貴女にあげるよ、口紅を 作:トマトのトマト
真魚の「遊郭通い」が噂になっていたのと同時期。その遊郭に鬼が潜伏しているとの情報を音柱・宇髄天元とその三人の妻が掴んでいた。
そして、竈門炭治郎と妹の禰豆子、我妻善逸、嘴平伊之助などの活躍により潜伏していた上弦の陸を撃破。遊郭街は大きな被害を受けたが、少しずつ、少しずつ元の街並みに戻りかけていた。とは言っても、あの妖艶な雰囲気とはかけ離れたまま。それでも、復興しようと大勢の人間たちが日中作業に当たっている。
(まさか本当に来ることになるとは……)
作業に当たっている人々を眺めながら、真魚は考える。
彼だけではなく、鬼殺隊から何名かの隊士がこの場で作業を見守っていた。かなり大きな被害を受けたこともあり、天元が何名かの隊士を派遣したのである。人々の精神的な傷を癒す意味でも、女性隊士を主に。鬼に襲われたという非現実的な現実を受け入れることは容易いことではない。それだというのに、ここの遊郭街で働く者は精神的に芯がしっかりしていて。人間の強さが感じられた。
そんな中で、真魚自身。何故自分が派遣されることになったのか理解していなかった。鬼を狩る目的ではない。夜になれば警戒はするものの、あくまでも任務は「復興を見守る」こと。作業の手伝いをしながら、かれこれ一週間ここで寝泊まりしていた。
だが。彼も男である。遊郭街で一週間も生活していれば、それなりの欲というものが出てきてもおかしくない。街並みは戻りつつあるとは言え、まだまだボロボロ。それでも、この遊郭は不思議な香りに包まれていた。男の欲を駆り立てるような、甘く酸っぱい香りが。天元はそれを分かっていたが、敢えて真魚に依頼した。彼もまた、胡蝶しのぶとの関係性を面白がっている一人なのであった。
夜。建物の屋根に座り、遊郭街を眺める真魚。
日中とは違って、静かさが街を覆っている。今この瞬間。ここが遊郭だと言われて信じる者は誰も居ないだろう。作業していた者は近くの街で寝泊まりしているからか、今ここには鬼殺隊士しか居ない。そこまでする必要が無いようにも見えたが、何せ上弦の鬼の根城だったのだ。念には念を入れての判断。鬼殺隊としての判断なのだ。
だが、この場に鬼が出る雰囲気はしなかった。鬼狩りがいることもあってか、上弦がやられたこともあってか。その理由は定かではないが。
満月が暗闇を照らしている。直りかけの街並み。作業も止まっているため動きが無い。少し飽きてきた彼は他に見るモノもないせいか、月を力無く見上げている。
「……月が綺麗だな」
独り言。静かな街並みに響く。まるでしのぶのよう。
彼女の顔が頭をよぎって、思わず苦笑い。思えば、ここに来てから一度も会っていないのだ。不思議な感覚が彼を襲う。別に会う必要なんてないのだが。
「その言葉には「愛を伝える意味」が込められているそうですよ」
「えっと……雛鶴さん、でしたか」
彼が雛鶴と呼んだ一人の女性。胸元がパックリ空いた薄着。吸い付くような視線を無理やり月に戻す。彼女もまた、真魚と同じような人種である。
女忍、くの一。その中でも特に優秀な一人。そして、天元の妻でもあった。三人いる中で、唯一この場に残って彼らと共に後処理を担当することになった。かと言って、真魚もそんなに話したことはない。名前を確認するように返事をすると、彼女はうっすらと笑う。
「誰のことを想っていたのですか?」
「誰のことも想ってませんよ。独り言です」
「ふふっ。そうでしたか」
茶化すように言う彼女を、真魚は適当に受け流した。
雛鶴もまた、天元の命を受けて遊郭に潜入。鬼の動向を探っていた。一度は危機に瀕したものの「自らの命を守れ」と天元にきつく言われていたこともあり、無事に生き延びることができた。
真魚は不思議だった。あまり話したことのない彼女がいきなり声を掛けてきたのだ。しかもこんな夜に。屋根の上に居る自分にだ。警戒するなと言う方が無理な話。
彼女もまた、鬼殺隊と同じような立場であった。そういう意味では彼の警戒を解くのには立派な理由になるかと考えていたが、現実はそう簡単にいかなかった。
「あの……何か御用ですか?」
「いえ特には。実は私
彼女の気持ちは理解できた。しかし彼は「暇」と言うのは気が引けた。見張りというれっきとした任務を蔑ろにしたくない気持ちがあって。雛鶴が「私も」と言ったあたり、暇しているように見えたのだろう。彼はため息を漏らしたくなる気持ちをグッと堪えた。
忍ではあるが、彼女は穏やかな人だった。受け答えも丁寧で、会話をしていても不快になることは無い。しかし、真魚は嫌だった。天元の妻なのだ。変なこと言えない圧に押しつぶされそうになっていて。
「身体が強張ってる。お疲れなのではありませんか」
「い、いやそんなんじゃ……」
クイっと身体を近づける彼女。彼は真っ直ぐ月だけを眺めていたが、左側を向けば見てくれと言わんばかりの彼女の胸。理性が訴える。ここで見れば色々と終わると。
一方で、本能が呼びかける。誰も見ていないのだ。別に胸を見るぐらい何も無い。それが不貞行為になるのなら、世の中の男たちは生きていけないだろう。
結局理性が負けて、雛鶴の胸に目がいく。その迫力とやら。そのまま視線を上げると、初めて彼女と目が合った。いや、合ってしまった。
綺麗な顔をしている彼女が、ジッと自身の顔を見つめているのだ。恥ずかしさの中に、どこか嬉しさみたいな感情が混じっていて。ゴクリ、と固唾を飲む。喉仏が上下に動く。それに色気を感じたようで、雛鶴の吐息が急に熱っぽくなった。
「え、えっと……雛鶴さん……?」
「少し……抜け駆けしませんか? 二人でゆっくりお話ししたくなりました」
彼は気づいた。彼女から酒の匂いがすることに。
よく見たら頬も赤く染まっていて、ため息。先ほどまで堪えていた分、大きな音がよく響いた。
「雛鶴さん。戻って寝てください。どれだけ飲んだんですか全く……」
「良いではありませんか。気分転換ですよー」
「……なんかしのぶさんみたいだな」
不思議なことに、今隣にいる雛鶴という女性。これが胡蝶しのぶに見てくるのだ。落ち着きのある声と雰囲気、そして話し方。幻覚でも見ているのではないかと、自身を疑う。
ただ、ここは宇髄天元の妻なのだ。万が一、何かを企んでいるとしたら。そんな思いが頭をよぎる。普段はいい加減なところもある天元。後輩隊士からの信頼も厚かったが、それ以上に「イジリ」が凄かった。それを見てゲラゲラ笑うような性格なのだ。
「しのぶさん、って言うんですね。貴方の想い人」
「いや想い人じゃなくて……」
「その人のことが出てくるってことは。今の私がそう見えた、ということではありませんか?」
その通りだった。その通り過ぎて、真魚は何も言い返すことができず。そうこうしている間にも、彼女は少しずつ彼に近づいていた。
しのぶとは違った良い匂いが、真魚の鼻を抜ける。そのまま頭が痺れるような痛み。この遊郭街特有の雰囲気も相まって、理性そのものを破壊してしまうようで。
「しのぶさんだと思ってもらっていいですよ」
「……い……いや……」
「ここじゃアレです。場所を変えましょう。二人でゆっくり話せる場所に」
ゴクリ、と固唾を飲む。二回目。そんな気は無かったというのに、雛鶴は耳元に問いかける。理性は崩壊し、自分が鬼殺隊の任務中だということも忘れてしまって。このまま押し倒してしまおうと身体に力が入った時、急に、急にだ。ガクンと力が抜けた。そのまま倒れ込む。彼は気絶していた。
何故か。雛鶴の右手に握られた簡易注射が、真魚の右足に刺さったのだ。いや、正確には刺した、という方が正しい。
「ヨォヨォ。派手に気絶してんなぁ」
真魚が気絶したことを見計らって、顔を出したのは天元。
上弦との戦いで、左手と左目を失ってしまった彼は、そのまま柱を引退することになった。身体も本調子ではなかったが、わざわざこんなことをさせた理由。それは雛鶴も気になったようで。
「あの天元様。お言葉ですが……こんなことに何の意味があるのでしょうか」
「意味ならあるぞ。面白い物が見られる」
彼としのぶの関係。隊士だけじゃなく、柱にまで知れ渡っていた。そして、それを一番面白おかしく感じていたのが天元だった。
あの胡蝶しのぶが女の顔を見せる相手。それがどんなものか確認したいがために、今回の任務に指名してはみたものの。至って普通の普通。どこにでも居そうな男だったのだ。それにはガッカリした天元だったが、階級は
面白い物。これから彼がすることは一つだけ。このことをしのぶに伝えるのだ。そうすればもう、あの蝶屋敷が爆発してしまうのではないか。それも
「少し可哀想な気もしますが……」
「大丈夫だ。胡蝶の奴もこれで素直になるだろ」
表向きにはそう言うが、天元としては別にそんなことどうでも良かった。二人がくっつこうがそうでなかろうが、関係のない話。ただ単純に、こうすればド派手な祭りが見られると思っただけ。
それに、これから先は任務に行くことが出来ない。元柱として鬼殺隊を支えていく立場になるのだが、それだとどうしてもつまらない。何か一つぐらい面白い物があってもいいではないか。というのが彼の持論。あくまでも持論だ。
天元は自身の鎹鴉を呼び、こう告げる。
「胡蝶に伝えてくれ。『梅咲真魚が宇随天元の妻とド派手に不貞行為に及んだ。処罰はこれから考える』と」
鎹鴉もどこか戸惑ってはいたが、そのまま飛び立って行った。朝には彼女の耳に届くであろう。天元は笑っている。
そうとも知らず、真魚は気絶したまま動かない。この瞬間、彼の任務は終了なのである。そのため天元としても、朝には帰還するよう伝えるつもりだった。そして、そこからが本番なのだ。
「コイツを部屋に運んで俺たちも休むか」
彼らからしても、今日の仕事は終わり。適当に真魚を部屋に運んで、そのまま二人も宿の中に消えて行った。
そして、翌日。
天元から命を受けた鎹鴉が、蝶屋敷に到着する。太陽が登り始めた時間帯ではあったが、窓を開けていたしのぶの部屋。ちょうど隊服に着替え終わった彼女がそこには居た。元柱の鎹鴉が突然来たのだから、彼女もつい身構えてしまう。
「伝令デアル。梅咲真魚ト宇随天元ノ妻ガド派手二不貞行為二及ンダ」
「…………はい?」
「処罰ハコレカラ考エル」
それを伝えるためだけに、ここまで飛んできたのだ。少し気の毒さすら覚える。そのまま、鎹鴉は飛び立って行った。
一人、残されたしのぶ。先ほどの伝令の意味を考える。噛み砕く。
梅咲真魚と宇髄天元の妻がド派手に不貞行為に及んだ。不貞行為。つまりは、男と女の関係。夫がいる相手に対して、性的な行為をした、ということ。
そんなこと、どうでも良い。なんて思いたくても、思えない。フツフツと心の奥底から湧き出る感情。嫌悪感。それが彼女の身体を硬直させていく。それが事実かどうかなんて定かではない。だが、わざわざ鎹鴉を使ってまで伝令するのだ。恐らくは事実なのだろう、と判断。
「ふふ、ふふふ……あらあらあら……」
処罰はこれから考える、とのことだった。
が、彼女の中ではもう決まっていて。震えるように、しのぶは笑う。面白さではない。怒りで笑いが止まらないのは初めてだった。
そうとは知らない真魚。薬でボーッとした頭を掻きながら起き上がる。気が付けば布団の上。昨日屋根の上で監視をしていたところまでは覚えていたが、それからの記憶が無かった。気味の悪さを感じながらも「疲れているのだろう」と自己完結。それほど深くは考えなかった。
だが、修羅場はすぐそこまで来ているのである。
新たに高評価してくださった方々。
・ゆあです。さん
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ありがとうございました。本当励みになります。