往来するひとびと。あちらこちらから、活気に溢れた声が聞こえる。建業の
一陣の風。吹き抜けていく。薄っすらと混じっていたのは、肌を突き刺すような感覚か。
誰かが、自分のことを見ているような感じがしている。気のせいかどうか、というのは関係のないことだ。ひとりの男が、ぐるりと周囲を見回した。北郷一刀、天の御遣いである。
建物の陰。城壁のうえ。どこにも、そういった気を発している者はいなかった。やはり思い違いだったか、と首を傾げる。歩きだそうとしたところで、一刀は名を呼ばれた。ちりん、と小さく鈴も鳴っている。
「一刀」
濁りのない、よく通る
「なにか用でもあるのか、思春」
「ちっ、つくづく馴れ馴れしい男だ……。何の冗談かは知らんが、わたしが貴様に用などあるわけがなかろう」
その女、甘寧の表情が苦々しく歪む。そうした所作は、どことなくわざとらしくもあった。相手がこの一刀でなければ、そのことを突っ込まれていたことだろう。
一刀が思春という己の真名を呼ぶことに対して、甘寧は許可もしないが否定もしていなかった。本当であれば、心の底から嫌悪感が湧いて出てもおかしくはないのである。しかし、おかしなことに現実はそうならなかった。
だから、意趣返しとばかりに、一刀のことを姓ではなく名で呼んでいる。少なくとも、甘寧自身はそう思おうとしていた。
「そうか。ならば思春、雪蓮の居場所を知らないか」
「……知らぬ。まったく、貴様のような男に伯符さまの警護を命じられるとは、公瑾殿はなにをお考えなのか」
甘寧が、大きくため息を吐いた。苛立たしげに、右手の指が剣の柄を撫でている。
「それに、だ。貴様であれば他人に尋ねるより、自らの嗅覚に頼って伯符さまを探したほうが早いのではないか」
半ば、冗談のつもりである。一刀が気配に敏感なのは実際に闘った甘寧も認めるところではあったが、さすがにそれほどのものとは考えていない。
ともあれ、である。その返答を聞いて、それもそうか、と一刀は街へ向かおうとした。迷いのない足取り。放っておけば、すぐにでも姿は人混みに紛れてしまうはずだ。
「おい……、待たぬか一刀ッ!」
「ン……。どういうつもりだ、思春。自分で探せといったのは、お前のほうだろう」
その場を去ろうとした一刀を、甘寧は駆け足で追った。意味がわからない、というような視線を向けられている。
自分は一体なにをしているのか、と頭を抱えたくなった。
「貴様のような常識のない男を、城下に野放しにすることなどできん。伯符さまを探すというのであれば、わたしも同行させてもらおう」
「よくわからないが、好きにしろ。雪蓮が見つかるのであれば、俺はなんだろうと構わない」
身長ほどある大太刀を肩に担ぎながらも、足早に歩いていく一刀。光を反射する出で立ちも相まって、町人たちの注目の的となっている。
周瑜の計らいもあって、すでに建業では天の御遣いに関する風聞が広められていた。あれこそが、孫策を危地から助けた天の御遣いなのではないか。指差しながら、そう話す者がいるくらいなのである。
「それで、どうなんだ。伯符さまは、本当にこちらの方角にいらっしゃるとでもいうのか、一刀」
「ああ、そのはずだが」
「本当に、正気とは思えんな……。この地に来るまでの記憶がない。そう言っていたな、お前は」
「そんなわかりきっていることを聞いて、どうするつもりだ」
「伯符さまのことを護る。そのことに執着するのは勝手だが、お前はそれで良いのか」
この男は、あまりにも自分自身に無頓着すぎるのではないか。甘寧ですら、そう思ってしまうくらいだった。
孫策への執心。そして、時折ぼつりと思い起こされていく自分たちの真名。果たして、その根源にはなにが眠っているのか。それを、一刀は知ろうともしなかった。
「記憶がどうであろうと、関係のないことだ。雪蓮を、護ってやらなければならない。この世界に来た瞬間から、自分の中のなにかがそう強く求めている。その衝動を、俺は信じたいと思う。ただ、それだけだ」
「……ッ」
不意に、一刀が足を止めて振り返った。強く光を放つ双眸には、それだけの決意が宿っているのか。
投げかけた問い。まともな返事は得られないと高を括っていただけに、甘寧は言葉に詰まってしまう。今までにないほど、一刀は饒舌に己の心情を吐露しているのだ。
その一言一言に、嘘偽りは少しもありはしない。そう感じたからこそ、余計に疑問は膨らんでいった。
どういう訳かはわかりもしなかったが、もしかすれば自分たちはどこかで北郷一刀と繋がりがあるのではないか。甘寧には、そう疑いたくなる瞬間すらあった。自分でも気が触れたのではないかと思うくらいの推論だったから、孫権にすら打ち明けていない仮説である。
世界というものの成り立ち。そのようなことを、いままで甘寧は考えたことすらなかった。広大な海原。その向こう側に、どういった国々が存在しているかすらも、知らないくらいなのである。
大陸南部に横たわっている江水(長江)。その雄大な流れの恩恵を受けた暮らしこそが、かつて江賊でもあった甘寧にとっての全てだった。
「おかしな奴だな、お前も」
「ふんッ……。馬鹿をいうなよ、一刀。貴様以上におかしな人間など、この世にいてたまるものか」
悪態をつきながら、甘寧は自然と笑い返していた。
孫家という大きな流れの中で、ひとつの支流が生まれようとしている。それはきっと、悪いことではないはずだ。
「あら、一刀じゃないの。興覇と一緒だなんて、なんだか妬けちゃうわね」
妙な空気感に絆されかけていた甘寧。その意識が、急激に引き戻されていく。
視線を動かした先には、一刀の探し人がいた。にんまりと引き上げられた口角。ふたりに順に目をくれた孫策の右手には、しっかりと酒盃が握られていた。どうやら、この明るいうちから飲み歩いていたらしい。
「い、いえっ……。わたしはただ、一刀のことを見張っていなければと思っただけで……」
「ふうん……。興覇も一刀のこと、名で呼んでいるのね。っていうことは、真名はもう許したのかしら」
しまった、と甘寧が思ったときにはもう遅かった。
こういった場合往々にして、実際の出来事に対して背びれ尾びれがついて話が出回ってしまうものである。しかも、相手はそういったことに目がない孫策である。かといって、主君であるだけに強引に否定することも気が引けてしまう。
「思春は、思春だろう。それは、なにも変わらない。それよりも雪蓮、出立の時刻が近づいている。準備に戻るべきだ」
「ぐぬっ……。貴様、よもやわからぬ振りをしてわたしをからかっているのではなかろうなッ!?」
顔を真っ赤に染めて、甘寧は一刀に掴みかかろうとしている。その様子がおかしくて、孫策は呵呵と笑った。
「はいはい、そこまでにしておきなさい。孫家に連なる武人が、このくらいのことで慌ててはだめよ、思春?」
「なっ……、わたしは決して慌ててなど……」
「思春」
「うっ……。申し訳ありません、雪蓮さま。その、一刀……」
「どうして、思春がそんな顔をする。俺は、どうということもない」
気落ちしたように眉尻を下げる甘寧。その理由がわからなくて、一刀は怪訝そうに少しばかり表情を変えてみせた。
「くすっ……。まっ、今日のところはこのくらいにしておきましょうか。それじゃ、戻りましょう。せっかくだし、先導してくれるかしら、一刀」
普段気ままにしている孫策だったが、たまに見せる君主としての表情は峻烈そのものだった。
背を伸ばし、直立している甘寧。その肩を楽しげにぽんと叩き、孫策は一刀に命を下した。
「当然、そうするつもりだ」
「ふふっ。あなたのことだから、そういってくれると思っていたわ。だったら、よろしくお願いするわね、天の御遣いさん」
一刀と横並びとなり、孫策は歩き始めた。似合いの二人。甘寧には、眩しいくらいだった。
ふと振り返り、孫策は小さく舌を出す。先程とはまるで別人のような、あどけない仕草である。
ごめんね。孫策の口がそう動いているように見えて、甘寧はまたしても心をかき乱されてしまうのだった。