俺の親は、ずっと忙しくてほとんど家に帰ってこないことも珍しくない人たちなんだ。
俺はずっと寂しくて、構ってほしくて、褒められたくて、いろいろなことを頑張った。
だけど駄目だった。
学校のテストでトップクラスになるようになっても、武道に励んでも、料理が作れるようになっても、見向きもされない。
まだまだ足りないと思って、ひたすらに打ち込んで、それでも反応は変わらなかった。それが出来るのが当然かのように、激励もなし、叱られることもなかった。
小学校の卒業式や、中学の入学式、誕生日ですら、一言二言交わすだけでおしまい。おめでとうとか頑張れよとかも言われず、ただただ普通の一日として処理された。
そんなのが何年か続いて、ようやく気付いたんだ。
「意味がない」
面白くもない話を、立花はじっと聞いていた。
どれだけ努力しようが何も得られないことがある。
俺にとって気を引くためだった頑張りが価値のないものとわかった。俺がそうなっても、やはり親は何も言わなかった。
「E組に落ちたあと、周りのみんなは仲良くしてくれて、居場所をくれた。勉強しなくても、頑張らなくても、俺と対等に接してくれたんだ」
最初は落ちこぼれどうしの同情だったのかもしれない。だけど、時が経つにつれてそうではなくなった。
友達として、喋り、遊び、一緒に過ごしてくれた。欲しかったものを与えてくれたのだ。
「みんなのために、俺は何が出来るだろうかと考えた。そんな時、E組の一人がいじめられているのを見つけてな。いじめた奴を尾行して、顔を隠して殴りつけてやった」
「それが、『貌なし』の始まりってわけだね」
E組は他のクラスから標的にされる。暴言や暴力を受けることもある。
大切なみんなをどうやったら守れる? 教師が盾にならないなら、『貌なし』しかない。俺の立場じゃ、悪さを働いたものには暴力で返すしかない。
「俺にはこれしかできない。やめる気はない。それは今も同じだ」
「守りたいからみんなには頼らずに、私のとこに来たの?」
俺は詰まった。
「そういうわけじゃなさそうだね。頼りたくても、頼れない別の事情があるってことかな」
他の誰にも助けを要求できない一番の理由としては、俺が突き放して、突き放されたからだ。
『蟷螂』という危険人物を前にして、その脅威を思い知ったからだ。
殺せんせーは俺たちを守れず、烏間先生は口先だけ。ビッチ先生はこういうことに向いていない。
E組のみんなを巻き込みたくないし……何より、俺が助けを求めたところで拒否されてしまうだろう。
『もう知らない。勝手にしてよ……』
不破の言葉が、絶望した顔が脳裏に焼き付いている。
誰も信じられない。誰にも手を伸ばせない。
立花を選んだのだって、その能力を見込んでのことであって、彼女を信用しているわけではない。
「沈黙は肯定と受け取っちゃうよ~?」
「好きにしろ。で、協力するのかしないのか」
立花は小さく唸って、顎に人差し指を当て、それを俺に向けてきた。
「半分くらい嘘ついてるでしょ、響くん。今の、まるでE組になってから『貌なし』になったみたいに聞こえたけど、そこがどうも怪しい匂いがするんだよねえ。まあいいよ。これの持ち主見つけてあげる」
▲
立花が匂いを辿って歩いてから数十分。彼女は周りとそう変わらないちょっとお高めの一軒家を指差した。
「あそこだね。かなーり濃い匂いがする。もしかしてけっこう深く刺されちゃったり?」
俺はスルーして拳を固める。
ナイフを使ってくる相手に素手はまずかったか。
寺坂の警棒を拝借できればよかったが、いまはそんな時間も惜しい。このままでいくしかない。
「無視はひどいな~」
それも無視して、身体が動くことを確認する。
接近戦は俺のほうに分があった。絶え間なく攻撃を加えれば、勝てなくはないはずだ。
ずきりと痛む全身に、力を込めることで喝を入れる。
夏合宿からの傷は、まだどれも癒えていない。だがここで倒れるわけにはいかないのだ。
『蟷螂』を放っておいたらどうなるか、その先には絶望しかない。
頼れる者は誰もいない。俺しか、やれる奴はいないんだ。
「じゃあな」
「え、ここまで来てさよなら?」
「お前が死ぬかもしれないんだぞ。これ以上は付き合わせられない」
「強情だなぁ」
言いつつ、彼女は納得して一歩下がった。
ナイフを使うような奴は、彼女のお眼鏡にはかなわない。
「でも死なないでね。キミを殺すのは私だから」
「無事に帰っても、それは断る」
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まずは家の外周をぐるりと回る。明かりはついていない。中にはいないようだ。
それを確認すると、次は窓を調べる。玄関には当然鍵がかかっていたから、他から侵入できないかを確認しないといけないのだ。
窓枠や出っ張りを利用して二階も調べると、不用心なことに開いている窓が一つあった。ゆっくりと開け、身体を滑り込ませて廊下に立つ。
一人で済むには大きい家だ。部屋が三つあるが、中を観察するとどうやら使われてはいないらしい。何もなく、埃が舞っていた。
階段を下りて一階に行くと、そこはまだ生活感があった。
一番近くの部屋に入る。
そこはリビング並みに大きい部屋で、オフィス机が端に置かれているだけだった。
机の上には何枚かの紙が散らばっている。それを手に取ってみると、殺せんせーのことやE組の何人かの詳細が書かれている。
寺坂、カルマ、渚、茅野……俺のことまで載っている。
これで確定だ。ここは奴の住処。突き止めることができたのはかなりの前進だ。
充足感で、アドレナリンが収まっていく。
痛覚が鋭さを増して、休めと言ってくる。
今日は戻るか、それとも奴が帰ってくるのを待って奇襲をかけるか。
少しぼやけた頭で考えるのに忙しく……近づいてくる影に気が付かなかった。
ガツン、と頭に衝撃が走る。
鈍器で殴られたと気づいた時にはもう遅かった。
揺れた意識を取り戻すことが出来ず、俺はそのまま倒れてしまった。
▲
「来てない……」
朝一番、一縷の希望をもって誰よりも早く扉を開けた不破は、崩れ落ちそうな足をなんとか立たせる。
隈のできた目と青白い肌が、さらにひどくなっているような気がした。
「殺せんせーは?」
「あれから『蟷螂』をずっと探してるみたいだよ。國枝が見つけるよりも先に探し当てるために」
続いて教室に入った渚とカルマも同じ顔をして落胆する。
殺せんせーも國枝もいないところを見ると、どうやら進捗は芳しくないらしい。
カルマが細かく足を揺すっていることに、渚は気付いた。
威嚇や挑発でもなく、たんに怒りで貧乏ゆすりをするのは珍しい。それは國枝に向けられたものではないと、渚は知っていた。
「『蟷螂』だと?」
彼らの話を聞いていたのか、いつの間にか烏間が後ろに立っていた。
「『蟷螂』と國枝くんがどうかしたのか?」
隠せることじゃない。三人は昨日の展開を包み隠さず話した。
昨日の夜だけの出来事だというのに、いろいろなことが起きすぎた。
話している間にみんなが次々と登校してきて、烏間と同じく顔を青ざめさせる。
「行かせたのか? あれだけの傷を負ってる國枝を!?」
「そんな……なあ、嘘だろ。なんで國枝がそんな……」
ざわざわと混乱の波紋が広がる。
合宿で受けた傷はまだ完治していないはず。いやそれどころか、二学期最初の登校日にも重い傷をつくっていた。
その國枝がまた何か危険に巻き込まれている。みんなの頭に『何故』が浮かび、口に出る。
「烏間先生。もう黙っておくことはできません」
「そうだな……」
観念してそう言ったのは、教室の端にいる律と中心にいる烏間だった。
教室は、しんと静まり次の言葉を待つ。
「君たちなら他言しないと信じて話す。國枝くんは……『貌なし』だ」
「『貌なし』って、あの最近ニュースになってる?」
「ああ、そうだ」
「そ、そんなわけないでしょ。國枝は私たちと変わらない、ただの中学生……のはずだよね?」
片岡と岡野は信じられないといった口調で烏間を問い詰めるが、その語尾が弱まっていく。
烏間の目は真剣そのもので、嘘なんてついていないと誰でもわかった。
それを裏付けるように、律が自分の液晶に映像を映し出す。
『貌なし』が正体をばらしたときのこと、普久間島での暗殺者との戦闘、教室で鷹岡と死闘を繰り広げたこと。
彼らのほとんどが知らなかった、影の戦いがそこにあった。
ほとんどは否定したくて目を逸らしたが、耳に入ってくる痛々しい音と悲鳴が逃げることを許さない。
黙っていてくれと頼まれた。
ほとんど独り言のように言った烏間は俯いた。
「だからってそんな……」
「國枝……なんでそんなこと隠してたんだ」
「國枝さんは、みなさんを……私たちを守るためにずっと独りで戦い続けていました。だから、私たちを頼ることはしなかったんです。私たちが傷つかないように」
衝撃の真実の連続。そんな中、磯貝が手を挙げた。
「ちょっと待てよ。國枝が『貌なし』だってことは……まあいいとしてさ。その、『蟷螂』って野郎のところに行ってるんだろ? それってまずいことなのか?」
「まずいなんてもんじゃない。『蟷螂』って、連続殺人鬼のことだよ」
また教室がざわめいた。
言った竹林でさえ、眼鏡フレームをおさえる手が震えている。
「知られているだけで八人が犠牲者となってる。その人のところへ向かったということは……」
「早く見つけないと……!」
「いや、それは認められない」
「なんでだよ!」
無情にも頭を振った烏間に、寺坂が突っかかる。胸ぐらを掴みさえした。
だが烏間はあくまでも冷静に彼の手をゆっくり掴み、下げさせる。
「竹林くんが言っていただろう。相手は連続殺人鬼だ」
「だからって見殺しにできるわけねーだろ!」
「私たちも探せば、もっと早く見つかります!」
寺坂だけではない。普段は大人しい神崎でさえも声を荒げた。
それをきっかけに、全員が烏間へ抗議する。このまま待っているわけにはいかないと、みんながみんな動くつもりだった。
「それはやめといたほうがいいと思うけどなー」
突如として聞こえた明るい声は、E組の誰の声でもなかった。
全員が一斉にそちらを振り向く。
見知った少女が窓枠に肘をかけて、一人ひとりの顔を笑顔で見ている。
「少なくとも國枝くんのほうは、みんなに会いたくないみたいだし」
「君はたしか……」
「やっほ、何人かは久しぶりだね。三年B組の立花風子でっす」
軽やかに窓枠を越えて中に入ってくる立花は、無表情のままクラスの面々を見渡す。律を見ても、その表情は変わらない。
来訪者に対して、烏間でさえも驚きで固まった。ここは國枝のことで止まっているが、本校舎は普通に授業を行っているはずだ。
「部外者がなんでここに?」
「部外者ってわけでもないんでしょ? さっきの口ぶりから察するに」
烏間先生の問いに答えたのはカルマだ。
「おお、さっすがカルマくん、大正解!」
ぱちぱちと拍手する立花を、カルマが警戒する。
何かわからないが、得体の知れない嫌な予感が漂っている。この感覚を彼は一度感じたことがあった。『蟷螂』を前にした時と同じだ。
「そーそー、私はむしろキミたちより関係者側だよ。だって『貌なし』……響くんに頼られたのは私だし」
「なんだって!?」
「國枝は無事なのか!?」
みんなの目が変わる。
彼女がなぜここに来たのか、なぜ國枝が『貌なし』だということを知っているのか、なぜ國枝が彼女を頼ったのかという疑問は吹き飛んだ。
そんなことより國枝の安否が心配だ。鷹岡に痛めつけられた身体のままで、彼はいったいどこへ行ってしまったのか。
E組の不安がこれでいくらか晴れる……と思ったが、立花は光のない笑顔を傾けた。
「無事かどうかなんて、キミたちに言う必要ある?」
「もちろんだ。國枝は俺たちの仲間なんだから」
磯貝が詰め寄る。
E組の仲間が今どこかで生死をさまよっているかもしれない。
磯貝は焦り、そして心配している。それを、まるで関係ないかのように言われて、彼は怒っていた。
だがその感情すべてが、立花にとっては嘘のように感じられた。
「本当に知りたいのは、死んでないかどうかでしょ? 一番しんどいことを押し付ける相手がまだ生きてるかどうかでしょ?」
その無礼な言い方にE組は敵意の目を向けるが、立花は構わず続ける。
「『貌なし』の正体が響くんだってことを知ってる人がいたのに、強引にやめさせることはしなかった。それは、E組が抱えてる不満や問題を、『貌なし』が解消してくれてたから。もし『貌なし』が問題を起こしたなら、『だからやめたほうがいいと言った』『響くんが勝手にやったことだから自分たちが気に病むことはない』って逃げるつもりだったんじゃない?」
「そんなわけねーだろ!」
「ふーん。じゃあ、そんなご立派な意識を持っててもこういう状況なのは、このE組の誰もが響くんのことをそんなに知らなかったってわけだね」
寺坂の怒号にも立花は動じない。
どれだけ志が高かろうと、所詮口だけの連中だと立花は下に見ている。
今初めて『貌なし』の正体を知ったのが全員なわけじゃない。彼のことを知り、彼を止められる人間がいたはずだ。そうでなくとも、彼に協力できる人間がいたはずだ。
「ま、でもおんなじだよ。みんな同じ。響くんのことを知らないで、知ろうともしないで、それをよしとしてこうなった。響くんがたった一人で苦しんでるのは、みんながそれを望んだからだよ」
違うと叫びたかった。だけど黙り込んでしまう。
実際のこの状況を前にすれば、どんな否定の言葉も飾りでしかなくなる。
「そうでしょ。かなーり近くにいたくせに放り出したらしいじゃん」
鼻をひくつかせながら、立花は次々と指差していく。
カルマ、渚、 そして……唇を震わせている不破を指差し、彼女の目の前まで顔を近づける。
「特にキミは匂いが濃い。金属と血と……」
――怒りと悲しみと絶望の匂いがする。
不破は國枝の手を掴めるくらい近くにいた。止めることも、手を伸ばすこともできたはずだ。
だけどしなかった。國枝を一人のまま置いていった。放りだした。
「ああ、なるほど。捨てた。響くんを捨てたんだ。へえ、みんなのために頑張ってた響くんを捨てたんだ。ね、そうでしょ?」
地獄の底の悪魔のような笑みを浮かべる立花に、不破の全身の毛が逆立つ。
不破は全身から力が抜けていくのを感じた。
いまさら自分のやってしまったことの重さを自覚し、へたりこむ。
「で、響くんは私を選んだ。濃い数か月を過ごしたキミたちよりもね」
それが全部だと立花は思った。
仲間であるE組を頼らず、敵である者に助けを求めた……というのは黙ったまま。
「あ、別に責めてるわけじゃないよ。私だって『貌なし』をやめさせるつもりはないし。ただ、心配してるよーって口ぶりで響くんに近づくのはやめてねって話。キミたちのせいで響くんが戦えなくなると、私に影響がでるから」
言うだけ言って満足したのか、その言葉を最後に、名の通り風のように去っていこうとする。
「ま、待って」
立花の背中に、唯一声をかける者がいた。
か細く震える声で、不破が続ける。
「國枝くんは……生きてるの?」
せめてそれだけは訊きたかった。
罪は背負おう。罰も受けよう。決別も受け入れよう。
だけど『死』だけは、國枝響の死だけは認められない。
苦いものが口の中に広がる。
立花は少し止まり、不破のほうを振り向いて一瞥する。
『それがキミになんの関係があるの?』
そんな顔だった。
笑うでも、苦しむでもない。彼女は表情を変えずに教室を去っていった。
突然の来訪者の言葉に、教室の雰囲気が濁り、重くなった。
立花の言葉を受け取れば、國枝はまだ生きていることになる。しかし、それは少なくとも彼女知る限りでは、だ。
『蟷螂』に挑み、帰ってきていない現状を鑑みると、むしろ……
バン!
突然鳴った音に、ほとんどがびくつく。
中村が机を叩いたのだ。
嫌な予感に心が支配されそうで、それを振り切るためだったけど、払いのけてもじわじわと絶望は押し寄せてくる。
彼女の負の感情の矛先は別に向いた。
「カルマ、渚、んで不破ちゃん。今の話だと、あんたたちだったら止められたみたいに聞こえたけど」
ギロリ、と三人を睨みつける。
「全部否定されたの。私たちが力になるって言っても……だから……勝手にしてって言っちゃった……」
「それで國枝を行かせたってわけ?」
本当は、いま責めるべきじゃないとわかっている。一刻も早く國枝を探し出すことこそが最優先事項だ。
わかってはいるが、中村は自分を止められない。
「ちょっと喧嘩したくらいで、死んじゃえばいいとでも思ったわけ?」
「ち、ちが……」
「じゃあなんでそんなこと言えんのよ!」
自分だってナンパ男から助けられた。それも氷山の一角でしかないのだろう。
きっと、國枝はみんなの知らないところでみんなを助け、独りだけ苦しんでいる。
気づけなかった。
手遅れになって今さら悔やんでいる自分を、中村は許せなかった。
「普久間島の時、傷だらけで帰ってきたのって……」
「じゃあ、修学旅行の時に助けてくれたのも……?」
奥田が呟き、茅野ははっと気づく。
修学旅行の夜、國枝の手が内出血を起こしていた。転んだと嘘を言っていたが、あれは……
ビッチ先生も、自分の最初の暗殺に使おうとした手駒を倒したのは國枝だと気づいた。
実銃弾の使用をやめさせるために、自分より大きく強い男を三人も相手にしたのだ。
あれもこれも、全て國枝が『貌なし』だったとすれば辻褄が合う。
最悪だ。
気づくチャンスはたくさんあった。なのに、『あり得ない』と一蹴して、全員が全員気づかないふりをしていた。
これでは、まるで立花の言った通りだ。
「私たち、ずっと助けられてきたんだね。それなのに……」
「私……この身体が恨めしいです。普通の人間の身体であれば、國枝さんを助けられたはずなのに……」
矢田と律の言葉を継ぐ者はいなかった。
立花の言葉が頭の中でぐるぐると回る。
足りない者がいるE組の教室が、静寂で支配された。