無意識に、頬につけた絆創膏に手を伸ばしてしまう。不良のナイフでつけられた傷だ。
これはまだかすり傷程度。今日含めて、今まで受けた傷は身体中に生々しく残っている。
みんなと一緒に風呂に入らなくて正解だったな。みんなが寝静まったあと、一人で入るとしよう。
今日のことを反省しつつ、俺は受付近くのソファに腰掛けて、天井に顔を向けた。
万が一のため『貌なし』のセットを持ってきてたのは正解だったが、『まさか』と思い込んで楽観していたのはまずかった。
もう少し気を張っていれば、茅野と神崎が連れ去らわれる前にどうにかできたのかもしれない。
……いや、本当にそうか? 違う班で別行動をしておきながら、俺にそれができたか?
はあ、とため息をつく。
所詮は中学生。すべてを見張って、事前にすべての危険を取り除くなんてできやしない。
まだ俺には足りないものが多すぎる。
こんなんじゃ、次に同じことが起きた時、手遅れになるかもしれない。
なにより甘すぎた。
烏間先生と殺せんせーを頼り過ぎたのだ。あの二人ならどうにかしてくれるだろうと高をくくっていた。
二人で何班も見張るなんて無理だとわかっていたはずなのに。
「なに暗い顔してんの」
俺の視界に、ひょいとカルマの顔が現れた。
風呂上がりのようで、浴衣を着こんでいる。顔は少し赤くなって、いつもより血色が良く見えた。
「ちょっと考え事」
ソファの端に詰めると、彼は遠慮なく隣に座ってくる。
まだ冷めない熱気が、こちらまで漂ってきた。
「カルマの班、今日は大変だったんだって?」
「まあね、神崎さんも茅野ちゃんも危なかったかも」
かも、というか危なかった。という言葉は抑えて、俺は努めて平静に、クラスメイトとして心配をする素振りを見せる。
「二人はどう?」
「今は大丈夫なんじゃないかな。怯えてる様子はなかったし」
「そうか」
とりあえず一安心。
精神的なダメージが一番心配だったが、どうやら大丈夫そうだ。
「ところで、寺坂から聞いたんだけどさ。二人が攫われたのと同じ時間に、単独行動してたんだって? 渚君とも電話してたんでしょ?」
「ただのお土産探しだよ。優柔不断だから買い物に時間がかかるんだ。渚に電話したのはただの好奇心。烏間先生が慌ててどこか行くもんだから、どっかの班で何かあったんだろうなって」
「へえ、本当に?」
早口になってしまった俺を疑う目で見るカルマ。『貌なし』を見ていた時と同じ目だ。
「何が言いたいんだ?」
「あの二人が攫われた場所に、『貌なし』が来て犯人たちをぼこぼこにしたんだ。おかしいよね。東京で活動してるはずの『貌なし』が、俺らと同じタイミングで京都にいるなんてさ」
「真似事なんじゃないか。有名みたいだし、こっちで似たようなことする奴がいてもおかしくないだろう」
カルマが目を細める。口で問わずに、目で訊いてきているのだ。『本当に?』と。
「俺たちが修学旅行に来たタイミングで、偶然にも『貌なし』の真似事をしている奴が、茅野ちゃんと神崎さんの危機をどうにかして知って、俺たちより早く助けた……國枝はそう言いたいんだ?」
「回りくどいな。結局、何が言いたいんだ?」
「國枝ってさぁ、『貌なし』なんじゃないの?」
ぞくり、と総毛が立った。
たとえ同じ情報を持ってたとしても、誰もそこまでたどり着けないだろう。疑わしくも、『貌なし』は中学生ではありえない。それくらい中学生は弱いはずなのだ。
同じ中学生だからだろうか、超生物よりも防衛省よりも警察よりも、カルマがいち早く真実に近づいた。
「馬鹿言え。体育のときの俺の動き知ってるだろ。大した動きもできない俺には、あんな動き無理だよ」
「あんな動きって?」
「……なに?」
「まるで見たみたいに、あんな動きって言ったよね」
くそ、しまった。
冷静に返したつもりが、墓穴を掘ってしまった。
「……テレビで見た。最近じゃ、防犯カメラに映る『貌なし』の報道もあるからな」
焦る気持ちを抑えて顔に出さず、なんてことないように言う。
「それに、中学生があんなことするわけないだろう。お前みたいにおかしい奴なら別だけど」
俺はそんな大胆なことはできないよ。肩をすくめて、ありえないことだと返す。
「ふうん、ま、そういうならそういうことにしとくか」
用件はそれだけだったようで、カルマはすっと立ち上がって去っていった。
みんなのところへ戻ったのだろう。
ああ言いつつも、彼は納得はしていないみたいだった。
しかし、手に入れられた情報から推測できたのはさっき言ったところまで。國枝響=『貌なし』確定まではまだ足りない。
が、遠くもないのだ。このままボロを出せば、いずれはバレる。
……ま、今回はイレギュラーだ。けど気を引き締めないとな。
ふう、とため息をつく。
とにかく茅野も神崎も無事。それでいい。
さて、俺もそろそろ部屋に戻るかな。そう思って立ち上がったところで、どたどたと足音が聞こえた。一人や二人ではない。数十人分だ。
音のするほうを見れば、逃げ回る殺せんせーを、男女が入り混じって追いかけていた。
「なに暴れてんだ、あいつらは……」
走っているのは……どうやらE組生徒全員のようだ。ビッチ先生までいる。
その中の磯貝を捕まえて、おい、と留める。
「何してんだ」
「気になる女子ランキング作ってたら、それが殺せんせーにばれたんだ。で、それを女子にばらされる前に仕留めようってこと」
顔を見るに、半分本気、半分冗談ってところか。
「殺せんせーもお前らもなにやってんだよ……」
はあ、とため息。
物騒な枕投げをしていると考えたらいいかな。いずれは旅館の人に注意されて……いや、殺せんせーも同じ屋根の下に泊まっていることを考えると、関わらないように言われていても不思議ではない。
どれだけ暴れたところでお咎めなしだろう。
まあ、どうでもいいか。
「で、女子は?」
歩を止めた茅野へ話を振る。
こちらはほとんど冗談のようで、真剣さを滲ませているのは中村、倉橋、矢田くらいか。いや、ビッチ先生が一番本気っぽい。
「ガールズトークを盗み聞きしようとしたのと、殺せんせーが自分のこと話さないから」
女子も女子で夜を楽しんでいるみたいだ。
ガールズトークねえ……男子と似たようなことでも話していたのだろうか。
「あれ、その手は? ほっぺたも。朝にはそんなのしてなかったよね?」
茅野が、軽く包帯を巻いた俺の手に気づいて指を差す。
感情任せに殴ったせいで、軽く内出血が起きていたのを隠しているのだ。
頬のは、ナイフを避けきれずについたかすり傷。これくらいは誰も気にしないと思ってたのに。
「人とぶつかって転んでしまってな。鈍くさいと笑ってもいいんだぞ」
考えていた嘘をすらすらと並べる。
彼女は少し考え込むような顔をして、そのまま「うーん」と唸る。
「そういえば、危ない目に遭ったって聞いたが、大丈夫か?」
「え、あ、うん。この通り全然平気だよ」
話して、考えを阻害する。
彼女は『貌なし』を見た張本人だ。ここで変に勘ぐられて、少しでも疑われるのは避けたい。カルマだけでも大変だってのに。
もともと中学生がそんなことをするなんてありえない。普通は少しつついてやれば疑念は消える。
彼女は気にした様子もなく、磯貝も何も感じていないようだ。
俺はさらに茅野を凝視した。精神的なトラウマが残っていないか、表情を探る。
彼女は時折何かを我慢するような、苦虫を噛み潰す顔をするから見分けづらいが、どうやら平気なようだ。
内心ほっとしつつ、俺は彼らとは逆方向へ踵を返した。
「おい、どこ行くんだよ國枝」
「風呂」
殺せんせーを追っているのが全員ってことは、今は誰にも邪魔されずにゆっくりできるということだ。
そのランキングとやらは、どうやら俺には関係ない事みたいだしな。
△
「はぁ~~あ」
シャワーで全身を洗った後、湯に浸かるとおっさんくさい声が出る。
宿は古臭いが、浴場はなかなかどうして立派な露天風呂。満点の星空を眺めつつ、熱いお湯と涼しい風が肌を癒す。手が沁みるが、すぐに傷も治りそうだ。
「入浴時間は決めていたはずだが……」
すっと現れたのは、烏間先生だった。俺と同じく湯に身体を沈め、隣に座る。
うわ、すごい筋肉だな。
「そういう烏間先生も、今お入りじゃないですか。お仕事してたんですか?」
「ああ。今回の暗殺計画の結果について、上に報告していた」
「修学旅行の時までお疲れ様です」
大きく息を吐いて、しばらく沈黙。
二人して、今日の疲れを思う存分出していた。
こうやってぼうっとできる夜はいつぶりだろうか。いつもは、日付が変わる前は家にいる方が少ない。
心配事が多くて、じっとしてられないのだ。
その結果が今日であり、身体中にある痣や傷だ。
俺はそれをあえて隠さなかった。いじめや虐待などを疑われるかもしれないが、ここまで堂々としてると逆に何も聞かれないものだ。
そこらへんを、むやみに訊いてくる人でもない。
「今日はどうだった。楽しかったか?」
「先生みたいなこと言うんですね」
「今の俺は、君たちE組の教師だ」
「だったら……」
たとえ防衛省の人間でなくとも、教師であればこの旅行も仕事の一環。
だったらちゃんと守ってくれよ、とも思う。
烏間先生も殺せんせーも、俺より遅かった。数分の差だったけれど、刻一刻を争うあの状況では大きな差だ。
危険がないように守ってくれるって、二人とも約束してくれたのに……
なんて責め立てるのは簡単だ。
しかし今回のような予測しえない事態には、注意しようがない。
俺だって事件が起きてからでしか立ち回れていないのだ。
面と向かって言って、何か変わるわけでもないだろうと思って口をつぐむ。
「だったら……なんだ?」
「だったら、もうちょっと接しやすいところ見せてくださいよ。みんな、烏間先生に遠慮しっぱなしですよ」
満面の笑み……は難しくとも、少し一緒に遊ぶくらいはしてもいいんじゃないか。
馴れ馴れしくとはいかなくても、円滑なコミュニケーションは連携に必要でしょう。みたいなことを言うと、彼は小さく頷いた。
「参考にしよう。まずは、一人ひとりの趣味嗜好にあった話を俺ができるか……」
「そういうところですよ……」
持ち前の顔の良さと、真摯に対応してくれる性格のおかげで男女ともに尊敬のまなざしで見られているのだから、あとは気楽に話してくれるだけでいい。
そうすればみんなが、特にビッチ先生と倉橋が喜ぶ。
しかし、それは彼にとっては難しいか。公私の『公』の部分が大きすぎるんだよな、この人。
深く『私』の部分を出し過ぎると、仕事に影響が出ると思っているのだろう。彼がE組にいる一番の目的は、殺せんせーの排除なのだから。
「……じゃあ手始めに、君のことを教えてもらおうか」
「俺? いやいや俺はいいですよ。それよりも、来てくれる生徒に優しく教えたり、そういうのをやってあげてください」
む、と悩みだした烏間先生をほうって、俺は空を見上げた。
三日月はぼんやりと俺たちを照らしている。
壊されたからだろうか、それは前よりも輝きを失っている気がした。