妖狐の陽子と人斬り鴉   作:四十九院暁美

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妖狐の陽子と迷い家

 時刻は既に夜半を過ぎ、街が活気を失い始める頃。

 曇天の夜空が、重く垂れ込む。

 人斬り鴉に怯える街は、憂鬱の帳で重苦しい。空の色はネオンの輝きを鈍らせ、人々の顔には恐怖と不安が射す。行き交う自動車のライトは朧げに揺れ、街灯の光が虚ろに道を照らしている。

 人気のない路地裏を歩く陽子は、汚れた空気に顔をしかめた。

 鼻がばかになりそうなひどい臭いは、中心部ゆえか、郊外の大通りとは比べ物にならない。彼女のような獸妖怪にはこと辛く、そうそう慣れるものではなかった。

 そんな中でも、ミカの鼻は件の人斬り鴉の臭いを嗅ぎわけられるようで、言葉通り本当に鼻が良いらしい。一族でも一番と豪語するだけはあるようだ。

 

「嘉平さん。あの、怒ってます……よね?」

 

 背中にミカを乗せた陽子は、隣を歩く嘉平に申し訳なさを滲ませながら訊いた。

 家族に心配をかけたくなくて、正面切って夜に外出するのを憚った彼女は、家族が寝静まったのを確認してから家を出た。

 おかげで昨日よりもずっと、時間にしておおよそ三時間以上、長く嘉平を待たせたことに罪悪感を抱いていた。

 彼は気にした様子もなかったけれど、昨日の今日だというのに、寒空の下で待ちぼうけさせてしまったのを、やはり申し訳なく思っている。

 それに加えて、独断でバロウ狐のミカを連れてきてしまったのも、罪悪感を膨らませた。 

 昼間はほとんど勢いで了承したが、よくよく考えれば、彼に相談してからどうするか決めるべきだった。鴉を捕まえなければ。そう思う気持ちは本物だが、やはり逸ってしまうは良くない。

 彼にはミカを連れてきた事情は説明したけれど、妖嫌いの彼はきっと怒っているだろうと思っていた。

 しかし。予想に反して彼は、

 

「……、くだらぬ」

 

 独り言のように答えるだけで、怒った様子もない。

 それはそれでなんだか妙ではあるけれど、怒っていないのならば良いのだろう。陽子は強張っていた肩を下ろして、安心した笑顔を彼に向ける。

 貸しっぱなしのマフラーをなびかせる嘉平は、彼女を一瞥して鼻を鳴らすと歩調を速めた。

 

「おばりよん!」

 

「黙れ」

 

 ミカのからかった声――彼は元の姿になると、喋られなくなる――に、嘉平はにべもなく言い放つ。

 鴉捜索のためとはいえ、妖に協力を仰ぐのは遺憾なのか、それともミカを信用していないのか。嘉平のミカに対する態度は、真冬の井戸水みたいに冷たかった。

 

「……それで、ミカくん。鴉の臭いはこの先で間違いないですか?」

 

 問いかけに肯定の一鳴きを返す。

 昨日の一件で陽子と嘉平は、まず鴉を捕まえるべきとして目下と定めた。

 木っ端の妖ならば放置したとてさしたる問題にはならないが、あの鴉を逃がせば如何なる被害が出るかわからない。見過ごせない悪党だった。

 煌びやかな大通りから外れ、破落戸がのさばる路地奥へ入ったが、今のところ誰とも遭遇していない。

 本当に鴉がいるのかと、少しばかり心配になってくる。

 破落戸とて人間だ、無為に惨殺されるなんてごめんこうむるに違いない。

 だが、それにしたってこの静けさは無気味である。幽霊のひとつやふたちも、出てきそうなくらいだ。

 

「いやに静かですね」

 

「勘付いたか」

 

「あたしたちに、ですか? あり得るのでしょうか」

 

「周到な輩ならば、あるいは」

 

 誰にも見つからず犯行を一年続けた輩なのだ。この接近に気付いて、逃げおおせているかもしれない。

 今辿っている臭いはただの残り香で、本体は遠く離れた場所にいても、おかしくはないだろう。

 そんな心配が、二人の間を通り抜けた。

 

「ミカくん、臭いはどうですか。遠く離れたり、薄くなったりはしていませんか」

 

「おばりよん!」

 

 彼は前足で道を示す。路地の先に広がる黒々とした暗がりから、臭いは変わらずに漂ってきているようだ。

 

「ふむ。逃げた様子ではない、ですか。なら、急いで行ってみましょう」

 

「逃がすは惜しい、か」

 

 嘉平と陽子は、一瞬だけ視線を交わしてから、東京の闇の中を駆けた。

 ミカに導かれるまま、二人は路地を進んでいく。

 不意に、大きな一軒家の前に出た。

 それは大きく立派な黒い門の家で、開け放たれた門戸からは、非常に立派な構えの邸宅が見える。

 明らかに普通ではない。

 ならば、すなわちこの家は。

 

「迷い家!? どうして、こんなところに……?」

 

「お、おばりよん……」

 

 妖二匹は驚愕で目を瞠った。

 迷い家。マヨヒガとも呼ばれるこの妖は、何者かが戯れで作った選定の場である。

 欲無き者には富と繁栄を、欲深き者には噓と虚無を与えるここは、本来ならば人里離れた山奥にのみ存在している隠れ里だ。

 一説には山の神が旅人のために作ったと言われているが、ことの真偽は文字通り、神のみぞ知る。

 そんな大層なものが、大都会東京のど真ん中に建っているとなれば、二匹が腰を抜かしかねないほど驚くのも当然だった。むしろ腰を抜かさなかっただけマシとまで言える。

 

「面妖な。このような場所にいるものか」

 

「み、ミカくん? 本当にこっちから臭うのですか?」

 

 二人の懐疑を受けて、ミカは自信なさげに首をかしげてしまう。

 鴉の臭いは、ここで間違いないらしい。

 ということは、鴉は迷い家を住処にしているとでもいうのか。

 だが迷い家はその性質上、二度とは会えない家、一夜を過ごすならばともかく常駐するなぞ不可能である。

 いよいよもって無気味を極めた事態に、二人と一匹は、どうしたものかと顔を見合わせた。

 迷い家自体に危険性はないが、この中に鴉がいるかもしれない。

 先ほどのような路地で刃を交えるならまだしも、相手が勝手知ったる場所での剣戟は避けたかった。

 

「困りました……迷い家は結界によって外界と断絶された空間、異世界と言っても過言ではありません。そんな場所に鴉が潜んでいるとなれば、内部構造のわからないこちらは不利も不利、飛車角落ちどころか金銀落ち、寡兵で城攻めするみたいなものです。それに貴重な建築物ですから、傷つけるのは憚られますし……そもそも、なんで東京のど真ん中に現れたのやら……」

 

「面倒だ、斬るか」

 

「ばりよん!?」

 

「ちょっ、嘉平さん!? 聞いてましたか!? 貴重な建築物だって言いましたよね、あたし!」

 

「結界なのだろう。ならばそれを斬り、霧散させてしまえば面倒は減る」

 

「妖だからってなんでも斬ろうとしないでくださいよ! 迷い家はとても貴重なものなんですよ!? 妖界の重要指定文化財なんですから、絶対に絶対にやめてください! わかりましたか?!」

 

「敵前で騒――」

 

「わかりましたかって言ってんでしょうがーッ!?」

 

「わかった」

 

 怒号に押されて、嘉平は渋々引き下がった。

 もし彼がひとりでここに辿り着いていたらと思うと、まったくぞっとしない。

 陽子は特大の溜め息を吐いた。

 ミカは呑気な二人に呆れて、閉口するばかりである。

 

「まったく、もう! あたしが先行して中の様子を見てきますから、嘉平さんはここで待っていてください。くれぐれも、家に傷を付けたりしないこと。いいですね?」

 

「……」

 

「返事は?」

 

「わかった」

 

「よろしい。では行きますよ、ミカくん」

 

「おばりよん!」

 

 不平不満を隠そうともしない嘉平に、きつく言い含めてから、陽子は迷い家の敷居を跨いだ。

 屋敷への道は苔生した石畳が丁寧に敷かれており、道の左右には、冬だというに、よく手入れされて形の整った草木が生い茂っている。

 庭園には紅白の花々が美しく咲き誇り、朱に塗られた小さな橋の架かる池には、睡蓮の花と野生の鴨たちが戯れ、楽土の小池を思わせる風景を作っていた。

 奥を覗けば、厩舎らしき小屋があって、馬や牛、鶏などの家畜の鳴き声が、風に乗って聞こえてきた。

 玄関を開けると、ふわりと漂ってきた白米の香りが、鼻孔をくすぐる。

 家に上がり、奥へ向かう。

 廊下には古今東西の調度品が飾られ、家の”高さ”が察せられた。

 ちらと覗き見る部屋には、いかにも高級な茶器が用意されて、囲炉裏には真新しい炭がくべられていた。

 ひと際奥まった場所にある広い座敷に入ると、朱と黒の膳椀がずらりとへ並んでいて、乗せられた湯気立つ料理と、置かれた漆塗りのおひつがあった。

 上座には金屏風が立て廻され、唐銅火鉢には新しい炭が入れられているけれど、人の気配はどこにもない。

 

「臭いは、どこに」

 

 座敷の中央に陣取って、陽子は注意深く辺りを見回す。

 ミカは難しい表情で鼻をひくつかせていたが、突然、ハッと目を見開いて上を見た。

 ぞわりと。

 死の気配が全身を包む。

 

「っ!」

 

 反射的に後ろへと飛び退くと、同時に、天井から野太刀が生えてきた。

 あとちょっとでも反応が遅れていたら、頭上から串刺しにされていたに違いない。

 たった一太刀、されど一太刀。

 静謐なる迷い家は、すでに死線の張り巡らされた戦場へと、変貌していた。

 背中のミカを気にしながらも、陽子は腰を低く落として変化の一部を解く。

 髪の毛は白く染まり、頭には先っぽが黒く染まった一対の尖り耳が生え、尻からは白く美しい毛並みの尾が垂れる。

 手足の爪は鋭く尖り、瞳には琥珀の輝きを宿す。

 狐と人間が合わさったような姿。

 半妖の状態。

 人の器用さと狐の獸性を扱えるこの姿こそが、陽子にとっての戦闘形態だ。

 

「何者ですかッ」

 

 痺れるような死臭に顔をしかめながら、野太刀の主に問いかける。

 答えとばかりに刃が動く。

 天井を斬り壊しながら、荒々しい太刀筋で疾走する殺意が、陽子たちに襲いかかった。

 膳椀を蹴り飛ばし、障子を吹き飛ばしながら、座敷を飛び出す。

 呼吸が乱れて、浅くなる。

 冷や汗が噴き出し、鼓動が早鐘を打っている。

 齢三百。

 これほどまでの殺意を感じたのは、はたして何年ぶりだろうか。

 嘉平もなかなかの殺意ではあったが、鴉は比較にすらならない強さだ。

 死そのものと言っていいくらいに研磨され、無色彩なまでに澄み渡っている。まるで悪意で作られた殺戮兵器だった。

 陽子は全身が粟立つのを抑えながら、とにかく逃げることに専念した。

 ミカを背負っている状態で、あれに太刀打ちすることは難しい。本来の動きができないのもそうだが、何より、彼を護りながら戦うのは荷が勝ちすぎる。

 出口を目指して走る背を、天井を走る刀が追う。

 速度は同じ、いや、あちらの方がわずかに早い。

 天井を破壊しながらだというのに、なんたる馬鹿力だろう。地の利も向こうにあるから、このままでは出口に辿り着く前に、行き止まりに誘導されて追い付かれるのが先だ。

 一瞬の思考の後。

 陽子は近くの部屋へと飛び込んで、背後の野太刀を躱すと、ミカを下ろして、背中に隠していた鴉切六紋を抜いた。

 

「出口へ! ここは引き受けますから、嘉平さんを!」

 

 彼は有無を言わずに駆けだす。

 同時に戻ってきた白刃が迫る。

 

「させません!」

 

 ミカを狙った軌道に割り込み、左手を鴉切六紋の峰に当てて、両手で受け止めた。

 凄まじい衝撃が全身を襲う。

 両腕が折れそうなほど軋み、悲鳴を上げてた。踏ん張りも効かず、勢いのまま廊下を引きずられて、突き当りの壁に叩きつけられる。

 それでもなお相手の力は衰えない。むしろ増しているのではないかとさえ思えてしまう。

 

「いったい、何が……っ、何が目的なんですか!」

 

 壁と野太刀の万力で潰されそうになりながら、陽子は野太刀の主へと叫ぶ。

 すると、どうだろう。

 

「目的とは、ヒヒヒ、おかしなことを言う小娘だ」

 

 しゃがれた声が、天井が降ってきた。

 男性らしき者の声だった。

 

「貴方はどうして、人を……無辜の人々を、あんなにも惨たらしく殺すんですか」

 

 続けて問えば、おどけた調子で鴉は言う。

 

「はて、何故だろうなあ。拙僧もわからぬ。わからぬが、ヒヒヒ、妖が人を殺すのは道理ではないかね。ええ?」

 

「そんな道理が、あるものですかッ」

 

「おお、そうかそうか。かような道理はないと、小娘はそう言うか。なるほど、温い」

 

 鴉の声から感情が消えた。

 

「妖の誇りを忘れたか、哀れな狐よ。我ら妖は恐れより生まれ、破壊によって力を増す。祖は恐怖、祖は破壊。我ら恐怖と破壊の子なれば、人を殺めること、これ即ち道理なり。なれど狐、汝が言葉、児戯にも及ばぬ。小人ここに極まれり、汝の業かくや救い難し。綺語の愚を其の身に刻み、六道を廻りて我らが祖に詫びよ」

 

「ぐ、くっ……!」

 

 仏教徒めいた言葉が放たれた途端、野太刀に込められた力が強くなる。なにかわからないが逆鱗に触れたらしい。

 

「……っ!」

 

 もはや呻き声のひとつも出せなくなって、ぎりりと鳴る刃と全身の痛みだけが、生きていることを実感させてくれる。

 すでに限界近かった陽子は、声も出せないまま潰される他にどうしようもない。ミカと嘉平の到着だけが頼りだった。

 時間にして数十秒だが、体感では数時間も経った頃。

 よもやこれまでかと思われたその時、刃の鳴る音に混じって足音が聞こえてきた。

 顔をそちらに向ければ、嘉平が刀を抜いたところだった。

 

「疾ッ」

 

 跳躍。

 刺突。

 鬼気迫る勢いで天井へ刀を突き立てた嘉平は、刺さった刀を起点に空中で回転すると、勢いを利用して一気に斬り払う。

 野太刀に込められた力が緩んだ。

 陽子はほとんど倒れ込むようにして脱出すると、なんとか上体だけを起こして脇差を構えた。嘉平も手ごたえを感じていないのか、油断なく天井に刃を構え、すぐに突きを放てるようにしている。

 鴉は、まだ倒れていない。

 

「危ない、危ない。串刺しになるところだったわ」

 

「鴉ッ……!」

 

「ヒヒヒ、人間にしてはできるか」

 

 すらりと野太刀が動き、天井へ消えていく。

 先ほどまでの殺気は消え失せ、どこか白けたような声色で、野太刀の主が言う。

 

「だが惜しいなァ。心頭伴わぬその刃、拙僧には届かなんだ」

 

「戯言を」

 

「事実を言ったまでよ。しかし、今宵は闘争の気分ではないのでな。まずは退かせてもらうかの」

 

「逃がすものかッ」

 

 ギシリと天井が鳴る。

 嘉平の刺突が入るが、空しく板を貫くだけで、鴉には届かない。

 

「縁があればまた会えような。それまで精進しておけ。ヒヒヒ……ソワカ、ソワカ」

 

 それ以降、鴉の声は聞こえなくなった。完全に逃げられたようだった。

 安堵の溜め息を吐いた陽子は、その場にへたり込んでしまう。 

 妖にとって命のやり取りは常だけれど、今回ばかりはさすがに肝が冷えた。嘉平が間に合わなければ、押し斬られていたに違いない。

 

「おばりよん……」

 

 いつの間にやら傍にいたミカが、ひどく心配そうな様子で顔を覗き込む。

 

「大丈夫ですよ、ちょっと疲れちゃっただけです」

 

 力なく笑って頭を撫でてやると、彼はお腹に頬を摺り寄せてきた。

 

「臭いは追えるか」

 

 刀を納めた嘉平の問いに、ミカは静かに首を振ると上を指す。

 今さら天井を指してどうしたというのか。

 少ししてから、はたと気付く。

 天井ではなく、空を指しているのだと。

 

「飛んで行った、ってことですか?」

 

 肯定の一鳴きが耳を打つ。

 

「なるほど、やっぱりですか」

 

 鴉の正体におおよその当りが付いて、陽子は納得したように頷く。片眉を上げる嘉平は、説明しろと視線で訴えていた。

 

「天狗です。天狗の破戒僧」

 

「天狗の破戒僧だと」

 

「おばりよん?」

 

 天狗。

 それは山中に潜む修験者、山神の使い、風神の化身、堕ちた僧侶が転じた妖である。

 一般的には、赤ら顔で鼻が高く、山伏の衣装を身に纏い、一本歯の高下駄を履いた姿で知られている。

 彼らは仏教を修めたにもかかわらず、自らの傲慢によって悟りを開けず、六道からも拒まれて、輪廻を正しく抜け出せなかった者たちだ。

 

「天狗とて元僧侶……いえ。今もまだ仏教徒のつもりなのでしょう。ですから、大多数は仏教の戒律を守って生活しています」

 

 しかしその中でも、邪心を抱いて戒律を破り、魔の底へ堕ちる者がいる。それこそが、先に出会ったあの人斬り鴉。戒のひとつである不殺生戒を破り、殺戮を楽しんでいる外道の魔物だ。

 

「天狗の中でも破戒僧は忌み嫌われています。種族としての名と権限をはく奪された後、天狗の住む山への立ち入りを禁じられるので、実質的に追放扱いですね」

 

「つまりあれは、住処を探していたのか」

 

「どうでしょう……人斬りをしながら住処を探していたのか、住処を探しながら人斬りをしていたのか。去年の犯行を鑑みれば、おそらくは前者ですかね」

 

「修羅に堕ちた天狗、か」

 

「修羅道には入れないんですけれどね。まあ、それは良いんです。あとは、天狗の種族なのですが」

 

「飛ぶならば、鴉天狗か」

 

「でしょうね。なにせ人斬り鴉ですから」

 

 天狗にはいくつかの種類がある。

 天狗の中では新参者であり、まだ鼻の低い木っ端天狗。

 木っ端の中でも人に近しく、狼に変身できる白狼天狗。

 文武に秀で、神通力を操り、鴉の嘴をもつ鴉天狗。

 天狗どもの長であり、広く知られる姿をした大天狗。

 そして、天狗としての名も力もはく奪され、山から放逐された天狗モドキ。

 今回相対したのは、鴉天狗が破戒僧となった天狗モドキだ。戒律を破り破戒僧となった天狗は、妖にとって最も大切な、自身の存在をこの世に留めておくための”名”を奪われた。

 妖は恐れによって成り立つが、”名”という呪がなければ存在は確立されず、消えてゆくのみ。

 ゆえに名のない天狗モドキは、実質的に死に体だった。

 人斬りによって恐れを集め、なんとか生き長らえているだけの死にぞこないだった。

 だが、死に体とて天狗。

 本来なら持ち得た強力な神通力は失われてるが、生粋の武はいまだ健在であり、一筋縄ではいかないだろう。まったくもって厄介なことである。

 

「面倒な」

 

「神通力がないだけマシと考えましょう、おかげで厄介な妖術やら何やらが飛んできませんから。しかしあの天狗、迷い家に住もうだなんてよくも考え……って、うわぁー!? 迷い家がめちゃくちゃじゃないですか!?」

 

 真面目な空気から一転して、陽子が情けない悲鳴を上げた。

 戦場となった迷い家は、見るも無残な姿であった。

 天井板はなくなり、戸は折れ曲がり、壁にはいくつものひび割れが走っている。

 廊下には割れた花瓶や、破れた衝立が散乱しており、部屋は倒れた家具が埋めていて、もはや家というには過言な姿だった。

 

「ああああああ……なんということでしょう……貴重な迷い家が、まるであばら家のように大変身してしまいました……歴史的建造物が、ただのぼろ小屋に……およよ……」

 

「泣くほどか」

 

 迷い家の惨状に、陽子はしくしくと泣きだす。嘉平は呆れかえった様子で瞑目し、ミカはどうしたらいいかわからず、とりあえず彼女の涙を前足で拭き取った。

 鴉が去ってしまった以上、ここに長居する意味はない。夜が明ける前に帰らなければ、怪しまれてしまうだろう。

 

「うぅ……片づけの少しでもしていきたいですが、時間がありません……」

 

「是非もなし」

 

 意気消沈のまま立ち上がろうとした時、スッと、右手が差し出された。ごつごつとしていて、掌はたこが出来て見るも堅そうだった。

 意外なことに、嘉平はまた助けてくれるらしい。

 

「あ、ありがとうごさいます」

 

 外面は冷たいけれど、なんだかんだで優しい。

 手を握ってみれば温かくて、彼の内面を覗いた気持ちになる。少しだけ彼のことを好きになった。

 

「では失礼して……、あれ?」

 

「どうした」

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいね? せーの! むっ、ふっ、んぎ……!」

 

 立ち上がろうと足腰に力を入れても、何故だかうんともすんとも言ってくれない。どれだけ力を入れても腰が浮く気配は微塵もなく、まるで床に縫い付けられたみたいに立ち上がれなかった。

 

「こ、これは、困りましたねえ……あはは……」 

 

 赤らんだ顔で困った風に笑う。

 どうやら腰が抜けてしまったらしい。

 ミカは驚いてひとつ鳴き、嘉平は露骨に溜め息を吐いた。

 

「軟弱者め」

 

「面目ないです……」

 

 叱責されて、うなだれる。

 あんまりにも情けないものだから、穴があったら入りたいくらいに恥ずかしくて、どんな表情をしたら良いのかわからなかった。

 

「おばりよん?」

 

「今回だけだ、狐」

 

 そんな言葉と共に、ひょいと身体が浮き上がる。

 すわ何事かと顔を上げれば、目の前には嘉平の顔があって。理解が追い付かずに、脳内をクエスチョンマークが駆け抜けていく。

 そうして茫然としたまま迷い家の門をくぐった時、初めて陽子は、自分が嘉平に抱きかかえられていることに気付いた。

 

「えっ、ちょ……えええええええええええええ!?」

 

「黙れ」

 

 急に大声を上げたものだから、嘉平は不快そうにひどく顔を歪めた。

 全身が熱くなって、心臓が早鐘を打つ。

 どういうことだと抗議しようにも、表情が強張って言葉をうまく発せない。

 羞恥と、混乱と、若干の嬉しさで、頭が混乱してどうしたらいいかわからなくなってしまう。

 がっしりとした身体の熱、男らしい手のひらの感触、獸のような雄の臭い。どれもこれもが、初心な陽子には刺激が強すぎた。

 

「あ、あにょ、これはっ、すごいですってぇっ!?」

 

 やっとこさ絞り出した言葉は、変に上擦り、呂律も回らず、自分でも何を言っているのか理解できなかった。

 

「歩けぬのだろう」

 

「しょっ、んなことはありますけど! ありますけどっ! えんりょとかあるでしょ!?」

 

「知らぬ」

 

「しってくだしあ!? お姫様抱っことか初めてされたんですけど!? うら若き乙女に何してくれてるんですか!? お師匠様にもされたことなにのに! 貴重な経験ですね、ヤバイですよ!?」

 

「……駄狐が」

 

 自宅に着くまで、陽子はずっとこんな調子のままだった。

 

 




 夜明け前に家に帰った陽子は、寝る気分になれず、学校へ向かう準備をしていた。
 準備といっても、教科書を手提げかばんに詰め込み、制服に着替えるだけで、何か特別なことは何もない。
 強いて言えば、さっきに末代までの恥を晒していた事実を早急に忘れるくらいか。

「……ん?」

 ころり。
 コートを脱いだ時、何かが転がり落ちた。
 拾ってみれば、それは錆び付いた銭だった。
 大きさは掌より少し小さいくらいだが、ずっしりとした重さがある。
 三百年を生きた陽子でも見たことがない形で、錆びや傷の具合からして相当に古い時代のものらしい。
 こんなものをコートに入れていた覚えはなかった。
 拾った覚えもついぞない。と
 なれば、これは追跡用の呪具だろうか。陽子は眉をしかめる。
 もしそうならば早急に破壊しなければならない。あの天狗モドキに家がばれてしまったら、大変な事態だ。
 幸いにも陰陽術による簡単な鑑定ができるので、まずはこれが何であるか判別をしてみることにした。
 適当なノートに鉛筆で五芒星を描き、中央に銭を置いて封じると、鑑定の文を唱える。

「正邪顕伝、急々如律令」

 指先でそっと銭に触れた。
 じわじわと温かいものが指先から伝わる。
 感覚からして、悪しき呪が施されているわけではない。
 これはむしろ真逆、祝福と退魔の力が宿っているようだ。
 これ自体が厄除けのお守りであり、少し加工すれば退魔術の触媒に使えるだろう。
 拾った記憶もなく、いつの間にかポケットに入っていた。となると、手に入る場所はひとつしかない。

「まさか、ね」

 肩を竦めて、首を振る。
 迷い家からの贈り物なんて、それこそ馬鹿な話だ。あの場所は欲無き者に祝福を与える家、不可抗力とはいえ、家を荒らした陽子に物が贈られるなどありえない。
 しかし物があるのは事実、はたしてありがたく受け取るべきか。
 考えを数巡させた後、銭を両手で拾い上げた。

「ありがたく、いただきます」

 朝陽に照らされたそれは、どこか神々しく輝いて見えた。
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