妖狐の陽子と人斬り鴉   作:四十九院暁美

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妖狐の陽子と百鬼夜行

 正直行きたくない。

 行きたくないが、誓いがあるゆえに行かなければならない。

 まったく今日ほど、自身に課した誓いを恨めしく思ったことはなかった。

 雪道をしばらく歩いて、件の四つ辻に足を踏み入れる。

 そこには、先に待っていたのであろう、甘粕弾正嘉平の姿があった。

 電柱に寄りかかっている彼の旅笠や肩には、雪が乗っている。鼻も耳も赤くなっているのを見るに、おそらくはそれなりの時間、外に立っていたようだった。

 まさか律儀に待っていてくれるとは。微塵も思ってなかった陽子は、我知らず、驚いて目を瞠る。対して、彼は何でもない風に「来たか」とだけ言った。

 

「き、来たかじゃないですよ! いつから待っていたんですか?!」

 

「半刻前だ」

 

「半刻って……一時間も!?」

 

 絶句である。

 陽子の言葉を信じてくれていたのすら予想外なのに、この寒空の下で、一時間も待っていてくれたなんて、まったくとんでもない話だ。

 悪い人間ではないのだろうけれど、ここまで律儀だと、当の陽子も困惑する他にない。

 

「か、風邪ひきますよ!? そんな薄っぺらな羽織だけで!」

 

「無用な心配をする」

 

「無用だなんて、そんなこと言わないでください! もう、律儀にあたしを待っていてくれたのは、嬉しいですけれど……でも、それで風邪をひいてしまったら、悲しいじゃないですか!」

 

「妖が悲しむか」

 

「悲しみますよ! あたしのせいで幸せ悪くするるなんて、そんなの嫌ですから!」

 

 小言を浴びせると、甘粕弾正嘉平は”意味がわからぬ”と、眼を瞬かせて陽子を見た。

 微かに感情が窺えるその瞳には、当惑の色が映っている。どう言葉を返せば良いのか、迷っているらしかった。

 

「ほら。あたしのマフラー、貸してあげますから」

 

 肩にかかった雪を払ってから、背伸びして首にマフラーを巻いてやると、彼は何故だか瞳を逸らした。

 初対面の印象だと、妖に対してひどい悪感情を抱いているようだったが、こうまで近づいても鼻っ柱に刀を突き付けたりせず、それどころかマフラーを拒んだりしない。

 善狐として人の善悪を感じ取れる陽子は、そこから彼の隠された善性を読み取った。

 もともとは善人だったのが、何か途方もない理由で墜ちたのか。

 それとも、陽子だけが特別な扱いを受けているのか。

 どちらにせよ。

 甘粕弾正嘉平という人間は、複雑な過去を持っているに相違なかった。

 もっとも、彼のことをよく知らない陽子からすれば、根は優しい人だったのかもしれない、程度の認識でしかないが。

 

「はい、できましたよ」

 

 マフラーを巻き終わると、彼は悲しいような、懺悔しているような、感情がごちゃ混ぜになった複雑な顔で陽子に告げた。

 

「礼は言わぬぞ」

 

「いりません、あたしが好きでやったことですから」

 

「……」

 

 甘粕弾正嘉平は陽子の行いを、理解できないと瞑目したようだ。

 彼の当惑は、至極まっとうなものだ。

 普通ならば、妖が人に対して見返りを求めぬ施しをするなぞ”御伽話でもあるまいに”なんて、うすら寒くなる。しかし何事にも例外というのは存在する。

 

「信じてもらえるかわかりませんけれど、本当に、あたしが好きでやっていることですよ。自称するわけじゃありませんけれど、いわゆる善狐ってやつですからね、人のためになるのが生きがいなんですっ」

 

 この陽子こそは、まさしく例外中の例外であった。そのお人好しは度を越しており、彼女ほど人を好いた妖もこの世にいなかろう。

 

「妖狐に善なぞあるか」

 

「ありますよ。妖狐だけではありません、全ての妖には善と悪が混在しています。人間だって、善い人間と悪い人間がいるでしょう? それと同じです。悪い妖怪ばかりじゃないんです」

 

「人を妖は違う」

 

「違いません。生まれ方が違うだけで、本質は同じ生き物です」

 

 否定されて、陽子はちょっとだけ、ムキになって答えた。

 彼女にとって人間とは、自分たち妖とさして変わりない生き物であり、対話によってわかりあえる存在だ。親愛なる隣人と表現しても良いだろう。

 小難しいのは抜きにして、掛け値なしに好きなのだ、人そのものが。

 

「妖は人の感情から生まれたのですから、違いや差はあれど根っこは同じ……そうでしょう?」

 

 そも、妖とは”自然現象”を具現化したものであり、畏怖や尊敬の対象だった。人々の莫大な感情こそが、妖の根源そのもの。

 そして感情から生まれた妖は、力を得るためにさらなる感情を、糧と欲するようになる。それはさながら、乳吞児の如く。 

 科学技術の進歩によって、今はその原理をほとんど解明されてはいるけれど、一度生まれた妖は決して消えることはない。

 むしろ、科学では解明できない現象が現れたことで、未確認の新たな妖が生まれる一方だ。

 

「妖にとって人間は、生みの親、父や母と同義なんです。もちろん、貴方のこともそう思ってますよ」

 

 もちろん、そんなはずはない。陽子の言い分は的外れこの上ないものだ。

 しかし彼女は本気でそう思っていた。人間とは愛すべき隣人であり、親でもあると。

 

「……狐がよくも嘯いたものだ」

 

「残念ですけど、嘘は吐けないタチなんです」

 

 陽子の話を聞いて、甘粕弾正嘉平はますます当惑の色を強くしたが、一応は言い分を信じたらしい。

 妖のなかでも特に奇特な、いわゆる、逸れ者の類と認識したのだろう。最初に比べて、ほんのわずかにだけれど、警戒が解れていた。

 

「……、話し過ぎた。往くぞ狐」

 

「陽子です、加賀美陽子。ちゃんと名前があるんですよ?」

 

「化け狐なぞ狐で充分だ」

 

「もうっ、失礼な人ですね」

 

 さっさと歩き出した彼を追って、陽子もまた歩き出す。

 彼の歩幅は大きく、そして早い。

 体躯が小さな陽子には、付いて行くのすら一苦労で、歩調を緩めてほしいと頼めど、彼は無視するばかり。

 おかげで隣をせかせか歩く羽目になった彼女は、早々に疲労を蓄積することになった。

 

「あ、あのっ」

 

「何だ」

 

「そういえば、何て呼べばいいんですか?」

 

 見慣れた通学路を行く道中、陽子はふと、思い出したように彼に訊いた。

 

「好きにしろ」

 

 ちらちらと顔を窺う陽子とは対照的に、彼はそっけなく言う。

 

「好きに、ですか? それじゃあ……嘉平さんって呼びますね」

 

「……」

 

 甘粕弾正嘉平、改め、嘉平は興味なさげだ。隣を歩く彼女を一瞥さえしない。

 しかしならが、訊かれれば答えてくれるあたり、邪険に扱う気はないようである。

 ならばと陽子は、続けざま、もういくつか質問を投げかけた。

 

「嘉平さんは、どうして妖を斬っているんですか?」

 

「妖に話すと思うか」

 

「……ですよねえ」

 

「フン」

 

「あとですね、その刀はどこで手に入れたんです? 妖刀の類ですか」

 

「手ずから打った。退魔の念を込めた刀に殺生石の欠片を熔かし含め、遍くを屠り邪を断つ一刀とした」

 

「殺生石!? あれを使ったのですか!? しかも熔かしたと言いましたよね!? なんて酷いことを……」

 

 殺生石。

 それは放つ瘴気はあらゆる生命を絶ち、不死の魂すら現世への帰還を拒む魔石。討伐された玉藻の前の最期の姿である。

 そんなものを刀に溶かし含めたと言われれば、妖狐の陽子は腰を抜かしかけるほど驚くし、なんだか悲しくなるというものだ。

 

「玉藻の前様も泣いていますよ……およよよよ……。それにしても、刀を打っていたとは、貴方は元は刀匠様なんですね。自分が作った刀を自分で振るえるなんて、器用な方です」

 

「くだらぬ」

 

「あとあと、どうしてあたしを見逃したんです?」

 

 訊くと、彼は少しだけ躊躇するそぶりを見せてから。

 

「……。妖といえど、ああも命乞いをされればな」

 

「死にたくないですからね、見逃してくれそうなら全力で命乞いしますよ。ああ、最後にもうひとつ訊かせてください。嘉平さんは、あの鴉なんですか?」

 

「何だと?」

 

 空気が、凍った。

 急速に冷え込んでいく。

 二人の間に横たわる空気が、まるで氷塊の如くに冷え固まり、凍てつくほどに寒々しいものへ変わった。

 ピタリと立ち止まった嘉平は、怒気を孕んだ視線を向けている。突然、実に突然な変化に、陽子は戸惑ってしまう。

 ちょっとした質問だと思っていたのに、まさか特大の地雷だったとは。まったく予想だにしていなかった。

 

「いえ、あの、人斬り鴉っていたじゃないですか。それが、その……、嘉平さんなのかな、って」

 

 しどろもどろに言えば、彼は鯉口を切りながら、脅すように答えた。

 

「忌々しい名を聞かせるな、狐。拾った命、ここで散らすが望みか」

 

「っ……い、いえ」

 

「二度は言わぬぞ」

 

 鯉口を戻してもなお、嘉平は怒気を霧散させずにいる。よほど腹に据えかねたらしい。

 反応からして鴉ではないことは確かだろうけれど、それにしたって、藪を突いて蛇を出したどころの話ではない。これでは羆ヒグマを出したようなものだ。

 まったく戦々恐々である。

 陽子はこれ以上は何も言わないことにして、口を噤んで彼の後ろに付いて行くことにした。

 未だ怒気を消さない嘉平は、黙して何処ぞへ往く。

 辿る道こそ陽子の通学路だけれど、じょじょに妖気の漂う魔の域へと変貌していた。進めば進むほど、夜に生きる異形が群れを成して、闇に蠢いているのがわかる。

 住宅街の端、ちょうど、大通りに出る少し手前くらいのところで、彼が足を止める。

 何かと思って後ろから覗いてみれば、そこにはまさしく、百鬼夜行があった。

 目を瞠るほどの妖の群れが、おそらくは山奥くんだり、やんやと騒ぎながら行進していた。

 先頭は小豆洗い、後ろには送り雀を伴った一目連(いちもくれん)

 さらにつらら女とつるべ落とし、垢なめ、肉吸い、猫又、ぬらりひょん、雷獣、笑い地蔵。

 最後尾のいっとう大きいがしゃどくろは、肩や掌に座敷童とバロウ狐を乗せている。

 これ以外にもまだまだ集まっていて、種類も古今東西を問わない。実に雑多だ。

 

「……ええ?」

 

 まさか通学路に夜行が出るとは、さしもの陽子も驚いて開いた口が塞がらない。

 普段何気なく通ってる道に、妖の大群が現れるなんて、冗談にも程がある。

 

「おん? んじゃあおめえ、みょうちくりんな格好しよって。東京モンっちゅーはこんなが流行っとるか? ハイカラじゃ、ハイカラじゃ」

 

「小豆さん。ありゃハイカラじゃねえ、時代遅れってんだぜ」

 

「あんらあ。ほいじゃお前さん、何か、あん人ったらワシらと同じさね?」

 

 小豆洗いの言葉に一目連が答えると、つらら女がホホホと笑う。

 

「おいおい、あそこの嬢ちゃん、狐っ子じゃねえか」

 

「おんや、ほんとだべ。おお、しかも若か! めんこいべな、めんこいべな、うん。やい鶴瓶の、飴ちゃんさねべか」

 

「飴ちゃんだあ? のど飴ならあっけどよ。ほれ」

 

「あるべや、こりゃ結構だあ。あとでお近づきっちゅんでやっべ」

 

「つーか爺さんよお、若い子見てはしゃぐのは良いけど、あんま迷惑かけんなよ? 昨日ホテルの受付さん口説いて叱られたの、忘れてねえだろうなあ?」

 

 鶴瓶落としとぬらりひょんが、そんな会話をしながら手を振る。

 まるで観光に来たお上りのお爺さんといった風で、なんとも気安い雰囲気だ。陽子が控えめに振り返すと、彼らは嬉しそうにけたけた笑うのだから、毒気を抜かれてしまう。妖とはこんなにも近い存在だっただろうか。

 

「もし、どくろの姐さんや。あすこにおわすは誰かえ?」

 

「人間様、しかも刀を佩いとりますね。珍しいこっちゃ」

 

「あやや、刀とは物騒どすなあ」

 

「そうですねえ」

 

「おばりよん!」

 

 巨人もかくやながしゃどくろと、その肩に乗る座敷童が嘉平を眺める。

 座敷童のほうは首をかしげるだけだが、がしゃどくろは警戒した視線だ。

 バロウ狐だけは関係なしに、陽子におぶさりたいと──おばりよんとは方言で「おぶさりたいの意である──叫んでいる。

 後続の妖たちも二人に気付いたようで、なんだなんだと喚きだしたから、騒ぎが大きくなってしまった。

 普段ならば静謐な路地も、ここまで妖が集まれば相当に喧しい。

 彼らがほとんどの人には認識できない妖だからよかったものの、これが人間ならばとっくに近所迷惑で警察を呼ばれているところである。

 

「ええと……、どうするんです?」

 

「斬る」

 

「はい?」

 

「斬ると言った。全て、斬る」

 

 嘉平が殺気立てて鯉口を切る。

 がしゃどくろが、座敷童とバロウ狐を地面へ下ろす。

 ひとりと一体の間で、静かに、だが確実に、火花が散り始めていた。

 

「いや、いやいやいや!? 待って、待ちましょう!?」

 

 一触即発になりかけていたところ、陽子は彼の前に躍り出た。

 五十はいる妖を全て斬るなど不可能だ、正気の沙汰ではない。

 そもそも夜行の様子からして、田舎住まいの妖が都会へ観光に来ただけに見える。

 それに、これだけの妖がいながら、最近になって怪奇的な事件が起きたという話は聞いていないから、人に悪いことをする妖ではないだろうことは明らかだ。

 

「あの人……じゃなかった。あの妖たち、たぶんですけど、観光に来ただけですよ?」

 

「それがどうした」

 

「悪さなんてしてないじゃないですか。さすがに横暴ではありませんか?」

 

「横暴だと、笑わせる。あれらこそが真に横暴だ。今は害をなさずとも、いずれは害をなす。悪事を繰り返す」

 

「そうだとしても、まずは話し合いましょう? ね? 有無を言わさず斬り合うなんて、野蛮人のすることですよ」

 

「……其処を退け、狐」

 

「もう! いいですか嘉平さん。妖なら誰彼構わず斬ってもいいなんて思ってるみたいですけど、このまま行くと、貴方は道を踏み外してしまいますよ。嘉平さんが何を思って妖を斬るのか、それは訊きません。けれど感情に身を任せ、修羅に堕ちるのはダメです。貴方はそこまで堕ちた人じゃあないでしょう?」

 

 陽子は宥めるように、諭すように説得する。自分を見逃してくれたのだから、この夜行とだって、話し合えばわかり合えると信じていた。

 はたしてその想いが通じたのか、彼は不機嫌そうに、納得いかなそうに、しぶしぶ刀を納めてくれた。

 がしゃどくろの方も警戒は解かないまでも、臨戦態勢ではなくなって、やっと話し合える雰囲気にはなった。

 もうすでにどっと疲れた気がする陽子だったが、彼と夜行はまだ言葉すら交わしていない。

 彼の様子からして、話し合いをさせては紛糾する。自分が仲介する他にない。

 難しいことだが、ここでへたっていては、夜行が皆殺しにされてしまう。

 それに元来、頭の回転は速い方だから、ある程度は穏便に取りなせるだろうと思った。

 彼女は気合を入れ直すと、夜行に向けて言葉を投げた。

 

「あの、皆さんは何をしに気なんですか?」

 

「一言で言えば”観光”ですわ」

 

「やっぱりですか」

 

 代表して答えたのは、がしゃどくろだった。

 よく通る声──骨だけなので声帯はないけれど──で、陽子の問いに公明正大、理路整然とした態度で言葉を返した。

 

「みりゃわかると思いますけど、アタシら、妖相手に”観光ツアー”をやっとりまして。ここにおんのはみんなお上りさんっちゅーわけです。ここにおる妖様は、人里離れた山で静かに暮らしてた田舎モンさかい、そこの人間様が思っとるような、悪い奴らやない。”滝姫観光”の名に懸けてあたしが保障します」

 

 妖向けの観光会社があるなんて驚きだが、考えてみれば、技術の発展した現代ならばそういうこともできなくはない。

 人に化けさえすれば、船や飛行機、タクシーにだって乗れるし、インターネットカフェでパソコンだって使える。時代に順応した妖ならば、そういう商売を思い付いてしかるべきだ。

 

「一応、念押しで訊きますけれど、悪さとかはしないんですよね?」

 

「もちろん。わが社は阿漕な奴らたあ違うさかい、まっとうな会社です。人の姿に化けられて、ある程度は人語を話せて、悪事を働かない。この三つを満たさん限り、申し込みは受けとらん決まりでして。おかげで評判上々、お客様満足度ナンバーワンですわ」

 

 自慢げに彼女が言うと、ピッと自分の肋骨を指さす。

 対して嘉平は、今だ柄から手を離さず問うた。

 

「ならば如何に証明する」

 

「証明言うたら、お客様の声が一番でしょうや」

 

 がしゃどくろに促されて、周りも妖が口々に言う。

 

「んだ、んだ。姐さんの案内ば、楽しかばい」

 

「よおござんす、実によおござんすよ。ホホホ」

 

「美味いもん、たらふく食えたべな」

 

「”すぱげっちい”なる西洋の食、血のように赤いあれは、誠に美味であった」

 

「こったらデカイ建モンも見たでよ。オラァ腰抜かすほど驚いただ」

 

「動物園もおでれえたぞ! 見たことねえ妙な生きもんばっかで、皿から水零すかとおもったわ!」

 

「おばりよん!」

 

「あんさん、そればっか言いはるなあ」

 

 こうまでも絶賛されているのを見るに、がしゃどくろの言葉に嘘偽りはないようだ。

 妖だって旅行したい、そんなささやかな想いを叶えている彼女は、善なる者に違いない。

 周りだって、彼女が信を置いて連れてきたのだから、きっと善い妖なのだろう。

 

「ほら、言ったじゃないですか! 悪い妖じゃないって! ね、ね、嘉平さん!」

 

 陽子が嬉々として言えば、嘉平も理解したようで、不愉快を隠さずに鼻を鳴らして、やっと刀から手を離した。警戒は解いていないけれど、今はそれで充分だ。

 

「おばりよん!」

 

 不意に。

 バロウ狐が目の前に飛び出すと、何やら訴えかけてきた。

 陽子が苦笑して、背を向けてしゃがみ込むと、嬉々としておぶさってはしゃぎ始める。どうもこの子は我慢が効かないタイプらしい。

 空気もどこか弛緩して、穏やかな雰囲気になった。

 その時である。

 

「っ!?」

 

 悪寒が走った。

 夜行の全員が目を見開いて押し黙り、すわ何事かと辺りを見回す。何かの気配がある。そう遠くない場所で、何か良くないことが起こっている気配が。

 

「南無三っ……!」

 

「あ、ちょっ! 待ってください!」

 

 嘉平は弾かれたように走り出し、陽子はわずか遅れて、慌てて彼のあとを追った。

 走る。

 走る。

 走る。

 向かう度に不穏は濃くなり、腥い血の臭いが強くなっていく。悪意と、殺意と、享楽の色が臭い立ち、ねっとりと空気を犯す。

 いの一番に現場へ辿り着いた二人が見たのは、惨殺された男の死体だった。

 降り積もった白い雪と、そばに落ちた鴉の羽根を、大量の血と臓物が汚して、湯気と共に死臭を漂わせていた。

 

「なんて、ことを……」

 

 青褪めながらも、陽子は死体検分する。

 死体はひどい有様だった。

 まず目を引くのは、こぼれ出た臓物だ。腹を横一文字に掻っ捌かれ、腸を悪戯に抉り出されている。

 次に両腕だ。二の腕の中ほどから斬り飛ばされ、断面からは血の滴る肉と赤黒い白い骨が覗く。

 全身を見れば、浅く刀傷を刻まれていた。傷跡が足に集中しているから、自由を奪ったうえで殺したのだろう。

 あまりに異様な惨状に、陽子は押し黙る。

 バロウ狐も、この時ばかりは真面目な顔をして、鼻をひく付かるばかりだ。

 

「鴉」

 

 不意に、嘉平が呟く。憎悪だけが詰まった声で。

 

「鴉……、まさか」

 

 死体の顔を見れば、血濡れた便せんが口に押し込まれている。

 恐る恐る覗き込めば、その便せんのふちには。

 

「鴉の、マーク……!」

 

 人斬り鴉。

 今宵、舞い戻る。

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