ひとりの少女が家路を急いでいる。
空は分厚い雲が積み重なり、凍える寒さが、雨粒と共にアスファルトの大地に広がっていく。
夜は寒さにはしんと静まり返り、吐く息さえ鬱々とした白さを持っていた。
風に吹かれた雨は霏々と流れて、息を切らした少女の肩を濡らす。
雨の中、傘も差さずに走るその少女は、
年齢にしては背が低く、濡れそぼちた黒髪が張り付く顔は、年頃の娘らしい幼さを秘めた豊かな線を描き、よく磨いた
瞳は黒々と澄んでいて、実に可愛らしい顔立ちであった。
閑静な住宅街の四つ辻に行きかかると、不意に彼女が立ち止まる。
街灯の灯りが、ぼうっと道を照らす。
雨粒が輝きながら光の中を斜に過ぎ、水溜まりにいくつもの波紋を作っていく。
その中に、ひとつの奇妙な影法師が映っていた。
黒を基調とした和装という、奇妙な出で立ちの男は、やはり奇妙なことには刀を佩いていて、まさしく侍というに相応しい格好だった。
時代錯誤も甚だしいその姿に、少女はある噂を思い出す。
人斬り鴉。
述べ十五人を斬り殺し、現代の修羅と恐れられた殺人鬼……一年前に姿を消したはずの辻斬りであった。
少女が恐怖で、一歩だけ後退る。
男は静かに、刀を抜く。
鈴の音にも似た音が響き渡り、雨音をかき消した。
沈黙。
耳が痛くなるほどの。
逃げなければと思った。
しかし足がすくんで動けない。
男は刀を上段に構えて今にも振り下ろさんとしているけれど、恐怖で麻痺した脳髄では逃げること叶わず、彼女は目の前にある明確な死の形を、受け入れる以外になかった。
「天誅。怨むならば我が身の不幸を怨め」
くぐもった声が言う。
瞬間、白刃が雨を裂いた。
はたと目が覚める。
目覚まし時計の音が耳をつんざく中で、
悪い夢を見たのだろうか。
お気に入りの
衣服の全てが身体に張り付いて気持ちが悪い。
自慢の毛並みもへたっているし、これでは学校へ行く前に汗を流さなければならないだろう。
疳の虫のようにけたたましく鳴る時計を、乱暴な手つきで叩いて止める。
ベッドからのそりと起き上がり、ピンクのカーテンを開けて、外の日差しを取り込んだ。
よく晴れた冬の空、その美しい蒼穹が、街を愛おしげに見下ろしている。
暗澹とした気持ちですら、さっぱりと洗い流すほどに澄んでいて、陽子は少しだけ気分が良くなった気がした。
なんだか、まだ夢を見ているみたいな気分だった。
どうもはっきりしない頭のまま自分の部屋を見回してみると、枕元には点けっぱなしにされた小型の蛍光スタンドに、読みかけの漫画が放置されていた。
少しだけ頭が冴える。
どうやら昨夜、漫画を読んでいる途中で寝落ちしたらしい。
夢見が悪かったのもそれが原因だ。
蛍光スタンドの灯りで眠りが浅くなり、読んでいた漫画の内容に影響されて、変に悪い夢を見てしまったのだろう。
我知らず、溜め息が出る。
深い疲れを孕んだ溜め息だった。
もう寝る前に漫画を読むのはやめようと誓って、陽子は部屋を出て階段を下り、居間に出る。
早起きの母がテレビを聴き流しながら朝食を作っており、キッチンから漂う匂いが食欲を刺戟した。
「おはよ、母さん」
「おはよう。さっさと顔洗って、ご飯食べちゃいなさい」
「それがさ、ちょっと寝汗かいちゃって。シャワー浴びてからでいい?」
「いいけど、あんまりお湯出さないでね。お金だってばかにならないんだから」
「わかってる。ちょっとだけ、ね」
いつも家計を気にする母の小言に、少しだけ苦笑いしてから洗面所に入った。
パジャマを脱ぎ捨てて、バスルームの引き戸を開けると、冷たい空気が全身を撫でた。
春先の空気に当てられたバスルームは寒くて、踏みしめるタイル張りの床は氷よう。
プラスチックでできたすのこも、踏むのが戸惑われる。
アルミサッシには結露が出来ていて、窓は曇りくすんでいる。この寒さは汗で冷えた身体にはこと悪い。
さっさとしなければ風邪をひいてしまいそうだ。
大きく身震いをしてから急いで蛇口をひねり、シャワーを何度か身体にかければ、少しだけ寒さが和らいできた。
ずっと浴びていたいほど湯を浴びるのは気持ち良いが、あまり長く出していると母に怒られてしまう。
母に文句を言われないうちにさっさとバスルームを出ると、湯冷めしないよう丹念に水気を拭き取って、ドライヤーで髪を乾かす。
お気に入りのフリルの付いた下着を身に着けて、最後に、土日に選択して干してあった紺のセーラー服に袖を通せば、あとは歯を磨くだけだ。
時刻はすでに七時ををまわっていた。少し急がないとまずい時間である。
洗面所を出ると、すでに朝食が用意されていた。
四人掛けの食卓テーブルには、バタートーストと目玉焼き、それと余り物のウィンナーが数個が、一緒の皿に乗せられている。
珈琲はないけれど、かわりに牛乳がマグカップになみなみと注がれていた。
加賀美家では珍しく洋風の朝だった。
「あれ、珍しいね」
指摘すると、母は台所で卵焼きを切り分けながら、
「冷凍のウィンナーが余っちゃってね。ちょうど卵もあったし、せっかくだからトーストにしたのよ」
「へえ……、これって、あたしの分だけ?」
訊けば、母は振り向かずに「そうよ」とだけ答えた。
少し得した気分になる。嬉しくなって、ピンと耳が立つ。
まるでアメリカ人にでもなった気分で、バタートーストにかじりつく。カリカリとしたトーストの触感と、バターの強く豊な味が、口一杯に広がった。
いつもよりちょっぴり優雅な朝食を終えると、不意にインターホンが鳴った。
時刻はすでに八時、友人が迎えに来る時間だった。
「陽子! おはよー!」
玄関のドアーを開けると、朝から元気な声が頭を揺らした。
茶色の髪を短く切り揃えたその少女は、名を
クラスメイトであり、同じ料理部に所属する昭亥は、陽子にとって親友、いや、妹と呼ぶに相応しい存在だ。
「おはよ、アキちゃん。宿題やってきた?」
「やってきたよ、さすがに!」
「ホントに? 数学のやつ、やって来たの?」
「モチのロン! 兄貴に頼んだウチに抜かりはない!」
「アキちゃんって、たまにひっどいズルするよね……。あ、あたしまだ準備終わってないから、ちょっと待ってて」
「りょーかい!」
急いで身支度を整えて外へ出ると、厚手のダッフルコートをものともしない寒風がビュウと吹いて、一本結いにした黒髪を揺らした。
首に巻いた狐色のマフラーも、この寒さにはなすすべもない。
「くぅー、さっむ!」
「ほんとだね。カイロ持ってくればよかったよ」
最近になって、東京はひどく冷え込んでいる。
朝方は特に、布団から出るのも億劫になるほど冷え込んでいて、どうにもやる気の出ない日が続いているし、外を歩く時はコートとマフラーがかかせない。
夜になればアスファルトには霜が降りて、ブーツでも滑ってしまいそうになるから、まったく歩くにも苦労する。
今年に入ってまだ間もないが、最低気温はすでにマイナスに片足を突っ込み、雪がしんしんと降り積む日も多くなった。
去年のオリンピックで熱狂の渦に包まれた日本は、その振り返しみたいに、冷え込む日がずいぶんと増えている。
あんまりにも寒いものだから、早く春になればと思わずにはいられない、なんとも嫌な時期だ。
「明日は試験だね」
「オエー! やだやだ勉強したくない、身体動かしたいー! ……そういえば今日体育あるじゃん! やったー!」
「うえ、あたしそっちの方がやだなあ。今日は何するんだっけ」
「バレーボールだったと思う!」
「バレーかあ……。苦手なんだよねえ、手とか痛くなるし」
「でもさ! スパイク決めた時とかさ、すんごい気持ちいいじゃん!」
「アキちゃんは運動得意だからいいよ。あたしはへたっぴだから、全然」
「かわりに胸でっかいよな、陽子はさ! まだおっきくなったんじゃない?」
「ちょ、やめてよ! 声おっきいって!」
他愛ない話をしながら、いつもと変わらぬ通学路を歩く。
住宅街を抜けた先にある表の大通りは、騒がしさの中に陰鬱さを秘めた空気で満ちていた。
ここの大通りの空気は、人並以上に鼻の良い陽子にとって、排気ガスの臭いが実に辛い。
長いことこの街に住んでいるけれど、どうしても慣れない臭いだ。
我慢できないほどではないが、車の通りが多い場所には長居したくないと思う。
並び立つビオフィスビルと、縦横に空を走る真っ黒な電線は、カンと冷えた空気に当てられてか、どこか寒々しい印象を受ける。
自動車は濛々と排気ガスを吐き出しながら行きかい、それに混じって、路面電車がゴトゴトと走っていた。
人々もこの寒さには、しかめっ面ばかり。開いたばかりの商店たちも、どこか物鬱気な店構えだ。
「あれ、狐がいる! めずらしー!」
「え? あ、ホントだね」
街角でぼうっとしている鵺や、空をひらひらと舞う一反木綿、そして二人の目の前を横切った散歩中のお稲荷様も、どこか寒そうにしていた。
バスに揺られること数分。
学校に着くと、にわかに熱気が渦を巻いて、二人の頬を撫でた。
正門は登校して来た生徒たちでごった返していて、二つあるグラウンドからは、朝練をする運動部員たちの気合が入った声が響く。
二人が通う女月神高等学校は、この地区でもかなり有名な学校だ。
郊外に建てられたここは、多くの教室と広い校庭を保有するマンモス校で、特に野球やサッカーなどのスポーツに力を入れている。
声の大きさも、実力も、地区一位だ。
エントランスホールで靴を履き替え、教室のある二階へ上がると、喧騒は耳を突き破らんばかりに大きくなった。
この寒さに負けない威勢の良さで、クラスメイト達はおしゃべりに興じている。
話題はいろいろだが、もっとも口にされるのは、やはり夜な夜な現れる和装の男の噂だった。
夜の街に現れる和装の男。
去年の初め頃までその兇刃を振るっていた殺人鬼、人斬り鴉の正体と見られる男は、特に近頃、目撃が相次いでいた。
出没場所は街の各地で、いかなる目的で現れるのかも不明。
そもそも和装以外の詳細な人物像さえわかっていない。
都市伝説めいたその存在は、話好きで噂好きの少年少女たちにとって、実に興味深い話なのである。
「みんな好きだよね」
「事件まだ解決してないからね! 気になってるんだよ!」
「でも、関係あるとは限らないよ。ただの幽霊かも」
「それはそれで面白いじゃん! 幽霊が見られるなんてさ!」
「……そうでもないよ、幽霊なんて」
しかし陽子にとっては、和装の男の正体、実に惹かれない話だ。
幽霊なんて特にくだらない。
どうせ最初のひとりが、たまたまが見えてしまった雑霊の話に、大きな尾ひれが付けた結果なのだろう。
七十五日もすれば、誰も口にしなくなる。
人斬り鴉の話にしたってそうだ。
十人以上を斬り殺しておきながら捕まらないなんて、あまりにもおかしな話である。
表には出ていないだけで、警察はすでに正体を掴んでいるに違いない。
だから去年には犯行がパタリと止んだのだ。
噂話なんて、時間の無駄しかない。
「それよりさ」
話題を変えたくて、陽子は思い出したように言う。
「今日は部活する? ほら、先輩に卒業祝いでクッキーつくったじゃない、あの時の材料がまだ余ってて。腐らせるのももったいないから、どうかなって」
「おおー、いいね! 今日はバイト休みだから、いっぱいクッキー作れるぞ!」
朝だというのに、もう放課後の相談をしている二人は、自分の座席に着くなりどんなクッキーを作ろうかと顔を突き合わせた。
色気より食い気、花より団子がこの二人の信条である。
自分の胃袋より大事なモノはないのだ。
しばらくして先生が教室に入ってくると、朝礼の後にようやく授業が始まった。
とはいえ、授業の内容は陽子にとって昔に聞いた話ばかりで、耳をそばだてて聞く必要はない。
暇を持て余すばかりなので、彼女は教科書を隠れ蓑にして小説を読むなどしていた。
昼休みになると、昭亥と一緒に学食で昼食を摂るのが、陽子の日課だ。
「陽子、いっつもきつねうどんだよね!」
「お揚げが好きなんだ」
午後になると体育の授業である。
教室で体操着に着替えて、離れの体育館へ向かう。
運動が苦手な陽子にとっては、憂鬱な時間でしかなくて、足取りは重たい。
自慢の毛並みもなんとなくへたってしまう。
特に加減が難しい球技となれば、やる気はマイナスへ振り切るというもの。
「よっし、やるぞー!」
「ほんと、運動好きだよね。アキちゃんは」
「だってさだってさ! 楽しいじゃん! なんて言うかこう……自由に動けて、ノビノビできるっていうか! 勉強するよりずっと有意義だーって思っちゃうんだよ!」
尻に食い込んだ体操着を直しながら、陽子は肩を落とす。
対照的に昭亥はまるで幼子みたいにはしゃいでいる。
家庭の経済的な理由で運動部に所属できないのが、余計に昭亥の運動好きを加速させているらしかった。
「まあ、わからなくはないけれどね……痛いのはやだけど」
陽子は運動嫌いだけれど、身体を動かす楽しさはわかるつもりだ。
ただ、運動に付属する痛みが嫌いなだけで。
溜め息混じりに、僅か開かれた非常口から外と見れば、はにわかに雨が降り出していた。
今朝の天気予報では終日晴れと言っていたけれど、どうやら外れてしまったらしい。傘を持ってきていないから、帰りが少しだけ心配になる。
「いっくぞー、陽子! ちゃんとボール返してよね!」
「アキちゃんこそ、急にスパイク撃ったりしないでよ?」
さしていつもと変わらぬ風景。
陽子は今朝に見た夢のことを忘れ、ボールを受け止めながら笑った。
それからしばらくして、放課後。
部活を終えた陽子は、家路を急いでいた。
学校を出るのが、遅くなってしまった。クッキーを作るのに、少し時間をかけ過ぎたのだ。
お揚げをつまみ食いして、先生に怒られたりしたのがマズかった。
時刻は既に十九時を回っていて、早く帰らなければ夕食を食べそびれてしまう。
夜の住宅街は、氷雨が降りしきっていた。
霏々と流れる雨は陽子の全身を濡らし、身体の芯から底冷えさせる。
気温も朝に比べてぐっと低くなっているから、さっさと帰らなければ風邪をひいてしまいかねない。
今日に限って折り畳み傘を持っていかなかったのを、陽子はひどく後悔した。
しばらく道を行くと、突然、奇妙な錯覚に陥った。
毎日通っている道のはずなのに、何故だか変に静かで、恐々としている。
デジャヴと言われるものと似ているが、それにしては、あまりにもおどろおどろしい雰囲気だった。
予感はついに頭痛にまで発展して、何事かを訴えかけてきたから、陽子は立ち止まって片手で頭を押さえてしまう。
いったいなんだろう、風邪でも引いてしまったのだろうか。と、痛みを堪えて顔を上げた時、はたと気が付く。
街灯が照らす四つ辻。
今朝に見た悪夢の断片が蘇る。
この後は確か、そう。和装の男が現れて、その兇刃を振るい、そして……。
はたして予想は当たっていた。
街灯のか細い明りの下に、ぬっと影法師が姿を現す。
黒を基調とした和服。
腰に差した日本刀。
目深に被った旅笠。
夢で見た男の姿によく似ていた。
ひゅっと息が止まった。
喉奥が引きつって全身が粟立つ。
腹の底から言い知れぬ感情が沸き立ち、思考が恐怖に染まっていく。
真っ青になって、目を真ん丸に見開いた。
濃密な殺気が、陽子の手足に絡みつく。
腥い血臭が鼻孔を刺戟して、吐き気を誘う。
数瞬。
いや数秒。
数時間かもしれない。
永遠にも思えるような、耳が痛くなる沈黙の中で、男が刀を抜いた。
鈴のような音が、雨音を一瞬だけ掻き消した。
「────」
冷たい声が言う。
何と言っているのか、恐怖で麻痺した陽子には聞こえなかった。
今にも振り下ろさんと構えられた刀の、鈍色の輝きが瞳を射抜き、視界が僅かに歪む。
自分が立っているのか、倒れているのかさえ、わからなくなる。
「ぁ……っ!」
声が出た。
引きつった喉から、やっと絞り出した掠れ声。
けれどそのおかげでやっと脳に酸素が回って、全身の感覚が戻る。
復活した思考が急速に回転する。
「ま、待って!」
陽子はとっさに声を上げた。
ほとんど悲鳴に近い叫びに、男はぴたりと動きを止めた。
慈悲の心でも見せるというのか。何にせよ、これ幸い、陽子は続けざまに問うた。
「貴方は、誰ですか……何が目的なんですか……」
ほとんど出任せではあったけれど、男は冥途の土産のつもりなのか、彼女の問いについと答えた。
「
「あや、かし……」
一般人には見えないはずの妖、しかし、陽子にはとって身近な存在だ。
今朝だって何体かの妖を見かけたし、稲荷様ともすれ違った。それに”陽子自身”にも関係がある。
この侍然とした男、甘粕弾正嘉平は、それらを斬っていると臆面もなく言う。
「貴方は、見えるんですか……?」
再び問えば、彼はしかと頷く。
「然り」
ごくりと唾を飲み込む。
彼には見えているのだ。
「人に化けたとて無意味である、”狐”」
陽子の”耳”や”尻尾”が。