夕焼け空の照らす街。腹ごしらえをしようとする民衆で、屋台は賑わいを見せている。
自然と溢れる笑顔。いつまでも、こんな平和な暮らしが続けばいい。戦場において剣を振るうことを愛する孫策ですら、そう思わずにはいられなかった。
横を振り向いてみれば、近頃馴染みとなってきた仏頂面があった。北郷一刀である。建業を離れた孫策は、麾下の護衛を伴って、統治下にある地域を視察して回っていた。
戦の足音は、すぐそこにまで迫ってきている。このところ、河北の袁紹が孫家に対し兵を出すように何度も要請を行ってきている。
孫策が南方から曹操の背後を突けば、情勢は袁紹有利へと一気に傾く可能性があるからだ。しかし、それではつまらない。孫策は、そう考えていた。誰かの命令に従って闘うのは、もうこりごりだとも思っている。
袁術のもとを脱し、揚州一帯に強固な勢力を取り戻したばかりなのである。これからすべきなのは、自分たちのための闘いだ。
まずは、荊州江夏郡。宿敵ともいえる黄祖を討ち滅ぼし、大陸南部での地盤をさらに固めるつもりだった。
江水(長江)に拠る孫家には、強力無比な水軍があった。
その力を最大限に発揮するために、周瑜は幾度も調練を重ねてきている。巴丘に築かれた水軍基地も、そのための施設のひとつだ。打倒黄祖のため、周瑜自ら指揮をとって作り上げたものだった。
「ねっ、一刀はなにか食べたいものはある?」
「毒さえ入っていなければ、俺はなんだろうと構わない」
「あははっ……。ごめんなさい、あなたに聞いたわたしが間違いだったわ。よっし、それじゃああっちに行ってみましょ」
走り出す。一刀の表情が、ほんの一瞬だけ驚きに変化していた。孫策に手を引かれたことが、予想外だったのだろう。
長い時間を共に過ごしていれば、もっと色々な変化を見つけられるようになるのかもしれない。これでも、出会ったときの頃から比べてみれば、ずっとマシになったほうなのだ。
「おじさん、肉まんをふたつ貰えるかしら」
「へい、まいど!」
空きっ腹に、炊きあがった餡の香りがたまらなかった。目ぼしい屋台を見つけた孫策はすぐさま店主に声をかけ、湯気の立ち上る肉まんを手に入れた。
熱々になった紙袋が、出来たての証拠だ。ひとつは自分で持ち、もうひとつは一刀に手渡す。
「いいのか、雪蓮。腹が空いているんだろう、お前は」
「へえ、一刀もそんな風に気を遣えるのね。でも、気にしなくたっていいのよ。単に、わたしがあなたと一緒に食べたいってだけなんだから」
ふたりして、人混みのなかをすり抜けていく。戦場であろうとなかろうと、やはり息が合うのだ。
逢い引き、と表現すると少し照れくさく感じてしまう。一刀がついていてくれるからと、配下の護衛には少し距離を取って付いてくるように申し付けてある。
視察先でこうしてふらふらしていることを知れば、周瑜はさぞかし怒るのだろうな、と孫策は苦笑した。そして、ふっと何事か思いついたように指を立てる。
時間に余裕ができれば、三人で出歩いてみるのもいいかもしれない。なんだかんだと文句をいっていた周瑜でさえも、一刀のことを気にし始めている。本人は悟られまいとしているつもりなのだろうが、長年の付き合いである孫策には筒抜けだった。
「うん、この辺まで来れば平気かしらね。それじゃ……」
橋の欄干に、腰を下ろす。
まだ十分に、肉まんは湯気を発していた。ふっくらとした、白い皮。かぶりつく。咀嚼するごとに広がっていく、肉や野菜といった具材の旨味。海がそう遠くない土地なだけに、そちらの食材も混ぜ込まれているのだろうか。幸せそうに、孫策は目を糸のように細めている。
「あっ!」
「どうかしたのか、雪蓮」
「うふふっ……。一刀ったら、いま笑ったでしょー?」
「そう……、なのか? 笑ったのか、俺は」
いまのは、見間違いではなかったはずだ。ほんのかすかだったのかもしれないが、確かに綻んだ表情を見せたはずなのである。
無理に作られたものではなく、心の安らぎが表面にでたかのような自然な笑顔。一刀の笑っているところを、もっとたくさん見てみたい。孫策は、素直にそう思えていた。
「うん、絶対そうだってば! いまの一刀、すっごくかわいかったわよ」
一刀の顔に手を伸ばし、頬をこねる。いつと変わらぬ、硬い表情だ。
「ねえねえ、もう一回お願い! さっきの一刀なら、冥琳くらいころっと落とせてしまうかもしれないわよ? あっ、でもそうなったら困るのはわたしかあ……」
「ン……、冥琳? つまり、俺はどうすればいいんだ、雪蓮」
「あははっ、こっちの話よ。ほら、一刀も食べて食べて。温かいうちに味わってあげないと、美味しい肉まんがかわいそうでしょ?」
「む……、わかった。んむ、んぐ……」
無心で肉まんにかぶりつく一刀。その姿を横目に、孫策は自身の親指についた汁を舐め取った。
完全に日が暮れた夜道を、ふたりしてのんびりと歩く。
少々、時間を潰しすぎてしまったのかもしれない。賑わいのあった夕刻頃から比べると、ひとの気配はまばらである。
そろそろ、宿に戻らなくてはならないか。待機させてある配下たちが、不安がって騒ぎになっても面倒だ。
軽く頷くと、孫策はふと思い浮かんだことを話しだした。その顔は、微笑している。
「……今晩同じ寝台で眠りたいっていったら、一刀はどう思う?」
「それは、どういう意味だ。だが、雪蓮がそうしたいのであれば……むぐ」
自分の意見を最優先してくれるのは、いつものことなのだ。けれども、いまはそれがもどかしくて仕方がない。一刀の言葉を人さし指で制しつつ、孫策はわざとらしく口をへの字に曲げる。
わがままな性分をしている、と思わないこともない。それでも、どうせならば相手から燃えるように求められたいのだ。果たして、この一刀にそんなことができるのか、とも考える。沈黙。面倒になった孫策が思考を放棄してしまうまで、数秒とかからなかった。
「うーん、そっかあ。あなたもまだまだ精進が必要のようね、一刀」
「雪蓮のためだ、努力しよう」
「あははっ。一刀ったら、絶対わかってないって顔してるわね」
大太刀を担いで、生真面目そうに応える一刀。それを見て、孫策は小さく吹き出してしまっている。
まだ当分、いまのような関係が続いていくのだろう。まあ、それはそれでありなのかもしれない、と孫策は納得しようとしている。
自分や仲間たちと関わることで、一刀に変化の兆しがあるのは明らかなのだ。らしくはないことだが、たまにはゆるりと待ってみるのだっていい。
「雪蓮」
「一刀、どうしたの?」
張り詰めた声が響く。大太刀の柄に手をかけて、一刀は周囲を警戒し始めている。
少し先の道すら、はっきりとしないくらいの闇夜。迂闊に動けば、飲み込まれてしまいそうだった。
「何かが来るぞ。気を抜くなよ、雪蓮」
「ええ、わかったわ。せっかくの時間を邪魔してくれた相手のツラ、しっかりと拝んでやろうじゃないの」
白刃が姿を見せる。南海覇王の澄んだ地金が、月光を美しく反射していた。
「そこか」
大太刀に被さった白木の鞘を取り払い、一刀は正面目掛けて突進していく。
刺突。常人では、受けることは到底かなわない速さで繰り出されている。
手応えは、間違いなくあった。目に飛び込んできたのは、頭まで覆う白い装束のようなものだったか。ざわざわと、肌が粟立っていくような感覚。大太刀を引き抜くと、一刀はさらに顔をしかめさせた。
「ちょっと、なんなのよこれ……。人間の相手だったらいくらでもしてあげられるけど、参ったわね……」
大太刀を受けて空いた白装束の穴から、ポロポロとなにかが溢れだしている。血ではない。出てきていたのは、茶色い
孫策が、舌打ちをしている。敵は、明らかに人間ではないなにかだった。妖術使い。そのような者が、現実に存在しているとでもいうのか。
「とにかく、倒すしかないんでしょう……? 一刀、無理して突っ込んだらだめよ」
「了解した。叩き潰すぞ、雪蓮」
南海覇王と大太刀が、闇の帳を切り裂いて舞う。
気味の悪い土人形だったが、闘う力はそれほどでもないようだった。一刀と孫策。乱れのない剣撃によって、つぎつぎと白を纏った人の形をしたなにかを破壊していく。数十体ほど倒したところで、孫策が声を荒げた。
「数ばっかりいて、鬱陶しいことこの上ないっての……! こいつらになにか心当たりはないの、一刀ッ」
「わからない。だが、いい気分ではないことは確かだ。……くッ、雪蓮」
孫策の背後から斬りかかってきた白装束を真っ二つに叩き割り、一刀は大太刀を横に構えた。
踏み込み、片腕で水平に薙ぎ払う。すると、五体ほどが一気に砕け散った。
「へえ、やるじゃないの。こんなのはさっさと片付けて、ゆっくり眠りたいものなんだけど」
辺りを睥睨する孫策。こういう場合、術者がどこかにいるのがお決まりなはずだ。
「そこか……! せやぁあああああああ……ッ!」
孫策自慢の直感が、そこに誰かがいると告げている。斬り込む。闇の力を吹き飛ばさんと、裂帛の気迫を丹田に込めた。
刃の先。なにかを、かすめたような気がしていた。視線を感じる。見ているのは、自分ではなく一刀のほうだ。孫策には、そんな気がしていた。
「ちっ……。人形どもではこんなものか」
男の声がしている。孫策に続いて一刀も気配のある方向に突っ込もうとしたが、既にどこかへと去ってしまった後のようだ。
あれだけいた土人形も、綺麗サッパリ消えてしまっている。しかし、夢などではないはずだ。南海覇王の刀身に付着したざらざらとした土が、その証なのである。
暗闇のなかでもよくわかる、強い殺気を宿した視線だった。大太刀を構えたままの一刀の肩を、孫策は優しく撫でる。
「平気、一刀?」
「ああ、平気だ。雪蓮のほうこそ、怪我はしていないか」
「うん、わたしはぴんぴんしているわよ。あんなのに手こずってたら、孫家の当主なんて務まらないんだから」
あと何箇所か視察に回る予定をしていたが、急ぎ建業に立ち帰るべきなのかもしれない。いまは、江夏攻略を控えた時期でもある。自分が家中の足を引っ張るわけにはいかない、と孫策は思う。
そして、方針が変わったことといえばもうひとつ。
「あー、やっぱり気が変わちゃった! 独り寝なんて、今夜は出来る気がしないわ。だから一刀、付き合いなさい」
「どうかしたのか。身体が熱いぞ、雪蓮」
「ええー? それはなんでもないから、ねえ……ダメ?」
鞘にしまった大太刀を担ぎ直している一刀。その背中から抱きついて、孫策はその頬に熱っぽい息を吹きかけている。まともな感性をしている男であれば、それだけで理性が吹き飛んでしまっているはずだ。女体の柔らかな部分が、これでもかというくらいに当てられている。
相手がなんであろうと、一刀との共闘で身体が上機嫌になってしまっているのだ。そういう意味では、孫家の血というのは厄介なものでもあった。
「いいや……。お前が望むのであれば、俺はそうするまでだ」
「ふふーん、言ったわね? それじゃ、早く宿に戻りましょ。待ちきれないのよ、色々とね」
一刀を見ていた何者か。別段、それを恐れているわけではない。
ただ、一刀の存在を夜が明けるまで肌で感じていたい。孫策は、そう思ったまでなのだ。
いずれまた、交戦する機会がやってくるのだろう。その時が来れば、今度は間違いなく叩き斬ってやる。江東の小覇王は、静かに刃を研いでいる。