切っ先を鼻先に突き付けられて、陽子は尻尾の毛が逆立つのを感じた。
彼の言う通り、陽子の正体は狐である。
正確には
おおよそ三百年は生きてきた若輩者だけれど、ちゃんと人としての戸籍もある。
お役所勤めで知り合いの鬼に作ってもらった戸籍だ。
今の家族は養子縁組だから、何か後ろ暗いこともしていない。
いわゆる”
「あ、あたし、悪いこと何も……、何もしてません。人のふりをして、生きてきましたけど、でも人を騙したりなんて。そんなこと”してはいけない”んです!」
どれだけ言っても、甘粕弾正嘉平は頑なだ。
決して相容れぬとして刀を下ろさず、殺気を漲らせて構えている。
だが陽子は諦めなかった。
いまだに強い恐怖の感情が心中に渦巻いているけれど、人であるならば、言葉が通じるならば、話し合いで解決できるかもしれない。
今までもそうだったのだから、この男とも和解できるはずだと、陽子は疑っていなかった。
「本当です、悪いことなんて絶対にしません! 信じられないというなら、証明してみせますっ!」
「証明。如何にして」
わずか言葉に詰まる。
雨音がうるさいくらいに頭に響いて、思考を掻き乱す。
証明するなどと言っても、どうやって無害であることを証明すれば良いのか、そこまで考えが到っていなかった。完全に落ち度である。
しかし、それで諦めては終わりだ。陽子は人生、いや妖生で最も頭を回して、それから答えた。
「……て、手伝いをします! きっと悪い妖を、やっつけているんですよね? なら、役に立てると思います」
「
「噓じゃありません。あたし、いろんな妖術が使えるんです。変化も、狐火も、探知術だって使えます。身を守るための術だって、教えてもらいました。貴方の役に立ちます……、だから見逃してください!」
「……そこまで言うか」
「言います! あたし、死にたくありませんから!」
ほとんど懇願に近い説得に、甘粕弾正嘉平の態度が少しだけ軟化した。
興味を引かれた様子でもある。
おそらく妖にこんなことを言われたのは初めてなのだろう。
刀は下げないまでも、目に見えて肩の力が抜けている。あともう一押しで説得できそうだ。
「もしあたしが悪いやつだったら、斬ってもらって構いません。でも、本当に悪いやつなのかわかるまでは、見逃してください! お願いします!」
陽子はぐっと力を込めた口調で、頭を深々と下げながら叫んだ。
すると、どうだろう。
「……いいだろう」
いくらかの沈黙を経てから、彼は刀を下げた。
街灯の下で俯く彼の表情は、伺い知れないが、この様子からしてひとまず命拾いしたらしい。
深く長い息を吐いて、膝から崩れ落ちそうになるのを、必死に堪えながら頷く。
あとのことはまったく考えていなかったから、これからどうなるか少し心配ではあるけれど、命には代えられない。
甘粕弾正嘉平が、刀を納めて背を向けると、やっと人心地ついて、毛の逆立ちが治まったのを感じた。
「言葉に偽りなければ、明日の夜、再びここへ来い」
彼はそう告げると、街灯の下から出て、夜の闇へと消えていく。
残された陽子は、暫くの間、呆けて立ち尽くすばかりだった。
土砂降りの雨は、気が付けば雪へと変わっていた。
水気を多分に含んだ雪は、凍み入る冷気と共に帳を下ろし、住宅街は雪に反射した光で、いぶし銀のように霞んでいる。
辺りは物音のひとつもなく静まり返って、無気味さだけがこの場を満たしていた。
陽子は天を仰ぎ、深い溜め息を吐く。
さっきとは違う、疲れと憂鬱の滲んだ息だった。
三百年も生きた妖狐が、まったく情けない姿である。
あの男くらいならば、なんとか追い返すことのできる力があった。
にもかかわらず、こうも意地汚く許しを乞うなど、まるで
しかし、人間と争うのは陽子の本意ではない。
善狐として自ら起てた誓いがあり、それを破るわけにはいかないというのもあるが、彼女の自身、人間という存在を心から愛しているから、どうしても争うことはしたくなかった。
人に紛れて生活しているのだって、大好きな人間に囲まれて過ごしたいと、自分の素直な欲求に従ったがゆえである。
もちろん生活するにあたって、必要以上の注意を払ってきた。
耳と尻尾は変化の術で隠し、元来の獸臭さも二日に一回は銭湯に通って消した。
人外の力も、妖気だってほとんど抑え込んだ。
役所勤めの鬼の友人に頼み込んで、戸籍と時代にあった家族まで用意して貰っていた。
だというのに、こんなことになるとは。
まったく、最悪である。
再び溜め息を吐いて陽子は歩き出したが、粘ついた恐怖はいまだに身体を包んでいた。
「ずぶ濡れじゃない。なにしてたの、まったく」
我が家に着くと、ずぶ濡れの彼女に慌てた母が、真新しいバスタオルを持ってきてくれた。
ぶつくさと文句を言いながら、髪や顔を拭いてくれる母の手のぬくもりは、陽子を安心させるには充分すぎる。
油断すると、涙腺が緩んでしまいそうだった。
「ごめんね、母さん。傘が無くて、濡れちゃった」
「それにしたって、今日は遅かったんじゃない……、何かあったの」
心配した母の言葉に、陽子は強がった顔で、
「……ううん、何もなかったよ」
「本当に?」
「うん。雨宿りしてたら、雪が降ってきて。ちょっとびっくりしちゃった」
母はまだ心配そうだったけれど、追及しても無駄だと悟ったのか、それ以上は何も言わなかった。
ソファに座る父も、こちらを一瞥して「おかえり」と声をかけるだけに留めていた。
父は寡黙な仕事人間だが、人の感情を察するのが上手く、欲しい言葉だけをくれる。
とても良い父だ、陽子にとって自慢の父だ。
着替えて部屋に上がると、陽子はベッドに倒れこんでしまう。
疲れた頭に浮かぶのは、やはりあの甘粕弾正嘉平と名乗ったあの男のことだ。
はたして何者だろう。
陽子は思い煩った。
彼は妖狩りを自称していたが、そういう類の人間はすでにいなくなったと思っていた。
科学が発展した現代では、妖が起こす怪異、すわなち”妖怪”の原理がほとんど解明され、常識となってしまった。
妖が人々を恐がらせようと何かしても、ほとんどが自然現象の一言で話が終わる。
いまだに幅を利かせているのは、幽霊くらいのものだ。
こんな世の中では”怪異”を起こす”甲斐”もない。
いつしか妖たちは人との共存の形を考え直し、妖怪はしだいになくなっていった。
そうなれば、妖狩りも当然いなくなる。
妖怪が消えると共に、彼ら妖狩りも歴史から姿を消したのである。
しかし彼はどうだろう。
現代において真に妖狩りを生業にしている人間なぞ、話には聞いたことあれど、ついぞ見たことがない。
ただのほら話か、事実無根の噂だった。
ところが彼は、まるで本物みたいな迫力があった。
あの侍然とした姿、妖からしても無気味な姿だ。
現代であのような格好をする輩は、物好きな人間か、質の悪い幽霊と相場が決まっている。
いかなる理由で、彼は妖狩りを自称しているのやら。
疑問と言えば、もうひとつある。
以前にあった人斬り事件、人斬り鴉の正体が彼なのか。
刀を持っていたから人斬りだと陽子は思ったが、よくよく考えてみれば、言葉を信じるなら彼は妖狩りだ。
斬られたのは人でなく、妖ということになる。
だが、妖とは死せば遺らぬ異形。常人にとっては姿なき怪異。
死体が現世に横たわったまま、ましてやその死体が人目につくなど、本来はあり得ないことのなのだ。
彼の持つ刀に何か秘密があるのかもしれないが、それにしたって、妖が人に見える状態で死ぬなど奇妙を極める。
はたして彼は人斬り鴉なのか、それとも全く別の存在なのか。気になるところだ。
また明日の夜に、彼とは出会うことになる。
その時に、いきなり斬りかかってこなければ、これらのことを訊いてみるのも良いだろう。
もっとも彼が答えてくれるかはわからないが。
そこまで考えたところで、眠気がどっと押し寄せてきた。
恐怖で忘れていた疲れが、身体に戻ってきたようだ。
瞼を開けているのも辛くなって、数秒も経たぬ間に、陽子は夢の世界へと旅立っていた。
深々と雪の降り積む夜。
こうして、二人の奇妙な関係は、始まりを告げた。
次の日。
五教科の試験を終えた陽子は、学食でうどんを啜りながら、イマイチ優れない顔をしていた。
いつもならばおいしいお揚げも、なんだか味が薄いと感じてしまうほど。
彼女の精神は落ち込んでいて、見えないはずの耳も尻尾も、しゅんと垂れ下がっている。
試験の結果も気になるけれど、今一番気になるのは、昨夜に出会った甘粕弾正嘉平だ。
正直に言ってしまえば、彼と会うのが怖い。
人を化かしたり、騙すことができない陽子は、絶対に約束をすっぽかしたりはできない──そも、すっぽかした後を想像するほうがもっと怖い──から、会わなければいけないのだけれど、あんな出会い方をした相手だ。
会いたいと思うほうが難しいだろう。
まったく、難儀である。
泥みたいな黒濁色の憂鬱が、彼女を支配していた。
「陽子、なんか元気ない?」
「え……。あ、ううん。そんなことないよ、ちょっと考え事」
心配する昭亥に首を振るけれど、こうも目に見えて落ち込んでいては疑わしいのか、彼女は引かず、眉尻を下げて言葉を続けた。
「噓だね! 陽子がそう言う時、絶対なにか悪いことがあった証拠だもん!」
「いっ!? ……そ、それは……」
「ひとりで抱え込んでも辛いだけだよ? ほら、話してみなって! ウチ、馬鹿だけど聞くくらいなら出来るからさ!」
そう言われても、陽子が抱えている事情は、一般人においそれと話せる事情ではない。
どうにかしてうまい言い訳をしようとしたけれど、すんでのところでやめた。
人を騙すのは、陽子が自らに課した誓いに背く行いだ。
絶対にしてはいけない。かわりに話題を変えて誤魔化すことにした。
「ありがと、アキちゃん。でもね、あたしが心配なのは、今日の試験が何点だったかなんだ」
「グワー! 嫌なこと言うなあ、もう! あ、でも回答は全部埋めたから、二割以上はあってるはず!」
「二割は赤点だよ……」
「ま、まだ決まったワケじゃないしっ! 赤点回避してるしっ! たぶん、おそらく、もしかしたらッ!」
「補習、あたしも手伝うから。頑張ろう?」
「確定みたいな言い方するなー!」
大げさなリアクションをする昭亥に、陽子はちょっとだけ元気をもらった。
ちょっと不自然な話題の逸らし方をしたけれど、昭亥は気にせず話を続けてくれている。
彼女なりに元気を出してもらおうと、お道化ているのだろう。
「ウ、ウチは平均点なんだ……誰が何と言おうとウチは平均点なんだ……!」
「あ、あはは……」
もっとも。定期試験の結果に関しては、毎回、本当に擁護できないひどいから、素でやっている可能性もあるけれど。
とにかく。
とにかくである。
昭亥の気遣いは、今の陽子にとってことありがたい。
鬱々としていた気分も、少しはマシになるというものだ。
甘粕弾正嘉平と会うのは怖いけれど、それでも、最悪を想像することはやめようと決意できた。
とりあえず会ってみれば良い。
ダメならば素直に逃げ出して、外堀が冷めるまでどこぞの森にでも、ひっそり隠れ住めば良いのだ。
そんな考えが浮かぶぐらいには、楽観的になれた。
放課後になって、時間が近づいてくると、陽子はいよいよ会う準備をしなくてはいけなくなって、どうしようかと思案していた。
ベッド下から取り出した白木作りの箱には、陽子にとって命の次に大事な物、鍔のない脇差が眠っていた。
真っ白で、汚れひとつのない綺麗な絹布にくるまれたそれは、電球の灯りを受けて輝いている。
鉄拵えの鞘から抜けば、おおきな六つの波紋が美しく煌めいた。
長さ一尺五寸。
刀鍛冶、越後の
銘を”
かつて妖狐の師より授かった宝刀である。
陽子はそこらの”野良”に負ける妖ではない。
もちろん、妖斬りの彼にだって、互角か、それよりちょっと下くらいの実力はあるから、戦えなくはないだろう。
けれど、痛いのも痛くするのも嫌だし、戦い争うのも嫌だ。
陽子は極めて平和主義的なので、そんなことはしたくない。
不慮の事態に備えて、せめて防戦用の装備くらいは持って然るべきだが、これを持ち出すのは、野良に対して明らかに過剰と言えた。
こんな高級なものではなく、無銘の安い刀で充分だろう。
はてさて、どうしたものか。
あらゆる可能性を考慮して考えた結果、陽子は鴉切六紋を持ち出すことにした。
備えあれば患いなし。何に遇うともわからぬのだから、持っておいて損はないと考えたのだ。
時計を見れば、時刻は既に十九時過ぎ。
甘粕弾正嘉平と出会ったのは、十九時半頃だったので、そろそろ家を出なければ約束に遅れてしまうだろう。
服装を、白いシャツに青のジーパンと、動きやすいものに着替えて、上衣にダッフルコートとマフラー、靴は丈夫な厚底ブーツを履く。
武器である鴉切六紋は背中に隠し、手にはいつものお風呂セットを持てば、これで準備完了だ。
「ちょっと外行ってくるね」
「いってらっしゃい。今日も寒いから、湯冷めして風邪ひかないようにね」
「うん、いってきます」
扉を開けて外に出ると、ちらちらと雪が降っていた。
昨日とは違って、水分は少なめで、柔く軽い雪だ。
歩く道には雪が薄らと積もっていて、いくつもの足跡が残っている。
昼の半ばに晴れるかと思われていたけれど、夕方になってまた降り始めたらしい。明日は道路が凍って、歩くのも大変になるだろう。
お風呂セットを術で小さくしてポケットにしまうと、陽子は重く澱んだ足取りで四つ辻を目指した。