幻想の果てに届きし願い   作:KKS

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六 夢幻の先

 早朝の廊下に響く足音。いくらか、甲高さがあった。足取りは、重くない。長く美しい黒髪が、はらりと風に舞った。

 周瑜である。一刀を置き留めている部屋の前に着くと、番をさせていた周泰に声をかけた。

 

「ご苦労だったな、幼平。ここに詰めるのは、今日で終わりにしてくれていい」

 

「見張りをしなくてもよいということは、御遣いさまは自由の身となられるのでしょうか」

 

「ああ、そうするつもりだ。記憶もまばらでよくわからないことが多い男だが、あれで伯符だけには従順だからな。それに、興覇すら寄せ付けなかったあの強さ、放っておくわけにもいくまい」

 

 北郷一刀は、どうやら孫家にとって本当に害のない存在のようである。それが、周瑜の出した最終的な結論だった。

 聞くところによれば、あの甘寧ですらそれなりに心を開いているという。どちらも、積極的に話題を振りまく方とはいえなかった。それだけに、会話をしている場面を想像することは困難を極めたのだが、剣を交えた人間同士にしかわからない感覚というものがあるのかもしれない。

 出兵の準備をするにあたって、より強力な刺客が送り込まれる可能性があると周瑜は考えている。あの一刀であれば、それら脅威から身を挺して孫策を守護してくれることだろう。先代である孫堅に続いて、ここで当主を失うわけにはいかなかった。

 

「入るぞ、北郷」

 

 普通であれば、起床している時間帯である。

 自身の屋敷に一刀を逗留させるようになってから、毎朝顔を見に来るのが周瑜の日課となっていた。その間、寝過ごしている姿などは見たことがなかった。

 ほとんどの場合、一刀は瞑目したまま寝台に腰を掛けている。厳粛な空気を纏った剣士。それが、北郷一刀に対する周瑜の率直な感想だった。

 いつものように、一言二言交わしてから決定を言い渡そう。扉に力を加えながら、周瑜はそう思っていた。しかし、この日だけは様子が違ったのである。

 

「珍しいな、お前がまだ寝ているなどと。おい、ほんご……」

 

 寝台で身体を横にしている一刀。その名を呼ぼうとして、周瑜は一瞬言葉に詰まった。

 額に浮かんだ汗。表情は、苦しげに歪んでいる。顔を近づけてみると、うわ言のようにぼそぼそとした声が洩れ聞こえてきた。

 

「いくな、雪蓮……ッ」

 

 盟友の真名。絞り出すような、か細い声だった。一刀本人ですらよく記憶していない部分で、なにかがあったとしか思えない。それも、孫策に執着するようにほどのなにかだ。

 天の御遣いというのは、どこからやって来るものなのだろうか。周瑜は、そのことが気になっていた。自分たちでは、知り得ることのできない未来。天の御遣いには、それを予見する力があるとでもいうのか。

 

「めい……りん……」

 

「なっ……。北郷め、よもやわたしの真名まで知っているとでもいうのか……?」

 

 冥琳。それが、周瑜の真名である。当然ながら、一刀には知らせていない情報でもあった。

 胸の奥底。なぜだか、無性にそこがかき立てられるような気分になった。ほとんど感情を表さない男が、夢見に苦悶しているせいなのだろうか。

 

「冥琳、冥琳……ッ」

 

「北郷、お前……」

 

 気がついたとき、周瑜は苦しむ一刀の手を握ってしまっていた。

 理由など、どうでもいい。自分は、間違いなくここにいる。そう知らせてやらねば、と直感的に身体が動いたのかもしれない。

 

「公瑾さま、どうかなされましたか? もしや、御遣いさまになにかあったのでしょうか」

 

「いいや、気にするほどのことではないよ。しばらく外で待機していてくれるか、幼平」

 

「はい、了解なのです」

 

 背後から話しかけてきた周泰。恐らく、普段とは違う雰囲気を察知したのだろう。どれだけ可愛らしい外見をしていようとも、中身は歴とした武人なのだ。微妙な変化に気づかないようでは、戦場で長生きすることなど到底叶わないことである。

 ふっ、と息をつく。周泰が出ていったことを確認してから、周瑜は一刀の方へ向き直った。まだいくらかうなされているようだったが、先程よりかは落ち着きを見せている。人間らしい部分もあるものだ。ついつい、そう思ってしまう。

 

「はあっ、ううっ……。めいりん……、冥琳、か」

 

「む……、目が覚めたか。どうしたというのだ、北郷」

 

 薄っすらと瞼を開き、一刀は周瑜の顔を見つめていた。その眼差しが孫策を見つめているときと近いような気がして、周瑜はどきりとさせられてしまう。握っていた手を慌てて解いたのは、そのためだったか。

 持っていた布を取り出して、じっとりと湧き出た汗を拭ってやる。一刀は、周瑜の手の動きをじっと受け入れていた。

 

「抜け落ちていた記憶は、少しでも戻ったのか」

 

「わからない、なにも。ただ、夢の中で俺は無力だった。雪蓮と冥琳が遠くへ行ってしまうのを、見ていることしかできなかった」

 

「伯符とわたし、か。ふふっ……。お前が夢で見た光景になど、意味がないと思えなくなっていることが恐ろしいよ、わたしは。改めてたずねるが北郷、天の御遣いの力、我らのために使ってくれるのだろうな」

 

「初めからいっているだろう。俺は、雪蓮を護らなければならない。そのことだけは、はっきりとしている」

 

「そうか、ならば北郷に頼みたい役目がある。伯符を、雪蓮をそばで警護してやってくれ。あれはちょっと目を離した隙きに、ふらりとどこかへ行ってしまう癖がある。幸いにしてお前のことを気に入っているようだから、よくよく付いていてやってほしい」

 

 本当であれば、盟友の警護は自身でやりたいことでもあった。だが、いまの立場がそれを許すはずもなかった。孫家の内外のことに、周瑜は大きく関わっている。最高位にある者として、文武官を統率し、孫家の版図拡大に努めなければならなかった。

 兵の調練に、支城となる拠点の建設。やらなければならないことは、いくらでもあった。

 

「無論、そうするつもりだ。雪蓮だけは、何に変えても護ってみせよう。それだけが、俺の望みだからな」

 

「頼もしいものだよ、まったく。それでだが、近く雪蓮は領内の視察に出る予定となっている。この建業を離れるということは、あいつを付け狙う敵が動きやすくなるということでもあろう。兵も同行させるつもりだが、努々油断はするなよ」

 

「当然だ。お前はなにも心配することはない、冥琳」

 

「くくっ……。北郷にかかれば、真名のしきたりなどあってないようなものなのかもしれんな。許そう、お前も今日から正式に孫家の一員となるのだからな」

 

 真名を呼ぶことを許可しつつ、周瑜は優美な笑みを浮かべている。その姿を、一刀の双眸はしっかりと捉えていた。

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