七月。
野球で本校舎組に勝ち、次は勉強で勝ってみせると意気込みたいところだが……もわっと襲ってくる熱がE組のやる気を奪っていた。
「こんなに暑いと、ペンで描いた跡が汗で滲むな。絵が描けねえ……」
「勉強しろ、勉強を。似たような話を梅雨の時にもした覚えがあるな……ってか毎日してるような気がする」
椅子に身体を預ける菅谷が愚痴を言う。それも無理はない。
猛暑のうえ、じめじめとした湿気でシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。
教科書をうちわ代わりにして扇いでも、焼け石に水だった。
「本校舎はいいよねえ。あっちはクーラー完備で、暑さも湿気も関係なしだもん」
「こっちは扇風機もなし。風が吹かなきゃ熱がどんどんこもってくる……この差は酷ぇよ」
俊足が売りの木村と元気印の岡野でさえぐったりとしている。
「みなさんだらしないですねえ」
「まともに勉強できる環境じゃねーからな」
菅谷の言う通り、こんなところじゃいくら詰め込まれても頭から抜ける。
成績はこういった環境でも左右されるのだ。
「今日からプール開きなのは嬉しいけど……」
「けど?」
「プールは本校舎にあるんだよ。こんなクソ暑い中、わざわざあっちまで行って、体育が終わったらお疲れさま状態で山道を戻ってこなきゃならねえんだよ」
「今から気が滅入るよ……」
喋れば喋るほど気が滅入ってくる。
さすがのカルマでさえ、無駄口を叩くようなことはしなかった。
殺せんせーはむむむと小さく唸る。
この状況が好ましくないのだろうが、生徒を無理に動かそうとしても逆効果だとわかっているのだろう。
彼は開いていた教科書を閉じた。
「仕方ありませんねえ。体育は次の授業ですが、早めにお披露目といきましょうか」
△
「こんなものいつの間に……」
「ヌルフフフ。先生にかかればこの程度、ちょちょいのちょいです」
水着の上にジャージを着せられ、みんなが殺せんせーについて歩いた先……陽も少ししか入ってこない森の中に……見事なプールがあった。
そこに沢があることは知ってたが、ほんの少しの水が流れている程度。お世辞にも川とは呼べない。
そのはずなのに、目の前にあるのは大きな水たまり……というには綺麗に整備されている。
それなりに水深がある。生徒全員が入っても余りある遊泳ゾーンと二コースある競泳ゾーンに分かれており、競泳用のコースロープは25メートルの長さに揃えられていて、スタート台まで完備。
「どれくらいかかったんですか?」
「制作に一日……といっても、そのほとんどが水が溜まるのを待つ時間でした」
下流を見ると、簡易的な壁でせき止められており、それの高さを調節すればプールの水位も思いの通りってわけか。
「校舎からここまで一分。あとは一秒あれば飛び込めますよ」
「いやっほーい!」
驚きから歓喜に変わったみんながジャージを脱ぎ、男子も女子も隔てなく飛び込んでいく。次々と大小さまざまな水しぶきが上がり、気持ちよさそうに泳ぐ顔が浮かんできた。
「國枝ー。一緒に泳ごうぜ」
「え、やだ。みんなの前で肌晒すとか恥ずかしいし」
「乙女か、おのれは!」
と言われても、脱ぐ気はない。
修学旅行のときと同じで、傷痕のある身体を見られたくないのだ。
「私だって泳ぎは苦手だけど、楽しいよ」
茅野にそう言われても無視。
「それじゃ評価はできませんねえ」
「いいよ、別に。いまさら体育の点数を欲しいとも思わん」
「にゅや……」
殺せんせーの挑発も無視。
そんな様子の俺を気にして、片岡が寄ってくる。
「ほらほら、泳げないんだったら教えてあげるからさ」
「引っ張んな引っ張んな。制服のまま入ってたまるかよ」
「もう。苦手なら克服しないと。『出来ない』から目を背けちゃだめでしょ?」
……俺が中間テスト前に言ったことと似たようなことを言ってくる。
爽やかに返してきやがった。
しかぁし、そんなこともあろうかと、俺はわざと水着を持ってきていないのだ。
いくら服が乾きやすい夏だとはいえ、俺を制服のまま水の中に落とすようなことはできまい。
「あの時はこいつに無理やり言わされたようなもんだ。なあ、殺せんせー……」
「ゆゆゆ揺らさないでください、國枝くん!」
生徒たちの見張りをしている殺せんせーの監視台を少し揺らすと、彼は派手な反応を見せた。
「何をそんなに慌てて……」
「ほら、殺せんせーも一緒に泳ごうよ!」
「きゃんっ」
今度は、倉橋に水をかけられて気味の悪い悲鳴を上げる。
「まさか……」
とみんなが呟いたことだろう。
この反応で気づかない者なんていない。
もしかして、殺せんせーは泳げないのではないか?
「いや別に泳ぐ気分じゃないだけだし。水中だと触手がふやけて動けなくなるとかそんなんじゃないし」
震える口笛を吹きながら、殺せんせーは誤魔化そうと手を顔に当てる。その手が、異様にふやけていた。
△
「というわけで、『殺せんせーを水に沈めよう作戦』!」
放課後、片岡が号令をかける。
人望がある彼女の呼びかけに応じなかったのは寺坂、村松、吉田の三人くらいで、他はみんなやる気に満ちていた。
ようやく、殺せんせーの弱点らしい弱点を見つけたのだ。今度こそ、と意気込む。俺以外は。
「まず問題は、殺せんせーが本当に泳げないのかどうか」
「湿気でふやけるのは前にも見たよね」
「さっきも倉橋が水をかけたところだけふやけた」
岡野と磯貝がそう言ったのを皮切りに、みんなの口からどんどんと作戦が湧いてくる。
罠を使ったり、じゃれたまま掴んで落としたり。それ自体には殺気がないぶん、殺せんせーの反応も遅れることだろう。
そこまで聞いて、俺は安心した。
特大の弱点がわかって、そこを突くために危ない作戦を立てないかとひやひやしていたが……杞憂だった。
多少の怪我はあっても、殺した後の生活にはなんら支障をきたさないものばかりだ。地球を救って、百億を手に入れるために誰も犠牲にならない。
いくら金を手に入れたって、植物人間になってしまっては意味がない。未来を考えてこその現在だ。そのことを、みんなわかっていた。
「あれ、國枝くん、どこいくの?」
「そこまでわかってるなら、俺は必要ないだろ」
「えぇ~、せっかくみんなでやる作戦なのに……」
しゅん……矢田と倉橋が目に見えて落ち込んでしまう。
いや、俺にはわかってる。こいつらがわざとこういう表情をしていることを。
ビッチ先生の教えをよく聞いている彼女らだからこそできる技だ。
だから、これが嘘だとわかっている。わかってはいるが……
「……作戦を考えるところまでだ。実際にやるのは任せるぞ」
「うん。それで十分だよ」
すぐに明るい顔に切り替わる。
いやわかってた。嘘だってのはわかってた。だがどうにも……落ち込んだ顔には弱い。
罠だとわかっていながら、まんまとはめられたことに少し後悔しつつ、話を進める。
「水を吸わせれば……というが、そこまでが難しい。殺せんせーは敏感だからな」
音もなく背後から近寄っても、殺せんせーは気づく。それくらい殺されることに対しての反応が早い。
水を当てられたのだって、それが単なる好奇心だったからだ。
弱点がそれだとわかっている今、水を吸わせる行為は殺意を持った行動とイコールになる。そうなれば通用しなくなる。
例えば殺せんせー自らが水に飛び込むような作戦でも思いつければいいのだが、そんなのは思いつかない。
クラス全員が溺れるふりをして騙されてとしても、すぐさま触手で掬い上げられるだけだ。多少膨らませられても、そこまでスピードが落ちるとも思えない。
そのスピードも問題だ。どれだけの量を浴びせれば、どれだけ弱体化するかも不明。これがネックだ。
一秒以上、全身を漬ける必要があるのならものすごく大規模な作戦でないといけない。
あのプール程度の空間と持っている設備や装備程度じゃ、抑え込めずに逃げられる。
「でも、まだまだ時間はあるし考えていこうよ。出来ないなんて諦めてたら、何も出来ないしね」
俺が一通り説明して少し下がったモチベーションを、片岡が持ち上げる。
「いざという時はやってくれるって、期待してるよ」
「期待に外れるように頑張るよ」