目の前にソーセージが落ちていた。
赤いセロファンで密封し、その両端が金具のクリップで留められた典型的なソーセージである。
『ハハハ!』
「あ……おい!」
そんな状況を分析するよりも先に相棒が動いた。
突然の行動に俺の制止もままならず、相棒はソーセージを拾い上げると一切の躊躇もなく片端に歯を立てる。
金具の内側を噛みしめて二度三度と本体を捩じると、セロファンが破けて凝縮された中身が弾け出る。
後は果実の皮よろしくにセロファンを引きはがし、剥きだした薄紅色の身に歯を立てた瞬間──ソーセージは黒く気化しては儚く消えた。
さらに握りしめていた側の本体もまた同じくに蒸発すると、相棒の手元には空洞の握り拳だけが残されるばかりであった。
『ハハハ……ハァー、消えちゃったあ』
「おい、大丈夫か? あの変なケムリって毒じゃないだろうな?」
寄り添っては相棒の顔をのぞき込んだりして安否を確認しようとする俺をよそに、当の本人はといえばソーセージが消失してしまったことにすっかり消沈している。ともあれ、無事ではあるようだ。
この階に降り立ってまだ5分と立たないうちの出来事であった。
新しい昇降ボタンの組み合わせによる新階の開拓に挑んでいた時の出来事である。
その階は壁面に居室のドアが見られない通路だけの回廊であった。
長く続く回廊の果てには別なエレベーターのドアが遠く小さく確認できていて、相棒曰く『ゴミ階』である所のここからは何の収穫も無いと思っていた──その矢先に目の前に現れたのが先のソーセージだったのである。
『ソーセージが食べたいなーって思ってた時にあれが落ちてたんだ』
再び歩き出しながら相棒はそう語った。
『食べたい時に食べたい奴が出てきたから嬉しかったのに、食べたら消えた……』
「何なんだろうな? 前にここを通った誰かが落としたソーセージってんじゃなかったのか?」
相棒との取り留めも無い会話の中で俺も空腹であることに気付く。今日は朝から潜りっぱなしで昼食も摂っていない。
それは相方も同じことでそんな時にタイミング良く現れたのがアレだ。
もしあそこに現れたのがカツ丼であったならば俺も躊躇なくそれを拾ったのだろうか? ……などと、シュールなそのシチュエーションを想像しては俺も笑ってしまうのであった。
しかし状況は笑えない展開となる。
現れたのだ──目の前に、カツ丼が。
「………はあ?」
俺達が行く通路の中央にそれはあった。
青い釉薬で模様が飾られた陶器の丼には、卵でとじたカツが湯気を立てて鎮座していた。
先のソーセージとは違い、誰かがそれを忘れていった可能性は考えられない。目の前のそれは、今まさに作られたばかりという様相である。
『ハハハ、なんだこれ? なんでこんなのがあるんだ?』
訝しむ相棒をよそに今度は俺がそれを拾う。ご丁寧に丼の淵には割り箸まで添えられていた。
「今度は、俺が食いたいって思ってたやつだ……」
呟くように言って周囲を見渡す俺に、相棒もまた事態の深刻さを理解したようであった。
即座に俺と背を合わせると、上方に目を走らせては互いの死角をカバーしようとする。
『ハハハ……どうする、引き返すか?』
「いや、進もう。進行方向にエレベーターもあるし、もうこの地点からだと進んだ方が近い」
先のカツ丼をラップで厳重に包んではバックパックに回収すると、俺達は改めて進むことを決意する。
そうして慎重深く歩み出しながら俺はこの階の、さらには互いの目の前に出現した食料に対する仮説を語った。
「この階は、きっと行き来する奴らの願うものを与えてくれるんだ」
『願うもの?』
「いま欲しいって思っているものさ」
あの時の俺達は空腹の元に食料を願った。そしてこの回廊はそれを叶えたのだ。
「もっとも、形だけしか作れないみたいだな。中身は無い」
『だから食べたら消えたのか』
そんな仮説を展開しながら俺はふと嫌な予感に囚われていた。
この回廊が往来者の願望を反映する場所なのだとしたら、今の俺には非常に危険な場所だ。なぜなら今の俺は、実に切実な悩みを抱えているからである。
願わくばそんな俺の問題が顕現する前にここを抜けてしまおうと足を速めたが──マンションはそんな俺を逃がしてはくれなかった。
『ッ!? 前に誰かいるぞ!』
相棒の声に俺達は足を止める。
言う通り、目の前には何者かの気配がある。
先のような『物』ではないそれは、明らかに生物の──『人型』の形を持っていた。
それへと徐々に近づきながら相棒は背のバールを引き抜く。一方で俺はというと、臨戦態勢の相棒とはまた違った緊張に強いられていた。
何故ならば前方にいるであろうそれの凡そを、すでに俺は予想していたからだ。そしてその後に訪れるであろう、最悪な状況をどう乗り越えようかとも頭を回転させていた。
やがて俺達は、それへとたどり着く。
そこにいたものは──
全裸のオオカワウソであった。
種族柄、流線形の体躯を持つ彼女からは肉体の隆起というものは見られない。
肉付きは良くとも平坦な胸元には桜の蕾のような乳首が見られるだけで、くびれも無く腹回りと同化した小振りの尻と陰毛の見られない股間周りは、幼女のそれと言っても過言ではない肢体である。
『……ハハ?』
自分の願望ではない者の出現に毒気を抜かれては、いぶかし気にそれの周囲を見て回る相棒──それをよそに俺は両手で顔を覆った。
昨晩、俺は彼女に欲情した。
恋愛感情ではない。ましてや一方的な性欲の捌け口として相棒のことを見ているわけでもない。彼女に対しては対等の攻略者として敬意を以て接している。
それでもしかし、一つの部屋の中で男女が共同生活をするにあたり『何も感じずにいる』ことには無理があった。
昨晩も彼女は風呂上りに全裸で部屋の中を闊歩していた。
その行為を「だらしない」と注意した反面、それに刺激されている自分にも気づいていた。
永らくこのマンションの攻略に挑んでいた俺は、異性間交遊もだいぶご無沙汰となっている。
その矢先に鼻先に突き付けられた女体とあって、雄としての本能は否が応にも呼び覚まされてしまっていた。
よりにもよってそんな時に訪れてしまったのがこの『願望が反映する階』である。……嫌な予感は的中してしまった。
そしてこの後の相棒の反応を考える。
人ではないフレンズであるところの彼女と、そして大らかなその性格から、相棒がこのことで一方的に俺を嫌悪することはないであろう。
いや……この場合、むしろ非難された方がこちらとしてもありがたい。謝罪なり、場を繕う身の処し方というものが出来るからだ。
しかしながら相棒の反応は……
『ハハハハ! ハハハハハ! おい、なんだ!? アタシか!? 別のオオカワウソか? ハハハハ!』
からかい好きする性格の相棒は、予想通りに全裸の自分を前にして俺の羞恥心を弄び始めるのであった。
それを受けて俺も開き直る。
「ハッキリ言っておくが、俺の願望は純粋な『性欲』だからな! お前に対して何か考えてるわけじゃない! たまたま相手の姿が、お前に反映されたってだけだからな!」
『ハハハハ! 照れてる! ハハハハ!』
冷静に対応しているつもりがつい声が大きくなる。
ついには恥辱に耐えきれず走るように歩き出す俺の後を、相棒は狩りの獲物を追い詰めるかのよう嬉々として追った。
やがてはエレベーターに辿り着き、カゴを呼び出してそれに乗り込む俺は、そこからどうしたものかとボタン操作をためらう。
どこへ向かおうかと思案に暮れたのである。
空腹も抱えた状況だ。いつも通りならばまっすぐに自室へ戻って食事と休息を取るところではあるのだが、あんなことの後では素直に相棒と部屋に戻る気にはなれなかった。
そんな固まり続けるばかりの脇から割り込んでくると、
『早く帰ろう! 早く!』
相棒は躊躇することなく自室階へのボタン操作をする。
動き出すエレベーターの、内臓が沈み込むような重力の中でしばし気まずい沈黙が流れる。……もっともそう感じているのは俺ばかりではあるのだろうが。
やがてそんな空間の中、相棒は思い出したように口を開いた。
『なあ、いいこと教えてやろうか?』
「……ん、なんだ?」
『さっきのアタシのニセモノだけどな、本物(アタシ)の方がオッパイ大きいぞ?』
「…………」
『ハハハハ』
見上げてくる相棒の上気した下瞼が上ずっている。
もはや俺には言葉も無い。
今後しばらくはこのことをからかわれ続けるのかと思うと、俺の心はこのエレベーターの重力よりも深く重く沈んでいくのであった。
【 終 】