六月。
梅雨の時期を知らせるために、今日は朝から雨が降っていた。
湿気のせいで、じっとりとした嫌な汗が出て、シャツが肌に張り付く。
E組にはもちろんエアコンなぞないから、窓を開けるしかないのだが、この天気ではそうもいかない。
こんな劣悪環境で、律に大丈夫かと訊いてみたら……
「湿気には強いですし、この身体の中にエアコンも完備してますから」
らしい。羨ましい。
「こんなんだとやる気出ねえよな。べたつくし、ペンのノリも悪くなるし……絵が描きづらい」
「勉強をしろ、勉強を」
菅谷が俺の机に身体を預ける。
やる気がでないのは同感。だがそればっかりも言ってられない。
「期末テストも遠くないことですし、こういう時こそ踏ん張りどころですよ」
「ツッコむ気力もないんで、ボケるのはやめてくれますか、殺せんせー」
「し、失礼な! 先生はいつも通りですよ!」
嘘つけ。
殺せんせーの顔はいつもの数倍大きくなっていた。湿気のせいで膨らんでいるらしい。いやどういう身体の構造してるんだ。
彼が顔を絞ると、溜め込まれていた水が滝のように落ちる。
その奇妙な特性はともかくとして、殺せんせーの言う通り、へたれそうな今こそ頑張らないといけない。
烏間先生からの事前メールによると、転入生がやってくるというのだ。
もちろんそれが普通の人間ではないだろうというのは予測がついている。いや、律のように本当に人間ではない可能性もある。
しかし接触は避けられないだろう。予定では、その転入生は俺とカルマの間に席を構えることとなるのだ。
カルマやロヴロさんみたいな、目ざとい奴じゃなければいいけど。
「律は知らないのか? 転入生のことについて」
「少しだけ知らされています。当初の計画では、彼と私の連携で殺せんせーを追い詰める予定でした。ですが、それは二つの理由でキャンセルされました。一つは、彼の調整に、予定より時間がかかったから。もう一つは、私が彼より暗殺者として圧倒的に劣っていたから」
「劣ってる?」
「はい。私の性能では、彼のサポートを務めるには力不足だと」
ごくり。みんなの喉が鳴る。
転校初日に殺せんせーの指を吹き飛ばしてみせた律自身を力不足と言わせるその実力は、どれほどのものか。
どんな奴が来るか。緊張感をもって扉を見る。
ガラリ、と扉が開いた瞬間、前のほうの席に座っている生徒は、少し椅子を引いた。
音もなく、ぬっと一人の男が入ってきた。
全身真っ白の着物。頭も同じく白い布ですっぽり覆われていて、眼光だけが見え隠れする。
彼は教室に入るなり、すっと手を前に伸ばす。一瞬にして、ぽん、と鳩が出た。
身構えていたほとんどがそれに驚いて、目を丸くする。
「ごめんごめん、驚かせたね。転校生は私じゃないよ」
鳩を袖に収めつつ、その男は軽く笑った。
だと思った。生徒にしては体格が大人っぽい。
まあ、見た目が直方体の箱がいる時点で常識は当てはまらないかもと考えていたが。
「私は保護者。まあ白いし……シロとでも呼んでくれ」
軽く言ってみせる彼に、俺たちは唖然としたままだ。
急にやってきたかと思ったら、真っ白で、保護者で、手品をしてきて……
掴みどころのない仕種に、下手なことは言えなかった。
適当な自己紹介を終えて、彼は教室を見渡した後、殺せんせーへ視線を移した。
「初めまして、シロさん。それで肝心の転校生は?」
「初めまして、殺せんせー。彼はちょっと性格とかが特殊でね。私が直に紹介させてもらおうと思いまして」
シロはもう一度教室を見渡した。視線があるところで数秒止まる。渚……いや、その隣の茅野か?
表情が見えないせいで何を思っているのか読めないが、彼は特に何か言うでもなく、その後俺とカルマの間を指差した。
「席は……あそこでいいのかな?」
「ええ、そうですが……」
「では紹介します。おーい、イトナ! 入っておいで!」
シロがそうやって声をかけた方向が、扉ではなく教室の後ろだと気づいて、まさか……と思う。
ドカン!
爆発音のような音が鳴った。しかも後ろから。
慌てて振り返ると、壁に穴が空いていて、そこに誰かが立っていた。
少し小柄ではあるが、俺たちと同じ歳くらいだろうということはわかった。こいつが転入生?
童顔だが、目つきは鋭い。その視線は殺せんせーをまっすぐ射抜いていた。
みんなが唖然とする中、そいつは無表情のまま椅子にすとんと座る。
「俺は……勝った。この教室のカベよりも強いことが証明された。それだけでいい。それだけでいい……」
……やべーのに挟まれてしまった。
まともなのは前の席の菅谷だけだよ。おい目を逸らすな。
空いた壁からじめっぽい風が流れてくる。そんなことよりも気になったのは……
「ねえ、なんで濡れてないの?」
俺の疑問を、カルマが発した。
雨だってのに、外からやってきたこいつはどこも濡れてない。どこも、だ。服も顔も髪も、水を受けるはずのどこも。
手ぶらで入ってきたのに、一体どうやって……
堀部は口を開かず、目には殺せんせーしか映っていない。
「答える気どころか、何の反応もなしか」
「ちょっとシロさん。どういう教育してるわけ?」
「ごめんね。ちゃんと言い聞かせておくから。イトナ、質問されたらちゃんと返さなきゃいけないよ」
俺とカルマに揶揄され、保護者のシロに軽くたしなめられても、堀部はカルマを見ない。
「俺が興味あるのは、俺より強いかもしれない奴だけ」
ようやく喋り、立ち上がる。
ずかずかと無遠慮に、殺せんせーへと近づいていく。
「この教室では、あんただけだ」
「強い弱いとはケンカのことですか? 力比べでは先生と同じ次元には立てませんよ」
「立てるさ」
手が届く距離まで迫り、堀部は殺せんせーを見上げた。
「だって俺たち、血を分けた兄弟なんだから」
△
衝撃的な発言を残し、放課後に勝負だと言ってから、みんなの視線は彼に釘付けになった。
「本当に兄弟なのかな」
「見た目は似ても似つかないけど、どうだろうな」
不破の疑問に、明確な答えを返せる者はいなかった。
堀部の机に並べられているのは大量のお菓子。それもチョコレートなどの甘いものばっかり。さらにグラビア雑誌。それも巨乳ものばかり。
うーん、趣味嗜好まで、とことん殺せんせーと似ている。
だが兄弟ってのは、ものの例えなんじゃないか。実際の血の繋がった家族とは思えない。
果たして堀部が言った言葉がどういう意味を持っているのか。
それはきっと、勝負の時に明かされるのだろう。
……俺の嫌な予感が外れてくれたらいいが。
△
机が並べ変えられ、四角い枠となって、教室の中心に簡易的な闘技場が出来上がった。
みんなは教室の端っこで、あるいは廊下で、あるいは窓の外で傘を差しながら、中心にいる殺せんせーと堀部を見守る。
真正面の一対一。
まともに戦えば勝てない。そんなことはわかっている。至近距離からの弾幕を避けるような奴だ。
だが、シロという奴と堀部からは余裕が見てとれた。
わざわざこんな形式のバトルを挑んでくるからには、秘策があるのだろう。
「ルールは、どちらかが殺されるか……この枠の外に出てしまったほうが負け、ということでどうかな。先生が出てしまった場合は、その場で処刑ということで」
「ええ、構いませんよ。ですが、こちらからも一つ条件を出します。イトナくんが生徒に危害を加えてしまった場合は、この試合は無効です」
つまり、殺せんせーの勝利条件は堀部を机の外に押し出すしかないということだ。
見たところ彼の体重は軽そうだから、苦労はしなさそうだが……
「カルマ、どう思う?」
「殺せんせーはルールを絶対に守るだろうね。みんなの前でした約束を破るような先生じゃないから」
続けて、カルマは堀部のほうを向いた。
「イトナは……この暗殺を望んでおきながら無効試合になるようなことはしないだろうから、俺らは危ない目に遭わないだろうけど、どうくるかは読めないね」
「暗殺……ねえ。これが暗殺と呼べるのか?」
今から暗殺します。と言ってからするのは、暗殺というより戦闘になるだろう。
パッと見、向かい合っての殴り合いになりそうな図だぞ。
警戒している殺せんせーを真正面から殺すのは不可能だ。
マッハで動き、手の内を先々まで読んでくるやつにどうやって勝つのか……
「それでは……はじめ!」
烏間先生の号令が響き、死合が始まる。
その瞬間、ぼとりと、殺せんせーの足元に何かが落ちた。
それは殺せんせーの触手。
目にもとまらぬ速さの何かが、殺せんせーの手を切り落としたのだ
誰もが絶句した。俺たちも先生たちも、殺せんせーでさえも。
触手が切られたことに驚いたのではない。堀部から生える、うねうねと蠢くものに慄いた。
彼の髪の毛。
それが、触手と化して空気を裂いていた。