「はあ……」
嫌なことになった。
学校からの帰路。陽子は憂鬱に浸りながら、溜め息を吐いた。
昨日の夜。
嘉平と共に夜を歩き、通学路で夜行と遭遇し、そして死体を見つけた夜。陽子は、持っていた携帯電話で警察に連絡して、夜行と嘉平へしばらく隠れるように誘導して、間髪入れずにやって来た警察に事情を説明して……と、とにかく大変な目に遭った。おかげで百年分くらいは体力を使った。
人斬り鴉の帰還。
新聞、ラジヲ、テレビ。あらゆるマスメディアがこれを伝えている。政府からも”夜間の外出を控えるように”とのお達しが来たものだから、オリンピックの余韻から一転、日本は蜂の巣をつついたような大騒ぎだ。
しかしこの事件。
はっきり言って、今の陽子にできることはない。
人が悪意によって殺されていくのは悲しいけれど、妖が手を出せば余計にこじれてしまう。
それに、連続殺人犯といえど、やっているのは”人間に違いない”と陽子は思っていた。
誓いに縛られて久しい彼女は、犯人を捜し出して捕まえることもできなければ、たとえ相対したとしても戦えない。できるのは、被害者の冥福を祈るくらいである。
薄情に思うかもしれないが、彼女が自身に課した誓いというのは、それほどに重要かつ絶対の力を持っている。破ることは許されない。
「どうしたー、陽子? 元気ないぞ?」
隣であんぱんを齧る昭亥は、変わらずにのほほんとしていた。けれど、注意深く声を聴けば、微かな怯えが含まれているのがわかる。
人斬り鴉。
かの切り裂きジャックもかくやの勢いで、その名は恐怖の象徴として人々に刻まれている。外国にさえ彼の名は知られ、FBIが人員派遣に乗り出したと言えば、どれほどの事態か理解できるだろう。
世界の注目を一身に集める猟奇殺人鬼、それが鴉だ。
「陽子も怖いのか? 大丈夫だって、夜に出歩いたりしなければ、あんなの遭わないって! な!」
強がった口調で、昭亥は笑った。
恐いだろうに、落ち込んだ陽子を気にかけて、弱気を見せまいとしているのだ。まったく健気である。
「ありがと、アキちゃん。アキちゃんも、無理しないでね」
「わ、わかってるって!」
「ほんとに? 口に餡子ついてるのも気付かないのに?」
「え、どこ? どこに付いてる?」
「ほら、じっとしてて」
強がった態度を崩さない昭亥に苦笑して、陽子は彼女の口端に付いた餡子を、指で拭って食べる。
餡子の仄かな甘味が口に広がり、疲れをほんのちょっぴりだけ、癒してくれた。
甘さで、ふと思いつく。
「ね、久しぶりにさ。お菓子やさん行かない?」
「おお、いいね! あのお菓子まだ置いてるかなあ!」
陽子の言うお菓子屋さんとは、学校の近所にある駄菓子屋のことだ。
小学生がよくたむろしているその駄菓子屋は、女月神高校の近くにあって、なおかつ大通りにほど近い場所にあるので、食い気の多い二人は、そこでよく買い食いをしている。
最近は試験のために我慢していたから行っていなかったけれど、ちょうどテストも終わったことだし、寄るにはいい頃合いだろう。昨日の出来事を忘れて、羽を伸ばすのにもちょうど良い。
「今日はたくさん食べちゃうぞー!」
「おー!」
二人は手を握り合うと、足早に駄菓子屋へ向かった。
古民家を改装して作られた駄菓子屋には、さまざまな菓子が並んでいる。
目を引くものは多くあれど、特に注目すべきは、店内に設けられた飲食用の広場だ。
小さいながらも子供ならば十人以上は入れるここには、今時は珍しい薪ストーブが置かれているのだけれど、この上には鉄板が敷かれていて、冬の間だけちょっとした料理ができるようになっている。
もちろん、ストーブの火力なんてたかが知れているから、大層なことはできない。それでも、ささやかながらお菓子を焼けるこの場所は、子供たちには大人気なのである。陽子と昭亥も例に漏れず、ここがお気に入りだ。
「みてみて! マシュマロ焼きー!」
「わっ、すごい! 結構溶けるんだね」
「そうなんだよー! しかもこれを、きな粉餅につければ……、きなこマシュマロの完成! へへへ、これかなりの発見じゃない?」
「かなりどころか、世紀の大発見だよ! さすがアキちゃん!」
「へへ、よせやい! おだてたって、陽子の分しか出てこないぞ?」
「おばりよん!」
「おばりよん! ……おばりよん?」
聞いたことのある言葉が、陽子の耳を打つ。
はたと声の方を見れば、どこか狐っぽい顔立ちの、小学校高学年くらいの男の子が立っていた。
昨日のバロウ狐が、人間に化けた姿である。
「んー? どうしたボクちゃん、これほしいのかー?」
「うん!」
「おー、そっかそっか! じゃあ、はい! お姉ちゃんのをあげよう! ……ところでおばりよんってどういう意味?」
ただの子供だと思っているらしい昭亥は、彼に焼きマシュマロを手渡すと、人好きのする笑顔を向けた。
なんとも心温まる光景だ。幼子が妖でなければ、だが。
陽子は内心、驚きと焦りを必死に抑え込もうと、躍起になっていた。
妖は何かに化けた時だけ、人間の目に見えるようになる。
ならば、その逆も然り。
つまり、もしも彼の変化が解けてしまえば、昭亥の目の前にマシュマロが浮いているという、とんでもない状態が発生してしまうのだ。それはまずい。とてもまずい。
そしてもっとまずいことに、彼がここにいるということは、昨夜にあった夜行も近くにいるということで。鉢合わせたらさらに面倒が極まるのは予想が付く。
昭亥の前で「狐っ子」だとか、「昨日の刀の男はどうした」なんて言われでもしたら、昨日の事件も合わさって、目も当てられない大騒ぎになるだろうことは明白だ。陽子としては、それだけは何としても、何としても避けなければならない。
「ぼ、ボクくん、お友達は何処にいるんですか?」
「んー、わかんないや」
陽子が引きつった笑顔で問いかければ、バロウ狐は無邪気に答えた。彼は迷子の子供を演じているようだった。
ひとまず、今すぐに夜行と出会うことはなさそうで、陽子は安心した息を吐く。
しかし。
どうしてこのバロウ狐は、こんなところにいるのだろうか。陽子に疑問なのはそこだ。
あの夜行と離れたのは、確かに、ここからは近い場所ではあった。だが、半日以上も前の話だ。
あの夜行が一晩もの間、この辺りをうろついていたとは考えにくい。ならばこの子は、いったいどこから来たのやら。まさか本当に迷子なわけでもあるまい。
そも、今の姿すら変化術によるものだから、人としても妖としても幼子なのか、それさえも怪しい。敵意や害意の類はないようだが、どこか妙な相手だ。
「どこから来たか、わかる?」
「えっとね。なんかでっかくて、ひろいとこ」
「お父さんとか、お母さんは? どこにいるのかな?」
「んー、きれいなおへや」
「なるほど、全然わからん!」
昭亥の問いに答える彼は、こんな調子で要領を得ない。
抽象的な言葉から察するに、街の中心にある観光客向けホテルに、あの夜行は泊っているようだ。
中心部からここまではかなりの距離があるから、何か目的がなければ、わざわざ来ようとは思わないだろう。ならば、このバロウ狐の目的はいかに。
「ね、ね。おねえさん」
考えていると、バロウ狐が声をかけてきた。
表情は無邪気な子供のままだが、その双眸の奥底からは、真剣さが覗いている。何かを伝えんとする者の瞳だ。
「なんですか?」
「おしっこ行きたい」
彼の言葉の裏には、誰も交えずに話したいという意志が見えた。
ここが分水領、出るのは正か邪か。
数瞬の思考、いくらかの可能性を考慮して、陽子は鴉切六紋を隠した鞄を持って、彼の話を聞くことにした。
「それじゃあ、おばあちゃんにトイレを貸してもらいましょう」
頷いて彼の手を握ると、昭亥に一言を入れてから、店主のおばあちゃんにお願いしてトイレの使用許可を貰う。
トイレはこの店の庭にある離れだから、こうして言っておけば誰かが使おうとしても、店主が止めてくれるに違いない。
都心ならばそこそこ大きいだろう庭を横切り、トイレの裏手、店の方からは見えない場所で陽子はバロウ狐に訊く。
「それで、どうしたんですか?」
「ぼく、わかるかもしれないんだ」
唐突な言葉に、陽子は首を傾げる。
彼は先ほどと変わらない、真剣な眼差しで答えた。
「昨日、人を殺したやつ」
「……どういうことです?」
彼は自身の鼻先を指さして、
「ぼくね、特別鼻が良いんだ。一族でも一番なくらい。だから、あそこに残っていた臭いを辿っていけば、きっと犯人を見つけられる」
この提案に、陽子はふむと考えた。
所詮は子供の話、胡乱だと片付けるのは容易い。だが彼の瞳に一切のぶれはなく、真実のみを口にしていると、何より雄弁に語っている。
きっと本当に見つけられる自信があるのだろう。自分には事件を解決に導く力があると、そう信じている瞳だ。
だが残念なことに、陽子には己に課した誓いがある。
「それはすごいですが……その、申し訳ないことに、あたしは誓いを起てていまして。人を捕まえたりはできないんです」
後髪をひかれる思いで断り、昭亥の下へ戻ろうと振り向いた。
「妖だよ。やったのは」
いやに声が響いた。
彼の言葉が波紋のように広がって、空間を支配していた。
沈黙。
数秒程度の。
「それは、本当ですか?」
「うん。人間の臭いじゃなかった」
ついと放たれた問いに、整然と彼は答えた。
振り向かないまま、陽子は平静ではない頭で思考する。
もしも。もしも本当に妖の仕業ならば、これは人間の手に余る事態だ。鴉は人々を殺すことで恐怖を植え付け、莫大な量の感情を喰らっている。すでに大きな力を付けていることだろう。早急に捕まえるか、首を刎ねてしまうべきだ。しかし、並の術師や妖では太刀打ちできないかもしれない相手に、たった三百年ほどしか生きていない若輩者の妖狐が戦えるだろうか。義憤に駆られたと言えば聞こえは良いが、わざわざ敵わない相手に向かうのは蛮勇である。人を愛せど救えるのは手の届く範囲だけだ。
と、ここまで考えてから、彼女は瞑目して首を振った。
逃げている。平穏の中にいたいからと、安牌を取りに行こうとしている。それは善くない。無辜の人々が殺されているのというのに、自分の周囲には被害が及んでいないからのうのうと解決を待つなど、善狐の風上にも置けない行いだ。臆病者、腑抜け、恥知らずにもほどがある。人が相手ならばいざ知らず、妖が相手ならば戦うべきだ。手が届かなくとも、伸ばすことはできる。ならば、往くべきだ。
「……わかりました。貴方の提案、乗らせていただきます」
決意と共に、陽子は目を開いた。
「本当に?」
「ええ、もちろん。あたし、嘘は吐けないタチなんで」
改めてバロウ狐と向き合い、右手を伸ばす。彼は嬉しそうに、その手を取った。
「ありがとう! ぼくは、バロウ狐のミカ。よろしくね、おねえさん!」
「あたしは加賀美陽子、陽子で構いませんよ」
狐二匹の同盟が、ここに成った。