妖狐の陽子と人斬り鴉   作:四十九院暁美

10 / 11
妖狐の陽子は鴉と戦う

 愉悦の声が、頭に響く。

 失念していた。

 何故、工場に空間拡張術がかけられていたのか。

 何故、この場に結界があったのか。

 名も力も失った鴉は、神通力を使えない。にもかかわらず、昭亥は結界に覆われていた。それはつまり、新たな名を得て力を得たということ。

 天狗モドキは”人斬り鴉”の異名を、自身の新たな名として手に入れていたのだ。

 辻斬りによって異名を取り、証拠を残すことで印象を固定し、一年だけ隠れ潜むことで価値を高め、誰もが恐怖を忘れかけた頃に、満を持して再び斬った。姿の見えぬ殺人鬼の帰還は、世界から向けられる恐れと関心を一挙に集めて、そして、”人斬り鴉”の異名は真なる名として形になった。

 全ては、鴉の手の上だった。

 

「……味な真似をする」

 

 ふらりと立ち上がる嘉平が、怒気を爆発させた。  

 あれほどの高所から落とされらというに、怪我のひとつも負っていない彼の瞳は、結界の中でうずくまる陽子と昭亥に向けられていた。助けるべきか、見捨てるべきか、迷っているのだろうか。わからないが、その瞳は確かにこちらを射抜いていた。

 

「……に……げ、て……ッ」

 

 喉奥から絞り出して叫んだ。掠れてほとんど聞こえない、小さな悲鳴を上げて訴えた。

 

「断る」

 

 視線を逸らすことなく、嘉平は凛然と刀を構えた。囁きにすら満たない音だったが、聞こえていたらしい。あまりにも愚かな選択だ。彼我の差を考えれば、自殺に等しい行いだった。

 剣戟が響く。

 人の身でありながら、神通力を取り戻した天狗には決して届かないにもかかわらず、その刃を振るい続ける。剣閃を掻い潜り、せめて一太刀でも浴びせんとしている。

 

「見上げた蛮勇よ」

 

 鴉が嗤い、左腕を振るった。

 突風が吹き荒び、彼の身体を叩きのめす。呻き声のひとつも上げられないまま、彼は地面に転がされてしまう。それでもなお立ち上がり、再び鴉に斬りかかった。

 弄ばれてボロボロになりながら、しかし決して諦めずにいる。こんな妖なぞ放っておけばいいのに、どうして、逃げずに立ち向かう。陽子にはわからなかった。彼の神威がわからなかった。

 やがて。

 

「斬ること能わず。心身伴わぬその刃、しかして無為也。疾くと死に候え」

 

 鴉も相手するのに飽きたのか、ぞんざいに野太刀で薙いだ。振るわれた白刃は一切のブレなく、嘉平を刀ごと引き裂かんと迫った。

 その時、嘉平は。

 

「加賀美陽子」

 

 どこか穏やかな笑みを浮かべて。

 

「嘘は、吐かないのだろう?」

 

 刀を渾身の力をもって放り投げた。

 陽子の瞳には、なにもかもがやけに遅く見えた。

 こちらに飛んできた刀が、結界に突き刺さった。

 横一文字に斬り裂かれて、嘉平の上半身が吹き飛んだ。

 扉が開いて、男女三人組が大部屋に入ってきた。

 嗚呼、息が漏れ出す。声にならない慟哭が、全身を震わせる。目の前が霞んで、黒く染まって、まともに見ていられない。結界の割れる音も聞こえず、何もかもがはるか遠くの世界の出来事に思えた。

 嘉平が犠牲になる必要はなかった。

 鴉は力を取り戻したとはいえ、名を得たばかりではまだ力を十全に震えない。

 しかも驕り高ぶっていたから、逃げる隙はいくらでもあったはずだ。

 結界に囚われた陽子と昭亥もそう、昭亥は鴉にとって人質だから殺されることはないだろう。

 陽子は放置すれば死ぬかもしれないが、妖の命なんてものは人の命よりはよほど軽い。彼にしてみれば無視して良い存在のはずだった。

 それなのに、彼は自らの命を投げうった。はたしてそれが何を意味するのか、陽子のはまだ理解できなかった。

 何故。

 どうして。

 疑問ばかりを浮かべながら、分かたれた嘉平の上半身を見つめる。ぐったりと瞳は閉じて、無心な彼はピクリとも動かない。

 もう彼と話すこともできないのだろうか。失意に沈む中、彼の姿をじっと見つめていた。

 その時、はっと気が付く。

 血が出ていない。

 身体を上下に分かたれたというに、嘉平の身体からは内臓どころか血の一滴も出ていない。まるで、初めから空洞であったように、白色にくすんだ断面が覗くばかりで、何もない。

 人でありながら、人でない。

 幽霊のようで、しかし確かな実態がある。

 すなわち、屍解仙。

 それは人の身でありながら、幽鬼の身となった者を指す。

 寿命では死なず、強靭なる精神の続く限り生き続ける彼らは、身体を持った幽霊とも言える存在だ。

 思えば彼を指して向けられた、心身が伴っていない。心が別の場所に向いている。

 これらの言葉は、肉体が精神に追い付いていないという意味なのだろう。そう思えば、なるほど、納得がいくというものだ。

 彼はまだ死んでいない。

 麻痺していた思考が、急激に動き出す。

 彼は何を伝えようとしていた、どうして逃げずに鴉に立ち向かった。

 チリッ、と火花が散った。

 鴉は随分と嘉平を弄んでいたが、片手で足りるほどしか神通力は使っていなかった本当に力を取り戻しているのなら、もっと大規模な妖術を使って、陽子たちを一気に殺せたはず。

 それをせずにあえて人質を取り、結界に閉じ込めて力を吸い取った。それはつまり、満足な力を得られていないということ。

 今の鴉ならば、勝てるかもしれない。

 一抹の希望を掴みかけて、しかし、陽子の中の冷静な部部が警鐘を鳴らした。

 逃げるべきだ。

 陽子はすでに力の半分以上を失っている。

 立ち向かったところで勝てるはずはなく、無意味に敗北することにしかならないし、昭亥をこのまま放置するわけにもいかない、すぐにでも安全な場所へ運ぶべきだ。

 嘉平の二の舞になっては、それこそ顔向けができないというもの。

 それでも。

 この湧き上がる憤怒をどうしたらいいのか、彼女には見当がつかなかった。

 自分の不甲斐なさが情けなくて、嘉平の無茶が許せなくて。

 奪われたのに、仕返しのひとつもできないまま逃げ出すのが許せなくて。

 気が付けば陽子は立ち上がっていた。

 四肢を人の形に変化して、鴉の喉笛を斬り裂かんと決意した。

 自分が冷静でないことは自覚している。

 だが、抑えきれないのだ。愚かな奴だと誹られようとも、哀れな奴だと蔑まれようとも、あの鴉に一矢報いねば気が済まない。

 今まで生きてきた中で最も強い、理由のわからぬ怒りが、彼女の身と思考を焼いていた。

 転がっていた嘉平の刀を拾い、右手に嘉平の刀を、左手に鴉切六紋を構えた。

 雄叫び。

 そして、蹴り。

 おおよそ怒りに任せた一撃は、油断しきった鴉の腹に突き刺さり、壁を突き破ってなお衰えぬほどの勢いで吹き飛ばす。

 怒りによって増幅した力は、本来以上の力を彼女に与えていた。

 壁に開いた大穴から、月光が差し込む。

 

「ょぅ……こ……?」

 

 背後で、昭亥の声をあげた。

 弱々しいけれど、意識のはっきりとした声だった。

 人とも狐ともつかない奇妙な姿をしかと見られている。彼女はどう思っているのか、少しだけ気になってしまうが、今はそれを気にしている余裕はない。

 

「ごめんね、アキちゃん。行ってくる」

 

 顔を向けないまま、陽子はそれだけを言い残して外へ飛び出した。

 

「な、何故……拙僧が……」

 

 困惑の声と共に血を吐いた鴉が、野太刀を支えに立ち上がる。自分がこれほどまでのダメージを負ったのが、信じられないらしい。

 

「名を取り戻したとはいえ、所詮は急ごしらえ。妖を圧倒するほどの力はないようですね、天狗モドキ」

 

 冷徹に、無慈悲に、陽子が告げる。

 名を取り戻し、力を取り戻したからと、全盛期に戻るはずもない。力とは長い時間をかけて培われ、蓄えられるもの。名を得たばかりなのだから、当然その神通力も弱く、真に強いのは己の極めし武のみだ。 

 

「なかなかに策士でしたが、策に溺れる。見誤りましたね?」

 

「ほざくな、畜生風情が」

 

「弱い人間ばかりを斬ってきたゆえに、自身の力量と相手の力量を測る目を失った。なまじ力を取り戻してしまったから、油断をしてこうなったんですよ」

 

 挑発の言葉を投げると、鴉は野太刀を振り上げる。

 袈裟懸けの一太刀。躱して、鴉切六紋で右翼を斬り裂く。

 黒い羽根が舞い散り、薄く積もった雪の上に翼が落ちた。

 

「これでもう飛べません。自慢の翼もこの通り、迷い家の時みたいに逃げることはできませんよ」

 

 底冷えするほど冷たく言う。

 今度こそ本当に悔しさで顔を歪める鴉を見て、少しばかり溜飲が下がっていく。

 こういう策を弄する相手は、冷静さを奪い考える暇を無くすのが最善だ。挑発を繰り返し、激高させて、思考を限定させる。

 陽子自身そういう類だし、さっきまで鴉にやられていたことだから、どれほど効果的かよくわかっていた。

 

「男らしく戦いなさい」

 

 歯を剥き出しにして鴉が呻く。目を血走らせ、地団駄でも踏みそうなくらいに怒り狂って、今にも飛びかからんとしている。このまま行けば、少なくとも相打ちには持っていけるだろうと思えた。

 しかし。

 

「ヒ、ヒヒヒ……拙僧としたことが、矮小な畜生相手に、本気を出すところだったわ」

 

「本気を出しても勝てないの間違いでは?」

 

 嘲り笑うと、鴉もまた嘲り笑った。

 考えていることはわかる。昭亥を人質にしてなにかしようというのだろう。狡猾なことに、こちらに防ぐ手がないのをわかっている。

 数秒の膠着。

 鴉が昭亥の下へ向かおうと地を蹴ると、陽子も続けて飛び出した。

 

「動くなっ、畜生めが」

 

 先に辿り着いたのは鴉だった。 

 野太刀の切っ先を昭亥に向けて、すぐにでも命を絶てる姿勢にある。やはり腐っても天狗、追随を許さない足の速さであった。

 

「よくもやってくれたが、ヒヒヒ、これで手も出せまい」

 

 勝ち誇った顔に立ち止まる。十メートル前後の距離で、両者は二たっび退治した。

 昭亥は、鴉が見えているのだろうか、さっきよりは明確に怯えた様子で視線を走らせている。鴉の立っている場所と、陽子の立っている場所へ、忙しなく瞳を向けて口をまごつかせていた。

 

「よ、ようこ……?」

 

 震えた声に、陽子はわずか言葉に詰まる。

 最悪な状況で、最悪な場面で、親友にこの姿を見られてしまった。さっきまでの意識も朧気なままならば、気のせいだと誤魔化して先延ばしにできただろうが、まったくままならぬものである。

 

「……その子から離れなさい」

 

 数瞬の沈黙。

 

「友情か、美しい物よな」

 

 鴉が口を開いた。嘲りと侮蔑の混じった視線で陽子を睨み、さもおかしそうに笑い声を上げた。

 

「人と妖に友愛など非ず。人に紛れるための欺瞞、人に近付くための虚栄こそ、人と妖の真なる在り方よ」

 

「な、なんなの……何言ってるの……?」

 

「ヒヒヒ。哀れなり人の子、狐に化かされたことにも気付かぬか」

 

「アキちゃんッ」

 

 唇を噛んだ陽子を見て、鴉は変に笑った。

 

「では、この鴉が懇切丁寧に教えてやろう。小娘、御主はそこな狐に化かされておったのだ。あれは人ではない、醜い、醜い、化け狐。友を騙る人外の化け物よ。汝はあれに関わったゆえ狙われたのだぞ……矮小な狐め、身の程を弁えぬからこうなるのだッ」

 

 唾を飛ばして叫ぶ鴉は、そうしてまた変に笑った。

 哄笑だけが場を満たしていく。鴉の勝ち誇った顔が、二人を舐めるように眺めていた。この期に及んでまだ逃げられると思っているらしい。

 

「アキちゃん。少しだけ、目を瞑ってて」

 

 陽子はただ、優しく笑いかけた。

 巻き込まれただけの昭亥に、これ以上のショックを与えたくはない。妖同士の殺し合い、ただでさえ直視し難い自分の姿が、血で汚れていく様を、見て欲しくなかった。

 けれど。

 

「……ウチ、信じてるから!」

 

 真っ直ぐな言葉で、昭亥は告げた。

 彼女は目を閉じることはなく、静かに、陽子の目をしかと見つめ続けた。揺れる瞳には迷いがあった。恐怖もあった。それでも、絶対に目を逸らすことだけはしない。それは、どんな姿であろうと親友を受け入れる、という決意と覚悟の表れに他ならなかった。

 陽子は身体が軽くなるのを感じた。心が楽になるのを感じた。

 背負っていた重い荷物を下ろしたみたいな解放感が全身を駆け抜けて、何物にも代え難い高揚感が腹の底からせり上がってくる。

 明かしてしまえば、なんと呆気ないものか。正体が露見することを過剰なまでに恐れていた自分が、なんだか馬鹿らしくなってしまった。

 

「信じる? 信じるだと? ヒヒヒ、おいたわしや人の子め。信じたところで無意味よ、畜生風情に何ができる」

 

 確かに言うとおり、人質を取られた状態では手も足も出せない。下手を打てば昭亥が殺されてしまう。

 されどこれは窮地に非ず。陽子にはひとつだけ、根拠なき考えではあるけれど、何故だか絶対の確信があった。

 

「ひとつ、訊かせてください」

 

 唐突に。 

 驚くほど唐突に、陽子は問うた。

 

「貴方は迷い家に、何をしに行ったのですか」

 

「これはまた、妙な問いかけをする。だがそうさなあ、興が乗ったゆえ答えてやろう。あの家を覆う結界術を模倣せんとして向かった。思うたほどではなかったが……ヒヒヒ、畜生小屋を作る程度は苦もなく、造作もない」

 

「迷い家から持ち出したものは、ないと」

 

「あのようなあばら家から何を持ち出せというのだ」

 

 質問の意味がわからず、鴉は嘲りの笑みをさらに深くした。自暴自棄でもなったのだと思ったことだろう。

 しかし、陽子は真面目だった。これ以上にないほど真剣に、正確に、質問の意味とその答えを理解していた。

 

「なるほど」

 

 答えを聞いた陽子は、安心と憐れみの色を顔面に滲ませる。

 そして、右手の刀をすいと振り上げて。

 

「なら、安心して斬れますね」

 

 残忍な笑みを浮かべると、一歩を踏み出した。

 余裕から一変、焦りが鴉の顔を歪ませる。人質がいるこの状況で攻め込むなど、想像もしていなかったに違いない。

 

「愚か者め」

 

 吐き捨てるように呟き、神通力を使って風を起こし陽子を吹き飛ばす。反撃を予想していた陽子は、直前で後ろに下がることで、宙に飛ばされはしたが態勢は崩さずに着地する。 

 

「畜生風情が拙僧に楯突いた報いを受けるが良いッ」

 

 そして怒号と共に、鴉が野太刀を振り下ろした。

 

「うぅッ!」

 

 恐怖から目を背けるように、昭亥は瞳を閉じる。

 あわや首が飛ぶかと思われた、その時だった。

 

「天網恢恢、疎にして漏らさず」

 

 陽子の呟きがこだまして、それと呼応するように、昭亥の上衣が強烈な輝きを放った。

 まるで質量を持ったような強い光は、彼女の全身を包み込むと、鴉の野太刀を受け止め、押し返し、弾き飛ばす。

 お守りだ。お守りが護った。

 昭亥に渡したあのお守りがあることを、陽子は憶えていた。あれは迷い家からの贈り物、退魔のお守りだ。悪意を退け害を断つ効果は、まさしく折り紙付きと言えよう。はたして最高の結果を生み出した。

 声も出せないほどの驚愕によって、鴉は刀を手放した恰好のままピタリと動きを止めてしまう。

 それが鴉の致命だった。

 

「冥途の土産に、教えてあげましょう。鴉切六紋、この脇差の由来を」

 

 無言で放たれた一撃が、鴉の胴に深々と突き刺さり、色の悪い血飛沫が陽子の左腕を濡らす。

 

「お、おのれ……」

 

 弱々しく両肩を掴まれた陽子は、鴉を見上げて獰猛に嗤う。

 そのまま力任せに、ゆっくり、ゆっくりと、腹に捩じりながら押し込む。ついに刃が背まで貫き達する感触が左手に伝わった。

 

「この脇差はですね、師匠が昔に鴉天狗を斬った脇差なんです。六つの波紋が美しい鴉を斬った刀……だから鴉切六紋。元鴉天狗の貴方にピッタリでしょう?」

 

 獸らしい凄惨さで、横一文字に掻っ捌く。臓物と共に噴き出した血が陽子の顔を汚して、悍ましくも妖しい化粧を施した。それは人としての陽子ではなく、妖としての陽子の姿を強調する。

 呻き声しか上げられない鴉が、たたらを踏んで後退る。その顔には驚愕と困惑、憤怒と憎悪が代わる代わる現れては消えていた。

 

「人斬り鴉」

 

 妖らしい熱の籠った息を吐いて、陽子は右手の刀を振りかぶり。

 

「ただ殺すなんて生易しいことはしません」

 

 一転して笑みを消すと、底冷えする冷たさの声で告げる。

 

「無間地獄の果に消えなさい」

 

 躊躇いなく振り下ろされた殺生石の刀は、いとも容易く身体を左右に斬り裂く。哀れ呪詛のひとつも言えず、ボロボロと炭になって鴉は消えていき、最後には静寂だけが残った。

 妖とて死すれば地獄に堕ちる。日本に恐怖を知らしめた人斬り鴉であれば、地獄の底の底、無間地獄へ向かうだろう。悟りを開けぬまま六道をはずれ、転生すらもできぬ鴉は、殺生石の効果によって二度と現世へ戻ることも叶わない。真に永劫の責め苦を受け続けるのだ。

 

「お、終わった……の……?」

 

 怯えて掠れた声の昭亥が言う。

 はたと気が付く。妖から人のそれに戻った陽子は、慌てて刀を放り出すと昭亥に抱きついた。

 

「ああ、アキちゃん! 大丈夫、怪我はない?」

 

「う、うん……」

 

「よかったあ。えへへ、安心したら涙出てきちゃった」

 

 血塗れの手で頬を拭う。寒い思いも、恐い思いもさせてしまったけれど、大きな怪我がなくて何よりだ。安心して腰が抜けてしまいそうになる。

 

「陽子、その、さっきのは……?」

 

 問われて、すんと鼻をすすってから答えた。

 

「ごめんね。ちゃんと説明するから、だから少しだけ待ってて」

 

 名残り惜しくも立ち上がる。陽子にはまだ、やらなければならないことがあった。

 涙を振り払って立ち上がり、真っ直ぐと歩いて行く。たった数歩ほどの距離ではあったけれど、しっかりとした足取りで、悲しみを踏みしめるように歩いて行く。やがて、陽子が辿り着いたのは、消えかかった嘉平の上半身の前だった。

 

「嘉平さん」

 

 しゃがみ込んで、声をかけた。

 

「……狐」

 

 彼は静かに答えた。

 

「あたし、鴉をやっつけましたよ」

「ああ」

「貴方の仇を取りました」

「そうか」

「相変わらずぶっきらぼうですね、でも嫌いじゃないですよ。貴方のそういうところ」

「……ああ」

「むしろ好きです。嘘は吐けない、なんて言いましたけど。母さんに好きなんでしょって訊かれて、思わず否定しちゃってですね……嘘、吐いちゃいました。てへっ!」

「……そうか」

「いや、最初はとっても恐かったんですよ? でも、貴方の優しさに触れていくうちに、自分でも気づかないうちに、好きになっちゃいました」

「……」

「おかしいですよね! たった数週間しか会ってないのに、こんなに好きになっちゃうなんて! でも、仕方ないじゃないですか……妖だってわかってるのに、なんでもない感じで接して、優しくするんですから。知ってますか? そういう人って全然いないんですよ、みんな怖がって逃げちゃうんですから。だから、嘉平さんみたいな人は貴重で……だから……だから仕方ないんです!」

 

 言い聞かせるみたいな口調でまくし立てて、さも困った風に笑う。嘉平は何も言わず、ただ陽子から目をそらさずにいた。

 

「好きだったんですよ?」

 

「……ああ」

 

「すき、だったんです……っ」

 

 溢れ出た涙を乱暴に拭った。これ以上は話したところで未練になってしまう。彼もそれをわかっているのか、最期に、罪を告白するように陽子へ告げた。

 

「お前は妹に似ていた……だが、それだけで傍に置いたわけではない……」

 

「っ、はい」

 

 嘉平の言葉は少なかったが、それだけでも陽子には理解できる。

 彼もまた陽子の優しさに絆されていた。最初は妹に似ているからと接していたが、その妖からぬ性格に感化されてしまったのだ。いつからかはわからないけれど、彼が陽子を仲間と思ってるのは確かだった。

 

「ありがとう、そして、さようなら」

 

 すっくと立ち上がって、背を向ける。

 

「ああ、さらばだ」

 

 そっけなくて、けれど温かな声で、嘉平は言った。その顔にはきっと、ついぞ見せてくれなかった笑みが浮かんでいたのだろう。

 陽子は振り向かずに一歩を踏み出した。

 彼への想いは、ここで終わらせなければならない。妖は出会いと別れを繰り返す生き物だ。いつまでも死者への気持ちを引き摺っていては、そのうちに重さで潰れて生きていられなくなる。だからこそ、ここで終わらせなければならなかった。

 背後で音がした。

 扉が乱暴に開く音。

 何かが崩れていく音。

 誰かの足音、誰かの声。

 陽子は振り向かずに歩いていた。

 大切な親友の下に、帰るために。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。