俺の過去を暴いて、それすら本題ではないと言った『死神』は、俺の精神力に興味があると言った。
どういうことだと訊く前に、『死神』は言葉を続ける。
「僕はね、君のことを買ってるんだ。その固い精神力は、一朝一夕で身に着けられるものじゃない。傷つけられても倒れようとしない身体もね」
丈夫であることは認めよう。だが、実際は何度も倒れて気絶したことがある。俺はお前の言うような、大した男じゃない。
「うーん、ただ痛めつけるだけじゃ、君のタフさは証明できないから、ルールを決めよう」
「ルール?」
「うん、僕が今から君に拷問をする。君がE組の誰かの名前を言えばやめてあげよう」
反吐が出そうな、クソみたいなルールだ。
それを遊びのように言ってみせる死神に、俺は怒りを覚えた。
「もし名前を言ったら?」
「その子を殺す」
背筋が凍った。
死神の表情に乱れはない。本気で言っている。
「僕が試したいのは君の精神力だ。どれだけ虐めれば君が音を上げるのか、とても興味がある」
死神は、作りものの笑顔じゃなく、底知れない歪みを顔いっぱいに広げる。
彼はしゃがんで視線を合わせると、水の張ってあるバケツを目の前に置いた。
「暗殺者と軍人、それと殺人鬼に瀕死に追い込まれて、それでも諦めない君のメンタルは中学生にしては驚異的だ。精神的超人といってもいい」
乱暴に髪を掴まれる。
抵抗のできない俺は、これから起こることに対して、ただ心を構えるだけしかできない。
「それが崩れるのはどんな時か、見てみたいんだ」
戦うことで傷つけられるのは何度もあり、覚悟していたことだが、こうやって一方的に虐め抜かれるのは初めてだ。
果たして俺は耐えることができるのか。いや、耐えなければいけない。
俺が折れてしまえば、他の誰かが死んでしまう。
突然、水に顔をつっこまれた。
いきなりのことに、肺の中の空気が一気に吐き出された。
急激に苦しくなって、ついに残ったわずかな空気を吐いてしまう。そこからは、胸が圧迫されるようにじわじわと苦しみが増していく。
苦しみが強くなるにつれ、視界が狭まっていく。三十秒が過ぎたころ、上半身が痙攣しているかのように反射的に動く、陸に揚げられた魚のごとく、びくびくと身体が跳ねる。
迫りくる死から逃れようと、生存本能が働いている。しかしそれが続いたのも数秒。
すぐに力が抜け、目の前も黒く染まっていく。すると、死神は掴んでいた俺の頭を引っ張り上げた。
深海から急速に引き上げられたように、沈みかけた意識が浮上する。そこには助かったという希望はなく、ただただ必死にあえいで空気を求めた。
攻撃を受けた腹や喉が呼吸のたびに痛むが、そんなことは言ってられない。
獣のように荒く息を吸い、吐く。いつもやっている当たり前の行動に、これ以上ない生を感じた。
脳の機能が戻ってきたタイミングで、もう一度死神は同じことを繰り返した。
無駄だとわかっても、全身を動かさずにはいられなかった。全身がびくびくとのたうち回り、この状況から逃れようとする。抵抗もむなしく、死神が俺の頭を抑えつける。
必死の咆哮も、水の中で消え去って誰にも聞こえない。
死が迫ってきた瞬間、またしても顔が上げられた。
「げほっ、げほっ、が、っはぁ……」
酸素を欲しがる肺に喉がついてこれず、咳き込んでしまう。
「さ、犠牲にしたい子の名前をどうぞ」
拷問をしている人間の顔じゃない。
先ほどと変わらず笑みを張り付けた顔は、醜悪しか感じられない。
「こと……わる」
死に引っ張られていっている俺には、それしか言えなかった。
「やめろ、もうやめろよ! もういいだろ!」
「少し休憩しようか。君を気絶させたいわけじゃないしね」
磯貝を無視して、死神はぐったりとうなだれる俺の肩に足を置き、力を込めて柱に叩きつける。
濡れた髪からぼたぼたと滴る水滴が、超体育着に落ちる。それに関してぼうっと見つめることしかできないほど憔悴していた。
どれだけ傷ついても負けを認めなかった俺が、いまのたった数分で限界まで追いつめられている。
息の荒いままの俺に、死神は顔を近づけた。
「どうかな。本当に言わない気?」
「言うわけ、ないだろ」
「どうして? このままじゃ、君はずっとつらいままだ」
「つらいだけなら、俺が我慢すればいい」
「もしかして死んじゃうかも。人質はたくさんいるんだ。一人死んだくらいじゃ、何も変わらない」
「変わる。変わるんだよ。だから俺は誰の名前も言わない。言えるはずがない」
「そうかな。意外とそうでもないかもね。もしかしたら、君は君が思ってるより自分が大事なのかもしれないよ。人間なんてそんなものさ。自分が生きるために、結局他の人間を投げ捨てることになる」
違う。こいつは何もわかってない。
俺たちがそんな人間なら、わざわざビッチ先生を助けになんか来ない。
「勝手なこと言わないで! 國枝くんのこと、なんにも知らないくせに!」
不破が、モニターの向こうから声を発する。
そうだ、言ってやれ。
「黙れ」
だが、死神の威圧感に気圧され、あちらは黙ってしまった。
無理もない。俺だって総毛だったくらいに、恐ろしい雰囲気を漂わせはじめたのだから。
「いま、僕は國枝くんと話してるんだ。彼の命は僕の掌の上ってこと、忘れないでほしいな」
その言葉に、みんなは完全に黙り込んでしまった。
何か言うのは自由。だが、彼の機嫌を損ねてしまえば目の前の俺が殺されてしまうかもしれない。
そんな不安が心の中に撒かれた。
「ずいぶん慕われてるようだね。みんな、君のことを心配してる。僕がこの後どうするかハラハラしながら見てる」
絶対的優位な立場の死神は、再び悪魔のような笑顔になると、こちらに向き直った。
「ああ、そうだ。さっきの女の子を同じ目に遭わせたら、少しは君の反応も変わるかな」
「ふざけんな! 不破に手ぇ出したら絶対に許さんぞ!」
「冗談だよ、冗談。いま僕が興味あるのは君だけ。さあ、元気が出てきたようだし、休憩は終わりにしようか」
死神はそう言うなり、懐から何かを取り出した。バチバチと音を上げる何かを手に持っている。
髪から落ちる水が目に入り、ぼやけるせいでよく見えない。だが、その放電の音は何度か聞いたことがある。
スタンガンだ。だが俺たちが持ってきたのとは違う。もっとごつい。
先から迸る電流を見ただけで、市販のものより強力に改造されていることがわかった。
「第二ラウンドといこう」
覚悟する暇も与えられず、スタンガンが押し付けられる。
直後、身体が燃え出したのかと錯覚した。
殴られたり、ナイフで切りつけられたりするのとはまったく違う。全身が熱された針で刺される感覚が続く。肉が、骨が、血管が、細胞が破裂しているかのようだ。
頭の先から足のつま先まで弾けたみたいに、感覚が失われていき、代わりに激痛が増していく。
一瞬の暗転、そして照明の光が目に突き刺さる。脳が発火して、死神に対する怒りや憎しみが数舜消し飛ぶ。
ほんの少し気絶したことに気付いて、止まっていた呼吸を復活させる。
目から涙が零れ、口からは涎が漏れる。息をするたび、焦げついた煙を吐いているような気がする。
まるで全身の皮膚が剥がされ、剥き出しの筋肉が晒されているようだ。
こうやって金属ポールにもたれているだけでも、敏感になった肌に擦れる衣服と空気が襲い掛かってくる。
生存の限界。そのぎりぎりの淵に立たされ、あと一歩のところで引き戻される。
殺人を行うためには、人体のどこをどうすれば、いつまでやれば死んでしまうかを知る必要がある。
殺しのプロは、逆に殺さないプロになることもできるのだ。
『死神』は技術を極めている。間違えて殺しちゃいました、なんてことはないだろうが、安心できる要素は一つもない。
俺が折れない限り、この悪趣味な拷問は続くだろう。
「さあどうかな。名前を言う気になった? あ、もしかして麻痺して喋れない?」
にこにことした顔のまま、『死神』が問うてくる。
ばらばらに千切れたような身体の感覚を取り戻しつつ、俺は彼を睨みつけた。
「みんなで帰ると約束した」
口を開けるのがこんなにも大変なことだとは、今まで思わなかった。
「誰も殺させない。俺も死なない。30人で、またE組に帰る」
この施設に入る前に、みんなと交わした約束。
その中には、29人いるE組の生徒だけじゃなく、もちろんビッチ先生も含まれている。
崩れてしまった関係をまたもとに戻して、みんなでまた日常へ戻る。
意地が、俺を死なせることを許さない。
その返答に満足か不満か、両方の感情を秘めた『死神』はまた電撃を流してくる。
悲鳴は上がらなかった。いや上げられなかった。
目は開いているが何も見えてはいない。口は開いているが何も発することはできない。
身体は確かに存在しているのに、どれ一つとして思うように動かせることができない。
この後しっかり機能するかも怪しい。それどころか、『この後』があるのかどうかも……
電撃は痛覚を司る神経を一つも逃さず、その全てを刺激する。その刺激は脳を支配し、他を追い出す。
許容量を超えた痛みだけが生きている証拠だった。いや、もしかしたらここはすでに地獄か。繰り返しループする悪夢に囚われているのか。
助けを求める言葉すらも出すことを阻まれる。
「嫌……いやああああ! お願いやめてええ!!」
「『死神』ィ! やるなら俺にしやがれ!」
代わりにモニターの向こうの矢田や寺坂が檻を掴んだまま叫ぶ。他にも数人の訴えが聞こえた。
対して俺は電流が止まっても声は出せず、ひゅうひゅうと細い息だけが喉から漏れる。
「だってさ、せっかくの申し出だ。どうする、國枝くん?」
力を振り絞って、首を横に振る。意思表示はそれだけでいいはずだ。
そしてまたしても、地獄は始まった。
足が小刻みに痙攣し、口は塞がらない。もはや、身体中のどこもかしこもが俺の意思と反して動いている。
苦痛から逃れようと、上半身が反っていく。そのせいで輪が引っ張られ、首を圧迫する。声も息も許されないほど絞まっているのに、それが止められない。
さらに首の動きの勢いが増して、がんがんとポールに頭をぶつける。
自分でも何をやっているのかわからなかった。
おかしくなりそうだという恐怖すら霧散している。もしかしたら、もうおかしくなっているのかも。
視界は真っ白と真っ黒を繰り返して、時間と空間が曖昧になる。
鋭敏に突き刺さってくる痛覚だけが、俺の世界のすべてになっていた。
もう無理だ。無理、無理、無理。死んでしまう。こんなところで、地獄を感じたまま、こと切れてしまう。
「『死神』! 私が、私が代わりに拷問受ける! だからやめて! 國枝くんを助けて!」
無限に続くかと思われた暴力は止まった。
視界が急に色づき、拷問が一旦ストップしたことを感じ取る。
とっくに限界なんて超えていた。俺の身体は生きることにのみ集中しては乱される。心臓すら不規則に鼓動していた。
崖の淵に、小指一本でぶらさがっている気分だ。死を身近に感じながら、気力のみで意識を支えている。
みんなが口々に何か叫んでいるが、言葉が耳に届いても意味が理解できなかった。
「さっきの、えーと、不破優月ちゃんだったかな。それに寺坂くんも、赤羽くんも、磯貝くんも……これを見せられて、自分が受けるなんてよく言えるね」
なぜか『死神』の声だけが鮮明に聞こえる。脳に直接響かせているみたいに、言葉を流し込んでくる。
「國枝くん。今なら誰の名前を言っても恨まれないよ。これだけ苦しいんだ。逃げたくて当然、負けて当然なんだ」
死神は俺の言葉を待った。誰かの名前を言うのを。俺が負けを認めることを。
俺はうつむいたまま力なく首を振る。怯えながら、拒絶の意思を示す。
「どうしてそこまでするんだ」
お前にはわからんさ。絶対にわかるわけがない。どこまでも独りのお前には辿りつけない。
誰に認められるでもないお前には……
△
帰れば、時々涙することがある。
暗くて静寂。誰も使っていないような綺麗に片づけられた家は、どこよりも孤独を感じさせてきて、蓋をしていた寂しさを一瞬で溢れさせる。
よく外に出るのは、『貌なし』として活動するだけが目的じゃない。家にいる時間を少しでも減らすためだ。
とにかく、追ってくる空虚から逃げ続けた。マスクをしていないときは勉強に、しているときは暴力にのめりこんだ。
一人で生きられるように、一人で生きていることから目を背けるために。
でも一人で生きたいわけじゃない。
本当は普通が欲しかっただけだ。親子の普通の関係と、普通の会話、普通の触れ合い。
どんな他愛のない話でもいい。なんなら、天気のことを話すだけでもいい。
たった一言だけ欲しかっただけだ。
返ってきた言葉はない。
わがままだったのか。俺が何かを求めることが、そんなに悪いことなのか。
期待したから、裏切られたと感じる。持っていなかったものを失った気分になって、嫌な気分を味わう。
だから、誰も頼らず、助けを求めることもしなかった。
俺の居場所はない。なら、俺はどこにいればいいんだ。
それに対する答えを、E組のみんなはいとも簡単に出してくれた。
不破は俺が話すのを待ってくれて、真実を知っても変わりなく接してくれた。
みんな同じく、俺が『貌なし』だったなんてどうでもいいというふうに、『國枝響』を親友として迎えてくれた。
居場所はある。俺の居場所が、E組に。
今度は、俺が居場所を作る番だ。
ひたすらに孤独で、プロの殺し屋であるイリーナ・イェラビッチ。
その彼女に、中学校の先生であり、一人の大人であり、E組の友人としていられる場所があることを突きつけてやる。必要なら殴ってでも、引きずってでも連れ戻してやる。
何が『プロの殺し屋』だ。何が『死神は理解してくれた』だ。
孤独感を抱いたタイミングで死神に唆され、利用されているだけに過ぎない。
俺たちにとってあんたは無駄にエロくて、抜けてて、烏間先生を引っかけようとしたら逆に無様を晒す、努力家で、何気に生徒思いで、俺たちのためならぱっと前に出られる、最高の先生だ。
こんなところで、こんなことで咎を背負っていい人じゃない。
△
冷水をぶっかけられ、強制的に意識を覚まされる。
水責めに使っていたバケツの中身を、死神が浴びせてきたのだ。
いつの間に意識を失っていたのか。
何分、何時間眠っていただろうか。もしかしたら、さっきの一瞬後かもしれない。
感覚が完全に狂っていた。
「お願い……もう、もういいでしょ。お願い……」
もう誰が言っているのかもわからなくなっていた。
声は耳に届いているのに、それの主が男か女かもわからない。
五感はぼんやりして、痛覚だけが鋭敏になっていた。
「ほらほら、E組のみんなもあんなことを言ってるよ」
「なら、やめてくれ」
「じゃあ誰を犠牲にする?」
あくまで、やめるときは俺がみんなの中から一人を選んだ時か。
沈黙。
誰を殺すか考えているわけじゃない。誰のことも言わないためだ。
口を開けば弱音を吐きそうで、泣き出してしまいそうだ。そうなれば感情の堰は切れてしまい、思わずみんなのことを呼んでしまう。
開いてしまいそうな口を、下唇を噛んで抑える。
涙と汗、それとぶっかけられた水が際限なく垂れ、冷たい床に染みを作る。
倒れてしまいたかった。このまま意識を失って、何日も寝て、これがタチの悪い悪夢だと思いたかった。
しかしこれは現実で、鎖と輪のせいで床に伏せる姿勢すらできない。
地獄。ひたすら続く地獄。俺はできるのは、ここで耐えることだけ。
その絶望の世界で、俺は二つの希望を持っていた。
一つは、死神より上に立っているということ。
彼の恐るべき数の技術は、殺しやそれに準じたものだ。どれも高水準。俺じゃ歯が立たない。
だが、この場では、この拷問の場では、奴は俺に勝てていない。
精神は鍛えたくても、そう簡単には鍛えられない。死神が俺に目を付けたのはそこだ。
死神が持っていないものを、俺が持っている。
自分の技術が通用しない場があり、自分の技術が通用しない相手がいることを、内心で喜びつつ恐れている。
俺が負けを認めない限り、勝っているのは俺だ。
その優位性が俺を繋ぎとめる。
二つ目は……
「……なぜだ?」
初めて聞く、『死神』のきょとんとした声。
それは俺でもなく、捕らわれているみんなでもなく、別のモニターに向けられていた。
そこに映っていたのは、殺せんせーと烏間先生。
E組の教師たちだ。