素早く動いて、ナイフを拾おうとする立花へと距離を詰める。
「やめろ!」
殺意の衰えていない『レッドライン』を蹴り飛ばす。ナイフをこぼして、彼女はソファへ激突し、床へ落ちた。
『レッドライン』は血の混じった唾を吐き出して、俺を睨みつけながらゆっくり立ち上がった。
「なんで? これで響くんも安心できるんだよ?」
「確かに、お前のやることは正しいのかも。だがこれ以上、お前に歪んでほしくない」
こいつを殺せば、俺を含めE組の安全は保たれる。それだけでなく、その周りの人たちも無事が確約される。
一人の命を奪って何十人が助かるなら、その行為は賞賛されるものかもしれない。
だが、殺すということは少なからず自分に影響を与える。
特にこの場合は、歪んでしまった立花の心を修復不可能なほどまでに壊してしまうのだ。
「そんな奴を守る気?」
「こいつはどうでもいい。だが殺すのだけはだめだ。殺せば、もうお前は戻れなくなる」
「もう殺したんだよ。私はお母さんを殺したの。戻れないことなんてもうわかってる」
フードに隠れた闇の奥で、立花の眼がぎらつく。
「やめる気はないよ、響くん。私を止めるには、私を殺すしかない。ここで誰かが死んで、誰かが殺すしか決着はつけられないの」
「そんなことさせるか!」
俺は腰を低くして突進し、立花を壁に押し付ける。
衝撃で息を吐きだした彼女は反撃として俺を振りほどいて、頭を肘で打ち、拳を振りぬいた。
俺はくの字に曲がってしまった身体をばねのように伸ばしながら、アッパーを食らわせる。
一瞬よろめいた彼女は俺を突き飛ばす。そして、しなる足のつま先をみぞおちにめり込ませてきた。
倒れ込んだ俺はすぐに殺気を感じて、ぱっと立ち上がった。俺がいた場所を立花が踏みつける。
痛みにうずくまっていたままだったら、肋骨を折られていただろう。
「いい。いいよ、響くん。これだよ。私を響くんが受け入れてくれて、響くんが私だけを見てくれてる。邪魔が入らない二人だけの空間。これが私が求めた時間だよ」
彼女の頭が切れて、血が流れている。壁にぶつけた時に打ったのだ。
「はぁぁ……最高……っ」
流れた血を拭うでも啜るでもなく、顔を伝うままに任せる立花。顎へと血が滴り、地面を濡らした。
それほどの痛みを感じながら、彼女は恍惚とした表情を浮かべていた。ぞくぞくと快感に身を震わせ、極上の愉悦に吐息を漏らす。
以前俺が彼女の首を絞めたときのような反応。彼女が、生きていると感じている証拠。
「中途半端は許されないよ。キミか私か、どっちかが壊れるまでやろうよ、ねえ!」
鋭いフックが飛んでくる。
ほぼノーモーションなうえ、体力を失っていた俺はまともに食らってしまう。
胃の中のものが飛び出てきそうになるが、倒れない。倒れるわけにはいかない。
がむしゃらな大ぶりのパンチを、立花の顔に放つ。
彼女も限界が近く、それを避けられなかった。避けられたとしても受けていただろうが。
口からも血を流す彼女は、笑顔で拳を返してくる。
重い、とても重い。体重を乗せた攻撃が降り注いでくる。
立花は俺を殴る。俺も立花を殴る。
お互い、相手を潰すような一撃を何度も何度もぶつけあう。
容赦というものを一切取っ払った彼女の動きは素早く、強い。
リミッターを外しているからこそ、『レッドライン』はあらゆる人間に対して負けることなく、満足することがなかった。
女子中学生がこんなにまで普通と違ってしまい、それを本人が認めてしまっている。
俺はそのことに罪悪感を覚えてしまっていた。
もしこの世界で生きる目的を……傷つけ、傷つけられる以外の目的を見出させていたら。彼女の異常に気付き、それを与えることが出来ていたら、俺も彼女も今とは違っていただろう。
俺が何もしてやれなかったからこうなっている。
今の俺に出来ることは、今の立花風子に間違った行為をさせないことだ。
間違った答えを正解だと思わせないことだ。
辛抱強く待って、ようやくチャンスが来た。
大きく引いて繰り出されるパンチを、懐に入って逸らす。膝裏を蹴って曲げさせ、その場に跪かせた。
その瞬間に、この戦いの行方が見えたのか、立花はだらりと腕を下ろした。
意を決して、がら空きとなった額を打ち抜く。
「うぁ……」
糸が切れた人形のように、彼女はその場にがくりと倒れた。
痛めつけられるほどに強くなる彼女の身体は、ついに限界を迎えた。まだ続ける気力はあろうとも、身体がそれについていけてない。
立花はずりずりと這いまわったあと、上半身を起こしてようやく止まった。
俺は近づき、彼女の目の前で膝をつく。
フードの影が隠している顔も、これだけ近いとはっきりと見えた。息も絶え絶えに、顔面が血に塗れている。
それを望んだのは立花だが、そうしたのは俺だ。
「いいよ、響くん。キミになら、殺されてもいいから」
彼女は俺の手に自分の手を添えた。そう、添えただけだ。
思う通りの結末を、俺の手で下せと言っている。
「殺して。殺して。殺して。お願い、私に生きてるって実感をちょうだい。私を愛して。響くんの手で殺してよ」
繰り返し全力で殴れば、あるいは首を絞めてしまえば死んでしまうだろう。おそらく、幸福を感じたまま。
だが、そんなことをする気はない。
俺は首を横に振って、彼女の手を握る。
「私じゃダメ?」
なおもしつこく言ってくる立花に、もう一度首を振る。
「無理だ。俺はお前を殺せない。お前じゃ俺の穴を埋められない」
俺は望んでない。俺はお前と一緒じゃない。お前の言うことに納得できない。
立花と最後をともにする未来は、俺の予想図にはない。
お前じゃ、俺の隣にはいられないんだ。俺がお前を、望む未来に連れていけないように。
憑き物が撮れたように、彼女の全身から力が抜けた。
「あーあ、フラれちゃった。や、ずっと拒絶されてたのは知ってるんだけどね」
俺はひどく罪悪感に苛まれた。
彼女に同情しながら、歪んでいると感じながら、それを正すことはできなかった。
できたのは、蛮行を防ぐことだけ。俺自身を守ることだけだった。
「もう、そんな悲しい顔しないでよ。せっかく、せっかくこれで最後にしようと思ってたのに」
痛くて痛くてしょうがないはずなのに、彼女は笑った。
「なのに、そんな顔されちゃ、諦められなくなるじゃん」
力なく、俺は首を横に振る。
「いや、これで終わりだ。もういいだろう」
彼女は返事をしなかった。
自分がねじれてしまった人間だと理解している。
それは、ただ狂ってしまうことよりもつらいのかもしれない。周りの人間と違うことに対しての孤独感を、叩きつけられてしまうから。
その孤独を少しでも癒せたらいいのに……彼女をそのままにして、俺は突き放した。
「兵隊さんが来るよ。異変に気付いたみたいだね」
すんすんと鼻を動かして、立花は注意を促す。
休憩している者が、警備から返事がないことに気が付いたんだろう。
「逃げるぞ」
立花の腕を引っ張り上げて立たせる。
彼女は再び戦闘を仕掛けてくることはなく、素直に従った。
すぐに逃げれば、裏口からすんなり帰れることだろう。
「待て」
去ろうとする俺たちを、失神から目覚めた『蟷螂』が呼び止める。
力が入らなくて床に倒れたまま、目だけはこっちを向いていた。
「また襲ってやる。お前の周りの人間も全員殺してやる。終わらせないぞ、お前が俺を殺すまでな」
「ならどうする。どうしたらいい」
「俺とお前は所詮殺すか殺されるかだ。今やれ。殺せ!」
叫ぶ彼を見て、俺は同情する気にはなれなかった。
彼もまた、どこかで歪んでしまった人間だ。だけど、それは人を殺していい理由にはならない。
おかしくなってしまったから人を殺して、自分はあっさり殺されて終わるなんてのは、あまりにも勝手すぎる。
「断る」
だから、俺は彼の鼻先に顔を近づけて言ってやった。
「俺はお前と同じになるつもりはない。お前の言う通りになるつもりはない」
國枝響はこの男の言うような人間ではない。
俺はそれを証明する。俺のために寄り添ってくれたみんなのためにも、分別のつく人間だと証明する。
みんなと一緒にいていい人間なんだと、優月の隣にいていい人間だと、自分に言い聞かせる。
そのためにはこいつを殺すんじゃなく、行く末を他に委ねる。俺がやるべきことはもうやったのだから。
「俺とお前は違う。そのことを理解するまで……お前には無理かもしれんが、せめてその時まで檻の中にいるんだな」
それが彼に与えられる最大限の罰だ。
俺は『蟷螂』の顔を離し、立花とともに踵を返す。
裏口を出たところで、怒号が響いた。どれだけ怒りを感じようが、あいつにはもう力が残っていない。捕まって、後は法が裁くことになるだろう。彼にとっては一番の屈辱だ。
「本当に殺さないなんて……」
「信じられないか?」
「殺す気もあって、殺せる道具もあるのに。殺す理由も、殺す意義もあったのに」
顔から血を落としながら、立花は当たり前のように言った。
衝動のままに生きてきた彼女にとっては、いまいち理解できないことなのかもしれない。
そんな立花に、俺はあることを話すことにした。
「……去年、いやもう一昨年か。浅野が低俗な嫌がらせを受けてたのを知ってるか? 靴の中に画びょう仕込むとか、机の上に落書きするとかのしょうもないいたずらだよ。犯人は同じクラスの奴だった。浅野の成績に敵わないからって、卑怯な手に出たんだ」
そいつは巧妙だった。
手の込んだ嫌がらせはせず、尻尾を掴ませず、あの浅野ですら特定するのに時間がかかった。
それより前に嗅ぎつけていた俺は、そいつの犯行現場を目撃することに成功した。それまで見つけられるはずもない、ど早朝だ。
だが、先生に突き出そうにも、俺の目撃証言だけじゃ心もとない。のらりくらりとかわされて無罪なんてこともあり得る。
だから、脅しをかけた。
俺だとバレないように服を変え、顔も隠し、忍び寄って殴りつける。恐怖と苦痛を抑止力とした。
「『貌なし』の始まり?」
俺は頷いた。
彼女が聞きたがっていた、俺の……『貌なし』の最初の話だ。
「数か月間、そいつは流動食で過ごすことになった。それ以降は、浅野に危害が加えられることはなくなった」
「けっこう派手にやったんだね」
「手加減のしかたがわからなかったし……それに浅野が嫌がらせされてるのを見て、怒りを抑えられなかった」
浅野にとっては、それほどダメージのない些細なことだったかもしれない。
が、俺が憧れ、尊敬した彼がそんな下らないことで疲労してしまったらと思うとどうにも放っておけなかった。
彼なら、もう少しすればもっと上手い方法で解決していただろうけど。
「その時も殺したいと思ったよ。あと少しで殺しそうだった。でも留まった」
「なんで?」
「怖かったんだ。人の命を奪うこと、友だちに殺人者として見られること、自分の中に殺人という選択肢が増えることが」
『死神』に捕まった時にも言った言葉だ。
人を殺すことが怖い。殺してしまった自分が怖くなる。自分で自分を怖がって、誰の隣にもいられなくなってしまう未来が怖い。
だから不殺を自分に課した。
越えるべきでない絶対の一線を敷いた。
「やっぱり、E組になってからじゃなかったんだ」
『貌なし』と呼ばれる前から同じことをしていたということを、立花は既に感づいていた。彼女が正体を明かしてすぐ、俺が協力を求めた時に。もしかしたらもっと早く気づいていたのかもしれない。
「大切な人を守る『貌なし』。あはは、私だけ守られてる感じしなかったなー」
「守る気なかったんなら、お前のことを止めたりしなかった。『蟷螂』からも、お前自身からも守りたかったんだよ。間違った道を進んでほしくない」
立花は『レッドライン』だ。必要とあらば人を殺せる異常者だ。
その危うさはまだ残っている。危険人物だ、手に負えないと諦めて、『蟷螂』とともにこの施設に置いて逃げる選択肢だってあった。
戦ってる時は、そんな考えすら浮かばなかったけど。だって……
「お前は、俺の大切な友だちなんだから」
立花はしばらく驚いたような顔をしてみせ、それから盛大に息を吐いた。
「そーいうところだよ、響くん」
そういうところってどういうところだ。
ジト目になって、彼女はやれやれと頭を振った。
「なにかが一個違ったら、E組は修羅場状態になってたんだろうなあ……」
あはは、と彼女は苦笑いする。
ころころと表情が変わる姿は、ただの中学生に見えた。実際、そうなのかもしれない。
「なにか一個違ったら響くんは『貌なし』になってなくて、私も『レッドライン』じゃなくなってて……」
名残惜しそうに、立花は潤んだ目で俺を見上げた。
「キミの隣にいるのは、私だったのかも」
それはどうだろうか、と思ったが口には出さないでおく。
現実はこうなって、結果、俺たちはこんな奇妙な関係になってしまっている。それに関しては目を背けてはいけない。
だけど平穏を願っているのなら、立花の中の『レッドライン』もなりを潜めてくれるのではないかと思わずにいられない。
「ねえ、私のことはつきださないの?」
月の光を浴びながら、立花は訊いてきた。
「今回だけだ。今日だけは見逃してやる」
律も堀部も、俺だって変わったんだ。ならこいつが変わらない道理はない。
次に会う時に、少しはまともになっていることを祈って、彼女を押し出す。
「行け。俺の気が変わらないうちに」
立花は何か言いたげな口をぎゅっと結んで、俺に背中を向けた。
違う方向へ、俺も歩みだす。
さあ、戦いはこれからだ。