いつからか──夢の中には女が現れるようになった。
遠くに確認できるその女はいつもうつむいて物憂げな視線を足元へ向けている。
ひとえに『女』といえど、彼女はヒトではなかった。『フレンズ』だ。
詳しくはない男に彼女が何の動物かまでは分からなかったが、ともあれ夢に現れるようなったその女に対し、当初は特別に何かを感じることも無かった。
二度目に表れた時もそうだ。三度目も特には何も考えなかった。
しかしながら四度(よたび)それと遭遇するにあたり、男の胸中には懸念が沸き上がる。
そして五度目となる今回──睡眠の度に例外なく表れてくるその事実を認識し、男はようやくに女が怪異の一端であり、そして自分がそれに憑りつかれてしまったことへ気付いた。
一体どこで貰ったものか?
マンションの怪異の恐ろしい所は、目に見える物質的な被害だけではないというところにもある。
この女のように一切の知覚を刺激することなく、気付けば精神を蝕まれているといったものだって珍しくはない。
問題はこの後だ。どう対処するかに依る。
肉体そのものを丸ごと再生させる手段はマンションに存在していた。それを活用することで大概の問題は解決する訳だが、こと精神汚染に関してそれは有効なものなのだろうか?
ふとそんな好奇心が芽生えると、男は夢の女を観察することに決めた。
もとより男は外界に絶望することでこのマンションへ逃げ込んだ手合いである。捨て鉢の心に恐怖などは元より薄い。
そんな男にとってはむしろ、この女の正体と目的とを突き止める探求心の方が恐怖を上回っていた。
見つめる女は初めて夢に出た時と同じ姿勢のまま微動だにしなかった。
俯き、所在なげに腰の前で両手を重ねた姿勢のままいつまでも動かない。
もはや写真や絵画のような二次元的な存在かとも疑ったが、時折り僅かに身じろぎをする様子からも、女は確かな実態を以てそこに存在しているようであった。
当初は精神汚染などの線も疑った男ではあったが、目の前の女からはそういった類の恐怖や圧などはまったく感じられない。
むしろどこか悲しげで儚いその様子からは、こちらの言動こそを警戒しているかのようにすら思える。
そんな彼女を見守り続ける男にはいつしか心境の変化が訪れていた。
一日の終わりに眠りにつき、そして夢の中で彼女を確認する時……男は大きな安らぎを覚えていることに気付いたのだ。
そして小さな変化は女の方にも表れた。
時折りこちらの様子を窺うように彼女も視線を巡らせるのだが、そんな女と視線が合うことが多くなった。
最初の頃は、視線が絡むと恐怖あるいは気まずさを感じてはそれを振り切っていた二人ではあったが──ある時、女が微笑んだ。
とはいえそれも親愛を伝えるようなものではなく、まだ挨拶の会釈めいたよそよそしい物ではあったが、それを機に二人の精神的な距離がぐっと縮まったのを互いは感じていた。
やがてそんな言葉の無い交流は常態化していく。
以降夢の中で会うと、互いは最初に会釈しては無言の挨拶を交わすようになった。その後もちらちらと目が合うたびに互い微笑み合い、いつしか女は満面の笑顔を見せてくれるようにすらなった。
もはや互いに敵意や害意が無いことは分かっていた。
そうなると次のステップとして、直接に声が聞きたくなるのは当然の流れであろう。
ある時、男は意を決して女へと近づいていった。
ついに物質的な距離を縮めてきた男に女も緊張した様子ではあったが、それでも逃げることはしなかった。その瞬間こそは女もまた望んでいたものであったからだ。
そしてついに男は女へと至り──声を掛ける。
『あ……初め、まして』
ぎこちない挨拶を返した女の声は、男が夢想していた通りの穏やかで澄んだものであった。
そんな初めての会話の内容を皮切りに、実に男は様々なことを聞いていく。
一番の関心事は女の正体と、そしてなぜ彼女が男の夢の中に表れるのかということ──女曰く、やはりというか彼女はこのマンションの怪異であった。
とある階で一定の時間留まっていると、彼女は対象の夢の中に醸成されるのだという。以降は知っての通りだ。
特に対象を疲弊させるでもなく、女はその相手の夢の中で共に過ごし続けるのだという。
興味深かったのは彼女もまた受け身の存在であり、自分の意思で相手の夢に現れるわけではなかった。
ある時急に彼女は生み出され、しかも以降は相手の為されるがままだという。
抵抗するだけの腕力がある訳でもなければ、相手を屈服させられるだけの特殊な能力がある訳でもない……もし相手が暴力に訴えくるようなことがあれば、彼女は永劫に逃げ続けるしか術がないのだ。
だからこそそんな運命の相手の出現は期待と同時に、大きな恐怖もまた孕んでいたといって女は笑った。
自分の相手がこの男であって、本当に良かったと微笑んだ。
男にとっても女の存在は掛け替えの無いものとなった。
一日の終わりに女の待つ夢の中へ帰ることこそが男の喜びと、そして現実になった。
女もまた男の帰還を待ち望み、そうして二人は一日のことを互いに報告し合いながら至福の一時を共にする。
そんな二人の間に愛情が芽生えることはごく自然なことであった。
しかしながらそれゆえの弊害もまた生じていた。
夢から覚める時、男は薄暗く体の重い現実に帰ることへ絶望した。
もはや男にとっては現世こそが悪夢であり、そんな世界を生き続けることに疲弊していた。
ならば、より長く女のいる世界に留まれないものかと男も試行錯誤するが、あの世界にはまた独特のルールが存在するようで、男の願いが通ることは叶わなかった。
まず条件の一つとして、睡眠薬や薬物に依る昏睡は無効であるということ──あくまでも眠りは自然なものでなければない。薬によって睡眠時間を延ばすことは不可能であり、そもそもがあの空間に辿り着くことが叶わなかった。
ならば死んで一緒になろうと覚悟を打ち明けた男に対し、女は恐怖の表情に顔を歪めては青ざめた。
そして男の胸にすがり、それだけはやめてくれと懇願した。
死に依る永遠の眠りを得ることでこの夢に留まる、という考えは間違えではなかった。
しかしそれは寿命や已むを得ぬ事態に見舞われた場合の自然死のみが対象であり、自殺あるいはあからさまに死ぬことが分かっている状況でそれを受け入れた場合などは無効であるということだった。
現世においては精一杯に生きてほしい──そう女は諭してくれたが、それ以降の男の生は無限の苦楚を蒙(こうむ)ることとなる。
男の注意は食生活から始まった。
健康的でなおかつバランスの良い食事を追求するあまり、無添加無農薬といった食材の吟味はもとより、食べる量や時間帯も考慮するなどその精密さは常軌を逸したものとなった。
そもそもがこのマンションに留まること自体にリスクがあると考えたことから、マンションを出て外の世界へ戻ったりもしたが……このマンションを出てしまうと、夢の中に女は現れなくなってしまった。
怪異であるところの彼女はマンションの一部であり其処とは切っても切り離せない関係であるのだ
ならば生活の基準は外に置き、そこから就寝の時にだけ通うという生活も試みてみたが──やはりそのパターンにおいても彼女が夢に現れることは無かった。
恐ろしいのは外にいる間に女がマンションから消えてしまうという懸念もある。それでは本末転倒も甚だしい。
やはり万全を期すためにもマンションに留まり続けることが望ましいのだろう。
その結論に至り、男はオオカワウソ達に毎月一定の金額を支払うことで、万が一の時には自身の捜索と救出をしてもらえるように話もつけた。
斯様にストイックな生活は肉体と精神の両面から強いストレスで男を苛み、いつしかそれは不眠という形になって男を悩ますようになった。
そんな時は、健康を害さぬ量に注意をしながら薬物などを服用して睡眠を得たが、それだと女に合うことは叶わない。その段においては二人が夢の中で顔を合わせられるのは、年に数回程度となっていた。
しかしながら、その数少ない触れ合いになおさら二人の絆は強固となっていく。
いつしか永久に共に在られるよう二人は望み誓いあうのだった。
そしてその時は、突如して訪れた。
ある時、男は見慣れぬ階で降りた。
単純なコントロールパネルの操作ミスにより辿り着いた階ではあったが、エレベーターの箱の中から窺うそこに危険性などは何も感じられなかったから、つい不用意に男は足を踏み込ませてしまったのだった。
その階──否、もはや個室と言っても差し支えの無い空間は、エレベーターから降りて5メートルも歩くとすぐにモルタルの壁に突き当たった。
天井の高さも2メートルほどで部屋幅も同程度だ。窓も無ければ家具や什器の類も備え付けられていない、本当にただモルタル10m平米の空間である。
壁に仕掛けの類も見つけられなかったことから、『こういう部屋もあるのだろう』と男も判断し、この部屋から出ようと振り返ったその時であった。
目の前の光景に愕然として男は息を止める。
エレベーターの扉があるべき目の前には、つい先ほどまで調べていた壁と寸分違わぬモルタルの壁があったからだ。
すぐさま半身を翻すと男は再度、部屋の中をぐるりと見渡す。
四方は全てがモルタルの壁に囲まれていた──出口も無ければ入り口すらも存在しないその空間内に男は閉じ込められていた。
その状況を前にすぐさま男はエレベーターのドアがあった壁面へ取りつくと、細部に至るまでそこの表面を調べて回る。
拳で打ち、四隅の隙間へ爪を差し入れ、幾度となくその表面を両手でなぞった。
それでもしかし、モルタルの壁はまるで最初からそうであったかのよう重く冷たい質感を男の触覚へ伝えるのみである。
背にしていたバックパックを下ろすと、さらに男は本腰を入れて室内の調査を始めた。
今、目の前の壁にしたことと同じ観察を残る三面へ対しても行う。
やがては全ての壁が同じくにモルタルの凝縮された壁であることを確認すると、男は自分が完全にこの空間へ閉じ込められたことを悟った。
以降はこの場所からの脱出を図るべくに男は行動していく。
まずは外部との連絡を試みた。
携帯電話やトランシーバーの類を使用するも電波はその一切が遮断されていて通信が出来ない。
ならばインターネット回線から文章等の発信ができないかとも試みたが……メール、モバイルメッセンジャーアプリ、さらには各SNSでのメッセージへの書き込みも此処においてはその試みの全てが徒労に終わった。
通信を諦めると、次は壁の破壊が行えないかと思索する。
手元の荷物には携帯式の小型スコップがあり、それにて壁の一部を穿いてみる。
甲高い金属音と共に僅かに表面へ傷がついたが、同時にスコップの切っ先もまた丸く凹んだ。
この程度の道具では数か月かかっても脱出路など掘削することは叶うまい。
思いつく限りにこの空間からの脱出法を試み、そしてそのこと如くが潰されていく……しかしながらそれを行う男の貌は──笑っていた。
可能性がひとつ潰れるごとに男の笑顔は輝きを増す。
それこそはけっして絶望などではない待ち望んだ状況であり、失敗するごとに男の希望は強く輝きを増すのだった。
数日後──精魂尽き果てた男は壁面の一角に背を預けたまま微動だにしていなかった。
項垂れ、両足を投げ出して座り込む男の周囲には開け放たれたバックパックと、そして様々な道具の類が散乱している。
食料も無く、通信機の電池はことごとくが尽きて、もはや立ち上がることすら叶わぬほどにまで消耗した現状……後は朦朧と、夢とも現実ともつかぬ意識で微睡を繰り返しながら、男は幾度も今日までの行動を確認していた。
この状況に対し、自分は全力を尽くせたであろうか?
傍から見た時……否、このマンションは今の自分の死を『已むを得ぬもの』と判断してくれるだろうか?
幾度となく自分の行動を省みてはミスが無かったかと繰り返す思考は学生時代、テストの終盤に答案を確認する自分を思い起こさせた。
思わぬ記憶の再生を可笑しく思っていると、それら記憶はどんどんと遡っては幼少期の体験を男に見せていく。
これこそが走馬灯なのだと気付くといよいよ以て最後の瞬間が近いことを男も悟る。
今、男が最も望むことはあの女のいる場所へ帰ること……そして共にいられることそれだけだ。
記憶の旅のその果てに男の視界が白く開けた。
眩いばかりのその世界の果てにはただ一つ人影が見える。
男はいつしか駆け出し、その誰かへと向かっていった。
薄暗いモルタルの個室の中でついに男は事切れる。
その最後の瞬間、男は最後の力を振り絞り両肘を抱いた。
※ ※ ※
小型のメモ帳に記された男の手記から顔を上げ、俺は改めて足元を見た。
見つめる先にはこの手記の持ち主であった人物の死体がある。
壁に背を預け、足を投げ出しては両肘を抱いた姿勢の男……その姿は何かを抱きしめているのかのようにも目に映る。
偶然に辿り着いたこの階にて男と手記を発見し、そこに記された一連の顛末を知るに至り俺は深くため息をついた。
この男のことは知っていた。
直接の知り合いなどではなく、彼の行方を捜すビラやオオカワウソ達の聞き込みを一時期はいたる所で目にしたからだ。
当時、こうまで念入りに己へ保険を掛けていた彼を『心配性な奴だ』と苦笑い気に思ったこともあったが……この真相を知るに至り、その認識がとんだ勘違いであったことを俺は知るに至った。
『ハハ、コイツ知ってる。死体、持って帰ろう! 金もらえるぞ』
立ち尽くす俺の横から、同じくにこの男を見下ろしていた相棒が声を上げる。
このマンションには死者を蘇生──厳密には違うのだが、生前の通りに再生させられる手段がいくつかある。
攻略勢のなかには自分で自分の懸賞金を積み立てて、万が一の際には死体を回収してもらいそれを支払うといったビジネスも存在する。
かくいうこの男もまた同様の保険を用意しており、彼の死体を持ち帰ればその積み立てられた礼金を受け取ることが出来た。
しかし俺は、
「いや……この人はもう、いいんだ」
呟く様に応えては再び男へと視線を落とした。
痩せこけて、もはやミイラの様相すら見せ始めている男の遺体は──その口元がほころんでいた。
俺は二人の男女のことに想いを馳せた。
この男は、女の元へ還れたのだろうか?
その刹那、自分の妄想とは思えぬほどクリアな情景が脳内に広がった。
それは重たげな装備に身を包んではマンションの中を往くこの男の姿だった。
男は無事に帰路へ着き、歩き疲れた声で感慨深く『ただいま』と告げる──そんな彼をマンションの一室で待ち続けていた女は優しく迎え入れるのだ。
やがて二人は深く抱き合って、霧の中に消えていく……そうしてこのマンションの中に溶けあい、もう離れ離れにされることも無い。
あぁ……良かったじゃないか。ちゃんと出会うことが出来て。
女の元へ還ることの出来た男を見送ると、俺は恥ずかしくなるくらいに泣いてしまうのだった。
【 終 】