「暑い」
じめじめした熱気に煽られる。
高温多湿をここまで感じると、帰ってきたという感じになる。
普久間島から帰ってきて、医者からようやく動いていい(ただし、できるだけ安静にしてること)と言われた俺は、夏休みをほぼ宿題の消化と休息に費やしていた。
だが今は外に出て、太鼓の音を聞いて、並ぶ屋台の食べ物を片手に歩いている。
……俺は自宅で休んでいたはずなのに、どうして祭りなんかに参加しているのか。
答えはわかりきっている。夏休み最終日に殺せんせーが家に来て、誘ってきたからだ。
「まあまあ、せっかくだから楽しもうよ」
あれよあれよという間に連れてこられて少し不機嫌な俺を、カルマがなだめる。
沖縄への合宿以外は、身体を休めるためにあまり動けていない。夏休みらしいことはほとんどしていなかった。
だからこうやって誰かと遊べるのは嬉しくなる。
「岡島、カメラで撮影するのはいいが、目ェつけられないようにしろよ」
「ぐへへ、大丈夫」
「返事が不穏」
あちらこちらを写真に収める岡島にため息をつく。
他にも金魚すくいで際限なく取っていく磯貝やくじの不正を暴こうとするカルマなど、それぞれが好き勝手に祭りを楽しんでいる。
腕にたくさんの景品を抱えた千葉と速水が、少ししょんぼりしながらこちらに近づいてきた。
「射的で出禁食らった」
「イージーすぎて調子に乗りすぎた」
「取り過ぎだ。もうあそこの射的の店、店じまいしてるじゃないか」
こういう屋台での射撃は、高い物になればなるほど取れなくなっているはずだが、この二人には関係ないみたいだ。
普段は賢かったり、思いもよらない才能を見せたりして大人っぽいみんなが歳相応にはしゃいでいる。
夏休みっつっても勉強ばっかりしてた奴もいるだろうし、良い息抜きだ。
なんとなく、E組が俺を避けていないような空気を感じられて、俺も心が少し軽くなる。
そうやって離れて見ていると、帽子を被って付け鼻をしている殺せんせーが、たこ焼きを持って俺に近づいてきた。
「怪我の調子はどうですか?」
「順調に治ってるよ。安静のところを呼び出されてなかったら、治りはもっと早かったかもな」
「意地悪ですねえ」
「意地悪の一つも言いたくなる。起きたら、部屋の窓に先生が張り付いていてびっくりしたんだからな。ホラーかよ」
差し出された一個を貰い、頬張る。
祭りのときには屋台のたこ焼きや焼きそばが三割増しで美味く思える。
熱さと美味さに気を取られて、俺たちはしばらく無言になった。
屋台を回るみんなを視界に収めながら、楽しそうにしている姿に安堵する。
あれだけの大きな戦いが終わったせいか、なぜかこの平穏が続くような気がする。
本当に、何の脅威もなくこの日々が続いてくれたらいいのに。
近くに人がいないことを確認して、俺は口を開いた。
「いつから……いつから、俺が『貌なし』だと気づいてた?」
素手の『グリップ』、暗器使いの『影』と戦っていた時に、殺せんせーの様子がちらりと見えていた。
烏間先生ですら驚愕の表情を浮かべていたのに、こいつはそれほど衝撃を受けていない様子だった。カルマと同じだ。
ある程度、すでに察しがついていたから驚くことが少なかったのだろう。
「疑いを持ったのはイリーナ先生が赴任してきた日。確信したのは修学旅行の時です」
俺は目を見開いた。
そんなに早く気づかれていたなんて思いもしなかった。その時以降だって、こいつは普通に接してきていたじゃないか。
「あの誘拐騒ぎがあった時、茅野さんと神崎さんを探している途中で『貌なし』の姿を見ました。その人物のにおいが、校舎の傍で暴れた人物と……そして君のと一致します」
殺せんせーがにおいに敏感なのは知っていたが、それほどまでに鋭敏なのは予想外だ。
「なぜ『貌なし』になったのか、教えてくれませんか?」
「先生がそんな姿になった経緯を教えてくれるなら」
いっけん変わらないように見える殺せんせーの表情が、わずかに歪んだのを見逃さなかった。
シロや堀部のこと、そして今の反応から、こいつが改造された人間だということはほぼ確定と考えていいだろう。
それがこんな生物になるのはにわかに信じがたいが、一番説明のいく説でもある。
そもそも堀部が一番最初に顔を出した時に、ほとんど正解を彼自身が言っていた。
言う気はないみたいだ。なら俺も言う義理はない。
俺と殺せんせーの間にある心理的な距離というか壁というか……とにかく、自分のことを隠すがゆえに相手を問い詰められない。
二人の間に流れていた沈黙は、突然鳴った俺のスマホで崩された。
見ると、メールが来ていた。
「おっと、今日はこれで失礼します」
「用事ですか?」
「ええ。医者から呼び出しです。二学期が始まる前に、体調を確認しておきたいと」
この後花火大会があるようだが、これ以上殺せんせーと話すのはごめんだ。
また明日、と別れを告げて、俺はその場を去った。
△
「いつもの人と違いますね」
「ああ、今日は忙しくてね。代わりに私が呼ばれたんだ。大丈夫、任せてくれ」
もうあまり人が残っていない病院に着くなり、すぐ診察室に通された。
そこにいたのは、俺が夏休み中お世話になった医師とは違う人だった。
まあ、俺は別に構わないが……代わりに、という割にはこれまでのカルテを持っておらず、見てもいないのが引っ掛かる。
通常は、今までの経過を見ながら処置を下すものじゃないのか?
人によりけりなのだろうか。向こうが一番詳しいはずだから、やり方に口をはさむ気はないが。
こんな夜に急に呼び出したり、妙なことが多いな。
医者に傷口を見られ、なぞられるように軽く触れられる。
痛みが走るが、それまでの治療の甲斐あってか、呻くほどでもない。
「問題なく治っていっているみたいだね。後遺症もなし」
医者も満足そうにうんうんと頷いた。
なぜか、その様子に緊張感を感じる。全身がこわばっているように見えた。
「なら、もういいですか」
「ちょっと待ってくれ」
彼は俺を手で制すと、注射器を取り出した。
いつの間に中身を入れていたのか、毒々しい緑色が注射器を満たしていた。
「なんですか、それ」
「怪我をしたとき、十分な治療はせずにしばらく動いていたそうだからね。菌が残ってないとも限らない。それを消す薬さ」
専門用語は避けて、わかりやすく説明してくれる。
しかし、俺は違和感を覚えた。そういうのは、一番最初のときに調べて摂取させるようなものなんじゃないのか?
何にせよ、嫌な予感がする。健康になるとしても、それを身体の中に入れたくない。
「いや、いいですよ。今まで問題なかったんですし。何かあればすぐ連絡しますから」
「そうか、なら……」
俺が拒否して、医者がくるりと後ろを向いたその瞬間、感じていた違和感ははっきりと形になった。
油断させたと思ったのだろう。だが一拍置いて、医者の身体に力が入るのを見逃さなかった。
ばっと振り返って、手を突き出してくる。俺は注射器を持った彼の手を掴んだ。
すんでのところで、針が触れるのを止める。ぐぐぐとより力が込められた手が迫ってきて、なんとしても刺そうとしてくる。
負けじと針の先を逸らして、手を弾きながら相手の鼻に拳を叩きつけてやった。
医者はよろめいて、後ろの棚に頭を打ってしまい、そのままずるずるとへたりこんだ。打ち所が良かったのか悪かったのか、とにかく一撃で気絶してくれたようだ。
息を整えて、注射器を手に取る。中身をよく見ると、なにやらとても小さな球体が一つ浮かんでいた。見た目だけの判断だが、ゴムボールのように柔らかそうだ。
素人が見ても、治療に使うものだとは思えない。
この医者は何者か、この注射器は何か、打たれていたらどうなっていたか。
ぞくりと悪寒が走る中、振動と軽快な音が俺のズボンポケットから発せられる。スマートフォンに着信が非通知で来ている。
《前評判のわりには、よく動けるじゃないか。君が『貌なし』だっていうのは本当の事みたいだね》
電話に出た瞬間、そんなことを言われる。
その声は忘れようもない。堀部イトナの自称保護者であり、E組のみんなの命を危険にさらした張本人。
「シロ……っ」
これで一つ謎が解けた。
この偽医者はシロが差し向けた刺客だ。なら、残る問題はもう一つ……
「俺に何を打とうとしたんだ」
この注射器はいったい何なのか。俺に何をしようとしていたのか。
だが返ってきたのは、耳障りなくすくすという笑い声だった。
《あの場で、君はイトナ以上の力を見せた。そのことにとても興味をそそられてね。だから実験台になってもらおうと思ったんだが……》
あの場?
こいつの前で力を見せたのは、プールの時だけだ。そのことを言ってるのか?
あれはあいつが油断してて、なおかつ周りが水でいっぱいだったからだ。
《そんなことより、君のクラスメイトが危ないよ》
「なんだと?」
急にそんなことを言われて、俺は困惑する。
こいつ……プールでやったみたいに、E組を人質にとる気か?
殺せんせーは夏祭りに出向いてる。
ならば、そこにいない奴らが標的になっている。だが、誰だ? 危ない目に遭わされそうなのは、いったい誰だ?
《夏休み中で、誰もいない教室では誰が守ってくれるかな?》
教室。
その言葉で、俺は一気に青ざめた。
律が……律が危ない!