立花が『レッドライン』であること。それを誰かにばらせば、彼女はE組の誰かを傷つけるかもしれない。
そんなことを言われて、俺は冷静ではいられなくなる。
「お前……」
挑発に乗ってはいけないとわかっている。
だが、ここで無視もできない。
立花は俺と戦うためなら、俺と傷つけあうためなら、E組を襲うことに躊躇がないのだ。
「さ、どうする? 大切なE組のみんなを殺すなんて言われたら、放っておくわけにはいかないよねぇ」
ずたずたの身体を引きずるように立ち上がる。
ぐらりと上半身が揺れ、倒れそうになるが、なけなしの力を足に込める。
「E組に手を出すな」
「私に命令しても無駄ってことはわかるでしょ? キミがその手で止めない限り、私は止まらない」
にやりと笑って、彼女は俺から一歩遠ざかる。
「さあ、『貌なし』こと國枝響はどうするべきでしょーか?」
俺はぎりりと歯を噛んで、拳を固める。
どうするべきか。それは一つしかない。
俺が動くしかないのだ。たとえそれが彼女の願う通りだとしても。
「そう、それしかないんだよ、響くん。私たちにはそれしかないんだ」
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律が烏間見せた映像には、確かに『レッドライン』という名で有名になった何者かが、國枝を担ぎ上げて去っていくところが映っていた。
その名の由来の通り、赤い線の入ったレインスーツ。それだけでは『レッドライン』が誰かを特定することはできない。つまり、國枝がどこにいるかがわからないのだ。
彼がスマホを持っていれば話は違ったが、鷹岡との戦いで教室の床に落とされていた。
『レッドライン』に助けられたにせよ、拉致されたにせよ、危険な状況には変わりないのだが、烏間は固まったまま頭を悩ませた。
「どうしたらいいんでしょう……みなさんに協力を仰いだ方が……」
「いいや、それはよくない」
烏間は焦りつつも、冷静に返した。
「國枝くんの近くには『レッドライン』がいる。生徒たちを巻き込むのは危険すぎる」
『レッドライン』がどこにいるか探すのは、大人の仕事だ。
とはいえ、単純に人手が足りない。仕方なく、烏間は律の手を借りることにした。
「俺はあいつにこのことを伝えてくる。律はSNSやニュースで情報がないか探ってくれ。俺の部下にも連絡を頼む」
「はいっ」
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狭い部屋は、戦うのには好都合でありつつ、不都合だった。
避けるスペースがないぶん、俺の攻撃は当たりやすい。だが同時に相手の攻撃も受けやすい。心身ともに傷だらけで疲れ切った俺を、立花は容赦なく叩く。
意地と気力だけで俺も食らいつき、殴る、蹴る。
お互いに潰し合うだけのそれは、戦いと呼べるのだろうか。
べとべととまとわりつく汗と血が気持ち悪い。それでもやめられない。
ここで、ここで立花を止めて……止めて……止めてからどうする?
こいつを倒して、その後はどうすればいい? 俺はどうしたいんだ?
誰にも認められずに、俺は……
こんがらがった俺に、彼女はタックルをかましてくる。踏ん張って、ぶつかってくる勢いをそのままに、ベッドに叩きつけた。
大げさな音が鳴って、それが壊れる。ひしゃげたベッドの上で、抵抗なく倒される立花。その横に俺も勢いついて横たわってしまった。
このまま眠りに落ちてしまいそうだったが、気を奮って立花の顔を思いきり殴りつける。
「えへぇ、やっぱり響くんが一番私のことを考えて殴ってくれる。こんなに、こんなに嬉しいの初めてだよ。こんなに満たされてるの初めて」
お互いの荒い息が静寂にこだまする。暗い闇の中でも、彼女の目は怪しく光っていた。
「あのときも思わずくらくらしたもん。まさかこんなに早く埋め合える人に会えるなんて」
「こんなことを続けてたら死ぬぞ」
「わかってないなあ、響くん。私にとって、これが生きるってことなんだよ。キミに殺されることが、キミを殺すことが、生きてるってことなんだよ」
床に手をついて立ち上がろうとする立花の顔に、もう一発拳を入れる。
素直に殴られるままではいてくれず、彼女は反動で蹴り返してきた。二人とも受け身をとれず、床に転がる。
息切れに混じるうめき声と笑い声。どちらに余裕があるのかは、一目瞭然だ。
なんとしても起き上がろうとする俺を抑え、立花は俺に馬乗りになった。
「それに、響くんもそうでしょ。こんなこと続けてたら死んじゃうよ。だけど続けてるのはなんでなの?」
俺は黙った。
体力が底をついたからではない。体調が万全だったとしても答えられなかっただろう。
自分自身でも、もうよくわからなくなってきた。
ただ、ぼんやりと、悪を野放しにすればE組が危険に晒されることに危機を感じて動いているだけだ。
彼女は俺に覆い被さった。
頭が割れたように痛み、どくどくと波打つ。血が出ていてそうなっているのか、それともただの脈動か。区別がつかないほどにぐちゃぐちゃになってしまっている。
立花は俺の頭や口から出ている血を手で拭って、自分の顔に塗り付け、俺の頬にも擦り付けてきた。
両者の顔に、身体に、赤い線が刻まれる。
「ね、すごい鼓動でしょ、どれがどっちの血かわからないでしょ。これがすっごく気持ちいいよね。ね、いま、私とキミに境界線なんてないんだよ。おんなじ。融けて、混ざり合ってる。この感覚、わかるよね?」
わかるか。わかってたまるか。
俺はお前とは違うんだ。違うはずなんだ。違っていてくれ、頼むから。
「ね、殺して。殺してよ。めっちゃくちゃに掻き乱して、ありえないくらい痛めつけてから殺して」
立花の目はいっそうぎらついて、俺を捉えた。固く握りしめられた拳が振り上げられる。
それを受ければ、俺は再び意識を失うだろう。
そして俺が眠りこけている間に……こいつはどうする? 俺を殺すか、他の誰かを襲いに行くか。
なんだっていい。頼む、動いてくれ。
願いが通じ、動いた身体が振り下ろされるパンチを受け止めた。
それを握ったまま引っ張って、彼女を床に落とす。うつぶせに倒れた彼女の首に腕を回し、そのままホールドした。
「ひびきく……」
乱されないように、言葉を発させないようにぎりぎりと締め上げる。
タップをするでもなく、じたばたと暴れるでもなく、しかしぞくぞくと快感に身を震わせているのがわかった。
「あ……がっ……これ、これっ……」
立花の手が俺の腕を掴む。がっちりと爪が食い込んで、裂けそうなほど痛い。
それは腕をはがすための手ではなかった。抵抗の力じゃない。
この期に及んでも痛みを与えるためだけの、彼女なりの最大の愛情表現だ。そう理解してしまって、少し染まってしまったような恐怖を振り払うために集中する。
びくびくと身体が痙攣する立花に、俺は容赦なく力を強める。
「すごい、いいっ……これぇっ」
潰れそうな声を発しながらも、喉から漏れる声は恍惚に満ちていた。
「ひびき……く……もっと、もっ……」
がくん。
糸が切れたように、立花の身体から急に力が抜けた。
ぐったりとした彼女からは、先ほどまでの生き生きとした熱は微塵も感じられない。
俺は力を緩め、急いで彼女の息と脈を確かめる。
……よかった。生きている。
俺は壊れたベッドを背に、呼吸を繰り返した。喉が収縮して、むせこんでしまう。
このまま眠りについてしまいたかった。だけど、ここで休み、また目を覚ませば同じことが繰り返される。
汚れた身体をどうにか引き上げて、力なく立つ。一歩一歩、小さく前へ進む。
意識は途切れ途切れで、目を開けているのか閉じているのかわからなかった。今歩いていることさえ夢なのではないかと思ってしまう。
いつの間に部屋を出て、立花の家を出たのだろうか。辺りはすっかり暗くて、どこを進んでいるのかも検討がつかない。
不意に、何かに躓いてしまった。小石か、あるいは何もないのに転んだのかも。そんなことはどうでもよかった。
うつぶせに倒れた身体は言うことを聞かず、一切の活動を停止してしまった。
這いつくばってでも前に進もうという意思すらも、熱と痛みと暑さに削り取られていく。
じわりじわりと暗闇が俺の視界を支配していき……俺の意識はその中へ落ちていった。