妊娠5か月目を迎えソワカの腹もだいぶ大きくなった。
母子共に無防備となるこの頃は心身ともに不安定な時期ではあるのだがしかし──そんな時に限って相棒がロストした。
状況の詳細としてはこうだ。
ある時のマンション攻略中──ふと辿り着いた階はエレベーターのドアから先が断崖絶壁であった。
薄暗く視界も定まらなかったことも災いして、知らずに一歩を踏み出した相棒──この場合、ソワカの配偶者でもある人間・ケビンはそのまま落下し、帰らぬ人となった。
ロストとは言っても、この場合はほぼ死亡が確定しているといっていい。
ソワカもまたどうにか彼を助けられないかとケビンの落ちた断崖を覗き込んだが、渓谷の如き眺めは底すらも窺えないほどの深さで、ここに落下していったケビンの生存が絶望的なことはフレンズの楽天的な性格を以てしても認めざるを得なかった。
そもそもがこのマンションにおいては死亡や消失は日常的なことである。
それを回復、あるいは復元する手段は攻略勢も確立しており、かくいうソワカ自身も幾度このマンションで命を落としたか知れない。
しかしながらそんな何でもありの不条理さを伴った世界であっても、明確なルールが存在する。
今回の死者蘇生においては、死亡した者の肉体が残されているということが必要最低条件であった。
ゆえにソワカは頭を抱えた。
今回のケビンの死亡は罠にかかって頭や内臓が欠損しただとか、あるいはクリーチャーの類に食い荒らされたなどというものではない。
文字通りの消失であり、必要不可欠な肉体は丸ごと谷底へと落ちていってしまったのだ。
前者のパターンであるならばどうにか死体を、あるいは肉片をかき集めれば複製を作り出すことも不可能ではないが、今回に限っては指の一本として手元には残されていない。回収する手段すらも無い。
復元方法のひとつに複製階というものがあり、その場所の装置に複製したい者の肉体あるいはまとまった量のDNAを投入すれば、生前の姿で生きた対象をアウトプットしてくれる訳ではあるのだが、前述の通りにケビンの肉体は手元にないのだ。
どうにかして彼を複製できないかと、居住スペースを隅まで掃除して彼の毛髪と思しきものをかき集めて装置に仕込んではみたものの……そこから生み出されるものは、コピー元と同じ一塊の毛髪類と綿埃のみという惨憺な結果であった。
さすがの楽天家であるソワカもこれには頭を抱えた。
もはやケビンをこの世界に復活させる手段は皆無に等しかった。
手持無沙汰に大きくなった腹を撫でる。
初産に加えてこんな場所だ……果たして自分ひとりの力で無事に出産を終えられるかどうかを考える時、ソワカは言いようのない不安と恐怖に駆られては背筋を震わせた。
そうしてあてもなく歩いていた彼女はとある場所へとたどり着く。
ふと地に落としていた視界に光が差し込んだのに気付いて顔を上げると──進行方向の左手には『肉屋』のショーウィンドウが輝いていた。
居住階に近いここに居を構える肉屋は、このマンションにおいても数少ない安全な場所(みせ)のひとつである。
いつでも、それこそ24時間体制で望む肉を望む量で買えるこの場所は、ソワカ自身も幾度となく利用したことがあった。
近い例ではつい数週間前に、母子に滋養をつけようと理屈をこねてはここで少し値の張る牛肉をケビンに買わせていた。
そんな思い出が本当に遠い昔のことのように思え、柄にもなく鼻をすするソワカではあったがそんな折──彼女はあることに気付く。
それは啓示の如き閃きであった。
はたしてその考えが合っているのかは分からない。それでもしかし、試す価値はあると判断するやソワカの足は自然、走るように肉屋へと向かった。
そして番台兼のショーウィンドウへ身を上がらせると──
『肉を売ってくれ! 人間の肉だ! トチっていう奴の肉をいっぱい! 一人分くれ‼』
挨拶も無しに、ソワカはカウンターの向こうへと声を掛けた。
そんなソワカの声に反応してか蛍光灯の青白い光の下、薄汚れた白衣の作業着に身を包んだ店の店主がのそりと身を乗り出す。
大柄の肥満体で頭髪の類は眉毛に至るまで一切見られない。
そんな特徴的な外見であってもしかし、彼の印象が一切記憶に残らないのはこのマンションの七不思議のひとつだ。
ともあれそんな店主はしばしショーウィンドウの先のソワカへ視線を向けていたかと思うと、ある時急に視線を振り切っては店の奥へと下がってしまった。
店そのものが巨大な冷蔵庫でもある店内には、牛とも豚ともつかない巨大な肉のブロックが幾層にも吊り下げられている。
そんな肉の林の中へと消えてしまったまま店主は戻ってこなかった。
やはり上手くはいかなかったかとソワカも思い、なかば諦めては身を乗り出していたショーウィンドウから地に降りたその時であった。
視線を落としていた足元に何か見慣れぬものが入った。
青いゴム製の台車だ。
その上にはビニールに包まれた巨大な何かが乗せられている。
はたしてこんな物が此処にあっただろうかと視線を上げると──目の前には肉屋の店主がいた。
『ッ‼? ハハ──ッ!?』
そのあまりの唐突さに心底驚かされてはソワカも尻もちをつく。
しかしそんな彼女の驚愕も、次なる衝撃でさらに塗り重ねられることとなる。
地に尻をつき、視線が下がったことでソワカは改めて目の前の台車に積まれたそれを凝視した。
ビニール袋に包まれた巨大な何か──豚肉を思わせる白い皮膚の肉塊を目でなぞると、その中に人間の首が紛れていることに気付く。
光の消えた濁った水晶体の視線をどこに定めるでもなく投げかけてくるその顔こそは……探し求めていたケビンその人の首であった。
あまりにあっけないその邂逅に瞬時ソワカは呆けた。
しかし徐々にケビンの肉体を取り戻したのだという実感が胸の内に沸き起こり、そしてそれが頭を駆け巡るや──やおら立ち上がり、ソワカは台車のハンドルに両手を掛けては一目散にそこを脱しようとした。
その刹那──突如として何かがソワカの右腕を締めつける。
何事かと思い視線を落とせば、そこにはソワカの細腕を握りしめる店主の右手があった。
さながら油の詰められたゴム風船ともいうべき節くれの一切見られない丸い拳……それでもしかし万力の如き力で締め付けつつ、店主は身を屈めてはソワカの腹を覗き込む。
『な、なんだ? ……あ、そうか。金か』
不審にそれを見返すソワカも店主の意図を察したのか、残る左手で上着のポケットをまさぐる。
しかしこの時の店主の思惑は……そんなこととはまったく別のところにあった。
一方でソワカはようやくポケットの一角から目当ての物を探し出す。
『ホラ、これ! 前もこれで買っただろ?』
差し出される左手に摘ままれていたものは多種多様なカードの束であった。
おそらくはクレジットカードによる支払いをしようとしているのだろう。訳も分からずに部屋中からかき集めてきたカード類は他店のポイントカードやケビンの身分証明書の類ではあったが、幸いにもその中にまだ利用可能なクレジットカードも含まれていた。
一方で店主もまたソワカを開放すると、前屈みに丸めていた身を起こしてはそれを受け取る。
そうして売買が成立したことを見届けるや、
『ツリはいらん!』
ソワカはケビンの死体が乗った台車を押しては飛ぶかのごとくに通路を駆け抜けていくのであった。
台車のキャスターが奏でるけたたましい音が遠くなっていくのを、店主は依然として立ち尽くしたままに見送った。
やがて──
[ 肉……ヒトが、半分……フレンズが、少し………残りは……………… ]
誰に言うでもなく呟く。あるいは肥満体から漏れる呼吸音がそのように聞こえただけか……。
やがては再び店に戻り、店主は店内に並ぶ肉塊の隙間に身をひそめる。
肉屋はいつもの静寂に包まれては、次なる客の来訪を待つばかりであった。
【 終 】