「お、おいおい。めちゃくちゃ堂々と立ってるぜ」
菅谷が汗をにじませる。
五階、外側のカベが全てガラス張りの展望回廊をじりじりと進んでいたところに、たった一人佇む影があったからだ。
金髪の長身男。顔のつくりからして、北欧出身か。
「敵だな」
その男が漂わせる雰囲気が、常人のそれじゃないことははっきり理解していた。
つまり、あいつは殺し屋だ。
ここまで現れた敵は一人だけ。そして一休みできるテラスを前に気が緩んでいたところに、これか。
「つまらぬ」
男のビシッと音が鳴った。
恐ろしいことに、男が素手でガラスにヒビを入れたのだ。
超人的とも言える握力に、開いた口がふさがらない。
「精鋭部隊出身の引率教師がいるのであろうぬ。それほどの強さの者が感じられぬ。どうやら、『スモッグ』のガスと相討ちになったようだぬ。出てこい」
ばれているなら奇襲はできない。
そろりそろりと、俺たちは姿を見せる。
男が放つ異様な雰囲気に呑まれそうになるが……
「『ぬ』多くね、おじさん?」
うーわ、言ったよ。
カルマの突っ込みに、ピリっとした空気が一瞬にして霧散する。
みんなが言ってほしいことを即座に言ってのけるのは流石。俺たちは少し気が抜けてしまった。
「『ぬ』をつけるとサムライっぽくなると聞いたぬ。カッコよさそうだから、試してみたぬ」
うん……付けないよりかはそれっぽいが、侍の真似をするなら『ござる』とかそこらへんのほうがいいんじゃないか。
「間違っているならそれでもいいぬ。この場の全員を殺してから『ぬ』を取れば恥じにもならぬ」
ごきごきと指を鳴らして、男が一歩近づいてくる。
「武器は素手か……握力といったほうが正しいかな」
「その通りぬ。近づきざまに頸椎を一ひねり。その気になれば頭蓋骨も握りつぶせるが……」
「今回はその気はないみたいだな。やる気だったら、手の内ばらさずにやってるだろうし」
「察しがいいぬ。暗殺の力を極めると、不思議なことに戦いにも使ってみたくなる。だが……」
男は俺たちを一瞥すると、ため息をついた。
「がっかりぬ。お目当てがこのざまなら試す気も失せた。雑魚ばかり一人で殺るのも面倒だ。ボスと仲間呼んで皆殺しぬ」
彼は背を向けて、携帯電話を取り出した。
まずい、と思ったのもつかの間、誰よりも速く動いたのはカルマだ。
バリン! と音を立てて、ガラスが砕け散る。
置いてあった観葉植物を掴んで、携帯電話めがけて思いきり振り回したのだ。
粉々になった連絡端末が床に落ちて、もう使えなくなる。
「ねえ、おじさんぬ。意外とプロって普通なんだね。ガラスとか頭蓋骨なら俺でも割れるよ」
カルマは軽く挑発して、にやりと笑った。
「……いいだろう。試してやろうぬ」
カルマは植物から手を離し、いったん距離を置く。
敵のメイン武器は素手。射程距離から離れればとりあえず危機を凌げる。
「ねえ、國枝。一緒にやろうよ」
「ああ?」
突然の申し出に、俺は素っ頓狂な声を出してしまう。
「プロの大人相手に一対一はちょっときついってのが半分。試したいことがあるのが半分」
「試したいこと?」
「まあまあ、それは後で説明するよ。いいよね、おじさんぬ。二対一でも」
「構わんぬ。二人がかりになったところで、俺には勝てぬ」
「おい待てよカルマ。俺は……」
「待ってる暇なんてない。そうでしょ?」
……確かに彼の言う通りだ。ここで問答をする時間はない。
どれだけ言ったとしても、カルマは引き下がってくれないだろうし。
俺はカルマの横に並んで、拳を握り、構える。
それを見て、ぬおじさんが一歩、一歩と近づいてくる。
「気を付けるべき点はどこだと思う?」
「ズボンの左ポケット。それとシャツの内側にもポケットがあって何か入ってる。一つはサイズからして折り畳みナイフってところか」
「ふーん、やっぱりね」
「で、作戦は?」
「まあ任せてよ。合わせてくれたらいいからさ。ここは、俺たちらしく行こう」
「『たち』って言うな」
間合いに入った瞬間、男は腕を伸ばしてきた。俺たちは掴まれないように避ける。
男の言葉はハッタリじゃない。触れてしまうことさえ危険だ。
だが、単純にかわすだけなら俺もカルマも出来る。
目つき、肩、腕の初動に目を見張りつつ、次々に攻撃から遠ざかる。
「二人とも、中学生にしてはなかなかの実戦経験を積んでいるらしいぬ。そこの教師の教えか?」
「俺はね。もともと喧嘩もしてたってのもあるけど」
男は攻撃の手を緩めた。目線がこちらに向いて、舐めるように下から上に動く。
「そっちのお前は?」
「言う必要なんてないだろ」
話してやるもんか。吐き捨てるように俺は言う。
「さぁて、ウォーミングアップはこれで終わり。ここからは正々堂々、殺り合おうよ」
とんとん、とその場で軽くジャンプして、カルマが構える。口調は軽いが、目は鋭い。夏より前の、誰も彼もをナメた態度じゃない。目の前の敵を脅威と感じ、全力で戦おうとしている目だ。
それまで負け知らずだったのが、一学期期末テストで敗者になってしまった。その屈辱が彼を覚醒させた。
どんな人間でも、自分より強い部分がある。誰が相手であっても手を抜けば一瞬で追い抜いてくる。その恐ろしさを知って、カルマは油断を消した。
数少ない弱点を潰し、赤羽業はより崩れにくい人間になったのだ。
そのカルマが先に動く。続いて、俺も前へ踏み出した。
俺は姿勢を低くして、相手の視線を分散。隙のできたところへカルマがハイキック。これは弾かれてしまったが、俺の拳は敵の腹に届いた。
衝撃に顔を歪ませた男が後ろに下がったが、俺たちは追撃せずに息を整えた。
掴まれれば終わり。それをもう一度頭に刻んで、深呼吸する。
「気を抜くなよ、カルマ」
「そっちこそね」
二人で腰を落として、拳を前にする。
先ほどのコンビネーションを喰らって、相手は明らかに動揺していた。どちらに注目するべきか、首を左右に動かす。
俺は素早く足を一歩だけ動かす。それを見て、男が完全にこちらに向いた瞬間にカルマがキック。
体が浮ついたのを見逃さず、俺は手刀で首を叩いて、カルマは顔面にパンチ。敵の上半身がぐらりと揺れたところで、俺たちはすかさず同時飛び蹴りを放った。
まともに受けた男は床に叩きつけられ、苦悶の声を漏らしながら立ち上がる。
その瞬間、男がポケットに手を突っ込んだのが見えた。それを悟られないように右半身を前にするが……次の手はわかった。
おそらくそれはカルマも一緒だ。
彼はフェイントもなく真っすぐに突っ込み、相手はそれに合わせて手を突き出してきた。
カルマは両手で抑えにかかると……プシューと煙が舞う。
その煙にあてられ、カルマが膝をついた。
「『スモッグ』とやらのガスか」
男の手には小さなスプレーが握られていた。
「そうだぬ。長引くようだったんで、試させてもらったぬ。これで一対一だぬ。これなら……」
「見誤るなよ。二対一はまだ続いてるぞ」
「何を馬鹿なことを……このガス、予期してなければ絶対に防げぬ」
得意げににやける敵。カルマをほうって、こちらに向かってこようとしたその時。
またしても煙が放たれた。
「な、なんだと……」
予期してなければ絶対に防げない。その通り、男は目の前に広がるガスを思いっきり吸ってしまった。
力は抜け、頭は朦朧としている男は苦し紛れにシャツからナイフを取り出す。
「ぬ、ぬぬぬぅぅ!」
「ビンゴだな」
烏間先生すらあれだけ弱らせるガスだ。男の手にはほとんど力が残されていなかった。
ナイフを蹴って弾き、腕を極めた。
「カルマ、そっち抑えろ!」
「はいよ」
もう一方の腕をカルマが抑え、せーので身体を伏せさせる。
こうなってしまえば、逆転は難しいだろう。
「ほら寺坂早く早く。人数使わないと、こんなバケモン勝てないって」
さて、みんなの助力も得てぐるぐる巻きにして、ようやく男を無効化できた。
これで完全勝利だ。
「何故、俺のガス攻撃を読んでいた……? 俺は素手しか見せていないのに」
「素手以外の全部を読んでたよ。これだけの人数がいるのに、素手だけで挑んでくるわけがない。プロなんでしょ。なら、俺たちのことはどんな手段を使ってでも止めたいはず。だから、素手以外の全部を警戒した。プロとしてのあんたを信じてね」
変わったな。
敗北はカルマをこんな立派な人間に変えた。
行動が危険なのは相変わらずだが。まったく、ひやひやしたぞ。
「それに、こいつがあんたの危険ポイントを教えてくれたからね」
「こっちに振るな」
「大したやつだ、少年戦士たちよ。負けはしたが、楽しい時間を過ごせたぬ」
「え、なに言ってんの。楽しいのこれからじゃん」
戦いのときとは打って変わって、悪魔のような笑みを浮かべるカルマ。
その両手には、スーパーでよく見かけるチューブがある。
「……なんだぬ、それは?」
「わさび&からし。おじさんぬの鼻の穴につっこむの」
「なにぬ!?」
カルマは嬉々として、より多くの量を入れられるように鼻フックもかまして、容赦なくチューブを突っ込んだ。
「ちょ、ちょっと待て! そっちの少年! 何とか言ってやれぬ!」
「語尾に『ぬ』って付けると、否定してるみたいになってややこしい」
「そんなことはどうでも……モ……モガ、モガガ……」
あれだな。どこぞの動画投稿者並に危ないことしてるな。
うわ、そんなに入れるんだ……うわあ……あー、カルマのこんな良い笑顔久しぶりに見るわ。