「はあ。どうしましょうか」
次の日の放課後。
公園のベンチで温くなった缶コーヒーを、両手で握りながら、陽子は悩んでいた。
嘉平には自分で鴉を探すと言ったが、それらしい当ては少しもない。
ミカには嘉平に協力するように言い含めてしまったし、頼みの綱である探知の呪符もどれだけ効果があるものやら。
溜め息を吐きたいくらいに、陽子の手札は少なかった。
夕暮れに染まる街並みを、ぼうっと眺める。
頭に浮かぶのは、この前に言われたあの言葉。
そして嘉平に告げられた別れ。
自分に嘘を言っている。
ほとんど会話していないはずの、ぽっと出でしかない謎の女性に指摘されるほど、自分は取り繕っていたのだろうか。
嘉平は自分のことを、足手まといと思っていたのだろうか。だから、あのタイミングで別れを切り出して来た。そういうことに違いない。
なんて考えばかりがよぎる。
実際のところ。
陽子は上手く自分を”隠していた”し、足手まといにもなっていなかった。
そう、”隠していた”のだ。
彼女の中には”自分は妖である”という意識がまず第一にあり、その次に”人間と仲良くしたい”という意識がある。
己が異物であるとわかっていて、それでもなお、人間と共に生きたいと願っていた。
しかし同時に、人と共に生きるためには、妖としての自分を見せてはいけない。真に心を許した相手にすら、自分の正体を晒してはならないことを理解していた。
妖と人とは生き方や成り立ちが違う。
世にある異類婚姻譚(いるいこんいんたん)は、おおよそ悲恋で終わる話が多い。
人間とは異なる存在、妖であることがばれて、恋人のもとを去っていく。
そういう話ばかり。けれど人と妖の関係は、つまりはそういうことだ。
個人でわかりあえたとしても、社会単位では相容れる存在ではないのだ。
だから彼女は、細心の注意を払って生きてきた。しかしそれが仇になった。
本当の自分をひた隠しにして”人間の加賀美陽子”を演じて生きていたが、少しばかり演じ過ぎた。
人の中で生活し続けた結果、加賀美陽子の仮面が癒着して、本当の自分になってしまう寸前までいた。
妖の本分を忘れ、人として生きていたいと、無意識のうちに願ってしまった。
しかしそんな折。
嘉平に出会ってしまった。
彼は陽子にとって初めて、妖のまま接しても問題のない人だった。ありのままの自分で付き合えた人間だった。
出会い方は最悪で、印象も最悪。
不愛想で口も良くないから、何を考えているのかもよくわからない。
いつ斬られてしまうのかと内心では恐ろしかった。
けれど、陽子を必要以上に恐がったり、気味悪がったりせずに、きちんと見てくれていた。
多少の含みがある視線を寄越すこともあるが、それでも、等身大の陽子に忌避なく接してくれたのだ。
人とも妖ともつかない生活の中で、偽りの仮面を被り続けていた陽子に、それはあまりに影響が強すぎる関係で。
心の奥底にしまい込んでいた気持ちが、むくむくと顔を出し始めて、仮面に綻びを作ってしまった。
結果。
彼女は言われた通り、人とも妖ともつかない中途半端な気持ちになってしまった。
たった数日でそんなに心を開くものか。
そう思うだろうが、妖のままを受け入れてくれるというのは、あまりに重大である。人間に理解するのは不可能なほどだ。
「はぁ……」
我知らず、溜め息が出る。
こういう時に限って、昭亥はバイトでいない。
彼女がいれば、抱える事情は相談できずとも、気を紛らわすくらいはできただろうに。まったく憂鬱である。
気を紛らわすために、飲まずにいた缶コーヒーを開けようと、プルタブに指をかけた。ちょうど、その時。
「あら、何してはるの?」
急に声をかけられた。
顔を上げると、そこには大人の女性がいた。
臙脂色のコートを着込んだ二十代後半の女性だった。
「そないな顔して、かあいらしい顔が台無しやで」
「はあ……」
気の抜けた返事をしてしまう。
京言葉、だろうか。
ふわりと、線香の香りが鼻をくすぐる。 いつだったか訊いた憶えのある話し方をする彼女は、気が付けば陽子の隣に腰かけていた。
「なしたん? 嫌なことでもあった?」
匂やかな笑みを浮かべる彼女は、つらとそんなことを言う。どうやら彼女は、思い悩む陽子を見かねて、助け舟を出しに来たらしい。
「そこまで、暗かったですかね」
「せやなあ」
「あはは……、そうですか。まいりましたね」
困った顔をして、頭を掻く。
人から見てわかるくらいには落ち込んでいたと知って、なんだか恥ずかしくなってくる。
そして、それを気にする余裕がない自分に、ほとほと嫌気がさしてくる。
「おばちゃんに話してみ? 全部は言わんでええから」
「でも、それは」
「ちょい話せば、楽になるかもしれへんやろ。それにな、知らん人やから言えることもあるもんやで」
「……」
こうまで心配されると、無下にもできない。
申し訳なくて、情けなくなくて。貝のように縮こまりながら、陽子は女性に、少しずつ言葉を選びつつ自身の胸の内を告白した。
「ええと……なんと表現したらいいんでしょう。あたし、みんなに本当の自分を隠して、ずっと過ごしてきたんです。本当の自分は、誰にも、家族にも見せたことがなくて」
「うん」
「それで、自分を偽っていたんです。けどこの前、その……最悪な形で……赤の他人にばれてしまいまして。その時にひと悶着あって、彼と行動することになったんです。彼はありのままのあたしでいても、何も言いませんでした。肯定も否定もせずに、いてくれたんです。もちろん、いろいろ含むところはあったと思います。けれど、寒い中でずっと待っててくれたり、危ないところを助けたりもしてくれて……」
「ええ人やねえ」
「はい。性格も口もきつい人でしたけど、善い人でした。でも、今はもうその人とはお別れをしてしまって……自分を見てくれる人が、いなくなってしまって……でもあたしは……」
視線を彷徨わせて、言葉を選んで、呟く。
「本当の自分を、見てくれる人が欲しい」
ぽつりと、手に雫が落ちた。
「だって、ずるいじゃないですか! さんざんあたしのこと引っ掻き回して、そのくせにすぐいなくなって……こんな抑えの効かない感情押し付けて! そのくせ、すぐにあたしを捨てて! 望んじゃうじゃないですか……ダメなのに、もしかしたらって、思っちゃうじゃないですか……」
気付けば陽子は、叫ぶみたいに吐き出していた。
ずっと。三百年もの間、ずっとひた隠しにしてきた気持ち。
心の底にしまった願望。
無理やり押しとどめていたものを、ひとたび外へ出してしまえば、もう止めることができなかった。
たとえどれだけ人と仲良くなっても、偽りの自分を演じ続けなければいけない。
誰も本当の自分を知らず、誰にも本当の自分を教えず。
人を騙してはいけないと定めておきながら、正体を明かしてはならないという矛盾に苛まれながら、出会いと別れを繰り返す。
はたしてそれは、どれほどのストレスだったろうか。
「本当に、ずるいです……初めてですよ、ここまでむかっ腹が立つ別れ方は……」
どこからか、無邪気な子供たちの声が聞こえる。
ギリと歯が鳴った。
何も知らずに自分をさらけ出して、はしゃぎまわれる子供の自由を、今だけは恨めしく思った。
声が遠のいて聞こえなくなると、それから長い沈黙があって。
「恋しいんやね、きっと」
女性は、静かに言った。
「……、恋しい……?」
わけがわからなくて、女性の顔を見上げる。
彼女は慈悲深い顔で目を細め、言い聞かせる口調で答えた。
「そう。あんたはその人が恋しいんや。飾らない自分を見ても、なんも言わんといてくれるから、側にいたいって思っとる。嫌ならそんな想わんと、別れてせいせいしたわー、ってなるはずやろ?」
「たしかに、そうかもしれませんけど」
「恋しゅうて会いたくて。でも別れた手前、会い難い。だからどうしたらええか困っとる。今のあんたはそういうことや」
「そう、でしょうか……」
「そうやって、絶対。せやからまず、会ってみるんがええ。普通に会って、普通に話す。難しいかもしれへんけどそれが一番や」
「……はい」
「”好きな人”と別れて辛いやろけど頑張りや、おばちゃん応援しとるで!」
「……はい?」
なんだか聞き捨てならない言葉が聞こえて、陽子ははたと正気に戻った。
「私もな、彼にフラれて悲しゅうて、辛い時期があったんやわぁ。でもな、諦めずにアタックしとったら、いつのまにやら縒りが戻って、気が付けばもう旦那さんなんやで」
「それはすごいですね。……じゃなくて!」
「ん? 何が?」
「違いますからね? あたし、恋愛相談してたわけじゃないですからね?」
「またまた~」
「いや本当ですって! そりゃまあたしかに、憎からず思ってますけど……」
思い出されるのは、迷い家で見た彼の姿。
助けに来てくれた時のこと。
そして、彼が抱きかかえてくれた時のこと。
がっしりとした体躯に、いかにも男らしい手、そして立ち上る雄の臭い。
”好きな人”。
その言葉が脳内に響き渡った。
「いや、いやいやいやいや! そんなわけ……そういう恋愛的な関係ではありませんからね!?」
首がもげる勢いで横に振り、全力で否定する。いたたまれない気持ちにもなってきて、思わず声を荒げてしまった。
「もう、そんなん言うからに」
「本当なんですって!」
いくら弁解しようとも、女性は視線は実に温かい、慈愛とからかいに満ちた目で陽子を見守るばかりである。
しかしこれは、しようがないことだ。
お別れしただとか、自分を見てほしいだとか、紛らわしい言葉が多かったから、聞きようによっては、そういう話に聞こえてしまうのも事実。
どれだけ言っても聞かないから、遂には陽子のほうがぽっきり折れてしまった。
「はあ……わかりました、いいですよもうそういうことで!」
「あら~」
「あら~、じゃないですよ! もう……」
これ見よがしに溜め息を吐く。
さっきまで悩んでいた自分がバカらしくなって、なんだかどうでもよくなってしまう。楽にはなったが、かわりに酷く疲れてしまった。
「うふふ、でも調子戻ったんとちゃう?」
「それは、まあ……そうですね」
すっかり時間が経ってしまった缶コーヒーを開けて、もやもやとした気分ごと、喉奥に流し込む。冷たい上に苦みが強くてマズかったが、気持ちをリセットするには充分な刺戟だった。
「ありがとうございます。見ず知らずなのに、話を聞いてくれて」
「かまへんよ。元気になったんなら何よりや」
ころころと笑ってから、女性はすっくと立ち上がる。
それから、真面目な顔で陽子を真っ直ぐ見つめた。
「あんたの”本当の自分を見てほしい”っちゅう気持ち、わかるで。誰でもみんな、見せられない、見られたくないモンをひとつやふたつ抱えとる。それを人に見せるのは、そら難しいし、嫌われたらどないしよって恐なるよな」
「はい」
「けどな、それで尻込みしとったら、一生おんなじとこで止まってまう。本当の自分ちゅうもんは、本当に自分にしかわからん。見てほしい。知ってほしい。そう思うんなら、まずは自分から見せなアカンよ」
「自分から、ですか」
「そっ。ウチはこんなですーって、堂々と話したらええ。案外みんな、わかってくれるもんやで?」
ニッと白い歯を見せて笑う彼女は、とても頼りがいのある大人のようだった。
「そう、ですね。きっと、そうかもしれません」
陽子は妖だから、そう簡単な話ではないのだけれど、彼女の言葉には一理あった。
抱えるばかりでは誰もわからない。
一度手放して、それをきちんと見てもらって、初めて理解してもらえる。受動的ではなく、能動的に待つのが大事なのだ。
「ありがとうございました」
改めてお礼を言い、深々と頭を下げる。
ずいぶんと気持ちが楽になった。話を変な風に解釈されたのは遺憾だが、こんなにも親身になって話を聞いてくれたのだ。それにくらべれば些事だろう。
「あたし、頑張ってみます。まだちょっと、恐いですけど……本当の自分を見てもらえるために、努力してみようと思います」
力強く宣言すれば、女性は頷いて、最後にそっと陽子の頭を撫でた。
「頑張りや。あんたならきっとできる」
「はいっ」
ふわりと、線香の香りが遠ざかる。
少しだけ名残惜しそうに手が離れて、女性がこちらに背を向ける。
「あ、せや」
それから、はっと思い出したように手を打つ。
何事かと首をかしげたら、彼女は、
「もう危ないこと、したらあかんで」
さきほどの雰囲気からは想像もできない、ニヒルな笑みを浮かべてそう言った。
「へ……?」
あまりに急な変化に付いて行けず、間の抜けた声を出してしまう。
目を瞬かせて呆気に取られていると、女性は「ほな、またな」と調子を戻して、ゆったりした足取りで去っていった。
ミステリアスで意味深な言葉を残していく彼女は、あのスーツの女性と重なる。
妖気は感じられなかったが、おそらくその正体は妖に違いない。確証はないが確信はあった。
きっと彼女らは、鴉を追っているのだろう。
そう考えれば、なるほど、昨日今日の接触は偶然ではなかったのだと気付く。
部外者にもかかわらず、捜査現場をウロウロする陽子と嘉平は、さぞかし邪魔だったのだろう。
危険な場所に勝手に入り込んで、いろいろと物色しているのだから、あちらとしては溜まったものではない。
だからこうして、あの二人はやって来た。無暗に首を突っ込むな、餅は餅屋に任せておけ。そう警告するために。
しかし今日のようにフォローへやってくるあたり、少しやりすぎたとか思っているのかもしれない。
この前の夜に出会った女性は、お世辞にも穏便とは言えなかったから、その埋め合わせなのだ。
「会っても、いいのかな」
きっと嘉平に会うだけれなば、彼女たちは何もしてこないだろう。こんなにも焚き付けてきたのだから、ちょっと会うだけならば見逃してくれるはずだ。
嬉しいような、困ったような、息苦しい気持ちで空を見上げる。ひどくこざっぱりとした風が、陽子の胸の内を通り過ぎた。
どんな物事にもいつか終わりが来るように、いつかは自分の正体もばれるのだろう。
それならばいっそ、誰かに正体を打ち明けてしまえば楽になる。
もしかしたら、告白は受け入れてもらえないかもしれない。
だが所詮は過程の話、かもしれない、と怯えているだけでは前に進めない。変わるならば、まずは自分が変わるべきだ。
思い立ったが吉日とは言うが、急がば回れとも言う。
急いてはことを仕損じるとも。何事にも準備が必要だ。
勢い任せで突っ込んだところで、十全な覚悟と準備がなければ説得力に欠ける。
どこで、誰に、どうやって告白するのか。まずはそこから決めなければ。
そう心に決めて、陽子は立ち上がるのだった。