「ねえ、あんた」
廊下から職員室の中を覗き見していると、ビッチ先生に声をかけられた。
嫌なものを感じて、瞬時に一歩下がる。
その瞬間、腕が目の前まで迫ってきていた。避けなかったら彼女に捕まっていただろう。
「なんですか。急に襲ってくるなんて」
「へえ、あたしの動きを避けるなんてやるじゃない」
感心したような、拗ねたような口ぶり。
「あんただけ、いつもあたしのこと避けるわよね。おとなしくキスされなさいよ」
「嫌ですよ。わざわざあんたの遊びに付き合ってられるほど、こっちは暇じゃないんで」
「遊びってなによ遊びって!」
ビッチ先生の授業は過激だ。
中学生に読ませるには年齢対象が高めの英文。正解しても誤答しても公開ディープキスの刑。
だがそれのおかげで、強烈にインプットされる。授業が終わった後でも簡単に思い出せるほどだ。
それはありがたいんだが、どうも慣れん。
殺せんせーに、烏間先生に、ビッチ先生。
スペシャリストが揃って、E組の学力も身体能力も加速度的に上がった。
喜ばしいことだ。陰鬱だった教室の雰囲気はがらりと変わり、余裕すらある。
「んで、こんなところでなに立ち止まってんのよ。カラスマかあいつに何か用? それとも私?」
「いえ、ただちょっと珍しい人がいるもんで」
妖艶に唇をなぞる仕草を無視して、俺は職員室の中を指差す。
そこには三人。一人は殺せんせー、一人は烏間先生。もう一人は……
椚ヶ丘中学・高校の理事長である
糊のきいた高級スーツ。ブランドの時計。よく磨かれた靴。だがその全てが、あくまで理事長を引き立たせる物でしかない。
崩れることのない伸びた姿勢。一見優しそうに見えながらも鋭く、威圧感を醸し出す目。何より、いかにも頭のよさそうな顔。足を組んでいるいまでさえ、写真を撮れば映えそうなほどスタイルが良い。
見た目だけで優秀だとわかる。だが、はっきり言って、俺は理事長が嫌いだ。
柔和な笑みに、その目に底が知れないものを感じる。暗いものを抱えている彼をじっと見ていると、こっちの気持ちが悪くなる。
E組に落ちて、関わってこないようになってからは気にしなくなったが、またこうやって姿を見ることになるとは……
「この六面体の色を揃えたい。素早く沢山、しかも誰にでもできるやり方で。あなた方ならどうしますか、先生方?」
そう言うと、理事長は手に持ったマイナスドライバーを、弄んでいたルービックキューブに突き刺し、力を入れた。
「私ならこうする」
ばらばらと27個のブロックが机に散らばる。
そのやり方に、殺せんせーと烏間先生は眉をひそめた。
物事に対して、効率的なやり方を表すことのできる柔軟さと、それが出来る道具……つまり持っているものの差。
それを理事長は示した。
殺せんせーがいかに超生物としての能力を持とうが、それを上回るものを持っていると言っているのだ。
そして、実行するに不必要な躊躇というものをためらいなく捨てることが出来る決断力の高さ。
上に立つ者としての実力と経験を、今の一挙動で見せつけられた。
『教師』という肩書をもつ殺せんせー。超生物の存在を秘匿したい烏間先生。
そのどちらに対しても、理事長は上に立っている。
わざわざ見せつけるために、ルービックキューブひとつ壊すかね。そういうところが苦手だ。
あとの会話は、特に面白いものじゃなかった。
彼の教育理念を聞かされただけ。
多数の優秀を作るために、少数の底辺を見せつける。
底辺の環境が劣悪であるほど、優秀は落ちることを恐れ、常に上を目指す……という、生徒たちは誰もが知っている縮図。
満足げな理事長は音もなく立ち上がると、こちらに近づいてくる。
俺は急いで後ろに下がった。
扉を開けた理事長は正面にいる俺を見るなり……
「やあ、國枝くん」
「どうも、こんにちは。浅野理事長」
いまいち感情の読めない表情で話しかけてきた。
嫌悪感はあるが、表に出さずに一礼。
「E組の居心地はどうだい?」
「それなりですよ。少なくとも、勉強漬けの本校舎よりはマシです」
それから、浅野理事長は品定めするように、俺の顔をじっと見た。
「どうしました? 一言で去っていくものと思っていましたが」
「いや、不思議なものだと思ってね。成績も悪くなく、態度も優秀だった君が、どうして望んでE組になったのか……」
俺は眉をひそめた。
今更そんな話……しかもビッチ先生の前で言うんじゃない。
「私の予想では……」
「E組に構っているほど暇じゃないでしょう、理事長。もどって仕事しないといけないんじゃないですか」
E組を強調して言う。
彼がここに来たのは殺せんせーがいるからで、そうじゃなければ見向きもしなかったはずだ。
ここの一生徒に対して、不思議に思うことなんて何もない。
「……中間テスト期待してるよ」
少しだけ逡巡したあと、そう言って去っていった。
ぞくりと、嫌な予感が背中を伝った。まるで、無数の蟲が這い寄るように。
あの人の、あの乾いた笑顔が嫌いだ。一見すると爽やかだが、その中にはなんの感情もない。
そんな顔を、俺はずっと向けられてきた。だからどうしても、理事長のことは好きになれない。
「何よあいつ、いけすかないわね」
今回ばかりは、ビッチ先生の言葉に賛成だ。
△
「さあさあみなさん、気合を入れてください! 中間テストはすぐそこですよ!」
パンパン。いや、ぷにぷにと触手を叩いて俺たちを鼓舞しようとする殺せんせー。
理事長にこけにされ、対抗意識が燃えているらしい。
すぐそこ、というか明日なのだが。
超高速の残像を利用した分身が二体、本体と合わせて三体の殺せんせーが並んでいる……と思いきや、数十体にまで増えた。
いやいや、昨日まではそんなに増えていなかっただろう。そんな急に進化したのか?
殺せんせーはクラス全員分以上の分身で個人授業を行い、得意科目を伸ばし、苦手科目を潰していく。
そんなのが長く続くわけもなく……
「さすがの殺せんせーもバテたみたいだな」
菅谷が言う。
授業が終わったところで、殺せんせーは今までに見たことがないくらいぐったりと、教壇に倒れ込んでいた。
「ねー、なんでそんな頑張るのよ」
「俺ら勉強はそれなりでいいのに」
「いいえ! 必ず成績トップまで追い上げてみせましょう!」
殺せんせーはがばっと起き上がるが、大半が首を横に振る。
「無理無理」
「だって俺らE組だぜ? どんだけやっても、本校舎のやつらには追いつけないって」
みんなはやる前から諦めムード。先ほどの強化授業だって、正直、熱が入っているとは言いづらい。
殺せんせーはしばし考え込んで、やがてふるふると首を横に振った。
「今のE組にとって、何が問題かわかりますか? ……そうですねえ、國枝くん、答えてもらいましょうか」
「俺が?」
「ええ。どうやら君が一番状況をわかっているようですから」
いきなり名指しされ、驚く。
何を証拠に……この間、カルマのことを相談しに行ったからか? いやいやそれくらいで俺のことをわかりはしないだろう。
だが、なにかしらの確信があって訊いてきてるのだ。
みんなの目がこちらを向く。どうやら、逃げられはしないようだ。
「問題は、ほぼ全員がやる気がないこと、かな」
「いやいや、俺らちゃんと勉強してるし。成績も上がってる」
「それは、そこそこのレベルに達すればいいっていう考えで、だろ?」
反論する磯貝に、俺も応える。
「殺せんせーを殺せれば百億円。手に入ればその後の人生はどうとでもなる。だから、勉強はそれなりでいい。一定以上の高校、大学に行ければ困りはしない……ってな」
これは、みんなが自覚していることではあるが、目を背けていることでもある。
劣等感から逃げるために、あえてそれを受け入れる。それがこの諦念の正体。
椚ヶ丘のE組というシステムが作り出した地獄にどっぷりと漬かっていると、いつの間にか抵抗の意思と力を奪われる。
それが浅野理事長の狙いだ。
良い生徒をさらに上げ、落ちこぼれは落ちこぼれのままでいさせる。それに慣れてしまったのだ。
喋りすぎた。俺は殺せんせーに向き直る。
「もういいだろ」
「いいえ、まだ十分ではありません。しっかりと言葉にしてもらわなければ、みんなは理解できないままでしょう」
正論で返された。
そう、わかっているのに避けているとは、つまりそういうことなのだ。
殺せんせーは無理やり目を向けさせて、自分たちの惨めさを痛感させようとしている。それで奮起してくれればと。
「お前たちのその考えは、つまり殺せんせーがここにいるという、他の人にはない有利な立場の上に成り立つものだ。なら、もし殺せんせーがいなくなったらどうなる? 勉強に打ち込むか? いいや……」
俺は頭を振った。
「あとに残るのは、底辺の立場と向上心のない心だけだ」
わかっていて何もしない俺はそれ以下だ。という言葉は言わなかった。
「私だって、教師としてもやっていくって決めたのよ。あんた達が暗殺のみを頼りに生きるなら、
教室の端で見ていたビッチ先生が言葉を継ぐ。
烏間先生に叱られ、プロとしての矜持を見せるべく教師となったビッチ先生の言葉は重かった。
最初、彼女に酷いことを言われ、みんなは怒ったが、それは的を射ていたから。
そこから成長したのは、ビッチ先生ただ一人で、E組の生徒はみなその場に留まったまま。そのことに対して思うところがあったのだろう、彼女は口を挟まずにはいられなかった。
あの時とまた同じ言葉を投げかけられても、俺たちに怒る資格はない。
いや、元々なかったのだ。
ビッチ先生の言う通り、俺たちは落ちこぼれで、このままだと落ちこぼれのままだから。
「必要なのは、私が逃げたり、他の誰かに殺されたりしても簡単に人生設計を組みなおすことのできる計画性。それを可能にする武器……第二の刃です」
次は殺せんせーが口を開く。
「もしも君たちが自信を持てる第二の刃を示せなければ、相手に値する暗殺者はこの教室にいないとみなし、先生は去ります」
いきなりの宣言に、俺たちだけでなく烏間先生もビッチ先生も驚く。
彼の言う『第二の刃』を見せつけなければ、彼はいなくなり、そうなれば烏間先生もビッチ先生もいなくなってしまう。
E組はどん底のまま這いあがれなくなるだろう。全てが中途半端で終わってしまう。
「第二の刃……いつまでに?」
ごくりと喉を鳴らしながら、渚が訊く。
「決まっています。明日です。明日の中間テスト、クラス全員50位以内を取りなさい」
「ご、50!?」
A~D組まで含めて、三年生全員で188人だぞ。E組27人以外の、161人を退けろっていうのか。
「君たちの第二の刃は先生が育てています。本校舎の教師たちに劣るほど、先生はトロい教え方をしていません」
しかし、全員が50位以内となるととてつもなく厳しい戦いになる。
進学校である椚ヶ丘中学の、さらにエリート集団であるA組。その半分以上を下さなければ達成することのできない勝利条件。
俺たちには無理に近い。
だが、殺せんせーはなぜか自信をもったような口ぶりと表情で言う。
「自信をもってその刃を振るってきなさい。仕事を成功させ、恥じることなく笑顔で胸を張るのです」