貴女にあげるよ、口紅を 作:トマトのトマト
賑わいを見せる朝の下町。朝日が心地よく彼の疲れた肌を刺激する。精神的な疲労が抜けていく感覚があって、真魚は気分が良かった。特に考えることもなく、ブラブラと出店を眺めていた。目的の品は無かったが、このまま自宅に帰るのも勿体ない気分だったせいで。
今日の任務も何とかこなすことが出来たのだ。自分に対するご褒美の一つぐらいあってもいいじゃないか。そんな考えが彼の頭をよぎる。かと言って、欲しいものもない彼。ふわっと欠伸をしてのんびりと歩いていた。先ほどまでとは打って変わって、時間が穏やかに流れている。そんな空気が彼は好きだった。
「わぁ、この口紅綺麗な色ですね」
真魚はくるりと振り返り、来た道を戻ろうと歩き出す。
彼の疲れた頭でもよくわかった。あのまま真っ直ぐ進んでいれば、間違いなく面倒なことになると。穏やかな時間を自ら捨てるほど、彼は優しくも無い。道の真ん中でくるりと回ったせいか、周りの人間は不思議そうな顔をしている。
「でも今持ち合わせが無くて……残念です」
彼女に限って、そんなこと。しっかり者のしのぶなのだ。お金を忘れるなんてことは相当珍しい。だが、そういう時に限って自分に火の粉が降りかかってくるもの。真魚は理解していた。気づかないフリをして、一歩、二歩と歩みを進める。
「あ! 良いこと思いつきました」
瞬間、彼は歩くスピードを早めるも、時すでに遅し。
自身の右手をガッチリと掴む者。朝だというのにどこか妖艶な香りのする女性。胡蝶しのぶ。彼女はニッコリと笑って彼の後頭部を見上げていた。
正反対なのが真魚だ。最悪の展開。後ろにいる宿敵は、鬼よりもたちが悪い。顔を合わせなくても、今彼女が笑っていることはよく分かった。
「そこの貴方、立て替えていただけませんか」
「見知らぬ人にそんなこと。貴女は余程世間知らずなんですかね」
「いいではありませんか。人助けと思ってください」
「疲れてるので。他を当たってくださいな」
「私がこんなに言ってるのに……ひどいです。最低です」
彼から言わせて貰えば、ひどいのは明らかに彼女の方。あまりにも理不尽な話である。
ところが。周りの人間から見ればどうだ。力関係が正反対になる。
一人の女性の頼みを蔑ろにする男。それもあからさまに突き放して。周りの視線が真魚に突き刺さる。血が出るのとは違う意味で痛みが全身に走る。ため息を吐きたくても、それでまた視線が痛くなるのは御免だった。
「……最悪だよ本当」
「助かりますっ」
根負け、である。彼は再び振り返り、しのぶの思うがまま道を進む。彼の行動が素直で嬉しかったのか、彼女は彼の手を握ったまま小走りする。しかし、当の本人は気づいていないようだった。
店の前に着くと、女性向けの商品が丁寧に並んでいた。普段なら絶対に見ることがない彼。その商品の高さに変な汗が出てくる。柱である彼女の方が稼いでいるというのに、どうして自分が。彼の心は疲労感で一杯だった。
「この口紅なんですが」
「高っ……」
「いいではありませんか。任務終わりのご褒美ですよ」
「自分で買えよ! 俺はそんな金持ちじゃない!」
「先日買ってくれると言ってくれたじゃないですか」
「……そ、それは」
「約束を破るんですか?」
「だ、だから……」
「あの言葉は嘘だったんですね」
「いやあなた断ったじゃ――――」
「買って、くれますよね?」
気が付けば、彼の手は自身の財布に伸びていた。今の彼女には何を言っても無駄。むしろ下手に反論すれば余計な怪我を負いかねない。大事なのは自身の身体。彼はため息をついて大人しく引き下がった。
確かに先日、彼はそんな提案をした。しかし、彼女は明確に断ったのだ。それだというのに、いきなり自分の前に現れたと思えば、こうしておねだり。真魚は彼女の考えていることがさっぱり分からなかった。
もう一度、彼女が指差した口紅を見る。今しのぶが付けているモノとは全く違う。薔薇の花のように赤い色。言い方は悪いが何処にでも有りそうな色である。それがこんな値段をすること自体、彼には理解出来なかった。
これを彼女が付ければ、今よりも一層妖艶な雰囲気を醸し出すだろう。しかし、彼は考える。何かが違うと。その何か、彼の中で答えはすぐに出た。
しのぶにこの色は
真魚は、こんなことで自分の主観が働いたことに驚いた。適当に決めればいい話であるというのに。
では、どうするのか。「買わない」と突っぱねるのか。彼としてはそれが一番理想だったが、そうすれば自身の身体に傷がつく可能性が高い。それならば、答えは一つだ。
「この髪飾りください」
代わりの物を買えばいいだけ。そう決めた彼は早かった。
辺りを視線で追い、自身が気に入った髪飾りを指差す。しのぶは思いがけない行動に、驚いた様子。言葉が出ない。
そのまま代金を支払う。ひょい、と彼女に差し出すと、しのぶは戸惑いながら受け取る。さっきまで催促していた人間とは別人のようで、真魚は苦笑いを浮かべる。
「ご褒美ですよ。どうぞ」
「……どういうつもりです?」
「いやそれはこっちの台詞です。いきなり呼び止めておいてなんですかね」
しのぶは何も言わない。ただ受け取った髪飾りをジッと見つめていた。彼が買った髪飾りは桜の花びらを象ったもの。しのぶの身に付けている蝶形の髪飾りとは雰囲気が全く違う。
「要らないなら返してください。違う女の子にでもあげますから」
「そんなアテないでしょう? 可哀想なので頂いておきますよ」
「素直にお礼が言えないんですかね貴女は」
「これは私が欲しいと言ったものではありませんから」
「面倒な人だな本当に」
彼は今朝何度目か分からないため息。任務よりもドッと疲れた感覚があった。ああ言えばこう言う状態のしのぶ。これ以上会話すればますます苛ついてしまう、彼は何も言わずにその場を立ち去る。
ところがだ。彼の思惑とは真逆の行動をとるのが彼女。真魚の隣にピタッと並んで歩く。それから数分。ついに真魚の不満が漏れる。
「……あの! なんで隣歩いてるんですかね?」
「なんでと言われましても……蝶屋敷の方角ですから」
「そうじゃなくて!
彼が言う「いつも」。彼女は笑う。
真魚の任務が終わると、ほぼ毎回と言っていいほど彼女が目の前に現れる。それが彼は嫌で嫌で仕方なかった。
肉体的・精神的に疲労困憊だというのに、しのぶは今日のように彼を振り回す。その意図が分からなかったのだ。そのせいで、彼は自分に対する嫌がらせとしか思えなかった。
そして、こうやって並んで帰宅する。ここまでが一つの決まり事のようになっていて。
「仕方ありませんよ。私の担当地域に真魚君の地域も入ってるわけですから」
「にしても異常ですって。ここ最近毎回ですよ? ここまで来たらちょっと怖いです。いやしのぶさんは元から怖いけど」
「まぁ監視も兼ねてますけどね。特に君は私の中で要注意人物ですし。こうやって一言多いのが癪に触ります」
監視、これに尽きた。
柱の担当地域はかなり広範囲になる。その中で、隊士たちが各々の担当を持っている形。彼女の言う通り、偶然彼の地域がしのぶの担当内にあったというだけ。その中で、彼女は特に彼を気にかけていた。
ただでさえ「鬼殺隊を辞めたい」と言い続けているのだ。少しの気の緩みで簡単に死んでしまうのがこの仕事。しのぶはそんな彼が心配だったのだ。ただそれを、素直に言うつもりも全くなくて。むしろ彼を挑発するような言い方になる。
「監視って……俺もやることはやりますから」
「まぁ確かに。仕事ぶりはしっかりしていて素晴らしいと思いますよ」
「なら監視の必要ってあります?」
空気が揺らぐ。彼の言葉がぐうの音の出ないほど正論であることはしのぶにも分かった。思わず
彼は歩みを止めない。しのぶもそれに合わせていたが、その瞬間から少しだけ後ろを歩くようになった。明らかに自身に都合が悪くなった空気感だった。
結局のところ、楽しかったのだ。彼との会話が。任務終わりで荒んだ心が潤うような、そんな感覚。それは真魚も同じで。ただ、互いに恥ずかしさからか、何も言わずそのまま歩みを進める。
朝日は先ほどよりも高くなっている。程よい気温で過ごしやすい気候。二人は無言で歩く。饒舌だったしのぶも黙り込んでしまって、真魚は謎の申し訳なさに襲われる。
「えっと……何かすみません」
ついそんな言葉が口から出る。自分でも何に対しての謝罪なのか分かっていない。それはしのぶも同じ。彼の言葉の意味が理解出来なかった。
「何かって何ですか」
「落ち込んでるように見えたので…」
「別に真魚君は何もしてません。謝る意味が無いですよ」
「任務終わりで疲れてるんです。見逃してください」
これ以上の議論は完全に無駄だった。
互いに疲れが顔に出ていて、今はゆっくりと休みたい気分。それを邪魔したのはしのぶなのだが、真魚はそれを問い詰める気にもなれなかった。
それに。一人で先のことを考えるより、ずっと楽だったのだ。真魚もしのぶも。この先、二人に待ち受けるのは過酷な戦いだけ。だが、互いに話している時だけは、その現実から目を背けることができた。
まるで違う世界に行ったような、フワフワとした感覚。軽口を言い合うだけの関係が、二人はとても心地が良くて。変に依存しているような関係でもあったが、それは今更すぎる話。
「……どうして髪飾りなんですか」
しのぶは思わず問いかける。いつの間にか人混みは抜けていて、彼女の声がよく通る。彼は必要以上に身体に響く感覚を覚えた。
真魚は悩んだ。本音を言うべきかどうか。しかし、それを考えるだけの体力は残っていない。その思考は消えるように頭から抜け落ちた。
「俺も手持ちがなくて。買えなかったんですよ」
しのぶは不満そうな顔をする。元は彼女の発言が理不尽なだけなのだが、妙に説得力のある不満顔。男を悪い気にさせる独特な雰囲気を醸し出していた。無論、彼女にそういうつもりは一切ないのだが。
そんな彼女に、真魚は何も言わなかった。言ったところで、またイタチごっこになるだけ。「良かったら使ってください」と続けるが、恐らく付けることはないだろうと自己完結。しのぶの性格からして、蝶屋敷の誰かに譲ることもあり得た。しかし、彼は別にそれでも良かった。だって、形式的に買っただけなのだから。
「お金、返してくださいね。明日にでも取り立て行きますから」
立て替える、との話だったのに。真魚の願い虚しく、難癖つけられて逃げられたのはまた別の話である。
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