上に冥子の頭を抱き込んではそっとを前髪を撫でる。
「だったらどうする? 複製階にでも連れてくか? ひひッ」
『あそこはあんまり使いたくないわ……罪もない六人のこの子が犠牲になるもの』
「ひひひッ、お優しいこって。だったら仮眠室に行くか? とはいえ昨日今日訪れたばかりのこの子のバックアップが取られてるとは思えないよ? ひひッ」
『その時は……仕方ないかもしれないけど』
漂う珈琲の柔らかい香りの中で冥子は訳も分からずに男とギンギツネの会話を聞いていた。
しかしその内容を冥子が理解できることはもう無い。
このマンション特有の不可解な状況と常識を判じ兼ねているというのではなく、この時すでに冥子の自我はほぼ失われていた。
先の異形に脳と精神への浸食を受け、存分に他の意識と自我とを撹拌された冥子はもう、以前の彼女とは違う別の存在へと変貌させられてしまっていた。
それは性格の変化といった表面的なものではなく、今の冥子は意思の疎通はおろか会話すらままならぬという、動物や赤子のごとき存在へと変貌を果たしてしまっていた。
『だけどこのままにもしておけないわ。とりあえず仮眠室で彼女を探してみるからあなたも手伝ってちょうだい。アーサー』
「ひひッ、あいよ。ならばその前にコーヒーでも飲もう。砂糖は三つか? 四つか? ──君は?」
『そういえばまだこの子の名前も聞いてなかったわね……』
改めてそのことに気付いたギンギツネの視線は再び冥子の瞳を覗き込んだ。
深みのある琥珀の瞳は、先の黒く穿たれた異形の物とは違いどこまで優しくて美しかった。
その柔らかい雰囲気にようやく冥子は心が落ち着く思いがした。
とはいえしかし依然として自分が何者か分からないという酩酊状態は解けていないのだが、それでも辛うじて──
「め……めい、こ……」
唯一、空の頭の中に残された己の名を冥子は伝えることが出来た。
それを受け冥子の名を反芻するギンギツネはしばし黙想した末、
『メイコ……いい名前じゃない。わたしはギンコ、よろしくね』
小さく頷いてはこの大人びた容姿には似つかわしくもない無邪気な笑顔をほころばせる。
そうしてギンギツネのフレンズは──ギンコはメイコの前髪へ挨拶(キス)をした。
【 終 】