むかしむかし、あるところに初音ミクという名前の女の子がおりました。
初音ミクとは、誰かの代わりに歌を歌ってくれる、ボーカロイドとも呼ばれる女の子です。
その歌声は透き通るように美しく、ひとたび彼女が歌えば、どこまでも響く素敵な音色を響かせます。
ですが、初音ミク自身は、何も歌うことはできません。
彼女の役割はあくまでも誰かの代わりに歌を歌うことで、自分の歌を歌うことではないのです。
さて、ある日のこと。
初音ミクは、一人の男性に出会いました。
その男性は、彼女を一目見るなり、
「君に、歌ってほしい歌があるんだ。良かったらでいいんだけど、僕に協力してくれないかな?」
と、言いました。
初音ミクは、喜んで笑って、
「はいっ。任せてください!」
と、胸を張りました。
「ありがとう。僕と一緒に、すばらしい音楽を作ろう」
男性も嬉しそうに笑って、初音ミクの手を取りました。
月日が流れました。
どうやら、その男性には世間一般で言う才能というものがあったようです。
彼が初音ミクに歌わせた歌は、色んな人が好きだと言って、またたく間に世界中に広がりました。
「ありがとう。君のおかげだよ」
男性は嬉しそうに、初音ミクに言います。
「いいえ。私は、あなたの気持ちを代わりに歌っただけです。みんなあなたの力ですよ」
そう言いながらも、初音ミクはちょっと誇らしげな顔です。
それを見て、男性が優しく微笑んで、
「僕には、まだまだ君に歌ってほしい歌がある。これからも、僕と一緒に音楽を作ってくれるかい?」
初めて会った時のように、初音ミクの手を取りながら、そう言いました。
「はいっ!」
とても嬉しい気持ちでいっぱいになりながら、初音ミクは元気に返事をしました。
また、月日が流れました。
最近、男性は初音ミクに歌を歌わせることが少なくなりました。
色んな人に歌を聞いてもらえるようになった彼は、だんだんと自分の歌を、初音ミクに歌わせなくなったのです。
代わりに歌ってもらうんじゃ、もう満足できない。僕の歌は僕のものだ。
いつの間にか、男性はそう思うようになっていました。
初音ミクは、何も言いません。
ただ、微笑んで男性を見つめています。
またまた、月日が流れました。
もう、男性は初音ミクに歌を歌わせることはなくなりました。
彼は、自分の歌を自分の力で世界に送り出せるようになったのです。
男性は満足でした。
良かった。僕の歌は、ちゃんとみんなが受け入れてくれる。よし、もっともっと自分の歌を作るぞ。
そうして自分の音楽を作り続けるうち、いつしか彼の頭の中から、初音ミクの存在は消えていました。
ある日のこと。
仕事のレコーディングを終えた男性が部屋に帰ってくると、ふと、隣の部屋から歌が聞こえます。
どうやら隣人の鼻歌がこちらの部屋まで響いてしまっているようで、
「うるさいなぁ」
と思いながらも、男性にはその歌に覚えがありました。
どうやらそれは、自分が昔作った歌で、かつて自分が、初音ミクという女の子に歌ってもらった……
「あっ」
見れば、目の前に初音ミクがいます。
出会ったときと変わらない姿で、こちらを見て優しく微笑んでいます。
男性は、その足元に崩れ落ちるように突っ伏して、
「ごめんよ、ごめんよ」
そのまま、しくしくと泣き出しました。
「僕はもう、君に歌を歌わせてあげることはできないんだ。君に歌ってほしい歌を、もう僕は作ることができないんだ……」
男性はしゃくりあげながら、初音ミクにそう言いました。
そんな彼を見て、
「ううん、いいの」
と、初音ミクは、笑って首を振りました。
「あなたの歌を私が歌えなくっても、あなたが私を忘れたとしても、それでも、私は幸せなの」
優しい声で、男性を諭すように、初音ミクが言います。
「どうしてだい、どうしてそんなことが言えるんだい」
協力してほしいと言っておいて、いつの間にかほっぽりだしたのは自分なのに。
これからも一緒に音楽を作ろう、という約束を破ったのは自分なのに。
なのにどうしてそんなことが言えるのか、男性にはわかりませんでした。
「それはね。私が歌ったあなたの歌が、あなたの中で、ちゃんと生きているから」
微笑んで、初音ミクがそう言いました。
「生きている?僕の歌が?」
どういう意味なんだろう?
男性は顔を上げて初音ミクに聞き返します。
「……ねえ、覚えてるかな?」
初音ミクはしゃがんで、床に倒れ伏した男性の近くによります。
「あなたの歌。あなたが私に、初音ミクに歌わせた歌を……」
「……」
男性の頭に、かつての思い出が蘇ります。
初めの頃、どうしたらいいかわからずにすごく悩んだこと。
それでもなんとか完成させて、その歌をみんなに聞いてもらえたこと。
自分の心を、みんなに受け入れてもらえて、すごく嬉しかったこと。
そして、その歌はみんな、目の前の女の子に歌ってもらったこと。
「ああ、覚えてる。忘れられるわけがないよ」
男性は、まっすぐに初音ミクの顔を見ながら、そう言いました。
「そっか、良かった」
初音ミクは、安心したように笑います。
「初音ミクがあなたに忘れられても、あなたが作った歌は、やっぱり、あなたの中で生きているんだね」
嬉しそうに言う初音ミクの顔を見て、男性にも、彼女の言わんとしていることが、なんとなくわかってきました。
でも、だからこそ、やっぱり男性には納得できませんでした。
「君は、それでいいのかい……?」
歌さえ忘れていなければそれでよくて、自分のことは、忘れられてもいいなんて。
男性には、その気持ちが全然わからなかったけど、
「うん。だって、それが私だから」
穏やかに、初音ミクがそう言います。
「たとえ私がもうあなたの歌を歌えなくなったって、たとえあなたが私を忘れていらないって思ったって」
目を真っ赤に腫らした男性を見ながら、
「私が歌ったあなたの歌が、あなたの中で生きているなら」
目を細めて、穏やかな顔で、
「私は、本当に幸せなの」
初音ミクが、にっこりと笑ってそう言いました。
月日が流れました。
レコーディングを終えて部屋に戻ってきた男性は、一人、静かに息をつきました。
そして、意を決したように、言いました。
「今更こんなことを僕に言う資格がないのはわかってる」
彼の他には誰もいない部屋。
「でも、やっぱり、僕は君のことを忘れたくないんだ」
男性の声だけが、静かに響いています。
「君のことを忘れかけて、やっとそれに気づいた。本当に、馬鹿だった」
彼は誰かに話しかけているのか、それとも自分自身に語りかけているのか。
それは、誰にもわかりません。
「以前のようにはいかない。僕の歌を君にずっと歌ってもらうというのは無理だけど、でも」
男性が顔をあげます。
「君に、歌ってほしい歌があるんだ。また、僕と一緒に音楽を作ってくれるかい?」
彼の目の前に、女の子があらわれました。
自分の力では歌えない、とてもか弱く、そしてとても強い女の子。
「はいっ。任せてください!」
初音ミクが、胸を張って、元気にそう言いました。
その笑顔は、まるで生きる喜びに満ちあふれているように、輝いていましたとさ。
おしまい。