さすがに、孫策も異変に気がついたようである。なにせ、岩場の陰から大仰な太刀を肩に担いだ男が、一直線に駆け寄って来ているのだ。
これは、誰かの放った刺客に違いない。そう思い、孫策は腰の南海覇王を抜き放とうとした。
「まだ矢が来るぞ。翔べ、雪蓮」
若い男が、そう叫んだ。
雪蓮というのは、孫策の真名である。真名というのは、認められた者にしか、呼ぶことを許してはならない名だ。ましてや、誰ともわからない男が、気軽に呼んでいいものではない。場合が場合であれば、この男は孫策に手討ちにされたとしても、文句のいえない状況なのである。
「ちっ……。なんだっていうのよ……ッ」
失礼な男。ちらちらと光を反射する、揚州では見たことのない格好をしていた。一見どこにでもいる優男のような風貌をしているが、身のこなしは軽やかだった。抜身の太刀は見るからに物騒だったが、敵対心は感じられない。
初対面の人間に真名を呼ばれたというのに、なぜだか嫌な気がしなかった。もやもやとした、複雑な気分。唇を噛みながら馬から飛び降り、孫策は地に伏せる。その直後。矢。数本が飛来する。
風切り音が、地面に頬を擦った孫策の頭上を越えていく。嘶き。自分のせいでかわいそうなことをした、と孫策は心の中で謝罪した。つい先程まで尻を置いていた馬の胴体から、血が流れ出している。生きたまま連れて帰ることは、どうあがいても無理だろう。
「どこのどいつだかは知らないけど、この孫伯符に喧嘩を打ってタダで帰れるとは思わないことね。さあ、出てらっしゃいな。堂々と、斬り結んであげるわ」
この挑発に乗ってくるような相手であれば、対処は容易なのである。正面からぶつかって孫策を討ち取れる者など、この大陸に数人いるかどうかといったところだ。
調練を重ねた暗殺者であれば、静かに隠れて攻撃の機会をうかがうはずである。もしそうなった場合は、少々厄介だと孫策は思った。敵なのか味方なのか、判別のつかない男だってすぐ近くにいるのである。
「ふーん、そう。陰気な奴らばかりで、つまらないわね」
沈黙。周囲には岩場だけでなく、身を隠せるくらいの草も茂っていた。
抜刀し、神経を研ぎ澄ませる。ここからは、己の直感だけが頼りになる。孫策は、小さく舌打ちをしながらゆっくりと腰を落とした。
真名を呼んできた、失礼な男。気づけば、間合いの内側にいた。うわ言のように、何度も雪蓮という真名を口にしている。一体なにが目的なのか、孫策にはさっぱりわからなかった。
「雪蓮……。雪蓮を……、護る」
「それで、なんだっていうのよ、あなたは。さっきから、散々好き勝手にひとの真名を呼んでくれちゃってるけど」
「真名……。それも、わからない。ただ、お前を、雪蓮を護らなくてはならない。そう、思っただけだ」
「なによそれ。ほんとに、要領を得ない答えね。でも、敵じゃない。そうなんでしょう?」
「言っているだろう。俺は、雪蓮を護る。そのこと以外、いまはなにも考えられない」
「はいはい、それじゃあよろしく頼んだわよ。どこかの誰かさん」
自分のことを護る。失礼な男は、そう話すばかりだった。それに、真名の仕来りすら、知らない様子である。孫策の脳裏にまた、亡き母のお伽噺が過ぎった。天の御遣い。もしかすれば、この男がそうなのかもしれない。自分の直感は、よく当たる。それでも孫策は、まさかと鼻を鳴らした。
背中合わせに、言葉をかわしている。周瑜が知れば、不注意が過ぎると怒るだろう。それでも、こうしているとなぜか心地よくすらあるのだ。
一目惚れ。ありえない、と孫策は密かに首を振った。そうでなければ、もっと根本的な相性なのだろうか。それこそおかしな話だ、とも思う。
「風上に、敵の気配を感じる。崩すぞ、雪蓮」
「それ、本気で言ってるわけ? まっ、結局やることに変わりはないんだけれど」
失礼な男が、駆け出している。剣を振るうような場所で、誰かの背中を追うのは久しぶりのことだった。
前方に、草むらが見えている。僅かだったが、物音が聞こえた。敵が仕掛けてくる。ひりつく肌の感覚で、孫策はそう直感した。
「来るわよ」
「ああ、わかっている。お前は、誰にも傷つけさせはしない」
変わらない平坦な口調で、男はさらに前へ出た。
草の間から、一瞬なにかが覗いた。鏃。どちらを狙って放たれたのかは、孫策にも判断がつかなかった。
「あはっ、やるじゃない。わたしを護るって言ったのは、案外口だけではなさそうね」
孫策に向けて発射された矢。失礼な男が、それを空いた手でつかんで防ぎ止めている。そのような芸当を見せられては、孫策も笑うしかない。
手のなかの矢を忌々しげに二つに折ると、不思議な男は眼前の草むらを大太刀で薙ぎ払った。めきっ、と嫌な感じの音が鳴る。転がり出てきたのは、首のひしゃげた襲撃者の身体。手応えで仕留めたことを確信しているのか、失礼な男は辺りの気配を探っているようだった。
「こっちだ、雪蓮。浮足立っている間に、敵を殲滅する」
「うん、りょーかい。でも、つぎはわたしに獲物を譲ってもらうわよ。仕返しをしてやらなきゃ、孫家の当主として示しがつかないんだもの」
「好きにすればいい。どうであろうと、俺はお前を護るだけだ」
「それじゃあ、存分に楽しませてもらいましょうか。後ろは、任せたわよ」
小さな戦場に、ふたつの旋風か巻き起こる。驚くほどに、息が合う。南海覇王を休まず振るいながら、孫策は感心していた。
十人ほどいた刺客は、全員が容赦なく斬り捨てられた。無理に捕虜としたところで、時間の無駄にしかならないはずである。だったら、ここで見せしめとして命を絶ってやるほうがよほど良心的なのではないか、と血風を飛ばしながら孫策は思っていた。
掃討を終えたところで、失礼な男が動きを止めた。きょろきょろと、周辺を見回している。恐らく、大太刀の鞘をどこかに置いてきてしまったためだろう。
存外、かわいいところもある。愛剣についた血を拭いながら、孫策は笑みをこぼす。そういえば、まだ名前すら聞いていなかったことを思い出した。
「あなた、名はなんていうの。わたしは孫策、字は伯符。真名は雪蓮よ、知っているだろうけどね」
孫策に声をかけられて、失礼な男は鞘の捜索をぴたりと中断した。なにか、考え込んでいるようでもある。答えが返ってくるまで、いくらか時間がかかった。
「北郷。北郷……、一刀。多分、それが俺の名だ」
「へえ、一刀っていうんだ。助かったわ、一刀。でも、多分ってどういうわけかしら」
あいも変わらず、平坦な口調である。しかし、失礼な男、もとい北郷一刀が、薄っすらと微笑んでいるようにも、孫策には見えていた。