自己評価ほど当てにならないものは無い。現実はいつも、唐突にその事実を突きつけてきては俺をげんなりとさせる。
相棒とマンション攻略を始めるようになって早一ヶ月が過ぎた。
二人で行う調査は、俺が単独で潜っていた頃よりも遥かに効率的で、そして成果が良いものであった。
そもそもが彼女オオカワウソの調査はそのどれもが徹底している。
普段のいけぞんざいとした印象とは裏腹に、相棒の調査は緻密でかつ着眼点が鋭い。
つい最近もとある階で死にかけた俺を救ってくれた。
過去に幾度となく通行したことのある回廊が、その日は1メートル先も見通せないほどに暗かった。
懐中電灯の心許ない照明で闇を切り裂く俺達はしばし通路をさまよった後、壁面の一角にレバーをひとつ発見した。
武骨なレバーは上下によって何らかの操作が得られる造りらしく、エレベーターから降りて程ない場所にあった事とこの暗がりとを併せ見るに、このレバーこそが照明のスイッチと思って間違いはなさそうであった。
別段疑問を持つこともなくレバーへ手を掛ける俺の右腕をしかし、突如として相棒はワシ掴む。
加減を知らないその握り方たるや、食い込んだ爪が被服越しに肌を突き破っては血を滲ませるほどの力と唐突さだった。
「ツぅ! なにをッ?」
突然のそれに身をこわばらせては振り返る俺にもしかし、相棒の目はレバーの先へと向けられていた。
食いしばった口角を怪訝に下げたまま薄暗がりの闇一点を凝視したままやがて、
『お前、これが読めるか?』
依然として視軸をそこへ留めたまま、相棒はぶっきらぼうに尋ねる。
一方で解放された俺も、傷の具合を確認しながら相棒の視線の先を辿った。
この闇もあり、初見では捉えることが出来なかった壁面の一角に俺は目を凝らす。あるものの存在をそこに確認したからだ。
何やら文字と思わしきものがそこには走り書きされていた。
そして右手に携えていた懐中電灯をそこに差し向け、ライトの先に晒したそこにあったものは──
DON’T TURN OFF!
OFFにするな──強い警告の一語であった。
さらに観察するに、レバーが昇降する溝のすぐ傍らにも『ON』『OFF』の表示が殴り書きされていて、今現在レバーの位置は『ON』に設定されていることが窺える。
そのことに気付くや俺は反射的にそのレバーから身を引く。
これは何を警告するものであったのだろうか?
暫し考え込む俺は、傍らの相棒が既に別な方向へ注意を向けていることに気付いた。
「どうした?」
尋ねて振り返ると今度は、天井の一点を凝視している相棒をそこに確認する。
同じように俺も視線を動かし、手にしていたライトの光を今度は天井へと向けた先に──それがいた。
天井一面に何かがうごめいていた。
艶なく細かくささくれ立った表面は土や苔のようにも見えれば、あるいは何か生物の背中のようにも思える。
それが息をするよう小刻みに、そして隆起しては天井一面にへばりついていたのだ。
この回廊の照明が落とされていた理由こそはこれであった。
照明は灯っていたのだ。しかしながら天井にへばりつくコレがその光をさえぎっていた。
ならばあの時、考えも無しに目の前のレバーを下げていたらどうなっていたであろうか?
腹の下に隠していた照明が消えることで、天井のコレは何者かが目下を彷徨っていることを気づいたであろう。
それこそがコレの狩りの方法だとしたら? ──天井から降り注いでくるコレに覆い被られ、あるいは前後を阻まれて進退窮まる状況に自分は陥ってただろう。
想像するや、頭から尻に向かって水が流れ落ちるかの如き冷たい感覚が走った。次いで俺は改めて恐怖に身が竦む。
もはや相棒につけられた腕のキズすら痛みを感じなくっていた。
こういった見落としこそがこのマンションでは死へ──あるいは死ぬことよりももっと残酷な状況に身を堕とさせることとなる。
そんな傍目からも分かるほどに震える俺を傍らに、
『ハハハハ!』
相棒が笑った。
こんなことにも気付けない俺に対する侮蔑か、あるいは今の滑稽さを哂っているものか、依然として皿のように見開かれた目に何らかの感情を探し出すことはできない。
数多くの攻略勢が潜っているこのマンションにおいて、俺は自身を一端の攻略者であると自負していた。
幾度となく攻略に失敗した他者の不幸を聞き、時には目の当たりにしながらもいつしか、俺はそれに憐憫やあるいは戒告を覚えるのではなく、甚だしくも生き残っている自分を『上級者』と誤想しては増長していたのだ。
しかしそんなものは全てがまやかしであった。
そして知らされる──ただ単に今日まで、俺は運が良かっただけなのだと。
『ハハハハ! ハハハハ!』
なおも相棒は笑い続けては俺の傍に寄る。
しかし同時に背をもまた愉快気に叩いてくる接し方に、俺は別な意味合いがこのコミュニケーションの中には含まれているのではないかとも思い始めていた。
それこそは……
「……励まして、くれてるのか?」
『ハハハハ! 死にかけた! ハハハ!』
ある種の仲間意識が互いの中に生じているのを覚えていた。
しかしながら聞いたところで彼女はそれに応えないだろう。そもそも本当に哂われているのかもしれない。
それでもこんな状況の時に、隣に誰かが居てくれて笑ってくれるということが俺には何にも増して心強かった。
「はあ……撤退だな」
『ハハハ! 撤退! 撤退! ハハ!』
復唱するや身を翻し、コートの裾に風を孕ませては足早に歩いていく相棒。
その後に続きながら俺はもう一度、天井のものを見上げる。
食いそこなって残念だったな……今日は俺の運が良かったらしい。
今まではこのやり方で上手くいってたんだろうが、もし今後もここを餌場にするのならもっとやり方を考えた方がいい。
「……例えば、頼れる相棒を持つとかな」
いつしか恐怖は消えていた。
それどころか、思いもかけず『相棒が存在しているということ』の尊さに気付かされて俺は、奇妙な幸福をさえ感じていたのだった。
【 終 】