渚の母親には、あの夜に見られたようなヒステリックさはなくなって、歳相応の落ち着きが感じられた。
食材をこれ以上採りにいくのをやめたからもうほとんど何も残っていなかったが、かろうじて山葡萄ジュースを出せるだけはあった。
渚は紙コップに入れたそれを受け取って、先に座らせている母親の元へ向かう。
「なに話してんだろうね」
「さあな」
カルマも俺も、様子が気になって遠巻きに眺める。
盗み見は野暮だが、なんとなく彼らの行く末を見届けたかった。
話してることは聞こえないけど、でも……
「二人とも悪い顔じゃないな。心配はいらないみたいだ」
「そうだね。なにせ、わざわざ放火しようとしてるところを止めたくらいだからね」
「知ってたのか?」
「殺せんせーに聞いた」
……まあ、別に隠すことでもないか。カルマもあの人の狂気には気づいていたから、気になったのだろう。
しばらくして、去っていく母親の背をじっと見送る渚に近づく。
「よかったな、渚」
「うん」
「あの人の目、ちゃんと息子を見る目だったよ」
「ほんと?」
「目だけは良いんだ。信じてくれていい」
小さく笑う渚がありがとうと言ってくる。
別に俺が何かをしたわけじゃない。全部、渚が立ち向かって得たものだ。
だけど俺は素直にそれを受け取った。
「おーい、國枝」
サボってるのを咎めに来たか。寺坂が俺を呼ぶ。
だが、用件はそれとは別だった。
「お前にお客さんだ」
「客って……もう売り切れだって言ってくれよ。下でも倉橋とか矢田が伝えてくれてるはずだろ?」
「お前が直接言え」
寺坂が顎をくいっと動かす。
示された先には……
「父さん……!」
ここにいるはずのない、ここに来るはずのない人物がいて、動揺した。
「母さんも? 何しに……? ここ、学校だけど……」
仕事着であるビジネススーツ姿の父さんと母さんが、二人並んでいる意味と目的がわからず、混乱したまま尋ねる。
「そんなことは知ってる。だから来たんだ」
「仕事は?」
「午後は休みを取ってる。そのはずが長引いて、来るのが遅れたが」
すまない、と言う父さんの意図がまだわからず、俺は考えを巡らす。
椚ヶ丘の学園祭は有名だから、少し回ろうとでも思ったのか? 特に今年は浅野が全力を出しているから、本校舎はかなり賑やかになっているはずだ。
派手に宣伝もされてるし、きっと、それが目当てに違いない。
「本校舎ならまだいろいろやってるはずだ。なんなら案内するけど」
「学園祭を楽しみに来たわけじゃないんだ。いや、楽しみにはしていたんだが」
「ちょっと話せる?」
△
一つ残されたテーブルに、二人を座らせる。その対面に俺も座って、言葉を待った。
いったい、本当に何をしに来たんだ? こんなに答えが出ないなんてことは、今までなかった。
学校に両親が来るだけで異常なのに、そのうえ俺と何か話そうとするなんて……
困惑と緊張で、身体が固まってしまう。
「すまないな。まだ仕事が残ってるだろうに」
「もう片付けだけだよ。一人抜けたくらいじゃ、別に……」
「E組は……本校舎とはこれだけ離れているのね。知らなかったわ」
だろうね。と言うのを黙って、俺は単刀直入に聞くことにした。
こんな中身のない会話をするために来たんじゃなかろうに。
「それで? ただ世間話をしに来たわけじゃないだろう」
「世間話をしに来たんだ」
「遠回しな話はいいよ。必要なことだけ言ってくれればいい。それがいつもやってきたことだ」
「響、話を聞いて」
苛立って、机を叩きたい衝動を抑える。膝の上で握られた拳から血が出そうなほど力が入る。
「聞いてる。聞いてるよ。いつも聞いてきた。だから今もこうやって聞いてる。ちゃんと言ってくれれば、それをやる。ずっとそうだっただろう。こんな時間、お互いにとって無意味だ。」
「私たちは本当に、響とただのお話をしにきたの」
がたりと音が鳴った。
我慢できなくなって、俺が立ち上がったのだ。
勢いよく立ったせいで、椅子が転がった。
「俺はもう戻る」
踵を返し、校舎の中へ戻ろうとする。
何を企んでいるのかはわからない。だが、あの言葉に意味はない。きっとそうだ。だからこれが正しい。
勝手に期待しておいて、裏切られたと思って、失望するのはもうたくさんだ。
「國枝くん」
遮るように、渚が正面に立った。
「親と向き直るって、君が教えてくれたことだよ。僕はそのおかげで母さんとああやって普通に話できるようになった」
少し怒っているような表情で、頑としてどこうとしない。
「君は逃げるの?」
「これが、俺と親の関係なんだよ。俺があの人たちに言うことも、あの人たちが俺に言うこともない」
「嘘だよ」
渚は即座に否定する。
「國枝くんは理不尽に身を置いてたから、自分の人生がなるようにしかならないって考えてる。だから親に向き合うことを避けてるんだ」
「お前に何がわかる」
「わかるよ。僕も一緒だったから」
淀みなく言ってみせる彼の表情に嘘はない。
下手をすれば、俺より長い間苦しめられてきたことだろう。
潮田渚ではなく、母の二週目として育てられた彼は、十五年間『自分』という存在がなかった。
目を向けるべきものから逸らす。立ち向かうべきものから逃げる。そういった意味で、俺と渚は一緒だった。
いまでは彼が一歩先をいっている。
「目を逸らさずに、ちゃんと見て。國枝くんは人の感情がわかるんでしょ」
渚が俺の肩を叩いた。
「今度は、國枝くんが向き合う番だよ」
俺はわざとらしく眉間にしわを寄せ、ため息をつく。
振り返って、元の場所へ腰を落ち着けた。もう一度ため息。
「話をするだけだ」
姿勢の変わらない二人に、ぶっきらぼうに言う。逸らしたかったが、勇気をもって目を合わせる。
彼らの顔は、先ほど渚の母が息子に向けたものとよく似ていた。
「話をしてくれるのか?」
「終わるまで帰らないつもりだろ」
父の言葉に、俺はまたしてもぶっきらぼうに返す。
「今日来るって、一昨日に言いたかったんだ、本当はな」
無駄口を叩くつもりはない。俺はじっと聞く。
「長いこと、お前を放っておいたこと、謝らせてくれ」
がばっと頭を下げられる。テーブルに打ち付けてしまいそうな、そんな勢い。
それを見せられて、俺の脳裏には今までのことが蘇った。
三年E組になってからの事だけじゃない。物心ついてから、今日に至るまでのすべてが浮き上がった。
「八年と半年ちょっと。それがどれだけ長いかわかるか? 俺が生きてきた半分よりも長い」
あんたたちが働いている年数よりも短い。だけど、それが俺の全てなんだ。俺が感じた全てなんだ。
こうやって怒りを感じて、意地になって、それが当たり前になってしまうくらいには十分な年月だ。
「わがままだってのはわかる。けど、俺はあのとき、まだ小学生だったんだぞ」
料理を作ったことか、卒業式に来てくれなかったことか、それとも他のことか。どれのことを言っているのか、自分でもわからなかった。
あるいは、そのどれもを指しているのか。
ぐしゃぐしゃになった感情が口を動かした。
「いまさら頭を下げられたくらいで……っ」
ガン! と机に拳を叩きつける。心から湧き上がる衝動を必死に抑える。
素直に喜べばいいものを、意固地な心が許さない。
「言葉じゃいくらでも言える。だから行動で示すよ。響が父さんたちにしてほしいこと、なんでもする。だから話してくれ」
それだって、言葉だけじゃないのか。
来てくれた事実を無視して、俺はそう思う。
「償いのつもりか?」
「償い……そうね、私たちは罰せられることをしてきた。罵倒されても、殴られても文句は言えないわ。そのことに関しては、あなたに謝らなきゃいけない」
机の上で震える拳を、母さんはそっと包みこんだ。
「でも、信じて、響。私たちはちゃんとあなたを愛してる。こんな千切れた関係のまま終わりたくないの。それだけは信じて」
かつて、不破が言った言葉を思い出す。
『これが私たちなの? 國枝くんは、私たちとこんな関係でいいの? こんな……お互いに勝手な関係で?』
彼女を置いて、『蟷螂』のところに向かった後の言葉だ。
いいはずがない。
俺だって、みんなが仲良くできるならそれに越したことはない。
心の引っ掛かりなんてなくなって、誰もが手を繋げられるならそれが一番いい。
でも『だったら、もっと早く俺のところに来てくれよ!』と心の一部が叫んでいる。
……違う。そうじゃない。俺がぶちまけたいのは、そんな怒りの感情じゃないだろ。
この瞬間をずっと待ってたのは、罵倒するためじゃない。
そのことに気づいて、大きなため息をつく。
俺が本当に言いたかったのは……
「ずっと夢見てた。こうやって、父さんと母さんが俺の目を見てくれることを。俺の話を聞いてくれることを」
本音を言うと、父さんと母さんが目を伏せた。恥、そして罪悪感を感じている。
その表情のまま、母さんはもう一度俺に目を合わせた。
「響の友達や先生方が、わざわざ正式にアポを取って私たちを誘って来てくれたの」
疑問が一つ解けた。
最近隠し事をしているのは感じていたが……そうか、そういうことか。
「お前がどれだけ努力して、苦しんできたかを伝えてくれた」
父さんが言葉を継ぐ。
「お前は昔から成績も優秀で、身の回りのことだって一人でできていた。だから、そんなお前に甘えて、父さんたちは仕事を言い訳にお前と向き合うことをしなかった」
「やりたいことをやらせて、お金さえ与えれば十分だと思ってた私たちがいかに愚かか、他人に言われてようやく気付くなんて、親失格よね」
ごめんなさい。二人はまた謝った。
「先生に頼んで、近況を聞いたりした。成績はいつも学年で上位のほう、修学旅行や夏休みの合宿でもなにやら活躍したそうじゃないか」
「あなたの評価が高いのは、親としても嬉しいわ」
なに恥ずかしいこと言ってんだ。この二人も、みんなも。
こんな会話……まるで、俺が思い描いたとおりの、理想の会話じゃないか。
胸の奥から、何かがこみあげてきた。
「響の口から聞きたい」
すっと、父さんは身を乗り出した。
「どうだ、学校は楽しいか?」
漫画とかでよく見る、親から子への話のきっかけ。
それを言われるのを、何度、何度、何度望んだだろう。
ぎゅうっと胸が締め付けられる。普久間島でみんなが菌に侵されたときや正体がばれたときとは違う、心地の良い圧迫。
それに押されて、いつの間にか涙が頬を伝っていた。
感情に蓋をするのは得意だったはずなのに、溢れてくるものを抑えきれない。
「うん……楽しいよ。ここに来れてよかったって、毎日思う……っ」
拭っても拭ってもぼたぼたと落ちていく涙のせいで、ちゃんと喋れているのかわからなかった。
制服が濡れるたび、涙がテーブルに染みをつくるたび、自分の中の悪い感情が流されていくようだった。
「話してくれない? 響のこと」
「うん……うん……」
話し疲れたと思った時には、もう夕暮れ時になっていた。
俺が話すことを、父さんと母さんは黙って、時々相槌を打ちつつ聞いてくれた。
こんなに饒舌になったのは生まれて初めて。こんな笑顔で話せたのも初めて。
「明日も休みを取ってるんだ。遊園地とかでも行くか? どこだって好きなところに連れてってやるぞ」
学園祭の時間も終わり、保護者も帰宅を促される時になった。もっと話したいけど、本校舎の先生に見つかったら厄介だ。
名残惜しそうに立ち上がる父さんはそう言って、明日の日曜に俺が何をしたいのかを言ってくる。
「いや、いいよ。明日は家にいてくれたら」
「いいのよ、わがままになっても」
疲れてるだろうから遠慮していると思われているのだろうか。
いやいや、全然そんなんじゃない。
「一緒に家にいてほしいんだ。話したいこともまだたくさんある」
俺にとって、二人が一緒にいてくれて、俺を見てくれるだけで幸せなんだ。
だから明日は引きこもっていよう。起きてから眠るまで、これまでを埋めるように一緒にいよう。
「それに、たまには一緒にご飯が食べたい」
△
テーブルと椅子を片づけて教室の中に戻ると、すでに元通りになっていた。
そりゃ、あんだけ時間があれば片付くよな。
「ごめん、けっこう待たせたな。それと……ありがとう。俺のために、色々してくれたみたいで」
みんなは、気にしてないよと首を振る。
カルマだけはそうしてこなかったが、代わりに、にやにやと笑って自分のスマホの画面を見せてきた。
「いや、いいんだよ。國枝の泣いてるところなんて滅多に見れないからね」
「おまっ、消せ! 今すぐ消せ!」
俺はカルマのスマホを奪おうと手を伸ばすが、ひらりひらりとかわされてしまう。
そこには、ぼろぼろと涙を流す少年と、彼を優しく見守る両親の姿が映っていた。